トップページへ1970 桃井コンミューン FOREVER 

2004.2.10より管理人日記に書かれたものを編集再録しています。
おぼろげな記憶を元に書いていますので、一部、事実経過と食い違いがある場合があります。

 1970桃井コンミューンの創始者、今ははるか南の離島に住むMくん、今でも首都圏に住むYくんに捧げる。
Mくんこと、宮澤君、2008年1月27日逝去。
Iくんこと、ギイチ君、2008年8月4日逝去。
会長さんと私の二人だけになってしまいました。2011年3月
 


■2016.01.29  morningU  管理人

身辺整理をしているといろいろ出てくる。
一つは1968年の春、お茶の水キャンパスに移行した直後、何かの証明書に貼られていた写真。
もう一枚は1971年頃、桃井で共同生活していた頃、同居の会長さんと一緒に映るもの。
二枚の写真、三年程の”進化”分かるかな。







■2013.09.28  morning  管理人

お銀と”あの時代”の同窓会の前に喫茶店で1時間程話した。
多分、その喫茶店が初めてお銀と会った店だったと記憶している。
お銀を東京に送りだしたのは私と書いたが、正確にいうと東京の桃井コンミューンに送りだした。
宮澤君、会長さん、義一君のいる桃井コンミューン。
喫茶店で、東京に着いたその後を初めてお銀から詳しく聞いた。

「桃井はさあ、夜になるとさ、もう人でいっぱいになるのよ」
「一度数えた時は六畳間に16人入っていてさ・・・」
「それでさ、**くん(私)が居た部屋に入れてもらったの、義一さん、嫌がったけどね」
「宮澤さんに随分世話になったの」
「それでさ、赤坂の化粧品会社のアルバイトも一緒に行ったよ」

「それからOさん(理闘委機械科の三年)に仕事世話してもらって少し働いていたけど辞めて、それから札幌に流れたの」
「北大のA君を頼ってさ」
A君と云うのはこの日記に度々登場する北大全共闘の私の悪友。
「それでさ、北大の皆さんにも、それにMさんにも随分とお世話になってね」
Mさんというのは、大菩薩峠でパクられた北大医学生の事。

「それでさ、それから又東京に舞い戻ったの」
「この間は4〜5年かな」
「それでさ、真面目な仕事に就いてからも日大の皆さんには随分お世話になったよ」
「60歳で仕事辞め、年金で静かに暮らしているから」

ここで、私でないと言えない突っ込みを入れた。
「それでお銀、その間、お前さん”男”は居なかったのか?」
「そうよ、ずっと独りよ」
「私はずっと独り」
「それが・・・・・・何か?」
「それよりもさ・・・憶えている、あのゲバルトの時、楽しかったよね!」

お銀は、
お銀らしく、
変わらず、
あの時代を背負い続けている。




■2013.09.10  morning  管理人

私等、元日大全共闘有志でML(メーリングリスト)を組んで日々の情報交換しているということは以前ここに書いた。
今日の朝、そのMLの一通を開いた。
仲間の訃報を嘆くものだった。

一行一行、読み進むと涙がポタリポタリ。
人は百の言辞を弄したものより、ポロリとこぼれた落ちた数少ない言葉にココロ打たれるというが、
それが今日のMLの一文だった。
ここにそれを紹介したいが、MLはそういうルールでないので残念。

涙を拭いて上を向くと、
宮澤君、義一君の、顔が浮かんできた。





■2011.03.07  morning  管理人

バリケードを追い出された後、機械学科の宮澤君と会長さんが桃井のアパートに居着いた。
しばらくしてギイチくんがそれに合流した。
赤貧状態だった宮澤君と会長さんが、アパート代を折半する共同生活を始めたのは頷けるが、
お金持ちのボンボンだったギイチくんが合流した理由が未だに私には分からない。
その理由を聞けずにギイチくんは2008年に旅立っていた。

ギイチくんは、家が豊かでお金に困っているようには見えなかったが、
全共闘をやってしまった事で勘当でもされていたのだろうか。
とにかく、私が合流する前に、赤貧洗うがことく状態の桃井のアパートにギイチくんは先住していた。
桃井のアパートは最終的に五人になるから、私は最後から二番目の住人だった。

