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■2007.03.25 night  管理人 wrote

トホホで疲れて帰ってくると、妻が携帯メールを私に見せる。
画面にはきちんと主語と述語のある少し長い文章が。
「きちんととした文書でメール送ったら、こんなにきちんとした文章で返って来たのよ!」
顔がほころんでいる。

何時もは、
「晩御飯は?」
「要らない」
「要る」
二人の息子との簡潔なやり取りだが・・・・。

私的・ビラ保管庫に写真を二点保管しました。

一点は'68年11月12日撮影のもの
11月8日未明、東京・練馬の日大芸術学部で、スト派の学生380人と反スト派の学生約200人が乱闘、重軽傷者62名を出した。この事件を捜査中の練馬署は、12日9時すぎ、機動隊500人の応援を求めて、スト派のたてこもる同学部を捜索した。学生側は正面入り口などに机やイスを積み上げてバリケードをつくり、警官隊が近づくと石や牛乳ビンを投げつけて激しく抵抗した。警官隊はガス銃を使って学生に応酬、激しい白兵戦が展開された。学生達の抵抗は約2時間、本館4階から火の手が上がり、消防車が駆けつける一幕もあったが、警察は逃げる学生を追跡して、正午前、講堂屋上で46名全員逮捕して終わったサンケイ新聞12日夕刊から

'68年11月8日の記事、毎日新聞夕刊

もう一点は'69年11月5日撮影のもの

大菩薩峠、福ちゃん荘


■2007.09.22 night  管理人

ヘン曲がったサッシの枠のゲバ棒の先に、戦利品のヘルメットを3〜4個くくりつけた。
ヘルメットはひび割れて陥没しているもの、血糊が着いているもの、かなりの物だった。
江古田から池袋で乗り換えた。
朝の池袋はラッシュアワー、ごったがえしていた。

尋常な精神状態ではなかった。
駅のコンコースを撤収一番組み20人位の隊列、ジグザクのデモで改札口まで進んだ。
サッシ枠のゲバ棒の先、戦利品のヘルメットがカランコロンと音を出す。
通勤のサラリーマンには理解できない風景だったと思う。

御茶ノ水まで、池袋から丸の内線に乗ったのか、山手線なのか記憶が無い。
電車に乗り込むと、ラッシュに関わらず、私等の周りに微妙な隙間が出来ていた。
顔は完全にタオルで覆い、汚れた軍手にヘルメット。
全員がゲバ棒の先に戦利品のヘルメットをぶら下げている。
疲労困憊、だが目は血走っていた。

始発で出かけ、ラッシアワー時に帰路についた4時間ほどの遠征。
木刀から始って、熊手にハンマー、鉈に日本刀。
私は見ていないがライフルまで有ったと云う。
陽が昇り、当たりに薄っすら陽光が差してきた頃、初めて自分らがどういうものに囲まれていたか分かった。
憎悪たぎる思いで、これらの得物をまざまざと見つめた。

捕獲したのは得物だけでなく、その持ち主達もいた。
私はもうその場から一刻も早く去りたかった。
陽が完全に上がる前に勝敗は決し、一部は御茶ノ水へ撤収することになった。
私は真っ先に撤収組みに手を上げた。
’68年11月8日、朝の出来事。

 


■2007.09.23 afternoon  管理人

仲間に頂いたコピー資料を昨日読んでいた。
コピーは、
’69年2月発行「バリケードに賭けた青春」、日大全共闘編
’69年4月発行「日大全共闘」強権に確執をかもす志、日大全共闘+石田郁夫編著
’70年7月発行「1608名の逮捕者」田賀秀一弁護士著
’86年6月発行「バリケードを吹きぬけた風」橋本克彦著

何れも39年前の’68年11月8日の出来事に関わる部分の抜粋。
この4冊の著者が綴る記憶と、私のそれとを織り成してみた。
殆ど点でしか残っていなかった記憶が、ところどころで線に繋がってきた。
御茶ノ水で電車に乗り込む、新宿での乗り換え、江古田の駅に降り立った時。
芸術学部まで、未明の真っ暗な道をひた走りに走った事。
それから、昨夜の日記に書いた帰路の様子。

