管理人日記  2004年2月 
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2004.2.22  morning 管理人 wrote

昨日から天気は下り坂。
私の大事なクリスマスローズが盛りで咲いている。
鉢植え、庭植えいずれも咲き誇っている。

亡き父が寒蘭に凝って栽培していた。
妻にお父さんと同じね、と言われた。
若い頃は寒蘭を栽培し、愛でる父を「何で?」と冷ややかに見ていた私。
生き方は180度違った父と、結局同じ事をしている。

昨日はネットサーフィンしていて立命館全共闘から京都パルチザンへ、パレスチナ支援闘争に身を投じた桧森孝雄(1947年生、2002年3月30日の夕刻近く、日比谷公園の「かもめの噴水」広場で焼身自殺)さんに関するページに行き着いた。
私は赤軍派については余り詳しくないが。
京都パルチザンと赤軍派は同じでないことも知った。

ご冥福をお祈りします、合掌。


2004.2.21 night 管理人  見て欲しい

火炎の戦士・桧森孝雄を送る京都送別の会

2002年5月25日(土) PM6:00〜9:00
京大会館: 京都市左京区吉田河原町15-9

主催: 立命館大学全学共闘会議法学部闘争委員会
立命館大学法学部学生評議会
立命館大学広小路・衣笠学生評議会連合

「サンデー毎日」 2002年5月26日号、辺見 庸 「反時代のパンセ」


2004.2.19  morning 管理人 wrote

自衛隊
このご時世のイラクの話ではない。
かつて私の県でも国体が開催された。
国体ヨット(現在はセーリング)競技は海上自衛隊の全面的な協力を得て開催されている事知っていますか。
ヨット競技は競技役員(純粋にレースを運営するスタッフ)が200〜300名、それに通信と気象観測、救助(レスキュー)を応援いただく海上自衛隊の方々が150名前後加わって国体ヨットレースが運営される。

私の県では日頃ディンギーヨット(国体に使用される小型ヨット)に乗っている人口はその当時30名もいればいい方。
クルーザー乗りも含めても、ヨット業界の県内人口は50名前後という極めてマイナーなスポーツ業界だった。
これでは国体レース運営がとても自前では出来ないということで、県ヨット連盟が色んな船乗りをかき集めた。

レース運営は色んな部門を作り、それぞれが責任を持って運営に当る。
部門の最高位は「レース委員会」、気象やその他の状況を判断しレースの開始や終了、変更を決定する権限を持つ、これには日本セーリング連盟のお偉方が名を連ねる。
マーク(ブイ)や発着を受け持つ「発着水路」、陸上と海上を結ぶ「運行」、情報を管理し、信号旗を受け持つ「通報」、レース運営に使用する無線通信を管理する「通信」、選手の命と安全を守る「救助」、レースの審問を受け審判する「プロテスト」、それに「総務」が主な部だ。

決定的にスタッフが足らなかったので、県外から応援を求める事にしたが、運営の各部の責任者は県内スタッフが勤めようと連盟で決めた。
私は救助部の責任者を仰せつかった。
日大全共闘では一兵卒だった私が、国体では海上現場部門での指揮官を仰せつかった、大変な出世だ。
現場部門の救助(レスキュー)は、血の気の多い私には適役?、まんざらではなかったが。

救助は自衛隊の掃海艇を救助母船とし、2つのレース海面にそれぞれ救助指揮船を配置する。
それぞれのレース海面には指揮船以下7艇の救助艇(自衛隊艇)を配置し、指揮船には通信士の自衛隊員1名を含む7名、救助艇には通信士とフロッグマンの2名の自衛隊員、操縦のヨット連盟員(学生)の計3名が乗り込む。
救助艇は横須賀、舞鶴、呉の海上自衛隊基地から、水中爆発物処理につかうゴムボートが12〜14艇集められる。
指揮船1艇、救助艇7艇、総勢28名の指揮官だ。

 ハーバーに並ぶ救助艇(自衛隊ゴムボート)

国体前年に開催したリハーサル国体では、実際にこの布陣で救助部を稼動した。
指揮船に乗り込む通信士は、指揮官の私が発する指揮命令を必ず一度記録紙に書き留める。
それを一度復唱してから通信を行なう。
「こちら指揮船ブラボー、救助艇1号どうぞ・・」という具合だ。
ちなみにレース海面は成人男子、学生男子のA海面と、成人女子、少年のB海面の2つに別れている。
自衛隊はAをアルファー、Bをブラボー、Cをチャリーと呼称する、知ってましたか。
通信の最後のOKはラジャーという。