すし詰めの六畳にデンと座るギイチくんの大きな製図台。
六畳一間にフトンは4組敷けない、三組がやっと。
結局、寝遅れた誰かが製図台の下に体半分押し込んで寝る羽目に。
この異常な状態が春から半年ほど続き、やがて秋を迎える。

四人で協議した。
しまかに四人だけでひっそり生活しているのであればそれでも何とかしのげたが、
連日連夜、四人の友人知人が押しかけてくる。
最後は酒盛りになることも度々。
バイトに明け暮れていた私等は体が持たない。

そうしている内に、幸いな事に隣の隣の部屋が空いた。
後から押し掛け組のギイチくんと私が移る事にした。
二人だと製図台の下で寝なくていいし、酒盛りの時は私等の部屋が寝間専用になる。
この時、初めてギイチくんの持ち物をまざまざと見た。
時計はロレックスだったし、
飛行機の免許も持っていた。
とにかく、私が持ち合わせていないような物ばかりだった。

私が帰郷する直前だった。
何処の誰のコネだったか未だに分からないが、多摩地区から出ている社会党の代議士が仕事を世話してくれる話が舞い込んだ。
当時の通産省の外郭団体で確か日本プラント協会という団体だったはずだ。
このコネの条件は「英語が話せる事」、
宮澤君と会長さんは除籍組だからパス、取り敢えず卒業組は私とギイチくん。

確か、”格子窓部屋”へ入居の前歴は問われなかったと思うが、私は示された条件をクリアできそうになかった。
そう云う事で、ギイチくんは目出度くその団体に就職したという話を帰郷してから聞いた。
最初の赴任地はバングラデッシュだったそうだ、
10年目の同窓会でギイチくんはこう言っていた
「俺はバングラデッシュへ行って、人生観変わってしまったよ」
「辞めて家業を継ぐことにした」

ギイチくんと最後に会ったのは1999年の同窓会。
何故、お金持ちで何不自由無いボンボンが桃井コンミューンに住み着いたか、
バングラデッシュで彼は何を見、感じたのか、
もう一度会ってゆっくり聞いてみたかった。



■2011.03.04  morning  管理人
'
1971年の何時頃だったか憶えていないが、通っていたバイト先に新しい学生アルバイトが入ってきた。
バイト先は、地下鉄赤坂見附駅を降り、区役所支所、虎屋本店前を通り、東宮御所を右手に見る先のウエラ化粧品ビル。
確か上智大の青ヘルさんが桃井アパートの私等に紹介してくれたバイト先で、私等はそこに勤め始めて半年ほど経った頃だと思う。
新入りバイトは恵泉女学園の学生、女子大だから当然女学生。
朝の朝礼で(正)社員さんから紹介され、その日からバイト仲間に加わった。

それなりに入れ替わる学生アルバイトのなかで、桃井の私等は既に古株に属していた。
当然、仕事の手順とか要領を教える美味しい立場を獲得した。
このアルバイトには後から桃井コンミューン四人組の宮澤君と会長さんも加わるが、その頃はギイチくんと私の二人だけだった。
女学生は二人、こちらもギイチくんと二人、競う野郎どもは数多かったが、そこはそれ、バリケード上がりの私等二人に強引さで敵う者は居なかった訳だ。

ギイチくんと二人して女学生をデイトに誘った。
誘ったまではよいが、お互いがどちらを選ぶかとという深刻な問題が生じた。
お互いに女性の好みはあるが、殆ど面識のない相手の場合、取り敢えず外見が優先される。
この熾烈な闘争に、私は敗れた。
ギイチくんにはそういう意味で古い古い恨みがある(笑。


昨夜、JUNさんからメールが届いた。
忘れざる日々の振り込用紙の通信欄に、住所と電話番号と共に「故**ギイチ」と、奥さんらしき名前とが記され、振り込みがあったという。
同じ理工学部だから、私に知らないかとの問い合わせだった。
知るも知らないも、桃井コンミューンの四人組の一人だ。
早速、電話した。

