ゲバ棒

ゲバとはゲバルトの略で、ドイツ語で争いとか闘争とかいう意味だと思う。
学生は判り難い言葉を好んで使うが、この言葉は当時の流行語のようになった。
闘争用の棒のことであり、最初は三派全学連が使ったらしい。
主に角材のことを指すが、闘争の時期によって様様に変化していった。
私たちには、最初角材は実践的というより防戦用であり、それよりも「実力行使を辞さない」という示威の意味合いが強よかった。
デモ隊が角材を持つと、「襲ってくれば反撃しますよ!」、というメッセージを出していると理解していい。

それが証拠に角材は、実際の乱闘にはほとんど役立たなかった。
相手に与える打撃も、本気で打ち下ろすとすぐ折れてしまった。
芸術学部でのバリケード攻防の際、持っていった角材を振りかざしたが、確か最初の一撃で折れてしまった事を憶えている。
折れてからどうしたか・・・・、周りを適当な物を探した。
仲間がいいものを見つけてきた。
2mは越す工事用のアルミサッシ枠の支柱だった。
太さはかろうじて握れるくらいだったが、これも何回かで「く」の字に曲がってしまった。

こんな訳だから、9月頃からゲバ部隊の中に鉄パイプや樫の木の様な硬い棒を持つものが現れた。
鉄パイプは、会議用の椅子などの部品をつかったものが使われたが、これは見かけだけですぐ曲がり、本格的な鉄管パイプに変わった。
鉄パイプは夜の照明ににぶく光り不気味であった。

ゲバ棒と共に使われたものにがある。
学科・学部はそれぞれの旗をデモ隊の先頭に立てた、旗持ちである。
この旗はデモ隊を通すため、車を止めたり交通整理の役割もした。
旗は機動隊などと「交戦」するときは、有効な武器となった。
旗を巻きつけた旗ザオは、長尺な「槍」の代わりになる。
旗は行動隊の中でも、特に「覚悟」を決めた仲間が持った。
ドサクサで油断をすると、隊列から離れているため「私服警官」にもっていかれ易いのだ。
それだから一段と過激だった、ジュラルミン楯のスキ間を狙って突っ込んでいく者が続出した。

70年前後になってくると、セクト同士の争いが多くなった。
日大全共闘は仲間で争った事は一度としてない、名誉のために強調させてしてもらう。
仲の悪いセクトがすれ違うと、この旗ザオで突付きあっていた。
悲しい光景だった。


9・30

1968年9月30日に、両国の日大講堂で大衆団交が実現した。

5月頃からの先進的な学友への「弾圧・処分」に始まり、度重なるスト破り、9月4日からの封鎖解除で、多くの仲間が傷ついた。
ここまでにいたる「犠牲」は、大きなものがあった。
全共闘書記局がどのような交渉の結果、古田会頭以下の理事の団交への出席を実現したかは、一兵卒の私には知る由も無いが、粘り強い交渉の結果だったと思う。


それまで私は、古田会頭が団交に応じるとは思っていなかった。
古田会頭以下の理事会は、自治会や全学共闘会議の要求を一切無視し、(間接的だと思うが)体育会や右翼団体を使った露骨なスト潰し、それで学生が黙らないと「国家権力」を使った「合法的」なスト潰しを仕掛けてきた。
日大10万学生の過半数の要求をはねつける古田会頭は、私にはとてつもなく大きな存在で、いくら打っても壊れない存在に写っていた。

そんな古田会頭が目の前に居た。
がっしりした体格で、風格があった。
顔は苦悩で歪んでいた。
マイクを持っていたのは、確か酒井さん(法闘委)か、田村さん(文闘委)だったと思う。
一つ一つ要求を突きつけていった。
私たちが体を張って、傷ついて要求してきた5大スローガンだったと思うが、経過は良く憶えていない。
古田会頭は一つ一つ「認めます」と答えた。


紙ふぶきが舞った。
全共闘の皆、参加した一般学友皆が踊りあがった。
勝った!、と思った。
これで授業に戻れる、と思った。

翌日の佐藤首相の発言さえなければ、私も、仲間もヘルメットを脱ぎ教室に戻っていたはずだ。


実は、その日の時間的経過は良く憶えていない。
9月30日の朝、大衆団交に古田会頭が応じるらしい、という情報が入ったと思う。
(私は)事前から分かっていなっかた、急遽私たち理闘委は完全武装で日大両国講堂(元国技館)へ国電(?)で向かったと思う。
大規模な体育会の「妨害」があるかも知れないという情報で、団交よりもそちらの方が気がかりであり、乱闘は覚悟していた。

内心、今日も古田は出てこないだろうと思っていた。
両国講堂に着くと、他学部と入り口の警備についた。
講堂前には体育会系と思われる学生が多数集まっていた。
彼らも古田会頭が出るという情報を得て集まってきたのだと思う。
私たち「行動隊」は彼らとにらみ合った記憶があるが、乱闘の憶えは無い。
途中からヘルメットを取り、大衆団交に参加した。