強風が吹き、レース艇がバタバタと横転し始めると、このまどろっこしい通信方法では追いつかなくなった。
あそこでも、ここででも、船がバタバタ倒れる、7艇の救助艇を臨機応変に動かさないと間に合わない。
通信士に「無線機で指揮官に直接話させてくれ」と頼んだ。
通信士は「自衛隊にとってはたとえ通信機でも武器です、民間の貴方に貸せません」と拒まれた。


 日章旗をなびかせ走る救助艇。

この通信士さん、つい先ごろ53歳定年退官の挨拶状を頂いた。
私は季節の折々には果物を送っている、お礼に息子は掃海艇をプリントした超レア物のTシャツ、私は自衛艦がプリントされたバスタオルを送って頂いている。

国体本番のときも、レース何日目かに5メートルを越す強風が吹いた。
あちこちで横転するレース艇、救助が追いつかなくなる。
救助指揮命令は、海面の現状に追いつかなくなってきていた。
これ以上になると選手の安全が確保できない、指揮官としてあせってきた。
救助の最終局面では一緒に指揮船に乗っていた息子に「部長!、その対応はまずいんではないですか」と再三忠告を受ける羽目になっていた。
ここで一兵卒の限界が露呈していた。

「レース中止、全艇ハーバーに引き上げよ!」
「救助艇は全艇がハーバー帰着までサポートせよ」
指揮官としてパニック寸前まで行ったところで、その日のレースは悪天候のため中止になった。
実戦だとどうなるのだろう、貴重な経験だった。


2004.2.17 night 管理人 wrote

何時の事だったか忘れたが、御茶ノ水の全電通会館で「全都理工系学生」の集会があった。
日大全共闘理闘委の一人として演壇で一席ぶて、と仲間に勧められた。
私は人前で話すのは苦手だ、勘弁して欲しいと仲間に訴えたが無理やり押し出された。
都内の理工系の学生活動家が次々に連帯のアジテーションをぶち上げていく。

当時のアジテーションはいわゆる「ワレワレハーーー、ダンコーーー、・・・」
という絶叫調の演説で、幾つかの全学連業界用語をつなぎ合わせ、決まり文句を反復するものだ。
真面目に聞いたって殆ど内容は皆同じ、ヒップホップやラップと思えば良い。
内容よりもテンポなのだ。
結構頭の良い(勉強が出来る)連中が集まっているのに、言ってることは今考えるとお粗末の一言、内容なんて何にも無かった。

私はそんな上手なアジテーションは出来なかった。
私は番が回ってくると演壇に上がった。
一兵卒の私には「舞い上がる」気持ちを落ち着かせる事は無理だった。
何を喋ってよいのか分からない・・・・・、仕方ないので自分がバリケードストライキに参加した気持ちを喋った。
「僕は古田が許せなかった、バリケードは楽しかった・・・・・」等々を。

聴衆から完全に浮いているのがはっきり分かった。
皆は日大全共闘にもっともっと勇ましいアジ演説を期待していた。
私は話の起承転結もくくれず、中途半端で演壇を降りた。

日大全共闘の仲間の中では自分は自分であり、生き生きとしていたのに。
他大学のセクトを中心とする活動家の中では、彼らのように雄雄しくテンポよく、アジテーションできなかった自分が惨めだった。
大学解体や革命なんて私は言えなかった、私はあくまで「古田倒せ、闘争勝利」だった。
こんな惨めな経験から独断で言うのだが、セクトと日大全共闘は全く違うものだ、ごちゃ混ぜにしないで欲しい。
意固地にそう確信している。


■ 2004.2.17  morning 管理人 wrote

同学部の一学年下の後輩から「きっと同じ隊列にいたはず」というメールを頂いた。
なかなかメールをするきっかけがつかめなくて、酒の勢いでメールをしています、と記されていた、土木科の後輩だ。

土木科は親しい学科だった。
一年先輩のNさんは兄のような親しさで、けっして難解な議論はせず、いつもにこにこ微笑んでいた。
この先輩、泊り込み学生なのに何時も小奇麗でサッパリしていた印象が残っている。
デモではいつも前列に、ヘルメット、ゲバ棒姿で必ずいた。

この先輩が4年、私が3年の時、一緒に三里塚の集会に出かけた。



集会ではとなりにML派の「軍団」が並び、彼らは1メートル位の樫の棒を全員が持っていたのを憶えている、集会後座り込みを行った。
この時私は全共闘のヘルメットは被らず、杉並反戦の赤ヘルを被って集会に参加していた、このヘルメットは今でも持っている。
先輩は官庁に就職が内定しており、「パクられたら内定が取り消しになる」と言いながら二人で三里塚の野原を駆け巡った(逃げ回ったが本当)。