芸術学部に着いてから、帰るまでの間に起きた数時間の出来事、
それについては未だに詳細を書くのを憚る。
何時かは、誰かが、
其の事について書かないといけないと思うようになってきたのだが。
個人の立場で、WEBメデイアで、それを背負うのは、余りにも荷が重過ぎる。

私らは体育会系の学生達に理由の無い暴力を被った。
彼らは、間違っても主体的な意思など持ち合わせていなかった。
後ろに、億の金にまみれた理事、職員が居た。
その意味では可哀相な存在だと思いたいのだが。

それ以後の日常生活に大きなハンディーを負うような重傷を負った仲間が数多い。
傷つき、物言わず、戦列を離れていった仲間も数多い。
その暴力と弾圧は、語り尽くせないものがある。
その怨念が、’68年11月8日の未明に凝縮されている。

昨夜の日記は、ある部分で自分を傍観者のように語った。
・・・・・かなり卑怯な書き方だと思う。
でも、どういう風に伝えれば良いのか、
正直、今は分からない。

 



■2007.09.24 morning  管理人

太字部分
’86年6月発行「バリケードを吹きぬけた風」橋本克彦著、より
書籍カバーは農闘委ホームページにリンク
(文中の氏名は原本のまま使用しています)

私等の援軍本隊が始発電車で急行する間に、理工学部に置かれていた全共闘本部からレポ車で5名が先んじて江古田に走っている。
このレポ車、江古田に着くなり、運悪く真っ暗闇の中で右翼集団の真ん前に飛び込んでいる。
電柱に車をぶつけフロントガラスで顔面に裂傷、
血だらけでその場を何とか逃げ延び、法学部からの援軍10名と合流。
向こう見ずと言うか、本隊の到着を待たず400名の右翼集団相手に、正面と裏手の二手に分かれ突入したという。

新校舎の横のバリケードを飛び越したとき、彼らの見た光景を橋本さんが聴き取り綴っている。
桑原はその光景を見て、怒った。というよりも目がくらむほどの敵愾心を発した。・・・・・(捕らわれた)仲間を見た瞬間、黒い集団に対し、殺す、と思ったという」。
たった5〜6人で、5、60人の集団に猛然と突っ込んでいる。

バリケード構築隊の米原は暗がりにうごめく敵に向かって叫びをあげ、怒鳴りつづけながら闘っていた。一階のバリケードが破壊され、二階に侵入され、やがて三階へ至る階段での攻防になる。階段は机と椅子で封鎖し、人間が一人かろうじて通れる幅50センチほどの通路が設けれていた。その50センチの通路を突破しようとする右翼学生にむけて、砕石と牛乳ビンを投げ、ゲバ棒を突き出す。
本校舎西側の防火扉の向こうにも右翼学生が侵入し、防火扉を利用して築いたバリケードを壊している音が聞こえる。三階、四階の芸闘委メンバーは、そこにも、二人から三人ほどが張り付き、「来いっ、来たらプロパンガスに火を付けるぞっ」と叫び声をあげる。
七月頃に運び上げたボンベの口を開け、ほんとうにガスを流す。そのにおいがあたりに流れ
・・・。
この時、芸闘委の面々は、バリケードが破られ追いつめられたら、火を付け、右翼学生もろとも爆死する覚悟を決めていたという。
言葉の飾りではなく、マジで決死の戦いだった。

’68年11月8日、最初にバリケード見張り番が襲われ拉致されたのが午前1時半過ぎ、
私ら援軍本隊が江古田に着いたのは5時半前後。
芸闘委はそれまで4時間にも及ぶ死闘を続けていたわけだ。

 