2008年8月4日逝去、半年足らずの闘病。
電話に出られたのは奥様だった。
宮澤君が2008年1月27日に旅立っている。
「宮澤くんの訃報を聞き、主人は嘆いていたのに、」
「でもそのたった半年後に、主人も宮澤君と同じ病で逝ってしまいました」
奥様はあらためて嘆いていました。

ギイチ、
お前さんには、いつかあの時の古い古い恨みを言いたかったのに、
宮澤くんの後追いやがって、
馬鹿野郎!
桃井の四人組が二人になってしまいました。
辛い。



■2008.01.28 noon  管理人

理工学部・機械科闘争委員会、二闘の行動隊長。

「悪魔(モルヒネ)がささやいているけど・・」
そう云って、最後まで生きようとし
二日前まで、投与を拒んだそうです。



「生きてて良かった、皆に来てもらって幸せだった」
「葬儀はしないで欲しい」
「骨は屋久島の海にまいて欲しい・・・・」

親族から伝えられた遺言です。
昨日6時、宮澤くんが亡くなりました。
かつて、桃井で一緒に暮らした家族として、会長さん共々、
宮澤君に寄せられた多くの仲間の御厚情に、厚く厚く心よりお礼を申し上げます。



■2007.12.27 night  管理人

病に伏せた友が病床で言い放った、
「オイラの人生、ハチャメチャだったよ」
「ハッハッハッ・・・・・」
人生に未練がないと云えば嘘になるかも知れないが、
明るく笑い飛ばす声に救われる。

考えてみれば、
皆それぞれに夢が有った筈だ、
ちっぽけな私等なりに。
その夢を自分の手で潰して不器用に生きてきた、
誰のせいでもない、自分の手で潰したから、
笑い飛ばせるのかもしれない。

時代を上手に整理し、器用に生きてきた方々には、
オイラ達の気持ちは分かるまい。
今夜はジャニスを目一杯鳴らしてやる。


■2007.09.17 night  管理人

Mくん、
今日の午後の近況ビデオ映像が、ネットで一飛びして、もう僕の手元に届いたよ。
ベットにしっかり座り、
白い包帯を指差し、
人事のように病状を説明する。

学部の違う仲間が、休日を費やしてかつての全共闘仲間を見舞って下さった。
日大全共闘という同じベースだけど、
Mくんも見舞った仲間達も、それぞれ拠った党派は違っていた。
日大全共闘でなかったら・・・・・、
40年を経た今、この邂逅は有ったのだろうか、
ふと、そんな事を考えた。

桃井で、夜も更けて過ごすひと時、
Mくんは、折々の状況を淡々と話す。
聴き入る私。
部屋の隅で、ジンを飲みながらギターを爪弾くYくん。
製図台で、せっせとレポートに精出すGくん。

(18日朝、メールで届いた写真

Mくん、
枕元にパソコン、仲間に私の掲示板への投稿方法を習っている。
書き込みを待ってるよ、
それに・・・・、
40年経っても、喋り方はあの時のまんまだよ。


■2007.09.12 morning  管理人

「アッ・・・、そうだ、あの子から毎年年賀状が来るぞ」
会長さんの電話で意外な名前を聞いた。
桃井コンミューンの4名の同盟員が繋がったのだが、付随の関係者?の消息も明らかになった。
しかしだ・・・・、少しヤバイのだ。
私が桃井の狼の中に送り込んだ2人目の子羊さんなのだ。

公立女子大の新聞部の猛者。
クラブのボス的存在で、かなりアナーキー的傾向。
彼女の卒業間際に相談を受けた。
「私は東京に出たい!」
就職が決まっていた訳ではない、ただ漠然と東京だったようだ。
住所と地図を渡し、送り出した、・・・・否、放り出した訳だ。

私のその後の想定は、
夢破れ、
出身地(北陸)の実家に帰り、
すんなり収まっている、
そうとばかり、勝手に決めていた。

しかしだ、
未だ・・・・、
単身で、東京の空の下で暮らしているそうだ。

 