メールを下さったこの後輩は、卒業後10数年後にこの先輩を官庁に訪ねたらしいが、余り憶えてくれていなくて、少し落胆したと書いていた。
私なら、「おう、**!」と反応してくれる自信がある。
だってあれだけ長くバリケードで一緒に暮らした仲だもの。

この後輩、官公庁の組合運動を続けているらしく「労働組合にも良いところがありますよ」とチクリと言っていた。
掲示板に結構批判的な書き込みをしていた事への、さりげない指摘だ。
官公庁に入った仲間も結構いるらしく、それなりに横の連絡を取っていると書かれていた。


2004.2.15  1971年11月発行 no.29 SHINJUKU Play Map より転載

家を借りるんです/ 壁のない家なんです/ドアにカギをしない家なんです/ 床が砂浜の家なんです/大声で歌ったって平気な家なんです/体育館みたいな家なんです
すぐ、カットとなるひと/肉体のためになる勉強をしたいひと/わけもなく泣いちゃうひと/演技をチャント自覚しているひと/ヌカミソくさいひと/お化粧のきらいなひと/デプでチピなひと/他人に迷惑をかけることの嫌なひと/おかあさんといも虫はどうもってひと/ぶらんこにのってたら泣いちゃったひと/働くことは好きなひと/セッケンのにおいの好きなひと/腹がへったらすぐイラィラするひと/八方美人が嫌いなひと/ヒッチ・ハイクして友達になれる
ひと/すぐ道ぱたにすわり込むひと/ブタに絶対なれないひと/ハダシで街を歩くひと/本当はすっぱだかで歩きたいと思うひと/鏡の中の自分にペロリと舌を出すひと/タバコをやめようと思うひと/生きのびてるって感じてるひと/グラスを今まで百本以上吸ったひと/ちゃんと意地の張り所を知ってるひと/なんでもすぐ捨てちゃうひと/捨てられた事のあるひと/ネクタイマンから小バカにされたひと/夢を捨てるしかないひと/くやしくて、くやしくてならないひと/ひとの心がみえるひと/自分の事は自分でやらなきゃ気がすまないひと/地球の裏側の嵐を感じるひと/眠ってる時がサイコーってひと/自分のうんこをまじまじとながめるひと/本当の優しさを最も大事な事と考えてるひと/人類を愛するひと/どん底どんづまりのひと/勝手気ままなひと/ピッときめちゃうひと/しらけおばけをおまんこでのりきっちゃうひと/体で獣が吠えてるひと/おならをがまんしないひと/コカ・コ-ラが嫌いだけど、でもよく飲むひと/同姓ともねれるひと/一人だげではのれないひと/どうでもいいよってよく言っちゃうひと/つまんない自分にいやけがさしてるひと/パクシャリは二度と食いたくないひと/でもいつか二、三年は会うだろうなって気がするひと/路上に火柱を起したひと/マルクスのひげが好きなひと/売春婦にあこがれるひと/はみだすつもりはないけれど、はみだされてしまったひと/明日の日本を創るひと/そろそろこのながったらしい文章にしらけているひと/カラーテレピがほしいひと/飽きっぽいひと/しつっこいひと/一生懸命生きようと思うひと/飢え死にしそうなひと/本当はスネたくないひと/何故かAmにジーソときちゃうひと/髪の毛の長いひと/気狂いあつかいされてるひと/ノーブラのひと/私生児を生みたいひと/流れ疲れたひと/もう後へは引けないひと/父親から殴られたひと/時計をしないひと/週刊実話をよく読むひと/焼酎の好きなひと/日本刀でぶった切りたい奴を持っているひと/ダメおやじに期待するひと/クリームに泣けるひと/芥正彦になぜか魅かれるひと/緑色の自転車でさっそうとハイウェイを進むひと/この散文を笑って読んだひと/おいらを救えるひと/まず、アクションだというひと/体を動す事が好きな人は絶対です/おまんこの好きな人は当然です/これホントです/
キミが来なくってもやっぱり作っちゃうんです。
そこから始めようと思うんです。

日常生活解放運動事務局
新宿区**町三-八
萩*きみ方
飯**子気付


2004.2.15 early morning 管理人 wrote

ページに眠る思いを、少しだけ陽の目を浴びらせればと思い、
やっと一編だけページに上げれた。
テキスト入力はスキャナーのOCR機能を使えば・・・・・・と仲間が教えてくれた。
CDロムにあるマニュアルを読んだが、説明明瞭なれど意味不明で10日位過ぎてしまった。