■2008.09.22  morning  管理人

江古田の駅前は朝靄が掛かっていた。
御茶ノ水を出たのが始発便だから、新宿、池袋経由で5時半ぐらいだと思う。
御茶ノ水の駅では4〜50人程度だったのが、途中の駅で何回か合流し、江古田の駅に着いたときには200人位になっていたと思う。
駅を出ると、通りの向こう側に白いヘルメットの集団が居たが、直ぐに居なくなった。
駅前から芸術学部までの道は狭い、隊列は横5人位で組んだ。
真っ暗闇の道を、声を出さずに走った。

最初は前から数列目に居たはずだったが、自然と足は遅くなり、校舎の前に着いた時には後列まで下がっていた。
心臓はパクパクと波打ち、足はすくみ思うように前に出なかったのだ。
ようはビビリ回って居たのだ。
校舎はシ〜ンと静まり返っていたのが記憶に残っている。
「いいか、絶対に一人で行動するな」
「4〜5人単位で動け」
後は何も打ち合わせなし、これが”行動”の前の唯一の確認事項で後はぶっつけ”本番”だった。

この時点でやっとビビリは取れ、やる気になっていた。
最初の遭遇はシャッター越し。
膝下位まで開いたシャッターの向うに、幾つかの足が見えた。
芸闘委は最上階まで追い詰められていると聞いていたので”右翼”に間違いない。
やわら、仲間がシャターの下からゲバ棒を突っ込んだ。
中から「この野郎、来てみな!」というような挑発の声が響いた。

シャッターをこじ開け中に突入した。
相手は思いの他たった一人だった。
メッタメッタに袋叩きして一丁挙がり。
脇の教室にも数人が居たが、此方を見ると逃げ出した。
それを追い詰めて叩きのめした。
そうやって階を上がって行った。
右翼はこの時点で、最上階に追い詰められた芸闘委と、追い上げる私達に挟み撃ちになった形になった。

私のゲバ棒は最初の一撃で真っ二つに折れた。
周りを見回すとアルミサッシの枠が転がっていた。
このサッシの棒を拾い、それで渡り合った。
渡り合ったといってもサシではない、一対五か、せいぜい二対五の勝負である。
他大学の屈強な体育会の学生を相手でも勝てたのは、”根性”の違いもあるがそれ以上に数の違いがある。

はっきり云うが、あいつ等は間抜けである。
日大全共闘は自身で馬鹿だと自認しているが、あいつらは馬鹿+間抜けである。
固まって闘えば対等以上に渡り合え、悠悠と逃げ出せたものを、
所詮、日当でかき集められた寄せ集め集団、全くまとまりがなかった。
校舎内の至る所に分散して、少人数で立ち回っていた。
私等はそれを各所で撃破し捕らえ、薄日が射してくる頃には、ほぼ勝敗は決まっていた。

追い詰められて投げつけてきたもので笑えるものがある。
最初はスチール器具とか机、椅子がブンブンと飛んできたが、
投げるものが無くなったのだろう、写真機材や現像液、フィルムも飛んできた。
最終的に、逃げ込む時だけはまとまって講堂だったか放送室だったか(?)立て篭もった。
この篭城組みのなかには、今のスポーツ界の重鎮や、頂点を極めた功労者もいるときている。

余談だが、
御茶ノ水始発の国電に乗り込んだ際、ガラガラの向かいの席に三上治さんが座っていた。
私らのバリケードに泊まっていたか、向かいの中大に居たのかは定かでないが、電車はご一緒だった。
新宿で「頑張ってください」と電車を下りた。
後日の話では、私等のバリケードに投宿していたとも聞いている。
もしそうだとしたら一宿一飯の義理で、ご一緒できていたかもしれない。
内ゲバではなく、外ゲバの絶好の機会を彼は逃した事になる。
私が”論客”と云われる方々を信用しないのは、このささやかな経験も一つの要素となっている。

も〜一つ余談、
私等は突っ込む前に、相手の人数を知らなかったし、知らされていなかった。
こちらは約200名、私等は数で負勢とは思っていなかった。
江古田の駅前に居た白ヘルの集団は、最初は中核派の応援だと思った。
講堂に立て篭もった右翼も極少人数だと思った。
しかし、
相手の数は総勢400名程と後で知った。
江古田の駅前の白ヘル集団は200名ほどで、到着した私等に恐れをなして逃げ出したらしい。
白いヘルメットは支給されたもので、ゼンガクレンはダメという意味で、テープで×印が付いていたらしい。

