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1968年9月7日、白山通りを行くヘルメット部隊、9月4日からの法経両バリケードの奪還闘争 |
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上に同じく9月7日、神田三崎町を進むデモ隊、スカート姿の女学生や普通の格好の一般学生、それにヘルメット姿の学生が入り交じって道一杯のフランスデモをしている。
このデモをした日大生はこの事を一生忘れないと思う・・・。 |
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同じく9月7日、人間の楯にされた仲間 |
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1968年9月12日、神田神保町の書泉前に機動隊を追い詰めた一般学生。
素手の一般学生がここまでやった。 |
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上に同じく9月12日、ジュラルミン楯に向かって果敢に投石する女子学生。 |
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9月12日捕まった仲間、スラックスに革靴の服装はどうみても泊り込みの学生ではない、止むに止まれず集会に参加しヘルメットを被ったのだろう。 |
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立て看板とバリケード前風景、格好から言って真夏、経済学部ではないか。→間違いなく経済学部1号館です。この壁面には,あらゆる闘委が掲示を出していました。当時はやった,中国文革の壁新聞のごときものでした。何しろ巨大な壁面の為、すべての掲示・主張・連絡ができたのです。なお、下の写真は経闘委本文に書いた「見張り小屋」です。
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1968年10月21日、国際反戦ディー。全国から終結した社学同(ブント)は丸太を抱えて市ヶ谷の防衛庁本部への投入闘争を実施した。→防衛庁に丸太で先頭切て,突っ込んだのは,経闘委のK●君(3斗委)です。これは,本人の証言がありました。ちなみに,68・10・21新宿騒乱事件で鉄板を破り最初に線路に進入したのも日大生でした。彼の証言によれば,「なんせ、党派(**派)の奴らは,本気で鉄板を破ろうとはしていなかったんだよ。ちょいと突いてすぐに引っ込むんだよな。そんなこっちゃ‐鉄板なんか破れるわけはねえ,こんなもん本気出せば…と言って思い切りやったら,鉄板が外れたんだょ。そのまま線路に突っ込んで1番乗りさ。ハハハ…」
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上に同じ、防衛庁本部ゲートに丸太だ体当たりをする社学同(ブント)、理工学部に泊り込んだ同志社生はどうなったのだろう・・・。 |
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1968年11月22日、東大安田講堂前。日大全共闘が到着できたのは日もどっぷり暮れてからだった。 |
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1969年1月20日、陥落翌日の安田講堂。
この写真の説明は少し長くなる。私達は1月19日の陥落の際はお茶の水に封じ込まれて動けなかった。20日早朝機動隊が引き上げた少しの間隙を縫って安田講堂に辿り着いた。時間は8時前、私は一気に安田講堂の時計台のてっぺんまで駆け上がり黒旗を掲げた。少しして女子学生が赤旗を持って上がってきて掲げた。時計台でなびく2つの人と旗の影は私と女子学生だ。
尋ねると女の子は東大文学部と言った記憶がある。その日の昼、佐藤首相が視察に来たときには旗は撤去されていた。なつかしい報道写真だ。 |
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1969年夏、新宿西口のベ平連フォーク集会。 |
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1970年6月15日、反安保全国集会(樺美智子さん追悼集会) |
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上に同じ、ジグザグデモ行うデモ隊 |
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白い猫の名は”チャンペ”、子猫のほうが”タレ目”。法学部の猫のマルクスと内ゲバをやった。との学生の説明。1968年12月日大理工学部 |
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芸術学部。1968年11月5日 |
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経済学部。 |
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注釈なし |
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「君たちこそいま、学問をしているんだよ・・・・・」羽仁五郎氏は話し終わり、秋田明大君にチュ! |
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壇を降り最前列の学生にもチュ・・、彼は感極まって男泣き。学友が拍手喝さい。
1968年12月15日。 |
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友情掲載、山本義隆東大全共闘議長。1969年1月10日 |
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1969年2月11日、両国講堂での入試 |
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日大闘争勝利5万人集会、中央大学中庭 |
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1968年6月11日、法学部ストライキ突入 |
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日大闘争勝利5万人集会、中央大学中庭 |