藪さんが「時間が掛かるけど手伝いますよ」と便りをくれている。
急ぐ事はない、35年も眠ってきたのだから。
スキャナーで一番気に入った一編を一日がかりで変換した。

私の所持している叛逆のバリケードは、1968年10月20日発行の初版印刷版。
編集・発行は文理学部闘争委員会となっている。
なら、商業的意図は無いので、Web上で蘇らせても良いのではと思っていた。
第V部第U章の手記を丸ごと紹介したいと考えていた。

最近全共闘の仲間に親切な忠告を頂いた。
叛逆のバリケードは、ある大手の出版社に版権が移っていると。
私の企みは「著作権侵害」になる・・・・・・。
私の所持している初版本は確かに文闘委が版権・発行者だが、後日の増補版は出版社が版権者だ。
法的なことが分からない。

出版社は品切れでもう印刷はしていない、でも絶版にはなっていない。
印刷しても採算がとれないのだろう。
悔しい・・・、僕等の思いが商業的な制約で、版権とういう中に止められている。


■ 2004.2.13  morning 管理人 wrote

森田童子の曲「風さわぐ原地の中に」は、珍しくアップテンポの絶叫調。
鳴り止まぬ拍手の中に、私にだけに聞えてくるシュピレフィコールを聞く。
「日大全共闘は闘うぞーー、最後の最後まで闘うぞーー、闘うぞーー。」

激動の1968年9月のデモは、それ以前とは確かに違っていた。
攻め入る事を躊躇しないデモ、それまでの防御的デモとは決定的に違っていた。
今の世の、示威行動としてのデモンストレーション、
今の世の、連帯を求めてのデモンストレーション、
どちらとも違っていた。

体中に怒りが満ち、放電されていた。
行動隊は全身全霊でジュラルミン楯に突っ込んでいった。
自らの生きる存在を証明するかのように。
後にノンヘルの学友が続いた。
蹴散らされても、蹴散らされても、学友は後に続いた。

体中に満ちた怒りは何だったのか。
一体どこで鉾を収めたのだろう。
闘いはもう終わったのだろうか、
それとも、まだ続いているのだろうか。




2004.2.13 midnight 管理人 wrote 喫茶シルクロード

桃井コンミューン住民の何人かと同じバイトをしていた。
赤坂見附の通りに面した外資系の化粧品会社で、化粧品のボトル詰めと発送のバイト。
老舗虎屋を左手に、5分ぐらい歩いた所にあり、ビルのまん前は東宮御所だった。
通りに面したビルの窓は全てすりガラス、屋上は立ち入り禁止だった。
御所を見下ろすのは不敬だったのだろうか。

外資系で日給1700円で週払いだった。
時折休みはしたが、何せ生活がかかっていた、結構真面目に働いた。
1週勤めれば1万200円、一月で4万前後の収入になった。
大卒の初任給が2万円そこらの時代、結構な稼ぎになった。

赤坂見附は下車して右にすこし歩けば、直ぐ国会議事堂がある。
バイトに向かう真面目な勤労学生?も、頻繁に所持品検査を受けた。
装備を固めた機動隊が、地下鉄出口をあがってくる風体の悪い者の所持品を調べているのだ。
ネクタイ、スーツの紳士は調べない、私達は100%調べられた。
下手に抗議すると、問答無用で近くの装甲車に連れ込まれる。

バイトが終わると、荻窪教会通りの喫茶「シルクロード」に直行した。
この喫茶店、行けば誰かがたむろしている。
夕刻からの客はほぼ馴染みの客ばかり、アットホームのような居心地の店だった。
途中で銭湯へ行く者、春木屋(ラーメン店)へ食事に行く者。
店は一様10時が閉店だったが、店を閉めてもマスターは私達を追い出さなかった。
閉店後、時には翌日までマスターや馴染み客とワイワイガヤガヤと過ごすことが出来た。
日付が変わって桃井へ辿り着くこともしばしば。

アルバイトでカウンターに入っていたのは音大に通う女子大生。
彼女が欠かさずカウンターに飾っていたフリージア。
この香りを嗅ぐと、今でも喫茶「シルクロード」を思い出す。



■ 2004.2.12  morning 管理人 wrote 桃井コンミューン(V)