体育会系の猛者が四百人も集まったのだから、それに指揮官は本物の”筋”の方、
向うは相当な自信だったろうと思う。
それが高じて、ヘナチョコ全共闘なんか応援に来るはずがないと高をくくっていた節がある。
それに制圧した後は、間髪を入れずに機動隊が入るシナリオが出来ていた(言い切るのだ)。
チョロイもんよと遊山気分だったのかも知れない、
そこに突入したのだから、向うも焦ったのだろう。
そこの根性が私等とは違っていたと言う事だ。

講堂に立て篭もった右翼を「命だけは助けてやる」と引っ張り出して、皆が驚いた。
私等の数とほぼ同数だった。


■2008.09.28  night  管理人

単なるバリケード破りとの渡り合いなら、ああまでの状況にはならなかったと思っている。
最上階まで逃げる間に、捕らわれた仲間が何をされたかはここに書かない(書けない)が、
それは”非道”で、絶対許せなかった。
私等は馬鹿で暴力的と揶揄されたが、”仁義”は重んじ、”道”は守った。
仲間の皆、それまでに受けた数々の暴力だけでなく、捕らわれた芸闘委の仲間がされた事も加わり、憎悪に煮えたぎっていた。
「殺してやる」と心底思った仲間もいた筈だ。

宮澤君は6月11日経済学部で負った数えきれない傷の痛みと、目のあたりにした惨状に眼は血走り、形相は鬼と化していた。
すでに拳は腫れあがり使い物にならなくなっていた。
一回りも二回りも大柄な相手に、飛び上り肘で一撃を加え続けていた。
「宮澤、もう・・・・・」
私の声にも耳を貸さなかった。
古傷の痛みがない分だけ、私の方が早く正気に戻っていたのだろう。
目の前の光景はとても尋常なものではなかった。

その年の6月11日、宮澤君は数えきれない傷を負って経済学部の床に倒れていた。
放水で水浸しになった床に、浮くように倒れていたという。
病院に担ぎ込まれ、縫い合わされた傷を数えたが、4〜5ケ所で数えるのを止めたと話を聞いている。
少し離れて、ガレキの上に座り込んだ私、目の前のシーンを他人事のように眺め続けていた。

それより少し前、周りがすっかり明るくなると、校舎の塀の外に制服警官の姿がチラホラ目につきだした。
後から聞いた話だが、機動隊は予想外の展開に、ガサ入れに入る間合いをなくし、近くに大部隊で待機していたという。
何時、機動隊に雪崩れ込まれ根こそぎ持って行かれてもおかしくない状況だった。
しかし、不思議なことに皆にはそこから逃げるという気持は一切なかった。
私はただ、疲れ果てて座り込んでいた。

この出入り、
渡り合いには勝ったが、放送室に逃げ込んだ右翼と体育会学生を引っ張り出さないとケリはつかなかった。
外からハンドマイクだったか、それとも放送室のスピーカーからだったか、中に放送した。
「もう既に何人か死んだ」
「だから、出てこないと命の保障はしない」
「出てくれば命だけは助けてやる」
「両手をあげて一人ずつ、順番に出て来い」
記憶がかすんでいるので不確かだが、そんな内容の放送をした記憶がある。

放送スタジオは防音構造で密室、中からは外の様子は全く分からない。
右翼・体育系学生は状況が全く分からず、恐怖に慄いたのだろう。
両手を頭の後ろに回し、一人ずつおとなしく出てき始めた。
私らより一回りも二回りの大柄な、屈強な奴ばかりだった。