■2007.09.11 night  管理人

桃井の同居人の会長さんとやっと連絡が付いた。
「会長が先日見舞いに来てくれてたんだ」
「今、電話番号教えるわ」
何のことはない、入院中のMくんから所在を聞いた訳だ。

「大丈夫だよ、アイツは未だ生きる根性が残っているからさ」
会長さんがそう云うなら、俺は信じる、絶対間違いない。
早速会長さんに電話を入れ、Mくんのレポートを求めた訳だ。
涙が出そうなレポート。

「俺か?・・・、オレも一年位入院していた」
「色々有ってな、でも大丈夫さ」
実は、Mくんから電話で聞いた会長さんの近況はかなりショックなものだった。
電話を掛けるのを憚ったのだが、勇気を出した。
「ハハハッ・・・・、仕事止めたから毎日が日曜日だワッ!」

そうだよな、オイラ達は桃井の同盟員だもな!
皆が繋がった。

 


■2007.09.07 night  管理人

桃井コンミューン、誰が最後で、如何なる撤収がされたか私は知らない。
Mくんは桃井コンミューンの果てに、私と違う”総括”をした。
彼はある組織で、更なる活動を続ける選択をした。
彼はそれ以後、30年近くその組織で生き抜いてきた。

10年ほど前だったろうか、残業している職場に電話が掛かってきた。
久し振りに聞くM君の声。
「俺、今な、**島に居るんだ」
「エッッ・・ **島?」

組織を辞め、首都圏での生活を全て清算したという。
それに至るまで、壮絶な経過が有ったのだろう。
とにかく全てを処分し、島に来たと話す。
廃屋を手に入れ、僅かな資金でクレーン付きのユニックを買ったという。
今から住めるように家を一人で直すところだと。
島には職業安定所が無いから、隣島の出張所に週一回、船で通っているとも話してくれた。

私はうすうす、彼のそれまでの複雑な人生を知っていたのでそれ以上深く経過は聞かなかった。
唯、一点だけは聞いた。
「オイ、それで生活の目処は立っているのか?」
彼は即座に、明確に私に言い放った。
「ヤカマシイ・・、俺はナ、今まで一度だって生活の目処なんか立った事ネエや!」

ベランメエに何にも言い返せなかった、
その時は、受話器を持ったまま、最敬礼するのみだったが。
でも今はな、話してもらいたい事が一杯ある、
未だ、生きていてもらわなければ、
Mくん、俺は許さねえからな。


■2007.09.06 morning  管理人

桃井のコンミューンの同盟員は、結構入れ替わっている。
私が参入するまではM、Y、O君の3人だったはず。
私と入れ替わりにO君が大学を辞めて山陰の実家に帰った。
実家は工場を経営していて、大学に見切りをつけて家を手伝うため。
O君の後に私が入った訳だ。

少ししてI君が参入してきた。
実家が裕福なI君、色々高価な生活用品を持ち込んできた。
其の中に、今でも高価なLUXのステレオアンプがあった。
これで、音楽が溢れるコンミューンに変わった。
彼はジャニスやジミヘン、シカゴ、エルトン・ジョンのレコードも持ち込んできた。

この後、室蘭出身の浪人生が参入してきた。
何で浪人生が参入してきたか、誰が呼び込んだのか私は未だに分からない。
高校時代にアイスホッケーをやってたらしく、頑強な体つき。
生きのいいカードマンが付いたと思えば納得できた。
反面、酒はめっぽう弱いくせに勢いでやたらと飲む、結果アパートはゲロの海、
下戸で世話役の私は始末に走り回った。

実家に帰ってきてから、地元の公立女子大の新聞部から私にお声が掛かった。
是非、日大全共闘の話が聴きたいとの事だった。
当時の私は、一言で言えば”腑抜け”で”失語症”状態。
女子大と聞いてトロトロと出て行ったが、余り彼女らの期待に応えることは出来なかった。

女子大生の中に、「東京へ行って秋田さんに会いたい」とせがむ子が出てきた。
そういう意味では、当時、秋田さんはアイドルでヒーローだった訳だ。
仕方ないから、桃井の仲間に連絡をとった。
女子大生に、桃井の住所と地図を渡し、送り出した。
狼の巣窟の中に小羊を放り込んだも同然だが、
彼女のその後を、私は関知しない。