東京幻想旅行記のyamamotoさんから森田童子のライブ盤を贈って頂いてから、何故か70年前後の事を思い出す。
それも、70年安保や全共闘のことでなく、阿佐ヶ谷や荻窪、桃井で暮らしていた頃の思い出だ。
yamamotoさんは中央沿線に強い郷愁をお持ちとの事、それが引き金になっている。

1970年、訳あって阿佐ヶ谷北の雀荘の2階のアパートを引き払った。
何故かは当時の仲間にも本当の事は言っていない。
yamamotoさんには正直にお話したが、はばかる話なのでここでは「疲れ果てて」にしておく。

転がり込んだのは他学科の仲の良い仲間2人が暮らす、杉並区桃井のアパート。
荻窪の駅から歩いて20分は掛かった。
閑静な住宅街の中に、周りには似つかわしくない2階建10部屋の2棟。
バリケードを追い出されて以来の共同生活。
ここが「桃井コンミューン」と呼ばれるまでに時間は掛からなかった。

荻窪駅北口を少し上がった教会通りに「シルクロード」という喫茶店があった。
桃井コンミューンは駅から遠く、とにかく狭い。
何時しか、皆がここをサロン代わりに使うようになり日大全共闘理闘委中央沿線一派の溜まり場、行けば必ずと言って良いほど仲間がいた。

     1974年頃、妻とS君、M君とシルクロードの前で

店の常連客には、都の清掃局に勤めている中年の方、この方はコップの水にタバスコをタップリ注ぎ旨そうに飲む。
清掃車で一日中肉体労働をしているらしく、このタバスコ水が疲れを取る?と涼しい顔をしていた。
いつも小難しい表情で店の奥で専門書を開いていた東大の哲学科?の院生、もうすぐフルブライト留学生でフランクフルトに留学するとおっしゃっていた。
私たち単ゲバは内心バカにすることで、お互いプライドを保っていた。

杉並高校の小生意気な女子高校生。
私たちの事を「おじさんたちはもう年寄り、もう何にも出来ないくせに」と平気でののしっていた。
でも何故かかわいくて憎めなく、皆で妹のように手荒くかわいがった。
この子は、店丸ごと借り上げのクリスマスパーティーの際は、まめに手伝ってくれた。
かなり後になって「朝日ジャーナル」の何かの座談会記事に彼女が載っていたらしい。
日大全共闘を平気で小バカにしたこの子、杉並高校でもかなりの跳ね上がりだったのでは。



■ 2004.2.11 night 管理人 wrote 井コンミューン(U)

6畳(四畳半?)一間に4人はさすがにキツかった。
四人だけならまだしも必ず客人が来る、泊まる。
4人の所持品も少しはある、テレビ、冷蔵庫、ステレオ、コタツそれに設計テーブルとくれば一人に1畳のスペースがない。
畳の寸法というものは不思議なもので、一人の人間が座る、足を投げ出す、横になる、何とか一畳あれば足りる。
一人に1畳ないと自然の動作が制限される。

いくらバリケードの不自由な生活を経験している4人でもこれは辛い。
そうかといって客人は拒みたくない、コンミューンは来るものは拒まずだ、・・・が。
この上に一人居候が常駐しだした。
誰の友人か未だに分からないが、北海道から出てきている浪人生だった。

私達4名は全員大学4年目生(四年生ではない)、何故3〜4歳年下が居候していたか未だに解せない。
とにかく極限は越したわけで、打開策を練った。
たまたま、隣の隣の部屋が空いたので私と最後の参入者がそちらの部屋に移住した。
冷蔵庫やテレビ、ステレオは母屋に残し、ふとんと着る物と彼の設計テーブルだけもって移住した。
これで客人を迎えるキャパシティーは大幅に増えた。

この頃から、夕食から続く毎夜の酒盛りが始まった。
アルバイトの帰り、ウオッカやジン、焼酎やサントリーの安ウイスキーなど度数の強い安い酒を誰かが買ってくる。
ビールなんぞは高く、飲んだ覚えが無い。
私は下戸なので、食糧の準備や泥酔者の介護に毎晩暮れる生活が続いた。
幸い就寝スペースは離れ部屋に確保されていたのでアルバイトの妨げまでは至らなかったが。

このコンミューン生活はかなりアナーキーであった。
周りは桃井の閑静な住宅街。
私達の騒がしさは周りに相当響いていたはずだ。
アパートは2階建てが2棟あり、もう一棟は会社が社員寮として借り上げていた。
こちらも結構騒がしく、私達の目立ちも少しはカバーされていたが。