ドアの両側にサンドイッチ状に数十人が出迎えの列を作った。
その列の間を両手を挙げて大男が進む。
両側から・・・・・・・、
崩れ込むと誰かが・・・・・・・。

もう一度云う、
単なるバリケード破りの渡り合いなら、
芸闘委の仲間への非道な仕打ちが無ければ、ここまでの状況にはならなかった。
皆は憎悪に煮えたぎっていた。


■2008.09.29  morning  管理人

不思議なもので、秋風が吹く頃になると何故か'68年11月8日の事を思い出す。
昨年の日記にも、9月22〜24日でこの2〜3日と同じ様な事を書いている。
あれは、私のような凡人には稀有な経験だった。
デモや集会で殴られた事は何度もあるが、反対に思いっきり人を殴ったり叩きのめしたりした経験はそうない。
また普通は、人が目の前で打ちのめされ、苦痛にゆがみ瀕死になる光景を見ることもまずないだろう
あれは、40年経っても癒えない私にとって深刻なトラウマだ。

昨年より少しの変化は、語る内容に具体的な記述が少し増えた事だ。
昨夜、仲間が資料を送ってくれた。
当夜、芸術学部バリケードに泊り込んでいて応戦した一年生の手記だった。
少しの状況認識の違いが有ったが、大まかな状況はこの一年生の記述とほぼ一致している。

手記には、
応援部隊が校舎内を制圧し右翼・体育系学生を追い出した後、中庭で合い入り乱れて”白兵戦”を行ったと書いている。
其処此処に、打ちのめされ意識不明の右翼・体育系学生が倒れていたとも書いてある。
私には”白兵戦”の記憶はない。
校舎内を5〜6人のグループでゲリラ的に移動していた。
校舎内で局地的な衝突を何度か繰り返し、中庭に出たときには既に”敗者”が其処此処に横たわっていた。
多分、白兵戦は5分か10分程の敗走者との最後の短時間決戦だったと思う。

手記を書いた一年生とは学部も違い、当時も、それからも面識はない。
この11月には、芸闘委の行動隊長や委員長も来るはずだから聞いてみよう。
もし、この一年生が来るようなら紹介していただこうと思っている。
バリケード篭城の応戦組と応援部隊の双方で、当時の状況の検証をしてみたいと思っている。

人は話す事でトラウマを和らげると聞いたことがあるが、
それは単なる回顧でなく、私の治療としてなのだ。

   my favorite songs  Dance with me until tomorrow Vicky



■2008.10.02  nightU 管理人

'68年11月8日、バリケードに籠って応戦した芸闘委の手記

仲間が寄せてくれた資料です、書籍からの抜粋で掲載の許可は頂いていませんが、商業的意図のない全共闘仲間ということで勝手に引用させていただきます。問題があれば「御免なさい」です。

「単ゲバ」のこころ 芸闘委一年

 そして11月8日未明、芸術学部に右翼が大挙して襲ってきた。へやで眠っていると、突然、「右翼だ!」という声と、笛の音が聞こえてきた。こんなことは以前からも幾度かあったので、そのまま寝ていたが、今回はなかなかおさまらない。「ひょっとすとー」と思って廊下の窓から外をみると、スタジオから投石してくる。直ぐに武装して応戦。正面からの敵は投石で一様撃退した。「裏にもいるぞ!」という声がしたので、新校舎の方を見ると、そこにも、かなりの右翼ファシスト集団がいる。しばらく窓から応戦していた。
 学友が来て、「バリケードを強化するから来てくれ」というので、二階で作業をしていた。そうすると、廊下の方から二人の白ヘルメットが走ってくる。「手伝いかな」と思っていたら、急にわれわれに向かって投石を始めた。彼らは右翼だった。すぐに廊下のシャッターを下ろして三階と四階を行ったり来たりして外の敵と交戦。二階は完全に占拠された。
 二時間も闘っただろうか。味方は男女合わせて五十名足らず、敵は四百名以上はいたようだ。そろそろ危なくなってきた。「こうなったら、入院覚悟だ!」と学友と話しながら闘っていた。遠くでピッピッという笛の音とともに、デモの掛け声が聞こえた。全共闘の応援部隊が来たのである。
 それから、我々は攻勢に出た。外の右翼は応援部隊が追い散らし、われわれは校舎に侵入した右翼とゲバルトを始めた。
東の空がしらじらとしてきた頃、中庭で敵味方入り乱れて、角材と角材によるゲバルトが始まった。あれほどのゲバルトはいまだかつてなかっただろう。動揺した右翼は弱かった。我々は彼らをたちまち粉砕した。新校舎の方へ行くと、そこも同じ状態だった。
 夜が明けて、また驚いた。倒れている連中は、われわれの倍も三倍もあるような体格の奴ばかりだった。「こんなのを相手に戦っていたのか」と思うと、改めて恐怖感がわいてきた。
 まだ放送学科のスタジオに一部の右翼が立てこもっている。彼らも降伏して出てきた。「関東軍」という印の入った作業服を着たものがかなりいた。「なぜ芸術を襲ったのか?」という問いに対し、「芸術を襲えばハクがつく」と答えた者もいたそうである。芸闘委も有名になったものだ。