其の後、実家に戻って1年程経過した頃。
女子大新聞部の学生に、「卒業して上京するから桃井のコンミューンを紹介してください」と頼まれた。
これも住所と地図を渡し、送り出した。
私は、計2名、子羊をコンミューンに供給した事になる。
その点では大きな”功労者”だろう。

その後の経過は報告を受けていないが、多分にスッタモンダになったのではないかと思っている。
遠い昔の出来事だから、もう(喋っても)いいだろう。

 


■2007.09.04 night  管理人

桃井コンミューンの大切な同居人、Mくんが重い病気を患っています。
Yくん、Iくん、Mくん、それに私。
四人一緒に暮らしました、一生の家族です。
Mくんの痛みは私の痛みです。

Iくんには連絡が取れました。
でも、どうしてもYくんの所在が掴めません。
Yくんは、私らの仲間では”会長さん”と呼ばれていました。
どうしても至急、会長さんと連絡をとりたいのです。

何方か、会長さんの居所をご存知の方は居ないでしょうか。
日大全共闘の仲間で、理闘委の仲間で、ご存知の方は居ないでしょうか、
どうか、助けてください。
お願いです、助けてください。
助けてください。


■2004.6.12  noon  wrote



5月下旬にニ輪咲いたバラを切り戻しておいたら、
また三輪花芽が付き、咲き始めた。
オヤっと気が付くと、早くも花瓶に差されている。
二番咲きだが結構大輪だ。

’71年過ぎの何時頃だったか、確か梅雨時ではなかったか。
お馬鹿な渋谷事件について。

桃井の同居人と赤坂のバイトの帰り?、だったと思うが記憶が定かでない、皆酒が入っていた。
ワイワイガヤガヤと渋谷の山手線ホームで電車を待っていた。
その時、一人がプラットホーム壁に張ってあるポスターに目をつけた。
渋谷パルコの、当時人気だったスターがモデルの大きなポスターだった。

これはいただきだ!、と仲間で剥がしに掛かりゲット。
獲物をもって意気揚々と電車に乗り込みドアが閉まった。
すると駅員が走ってきて窓から「降りて来い」と怒鳴っている。
当時はある意味”怖い物なし”状態の不埒な学生集団。
駅員の要求には応じず、窓越しにさんざん罵った。
当然、電車はサ・ヨ・ナ・ラ〜と発車するはずだった。

車内で勝ちどきを上げていたが、一向に電車が発車しない。
何分か経っただろうか、突然ドアが開いた。
私達の数を上回る”鉄道公安官”がなだれ込み、あっさり御用。
この後”悪質”という事で、渋谷の警察に引き渡され深夜まで絞り上げられた。
別に警察は怖くなかったが、皆この一言にはシビレ上がった。
「お前たちは国電を3分止めた、国電を1分止めると200万円の損害だ、国鉄から請求があったら払わなきゃいけないぞ」

当時の国有鉄道は”寛容”で助かった。
もうボチボチ喋ってもいい、お馬鹿な事件が他にも幾つかある。




■ 2004.2.13 wrote 

桃井コンミューン住民の何人かと同じバイトをしていた。
赤坂見附の通りに面した外資系の化粧品会社で、化粧品のボトル詰めと発送のバイト。
老舗虎屋を左手に、5分ぐらい歩いた所にあり、ビルのまん前は東宮御所だった。
通りに面したビルの窓は全てすりガラス、屋上は立ち入り禁止だった。
御所を見下ろすのは不敬だったのだろうか。
外資系で日給1700円で週払いだった。
時折休みはしたが、何せ生活がかかっていた、結構真面目に働いた。
1週勤めれば1万200円、一月で4万前後の収入になった。
大卒の初任給が2万円そこらの時代、結構な稼ぎになった。

赤坂見附は下車して右にすこし歩けば、直ぐ国会議事堂がある。
バイトに向かう真面目な勤労学生?も、頻繁に所持品検査を受けた。
装備を固めた機動隊が、地下鉄出口をあがってくる風体の悪い者の所持品を調べているのだ。
ネクタイ、スーツの紳士は調べない、私達は100%調べられた。
下手に抗議すると、問答無用で近くの装甲車に連れ込まれる。

