はじめに

急に書きたくなった、35年経って何を急にというかも知れないが、胸にある記憶を、思いを文章にしたくなった。
地方に住んでいる私は卒業してから20数年、全共闘の話は妻以外の誰にもしなかった。
やっと語れだしたのは、息子が全共闘だった私の年に近づいたこの10年だ。
この35年、何度胸からほとばしり出る思いを止めたのだろう。
辛いことがあると、あの時の事を思い出した。
「日大全共闘は最後の最後まで闘うぞー、最後の最後まで闘うぞーー、」シュピレフコールが事あるごとに頭の中にひびきわたった。

時系列やデータの考証はしていない、あくまで私の憶えている範囲で書いている。
嘘は書いていないが、内容に間違いがあるかもしれない。
話が前後しているかもしれない。
経過の正確さを求めるため時間を掛けるつもりはない。
日大闘争に「直感」で参加したあの時と同じだ。
個人の情報はなるべく記述しないつもりだ。
日大闘争をデータとして知るにはすばらしいホームページが他にあるのでそちらを見て欲しい。

私はリーダーでも何でもなかった。
ヘルメットを被り、角材を手にバリケードの最後まで戦った、ただの一兵卒だ。
最初から最後まで自分の意思で判断し、その結果も受け止めた。

ここに語っているのは私個人の歴史だ。
(2003年9月30日、記)
日本大学新聞
不正

日大の授業料は安くなかった。
理工学部では当時30万円ほどだった。
実験費などはまた別に徴収される。
その他を合わせると結構な額になった。
庶民が年収100万円足らずの時代にだ。

日大で経理の不正が発覚した。
使途不明金が20億円も出てきたのだ。
古田会頭を始めとする一部理事が大学の公金を私物化していたと言われた。
不明な使途の中には、体育会を牛耳る者や理事に繋がる右翼団体にも不正に流れたものもあるといわれた。
私達には、(親が)苦労して払った授業料が何に使われたのか、不正は無かったのか真相を質す権利があった。
先進的学友が真相を質すため立ち上がった。
その集会に、体育会系学生と思われる集団が襲い掛かった。
道路で集会をおこなう学生に、学内の2階3階から椅子、机、消火器など手当たり次第に投げ、消火栓で放水を浴びせた。
また構内では学生を追いまわし、殴る、蹴るの暴行を働いた。
私の仲間はこの時日本刀で背中を切りつけられた。
制服の警官が出動したが、彼らは暴行学生を取り締まらなかった。

日大の多くの学部で、旧自治会や有志で「理事会はこの問題に納得できる回答を出せ」と五つの要求をした。
その回答が、要求する学生に対する一連の暴力・暴行だったのだ。
先進的学生は、大学の息の掛かったそれまでの自治会ではこの局面への対応は無理と判断し、自治会の主要メンバーで「共闘会議」をそれぞれの学部で設立した。

大学の会計を賄う過半数の、いや圧倒的多数の日大生が、自分たちが出した学費の使途を問いただし回答を求め、答えない理事会に責任をとって退陣せよと突きつけただけだ。
日本は民主主義の国だ。
道理が通らず、ルールを無視したのは、日本大学を経営する古田会頭以下理事会だ。
私達は民主的手段で、クラス討論、学科幹事会、学部自治会と手順を踏んで話し合い、結論をつみあげっていった。
だからこそあの「民青」諸君も、私たちに異を唱えることが出来ず一時期一緒に行動した。

だが、理事会はことごとく学内の民主的な意見を無視し、彼らが託った暴力で黙らせようとしてきた。
今までの日大がそうであったように。

私(達)には「政治的」な意図はなかった。
悪い事は悪い、と言っただけだ。
あまりにも大きな学生のパワーに、問題が「政治化」しただけだ。

若きエンジニア7月8日号
ストライキ

1968年5月・6月の段階で多くの学生が傷ついた。
旧自治会から移行した学部共闘会議は、圧倒的多数の学生の声を無視し暴力を使う理事会に対し、ストライキで対抗する事をきめ、学友に諮った。
この時点では理工学部は共闘会議ではなく自治会だったと思う。

最初の頃、私は余り関心を持っていなかった。
法学部や経済でおきている事も人事の一般学生だった。
それよりも私は教職課程もとっており、沢山の授業を抱え四苦八苦していた。
親には高い授業料を出してもらっている。
教職必須の憲法の講義を一号館で受けていた時だ、窓の下の道路で声が聞こえ近づいてきた。
また中大(中央大学)の学生がデモしているな位に窓を見下ろしていた。
近づいてくる集団の旗を見たとき「日大」の字が目に入った。
この日が私の分かれ目だった。

先進的でなかった一般学生の私も、クラスでの討議に出た。
クラスは、ほぼ全員出席していた。
クラスの幹事(日大ではこう呼んでいた)のYくんは、ストライキには最後まで反対した。
田舎出の私は、都会育ちのクラスの中でそれまで発言した事もなかったし、親しい友人もいなかった。
しかし、幹事の一連の経過報告を聞き無性に腹がたった。
我慢できず初めて立って、震え声で「ストライキは賛成で、やるべきだ」という内容の発言した。
しかしこの日の学科の討論では、ストライキの是非については結論が出なかった。
このあと、確か7月5日の理工学部の全学部集会でスト権が確立し、7月8日にストライキに入った。

ちなみにストライキに反対したクラス幹事Yくんは「俺はストライキには反対だが、多数決で決まった事には反対しない」という立場をとりストライキに参加した。
彼はクラスの逮捕第一号であり、右翼を自称してはばからず、最後まで戦闘的に戦った大の親友である。

ストライキには1号館にバリケードが築かれた。
それまでの経過を見てきた一般学生の私にも、大多数の学友にも、それは極めて当然の手段だった。
体育会の学生や右翼学生にびくついてものが言えなかった私たちの砦であった。
バリケードは団結の象徴であり、実際に団結の場だった。

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