 右翼の負傷したものは病院に送り、残りの部分は自己批判させてすぐに釈放した。それでもなお出動した機動隊は夕方までバリケードの周りを去らなかった。
 ところで、後で知ったのだが、右翼のヘルメットは白地に赤のテープを周りに張り、正面に×しるしが付いていた。「赤はダメ」という意味だそうである。
 僕は翌日、金が残り少なくなったのと、疲労とで家に帰った。





■2009.08.06  morningU 管理人

「何の事?」
「それって、どんな本なの?」
仲間が直接本人に尋ねたら、そのような返答が帰ってきたそうだ。
件の本の出版についても全く知らないそうだ。
その事の報告を昨晩電話で仲間から頂いた。

小熊英二著「1968」、第9章の日大闘争の後半部分で頻繁に出てくる記述がある。
「橋本克彦の回想によると・・・・・・・」
あたかも筆者が、或いは出版に関わった関係者が、橋本さん本人から聞いたような書き出しだ。
当然、私は橋本さんに取材して記述されたものと信じて疑わなかった。
そういう事で、そういう前提で7月31日の日記は綴った。

「俺わな、橋本さんに取材しているかどうかも疑わしいと思うのだが・・・」
仲間が電話でそう云ってきたのは、私が日記をアップした直後だった。
「一度、本人に会って確かめてみるわ」
昨夜かかってきた電話はその報告だった訳だ。

それじゃ文法的に云って、「**の回想によると・・・・」という言い回しの根拠は何なのだと首をかしげた。
取材でもなく、引用でもない属人名の発言は、
書かれている内容は、
橋本さんの頭をよぎった回想でなく、筆者の頭の創造物なのか?
理系の私にはどうなっているのか理解が付かない。

私は読み終わって違和感を感じたと日記にも綴ったが、
違和感でなく、はっきりと事実と違うと気が付いた内容が一点ある。
橋本克彦さんの引用とルビが振られた記述だが、641ページ8行目から11行目。
11月8日の午前1時半には、芸術学部のバリケードに、「関東軍」と俗称された日大・拓大・東海大などの体育会学生200人が、右翼団体員に率いられ、日本刀やナイフ、チェーンなどを備えて攻撃してきた。芸術学部のバリケード内にいたのは40人ほどだったが、必死の防戦で攻撃を食いとめ、翌朝午前六時に全共闘の応援部隊400人がかけつけて、「関東軍」を撃退した。

この事に付いて、私がHP本文に貼り付けている全国紙記事には
・体育会学生200名
・芸闘委の学生80名
・応援の全共闘学生350名
・捕虜となった体育会50名

新聞社も現地でカウントしたわけでないからその正誤についてとやかく言うつもりはないが、
私ら当事者の認識とは大きくズレている。
いわんや40数年経った今は、その正誤を二次三次資料で精査する術はない。
一番の方法は、体育会でも全共闘でもいいその当事者に聞き取りすることと思う。

当該記述は橋本克彦さんの「バリケードを吹き抜けた風」よりの引用としているが、
橋本さん自身も、その当時は闘争から抜けており、現場に居合わせた訳ではない。
芸闘委の仲間から後日聞き取り、「作品」としてまとめている。
その事を一番正確に語たれるのは、そこに居合わせた全共闘200名の当事者だけと思っている。
私もその一人だ。