ジャニス・ジョップリン、ジミ・ヘンドリックスと4名の音楽的趣味は一致していた。
それなのにステレオは2部屋に1台。
誰が言い出したか、アンプとプレーヤーは母屋に置き、スピーカーをそれぞれの部屋に置きジャニスを夜目一杯で鳴らした。
これで1回、赤色灯をクルクル回転させながらパトカーがおいでになった。
呼んだのは母屋と離れ部屋の間の住人。
もう1回は少し騒がしかったのか、気が付くと窓の外で赤色灯がクルクルと回っていた。
記憶の範囲では計2回パトカーがお出ましになった。



■ 2004.2.11 morning 管理人 wrote

神奈川の義姉がコーヒー豆を送ってきてくれていた。
わが家は私も妻もコーヒーはよく飲むので、挽いたコーヒーを一度に大量に買い求める。
久しぶりにコーヒー豆が手に入った。
森のコーヒーという名で、生活協同組合が産直で扱っている商品で、私の地方では手に入らないものらしい。

20年来使用していないコーヒーミルを出してきた。
このミルは35年前、阿佐ヶ谷の喫茶「ポエム」で、当時大枚はたいて買ったものだ。
分解掃除したが、昔の物は良くしたものだ、全てパーツに分解できる。
カリカリと挽くと、部屋中にコーヒーの香りが拡る。

妻は三歳年下だ。
一緒になって以来、私の全共闘暦に批判地味たことは一切言わなかった。
私のホームページを読んで、知らない事も有ったらしいが少し批判的な事をはじめて言われた。
私の話しより、ホームページに書きこまれる投稿や、直接来る便りに興味があるらしい。

1968年、妻は東京から遠く離れた地方の高校二年生、大学で繰り広げられるスチューデントパワーはテレビと新聞の遠い世界だったらしい。
彼女の住んでいた地方は私の実家よりも更に田舎で、日共系の高校教師の話がとても「革新的」と受けとめていたらしい。
地元の女子短大に進んでから、一次民青に傾注し活動していたらしい。

妻の短大1年次私は4年生、私はその時期は既にバリケードはなく集会とデモや、三里塚に時折行く程度だった。
しかし妻の地元の国立大は、首都圏から少し遅れての全共闘(実はセクト)が最盛期で頑張っていた。
妻は放送研究会に入っており、地元の「暴力学生」達と交流すること、また広島で開催された平和集会に参加したことで、民青から訣別したと言っていた。

貴方がたは運動の絶頂期を経たからいい、貴方がたを見て大学に入った者たちに、貴方がたは何を伝えたのかしら・・・・・。
妻の自分の思いも入っているようだ。
妻の批判は妥当だ、私(達)は次の世代に何を伝えたのだろう。



■ 2004.2.10  管理人 wrote

以前、1月15日と23日の管理人日記で紹介した「東京***記」のyamamoto(メールアカウント)さんがCDを送ってくださった。
昨日届いていたが残業で遅く帰宅、今朝の通勤途中にカーステレオで聴いた。

森田童子ライブ盤

我慢できたのは3曲目の「君は変わちゃったネ」まで。
4曲目の「雨のクロール」は私の持っているCDにも収録されているが、こちらはライブ録音版。
収録は昭和53年夏、東京カテドラル聖マリア大聖堂。
私のCDとは少し違うコーラスの入った明るい曲調に編曲されている。

だのに、何故か目頭が熱くなってくる。
6曲目の「友よ泣かないのか」で、完全に涙腺が切れた。
前を向いて運転が出来ない。
路肩に止めてしばし聴いた。

友よ ぼくたちは 
輝く陽射しを 
目ざすべきでは なかったのか

風よ泣かないのか
時よ泣かないのか
友よ泣かないのか
新しい朝のために 

激しくかき鳴らすギターをバックに歌う「風さわぐ原地の中に」が最後の10曲目。
この曲も初めて聴く曲だった。

贈ってくださったyamamotoさんは『友よ泣かないのか』の冒頭の
“友よ ぼくたちは 輝く陽射しを 目ざすべきでは なかったのか” に激しく共感すると書き記されていた。
yamamotoさん、素晴らしい贈り物、本当にありがとうございます。


■ 2004.2.10 night 管理人 wrote 桃井コンミューン


森田童子の語りを聴いてて、こんな事を思い出した。

1970年春、阿佐ヶ谷北から荻窪の桃井に引っ越した。
追い出された訳ではなかった。
全共闘の仲間が2人で共同生活しているアパートに私も参入したのだ。
四畳半だったか6畳だったか記憶は薄いが、大学四年生が家賃7500円を三等分の共同生活。

