■はじめに 急に書きたくなった、35年経って何を急にというかも知れないが、胸にある記憶を、思いを文章にしたくなった。 地方に住んでいる私は卒業してから20数年、全共闘の話は妻以外の誰にもしなかった。 やっと語れだしたのは、息子が全共闘だった私の年に近づいたこの10年だ。 この35年、何度胸からほとばしり出る思いを止めたのだろう。 辛いことがあると、あの時の事を思い出した。 「日大全共闘は最後の最後まで闘うぞー、最後の最後まで闘うぞーー、」シュピレフコールが事あるごとに頭の中にひびきわたった。 時系列やデータの考証はしていない、あくまで私の憶えている範囲で書いている。 嘘は書いていないが、内容に間違いがあるかもしれない。 話が前後しているかもしれない。 経過の正確さを求めるため時間を掛けるつもりはない。 日大闘争に「直感」で参加したあの時と同じだ。 個人の情報はなるべく記述しないつもりだ。 日大闘争をデータとして知るにはすばらしいホームページが他にあるのでそちらを見て欲しい。 私はリーダーでも何でもなかった。 ヘルメットを被り、角材を手にバリケードの最後まで戦った、ただの一兵卒だ。 最初から最後まで自分の意思で判断し、その結果も受け止めた。 ここに語っているのは私個人の歴史だ。(2003年9月30日、記) |
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日本大学新聞 | ||
■不正 日大の授業料は安くなかった。 理工学部では当時30万円ほどだった。 実験費などはまた別に徴収される。 その他を合わせると結構な額になった。 庶民が年収100万円足らずの時代にだ。 日大で経理の不正が発覚した。 日大の多くの学部で、旧自治会や有志で「理事会はこの問題に納得できる回答を出せ」と五つの要求をした。 大学の会計を賄う過半数の、いや圧倒的多数の日大生が、自分たちが出した学費の使途を問いただし回答を求め、答えない理事会に責任をとって退陣せよと突きつけただけだ。 だが、理事会はことごとく学内の民主的な意見を無視し、彼らが託った暴力で黙らせようとしてきた。 |
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若きエンジニア7月8日号 | ||
■ストライキ 1968年5月・6月の段階で多くの学生が傷ついた。 旧自治会から移行した学部共闘会議は、圧倒的多数の学生の声を無視し暴力を使う理事会に対し、ストライキで対抗する事をきめ、学友に諮った。 この時点では理工学部は共闘会議ではなく自治会だったと思う。 最初の頃、私は余り関心を持っていなかった。 先進的でなかった一般学生の私も、クラスでの討議に出た。 ちなみにストライキに反対したクラス幹事Yくんは「俺はストライキには反対だが、多数決で決まった事には反対しない」という立場をとりストライキに参加した。 ストライキには1号館にバリケードが築かれた。 |
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