検めて云うが、全共闘書記局が置かれていた理工学部一号館から、始発の国電に乗り込んだ時点では50人に足らなかった。
新宿で他学部と合流したが、それでも手勢が一挙に8倍になった記憶は無い。
江古田の駅を降りたとき、横五人で隊列を組んだ。
仮に400人であれば80列の隊列となったはず、80列といえば後は見えない。
以下の写真は何れも40〜50列程度の挺団だ、見れば具体的なイメージが分かるはずだ、
私等は80列の竜の尾のような隊列を引っ張った憶えはない。
80列なんてとんでもない。


前から2〜3列目にいた私はビビリまわっていた、校門前に着いた時は後列に下がっていた。
それでも40列も50列も下がった憶えはない、そんな事をすれば隊列からはじき出される。
それに朝の4時、事前の準備も何もなく400人というゲバルト部隊をかき集めるのは不可能だ。
陽が差し勝敗の決した頃、後から続々と参じた部隊を加えれば新聞報道ほどかそれ以上になると思うが、
何度も云うが、
薄闇の中、芸術学部バリケードに最初に突っ込んだのは、始発電車で駆けつけた一番部隊の私等200人だ。

返して、右翼体育会。
江古田の駅前に、私等とほぼ同規模の集団が暗闇に見えた。
全員、白いヘルメットを着けていた。
中核派の応援と、皆沸き立ったが、
近づくと、蜘蛛の子を散らすように逃げていった。
その後、私らがバリケードの内外でぶつかった右翼体育会学生は200人ほど。
マスコミも橋本克彦さんも、激突以前に遁走した白ヘル集団約200人を無視しているだけだ。

自嘲的に書けば、これは派手なチャンバラ劇画だった。
多勢に無勢がなりふり構わず突っ込んでいく一点に劇画のキィーがある。
多勢であった方を無勢と語り、無勢であった方を多勢と語るのは悪意に満ちている。
叛逆というのは、無勢の劣者が、多勢の優者に挑む事によって初めてその意味をもつのである(言い切るのだ)
劇画は、趨勢を逆転さすことによって、その意味は全く別のもになってくる。
これは、悪意以外の何物でもない。




■2009.08.07  night  管理人

出張の用件まで時間があったので、神保町の三省堂まで寄ってみた。
軟弱銀ヘルさんが言っていた、書棚のトップエンドをチェック。
見当たらない。
4階の歴史書のコーナーに上がってみた。

レジの真ん前、目立つところに確かに叛バリが展示されていた。
1968の内容については、かなりムカついた事を色々と書いたが。
思わぬ効果があったのも確かだ。
書棚に埋もれていた叛バリが、1968に引っ張られてエンドトップまで出てきたのだから(笑。


「お前さんはな・・・・・・・」
何か言うと、私があたかもそうだったかのように皆が決め付ける。
私のことを猪突猛進の単ゲバだったかのように皆が決め付ける。
夜は学科闘争委員会の仲間と新宿で痛飲した。
終わって、声は枯れてほとんど目が回りながらキィーボードを叩いている。

「エッ・・・・、お前さんもそうだったの」
「頼むよ、あの時の事を証言してよ」
「今度、」ゆっくり記憶を辿ろうよ」
その中に、
1968年11月8日、始発便で一緒に江古田に行った仲間がいたのだ。

イカン!、本当に目が回ってきた。



関東軍41年目
投稿者:チームバージンロードの教祖
投稿日:2009年11月 8日(日)22時46分0秒
11月8日はヒョットしたら芸闘委の42回忌だったかもしれません。

当日関東軍の襲撃の連絡を受けた農闘委は先発隊として16名がゲバパイプとヘルで江古田へ向かった。
タクシーは西武線の踏み切りでストップ、そこから先の両側50メートルおきに警官が立ち、道を進めば芸術学部の正門バリ、屋上からSやHのアジテーションの声。校舎の1・2階から激しい音響、正門から先の道には機動隊の幌付きトラックが待機しているのが見えた。