怖いものは何にも無かった。
地震は何時でもこいと思っていた、
くると喜んで柱を揺すった。
火事も泥棒も怖くなかった、
泥棒には盗むものが何も無いのだ。
火事で焼失する財物が何も無いのだ。
バリケード生活でアナーキー?なしたたかさが身についていた。

暖かい時期は窓は開け放し、ドアも閉めずに寝た。
朝、仕事に向かうサラリーマンが、窓やドア越しに見えた。
当然向こうからも寝ている私達が丸見えだ。
何を見られても躊躇する事は何にも無かった。

その年の暮れもう一人仲間が参入した、共同生活は4名に増え家賃は四分の一になった。
当然仲間連中の溜まり場になる。
夜トイレに出て戻ると、寝るスペースが無くなっている、押し分けてスペースを作る。
見知らぬ誰かが寝ている事もよくあった。

肉屋で鶏の皮を買うと1kgで確か40〜50円だった。
鍋に湯を沸かし脂を抜き、砂糖と醤油でコゲ付く寸前まで炒る。
ドンブリに白い御飯を山盛りに盛る、一人当たり実費 40〜50円、5〜6名の夕食になった。
少しの贅沢は樽から分け売りで買った野沢菜。
このトリ丼and野沢菜はたまらなく美味かった。

不便だということで電話を引いた。
しかし、通話料を払わないので2ケ月くらいで不通になった。
風呂屋が遠かったので、道路から丸見えの共同洗濯場の流しの上で、水道水で体を洗った。
通行人から真っ裸を見られても恥ずかしくなかった。

誰とはなしに私達のアパートを「桃井コンミューン」と呼ぶようになった。



■ 2004.2.8  管理人 wrote

イラクへ派兵される自衛隊の方々のニュースを見た。
胸がジーンとしてくる、悲しみや怒りでない。
言いがたい思いがこみ上げてくる。
日本を背負い、意を決し”いくさ”に出てゆく(行かされる)者への熱い思い。

お前はイラク派兵に賛成なのか、と詰めないでくれ。
元日大全共闘単ゲバ派なら、なあ!・・・分かるだろう。
右や左じゃないんだ。
意を決した者への共感、思い。

街頭でのインタビューに、
「とにかく無事で帰ってきて欲しい・・・・」と返答する市民。
私はこの手の返答を聞くといつもムカッと来る。
人は平穏な市民生活を営む権利がある。
だけど、やっぱりムカッと来る。
このムカつきは1968年から変わらない。



■ 2004.2.6  管理人 wrote

ここんとこアクセスカウンターの上がりピッチが早くなっている。
日大愛国戦線の小俣さんの登場以来だ。
皆、再登場を息をひそめて待っている。
この私もだ。

昨日の朝日に西部邁さんの論説記事がのっていた。
今のアメリカは急進的な左翼国家であり、「自由と平等」という価値を個人的・競争的に実現しようと追い求めている国。
一方、ソ連型の社会主義は集団的・計画的「自由と平等」を実現しようとした。
どちらも左翼であり、米ソ冷戦は左翼同士の内ゲバであったと。
ちょっと待ってくれ単ゲバの元全共闘には頭がこんがらがって来る。

アメリカの新保守主義・ネオコンの思想的ルーツはトロキズムといわれている。
自らの理想とする「自由と平等、博愛」を武力を持ってでも押し付け実現しようとするアメリカ。
これはラジカルな(左翼?)思想だ。
すこし分かってきたような気がしだした。
かつて何処かのセクトが言っていた「世界同時革命」に近似しているかも。

じゃ右翼は何なのだ・・・・。
ソビエト信奉者が革新であり左翼的で、アメリカ支持者が保守で右翼的だったら、アイゼンハワーを歓迎するため動員された日大応援団は右翼だよな。
でも論客の西部邁さんは、アメリカは左翼国家であると言っている。
右翼が攻撃して止まない日教組の教育方針は、「教育基本法」が根本になっており、それはアメリカの肝いりで作られている事実。

また分からなくなってきた。
右翼は本当に愛国的なのかなあ・・・・。
日大愛国戦線は「日大反米愛国戦線」と変えたら、グ〜ット心情的に親近感が出てくるのに。
これは茶化しているのではない。



■2004.2.5 管理人wrote

掲示板が、良い意味で私の意図とちがう展開をしている。
というより今後するかもしれない可能性を示している。
私は掲示板では敵対する考えを持ったもの同士の話は成り立たないと決め付けていた。
でもここでは、少なくとも一方の側が真摯な対話の姿勢を示している。

