泊り込み

ストライキに入った1968年7月8日だ。
7月頃は学科の闘争委員会で話し合い、予定を組んで分担でバリケードに泊り込んでいた。
8月に入ると帰省する仲間が増えてきた。
私も親の手前夏休みは帰省をしなくてはいけなく、半月ぐらい親元へ帰っていた。
当然残った仲間には負担が掛かってくる。
各学科で泊り込みがゼロにならないよう努力はしたが、部屋に誰も寝ていない学科があった事も覚えている。
少ないときはバリケード全体で10名前後という日もあった。

バリケード内では不思議と酒盛りは無かった。
別に飲酒禁止という決まりが合ったわけではないが、いつスト破りが来るか知れない状況で酒を飲む奴はいなかったのだろう。
酒を飲んでる奴をみた記憶はない。

  学科クラス通信 バリケード内の生活  その  その
 
日本大学新聞廃刊号

 

見張り

バリケードの警護という事で、各学科が分担で寝ずの番の「見張り」を必ず行った。
幸いな事に理工学部のバリケードは襲われた事が無かったが(ガサ入れは何度か受けたが)、他学部はチェーンや木刀、時には日本刀を持ったスト破りに何度も襲われていた。
見張り番はヘルメッにゲバ棒という「完全武装」である。
バリケードの入り口は安全のため1ケ所にしていた、その入り口に2名で腰掛けて徹夜で見張るのである。

8月真夏と言っても明け方は涼しい。
理工学部の前の通りは御茶ノ水聖橋口から中央大学学生会館に下る長い坂道になっている。
バリケードを一歩出ればそこは道路だ。
アスファルト道路の上に寝転んで、星空を飽きもせず眺めたものだ。
空が薄明るくなってくると新聞配達やトラックが行き交いだす。
あのアスファルトのひんやりした心地よさは今だに忘れない。

9月に入って大きな事件が立て続けにおきる事になる、其れと共に連泊で泊り込み続ける日が多くなった。
下宿に帰るのは週の内1〜2日位になっていった。
下宿の大家さんとは仲がよく良好な関係を保っており、最初のうちは大学の状況を心配して声をかけてくれていたが、泊り込みが続いてくると大家さんもウスウス気がついたようで何となく気まずい雰囲気になっていった。
大家さんには理解を超えた状況だったのだろう。
9月になり、世間では新学期を迎え帰省していた仲間が次々と戻ってくるとバリケード内もにぎやかになった。

夏休みを乗り越えることが出来た。

クラス通信・9月の予定と方針  その  その
 

焚き火

校舎の前の道路に「神田解放区」と誰かがペインテングした。
見張り番も4〜5名に増え、アスファルトに座りこみ夜通し話し合った。
秋も深まり段々寒くなってくると暖を取るため道路で焚き火をはじめた。

駿河台の真ん中、周りはビルばかりで樹木が茂っているキャンパスなど日大には有りやしない、焚き火の材料には教室周りに貼ってある腰板をはがし使った。
1号館は古い建物で、腰板は無垢の良い木材で火持ちが良かった。
警邏のお巡りさんもこの一帯だけは回って来なかった。
不謹慎な表現だがこの頃が一番楽しかった。

今思い出すと不思議だがバリケードで立て篭もった1号館は、電気、ガス、水道は止められなっかた。
電話も最初の数ヶ月は使えた。
闘争委員会と大学当局との話し合いがあったのかどうか知らないが、日大父母の会が私たちの身を案じて何かとサポートしてくれていたことは聞いたことがある。
電話といえば夜な夜な「ホワイトハウス」とか「北京」に電話を掛け回っていた面白い仲間がいた。
ホワイトハウスに電話し「大統領を出せ!」とヘタな英語で凄んだそうだ。

食対

バリケードが長くなると経済的に逼迫してくる仲間が出始めた。息子(娘)の行状を察知し「仕送り」が止められる仲間が出てきたのだ。
全体会議で話し合って食事を自分たちで作ろうという事になった、食対(食事対策隊)の発足である。
食対の発足は厳密にいつ頃か正確な記憶がない、皆が食うに困って発足した事だけは間違いないのでとりあえずこの時期にしておく。


芸闘委の食対風景(理工ではありません)

皆から食材代を集める、金の無い奴は免除。
自家用車を持っている仲間が築地の市場に買出しに行く。
レストランなどで調理のアルバイトした仲間が調理をする。
日大はこういう「特技」を持つ仲間には事欠かなかった、雑草の日大生の強みだ。

メニューは麺類やカレーが多かったように覚えている、専門店顔負けのシチューもあった。
私は仲間に作り方を教わって「ミートソーススパゲッティー」を作った。
このメニューは後日開いた「バリケード祭」でも出した。好評だった。
しかし所詮学生のやること、調理の後片付けや清掃はでたらめで、食用ラードの中をネズミが泳いでいた事があった。
よく食中毒を出さなっかたと思う。
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