正門周辺には文闘委が30名ほど居て、中から飛んできた石を中に投げ返していた。ゲバ棒などの武器が到着していないとの説明。
数ばかりでゲバのやり方が未熟なドジな連中。先発隊は正門と裏門の二手に別れ突入。
正門隊は守衛室から校内へ入るとヘルメットに×マーク大きなガタイの乱闘服姿7〜8名のうち赤ヘルを見て5〜6名は校舎に逃げ込んだ。
残っていた者達をギタギタにしたところでパイプが曲がり使用不能、長机の足掛けパイプを外しゲバパイプにして進む。

1階の窓越しに敵の姿が見えたので投石で窓ガラスを割るとガシャーンガシャーンと大音響、それにビビ
ッタのか一人また一人関東軍兵士が逃げ出てくる、それをモグラ叩きのように倒し中に入ると1階はもぬ
けの殻。
2階に上る階段でも逃げ出す関東軍に遭遇これらもモグラ叩き状態、2階の部屋で関東軍に捕まり衣服を剥がれ裸で番線で縛られた2名の女性芸闘委を救出、番線を外してやる。
更に3階に向かうが敵がバリを築きそこから備品などを投げ落としてきた。3階へ続く踊り場が一大決戦場になる。
こちらは研究室から持ち出した塩酸ビン硫酸ビンを敵に向け投げ込む。敵は投げる物に窮しレコード盤まで投げてきた(なんともマンガチック!)
そうこうするうち全共闘応援隊が続々と到着ようやく3階へ攻め込む。敵は鉄製扉のある部屋に逃げ込み中で日大校歌を合唱「♪日に日に新たに」

ある先発隊員は「♪友よ夜明け前の闇の中で」・・・こんなイメージが浮かんだそうです。
ようやく鉄製扉を開けると輪島をはじめ20名が無抵抗、関東軍指揮者は「皇道会」「住吉会」の飯島・恩慈ら。
当時日大は東都6大学のリーダー格、3部リーグまであったから18の私立大の体育部員の寄せ集め、構成は1・2年生が主軸、だから弱かった。
それは昭和20年8月15日の大日本帝国大本営の無条件降伏と同じ。
ずらり並ばされた彼らに怒り狂った芸闘委のAが中の一人に向かって「テメー空手部のBだろう」と叫び、Bの両手を机の上に広げさせ煉瓦でぶっ叩いた。
Aは重大な罪を犯した。無抵抗のものをテロったのだ!
戦時中でも捕虜は保護されていたというのに。これが日大全共闘へのノンポリ学生からの支援や・シンパ学生の支援が離れていった一因だった。
最大の原因は10・21国際反戦デーの日 農闘委の2/3が各セクトと行動をともにしたこと。
ノンセクトの旗印だった日大全共闘が各セクトの狩場になったとは・・・・。

11月7日私は農闘委の情報員として午後9時から翌朝8時までの任務で渋谷区大橋の第3機動隊のレポをしていた。
午前2時の定時連絡で芸術学部のスト破りを知った。第3機動隊は江古田へ行くだろうとの予測があり、私はその場から離れる事が出来きず、結局8日午前6時30分ころ下馬3丁目に戻った。
そのあと先発隊が戻り上記の報告を聞いた。
以上が昭和48年11月8日に農闘委先発隊の彼らが見たことです。

今考えるともしそのとき農闘委16名の先発隊が江古田行かなかったら、彼らの働きがなかったらば、下の階に居たラッパさんの命は危うかったのではなかろうか?
本日が芸闘委の42回忌になったかもしれません。ナムアミダブツ 々 々〜。
ラッパさん・Hさん・Sさんその時バリの中にいた人達、農闘委先発隊16名に感謝の心を持って下さい。
全共闘の心は共生・友愛です。皆さんもお持ちです。
なんか鳩山発言みたいになったりして、まーぼちぼち行きましょう〜。
応援しています〜。
         チーム バージンロードの教祖 拝   09・11・08




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