様々な掲示板が、少しの考え方の違い、少しの世代の違いで、相手を罵倒し、一方的に否定するやり取りに終始している、不毛な限りだ。
いや全ての掲示板と言っていいほどだ。
ここではまず”水中のみずすまし”さんが”聞く耳を”を持った。

経済OBさんもルールを守り、それに続いた。
今後相手がそれに応えるかどうかにかかっている。
どんな反論、どんな罵倒にも、相手の本当の言葉が出てくるまで、
みんな辛抱してください、
敵、味方に分かれていても、あの時代を共有したもの同士です。



■2004.2.3 管理人wrote

”水中のみずすまし”さんが「何故?」、って問いかけた。
1967年4月20日経済学部新入生歓迎集会へ大挙して殴り込みを掛けた応援団のリーダー(故人)を名乗る方へ。
私はこの愛国戦線を名乗る書き込みを見たとき「憎さ百倍」で、からかってやれと思い幾つか書き込んだ。

今朝の”水中のみずすまし”さんの書き込みを見た。
30数年前に敵対した相手に、冷静に「何故?」と問いかけていた。
日大闘争は不正に対し道理を正す戦いだった。
極めて単純で人間的な衝動だった。
なのに貴方たちは「何故?」・・・・・・。

当時の私を闘争に駆り立てたのは、
この極めて単純な「何故?」「どうして?」に共感したからだ。
誰が見ても”悪い事を悪い”と言ったのに、殴られ、蹴られた・・・。

私も冷静になろう、
そして時代を共にした愛国戦線さんの「返答」を待ちたい。

   
   

■2004.2.2 管理人wrote  チョコレートケーキ

昨朝、ご近所さんのパソコンがウイルスに感染し、嘆いていると妻から聞いた。
早速、出張無料サービスにご訪問した。
1月26日発生の最新型に27日に見事に感染していた。
起動するとメーラーが絶え間なくウイルス付きのメールを発信している。
幸いにも期限切れのワクチンが発信だけはガードしていた。

発信は気にせず、対策ソフトをダウンロードし駆除に成功。
お礼のチャコレートケーキと共に帰還。
ご近所さまの株を少し上げれた。

午後は一日中パソコンの前に座りっぱなしだった。
写真ページの作成に精を出していた。
反逆のバリケードをスキャンしていると、田村さんの詩や、仲間のエッセー・手記が目に留まった。
アッ、これも載せたい、あれも載せたいと思うと作業はなかなかはかどらない。
私のホームページなんぞよりズット思いの詰まった手記が何篇もあった。
今後私の気力が続く限り、反逆のバリケードのページの中に静かに眠る、当時の熱い思いをページにしたいと思っている。



■2004.2.1 管理人wrote

掲示板が「日大愛国戦線 小俣君」の勇気ある書き込みで賑わっている。
後輩は余りにも日大全共闘の事を知らなさ過ぎる。
私はホームページに書いていたはずだ。
日大全共闘はいわゆる左翼集団とは違う!。
ちゃんと真面目に読んでくれ、真面目に書いているのだから。

新左翼セクトに対して360度全方位の位置を維持した。
同じように右翼的思想を持つ人達とも「日大民主化」という一点で行動を共にした。
私の学科の委員長は体育会の主将で、体育会学部連絡会のボスをしていた。
大学に金で雇われる「エセ右翼」とは一線を画していた。
それが証拠に、9月以降バリケードを襲ったのは殆ど日当を支給された他大学の事情の分からぬ雇われ学生だ。  

そんな中途半端な雇われ集団が、命張ってる全共闘に張り合えるはずが無い。
体は軟弱でも、気合が違う。
日大愛国戦線がいまどんな活動をしてるかこちらも知らないが、
少しはまともな活動していたら、
堂々と掲示板で言ってくれ。
先輩は聞く耳持っている。


■2004.2.1 night  管理人wrote

1968年10月21日、市ヶ谷防衛庁へ真っ先に突っ込んでいったのは、日大全共闘Y君だと。
新宿駅の鉄板ガードを本気でぶち抜いたのも日大全共闘。
1969年サンデー毎日2/20増刊号のルポ記事にはこんな事が書かれていた。
「・・・・・バリケード解除が迫った日、・・・各学部委員長は石油かぶって焼身自殺をしよう・・・・。」
 ルポ記事だから誇張はあると思うが、こんな事が話されたとは初めて知った。   

私なんぞの思いはこれに比べると紙のように軽い。
ホームページを介して、さまざまな思いが伝えられる。
これからもめげずに伝えて生きたい。

 
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