バイトが終わると、荻窪教会通りの喫茶「シルクロード」に直行した。
この喫茶店、行けば誰かがたむろしている。
夕刻からの客はほぼ馴染みの客ばかり、アットホームのような居心地の店だった。
途中で銭湯へ行く者、春木屋(ラーメン店)へ食事に行く者。
店は一様10時が閉店だったが、店を閉めてもマスターは私達を追い出さなかった。
閉店後、時には翌日までマスターや馴染み客とワイワイガヤガヤと過ごすことが出来た。
日付が変わって桃井へ辿り着くこともしばしば。

アルバイトでカウンターに入っていたのは音大に通う女子大生。
彼女が欠かさずカウンターに飾っていたフリージア。
この香りを嗅ぐと、今でも喫茶「シルクロード」を思い出す。


■ 2004.2.12 wrote 

東京幻想旅行記のyamamotoさんから森田童子のライブ盤を贈って頂いてから、何故か70年前後の事を思い出す。
それも、70年安保や全共闘のことでなく、阿佐ヶ谷や荻窪、桃井で暮らしていた頃の思い出だ。
yamamotoさんは中央沿線に強い郷愁をお持ちとの事、それが引き金になっている。
1971年、訳あって阿佐ヶ谷北の雀荘の2階のアパートを引き払った。
何故かは当時の仲間にも本当の事は言っていない。
yamamotoさんには正直にお話したが、はばかる話なのでここでは「疲れ果てて」にしておく。

転がり込んだのは他学科の仲の良い仲間2人が暮らす、杉並区桃井のアパート。
荻窪の駅から歩いて20分は掛かった。
閑静な住宅街の中に、周りには似つかわしくない2階建10部屋の2棟。
バリケードを追い出されて以来の共同生活。
ここが「桃井コンミューン」と呼ばれるまでに時間は掛からなかった。

荻窪駅北口を少し上がった教会通りに「シルクロード」という喫茶店があった。
桃井コンミューンは駅から遠く、とにかく狭い。
何時しか、皆がここをサロン代わりに使うようになり日大全共闘理闘委中央沿線一派の溜まり場、行けば必ずと言って良いほど仲間がいた。
店の常連客には、都の清掃局に勤めている中年の方、この方はコップの水にタバスコをタップリ注ぎ旨そうに飲む。
清掃車で一日中肉体労働をしているらしく、このタバスコ水が疲れを取る?と涼しい顔をしていた。
いつも小難しい表情で店の奥で専門書を開いていた東大の哲学科?の院生、もうすぐフルブライト留学生でフランクフルトに留学するとおっしゃっていた。
私たち単ゲバは内心バカにすることで、お互いプライドを保っていた。

杉並高校の小生意気な女子高校生。
私たちの事を「おじさんたちはもう年寄り、もう何にも出来ないくせに」と平気でののしっていた。
でも何故かかわいくて憎めなく、皆で妹のように手荒くかわいがった。
この子は、店丸ごと借り上げのクリスマスパーティーの際は、まめに手伝ってくれた。
かなり後になって「朝日ジャーナル」の何かの座談会記事に彼女が載っていたらしい。
日大全共闘を平気で小バカにしたこの子、杉並高校でもかなりの跳ね上がりだったのでは。



■ 2004.2.11 wrote 

6畳(四畳半?)一間に4人はさすがにキツかった。
四人だけならまだしも必ず客人が来る、泊まる。
4人の所持品も少しはある、テレビ、冷蔵庫、ステレオ、コタツそれに設計テーブルとくれば一人に1畳のスペースがない。
畳の寸法というものは不思議なもので、一人の人間が座る、足を投げ出す、横になる、何とか一畳あれば足りる。
一人に1畳ないと自然の動作が制限される。
いくらバリケードの不自由な生活を経験している4人でもこれは辛い。
そうかといって客人は拒みたくない、コンミューンは来るものは拒まずだ、・・・が。
この上に一人居候が常駐しだした。
誰の友人か未だに分からないが、北海道から出てきている浪人生だった。