日大の学友は次から次に講堂にやってきた、人並みは切れなかった。
講堂が満杯になってからも、尚も学友は集まってきた。
会頭の出席まで何時間も待たされた記憶がある。
古田会頭が現れた前後がピークだった。
数は数えなかったが、とにかく講堂が1階から2階・3階の観覧席までぎっしり一杯だった。
書記局の仲間が、「建物が倒壊する恐れがある」ということであせっていた。
2階以上の学生には1階まで降りてもらった。
一部報道では「日大生4万人参加」と報じたところもあると聞いている。


10・21

明日は国際反戦デーの前日、関西からの上京組みが「一宿一飯」でバリケードに泊まりにきた。
その夜学科の部屋で仲間と雑談をしていた。
関西のブントが明日市ヶ谷の防衛庁本部に突っ込むという話を聞き、「自衛隊に突っ込むなんて、あいつらは関西ブントは****(障害者への差別用語ですので伏字です)や、」と仲間が言っていると、
部屋の隅で布団に包まって寝ていた奴が「ぼくら****じゃないで」て言いながらムクッっと起きてきた。
こういう者ですと名刺を皆に配ってくれた。
学生で名刺を持っているなんて珍しい時代です、それに反戦デーで上京してくるのに名刺持参とは意外だった。
名刺には「同志社大学工学部電子工学科、**満」と記されており、関西ブントの本拠地同志社の学生だった。

翌日21日、彼らは真っ赤なヘルメットを被り、足場用の丸太棒を10人掛り位で抱え、自衛隊市ヶ谷本部の正面ゲートに突っ込んで行った。
彼がどうなったのかは知る由もないが、私は彼の名刺を35年経った今も大事に持っている。
68年10・21の反戦デーは大いに荒れた。
    
ブント:共産主義者同盟、学生組織は社会主義学生同盟=社学同といい60年安保闘争で誕生した。
70年前後は「戦旗派」「叛旗派」「情況派」など幾つかの派に分派していた。中大や明大の関東ブントに対し、京大や立命、同志社などのブントを関西ブントと呼んでいた。
赤軍派は主に関西ブントから誕生した。

1968.10・21 防衛庁正面ゲートへ突入するブント


11月8日

泊り込みの未明2時か3時位だったと思う。
寝ていてたたき起こされた。
江古田の芸術学部にスト破りが入ったという知らだった。
すぐさま泊り込みの仲間で芸術学部の救援に向かう事にした。
江古田に行くといっても未明では足がない、国電の始発まで待機した。
理工学部のバリケードには50名以上いたと思う、他学部と合流すれば200程のの部隊になるはずだった。

始発電車にのるためバリケードから出て御茶ノ水駅に向かい国電に乗った。
始発で当然ガラガラだった。
新宿駅で乗り換えると一人「頑張ってください」と降りて行った。
彼は誰だと先輩に聞くと、ブントの三*治さんだと教えてくれた。
彼も理工のバリケードに寝泊りしていたようだ。

江古田の駅に着いた頃には数百人の部隊に膨れていた。
駅前は未だ真っ暗だった。
遠くの方で白いヘルメットの集団が移動していった。
誰かが「中核派が加勢に来てくれていっる」と言っていたが、後で分かったがスト破りに来た他大学の学生で、私たち応援部隊に恐れをなして逃げていった集団だった。
江古田の駅から芸術学部までの道は真っ暗で、隊列を組み小走りに走った。

覚悟を決めていたがこの時は正直心底怖かった。
隊列の前のほうにいたが、学部の入り口に着いたときには自然と後ろのほうまで下がっていた。
学部前にもヘルメットの集団がいたが、彼らも蜘蛛の子を散らすように逃げていった。
中に突入する前に「スト破りは何処にいるか分からない、絶対一人になるな、最低でも4〜5人の集団で行動しよう」と皆で確認した。
私は学科の仲間と5人位で学内に入り、教室を一つ一つ調べて廻った。
スト破りは学内のいたるところに居た。

この後の経過は壮絶なものだった。
詳しい内容は35年経った今でも差しさわりがあるので控える。          11月8日の新聞




5・6月経済学部で、法学部で、文理学部で、多くの学生が抗議集会を開き、デモをした。
ヘルメットも無くもちろん素手であった。
物を投げつけてきたのは体育会系の学生のほうだった。
7月頃までは傷つけられる一方だった。
多くの仲間が負傷した。

7月に入ると、完全武装をした機動隊に遭遇するようになった。
デモの端側の仲間が、鉄の亜鈴のはいった腕カバーや楯で激しく殴打されるようになった。
反撃するための道具は、自分たちの足元にあった。
石はいつも現地調達だった。
当時の歩道はアスファルトではなく、砂の上に30cm程の四角い敷石が敷かれていた。
この敷石を車道で砕くのだ。

時折、というか結構頻繁に機動隊もこの石を投げ返してきた。
職業上それは出来ないはずだが、機動隊のほうから飛んでくるだ。
余り前に出てしまうと、仲間の投げた石にあたる奴もいた。
中には、機動隊のジュラルミン楯の阻止線まで行き、ジュラルミン楯を引き剥がし投石してくる猛者もいた。

「敷石を剥げば、そこは砂浜だった」
何かの雑誌にそんな表現があった事を憶えている。
70年を境に都内から「砂浜」は消えた。

トップページに戻る 次のページへ