私達4名は全員大学4年目生(四年生ではない)、何故3〜4歳年下が居候していたか未だに解せない。
とにかく極限は越したわけで、打開策を練った。
たまたま、隣の隣の部屋が空いたので私と最後の参入者がそちらの部屋に移住した。
冷蔵庫やテレビ、ステレオは母屋に残し、ふとんと着る物と彼の設計テーブルだけもって移住した。
これで客人を迎えるキャパシティーは大幅に増えた。

この頃から、夕食から続く毎夜の酒盛りが始まった。
アルバイトの帰り、ウオッカやジン、焼酎やサントリーの安ウイスキーなど度数の強い安い酒を誰かが買ってくる。
ビールなんぞは高く、飲んだ覚えが無い。
私は下戸なので、食糧の準備や泥酔者の介護に毎晩暮れる生活が続いた。
幸い就寝スペースは離れ部屋に確保されていたのでアルバイトの妨げまでは至らなかったが。

このコンミューン生活はかなりアナーキーであった。
周りは桃井の閑静な住宅街。
私達の騒がしさは周りに相当響いていたはずだ。
アパートは2階建てが2棟あり、もう一棟は会社が社員寮として借り上げていた。
こちらも結構騒がしく、私達の目立ちも少しはカバーされていたが。

ジャニス・ジョップリン、ジミ・ヘンドリックスと4名の音楽的趣味は一致していた。
それなのにステレオは2部屋に1台。
誰が言い出したか、アンプとプレーヤーは母屋に置き、スピーカーをそれぞれの部屋に置きジャニスを夜目一杯で鳴らした。
これで1回、赤色灯をクルクル回転させながらパトカーがおいでになった。
呼んだのは母屋と離れ部屋の間の住人。
もう1回は少し騒がしかったのか、気が付くと窓の外で赤色灯がクルクルと回っていた。
記憶の範囲では計2回パトカーがお出ましになった。



■ 2004.2.10 wrote

森田童子の語りを聴いてて、こんな事を思い出した。

1971年春、阿佐ヶ谷北から杉並の桃井に引っ越した。
追い出された訳ではなかった。
全共闘の仲間が2人で共同生活しているアパートに私も参入したのだ。
四畳半だったか6畳だったか記憶は薄いが、大学四年生が家賃7500円を三等分の共同生活。

怖いものは何にも無かった。
地震は何時でもこいと思っていた、
くると喜んで柱を揺すった。
火事も泥棒も怖くなかった、
泥棒には盗むものが何も無いのだ。
火事で焼失する財物が何も無いのだ。
バリケード生活でアナーキー?なしたたかさが身についていた。

暖かい時期は窓は開け放し、ドアも閉めずに寝た。
朝、仕事に向かうサラリーマンが、窓やドア越しに見えた。
当然向こうからも寝ている私達が丸見えだ。
何を見られても躊躇する事は何にも無かった。

その年の暮れもう一人仲間が参入した、共同生活は4名に増え家賃は四分の一になった。
当然仲間連中の溜まり場になる。
夜トイレに出て戻ると、寝るスペースが無くなっている、押し分けてスペースを作る。
見知らぬ誰かが寝ている事もよくあった。

肉屋で鶏の皮を買うと1kgで確か40〜50円だった。
鍋に湯を沸かし脂を抜き、砂糖と醤油でコゲ付く寸前まで炒る。
ドンブリに白い御飯を山盛りに盛る、一人当たり実費 40〜50円、5〜6名の夕食になった。
少しの贅沢は樽から分け売りで買った野沢菜。
このトリ丼and野沢菜はたまらなく美味かった。

不便だということで電話を引いた。
しかし、通話料を払わないので2ケ月くらいで不通になった。
風呂屋が遠かったので、道路から丸見えの共同洗濯場の流しの上で、水道水で体を洗った。
通行人から真っ裸を見られても恥ずかしくなかった。

誰とはなしに私達のアパートを「桃井コンミューン」と呼ぶようになった。







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