■2004.3.30 morning 管理人 wrote
昨晩は久しぶりに長く人と話した。
仕事を早めに終え、喫茶店へ6時に出かけた。
行きかう人並み、繁華街へ夕刻出かけるのはめったに無い事だ。
9時まで3時間、閉店で外へ出ても路上で1時間半余り話しこんだ。
生粋のBUND(だった)方と話すのは30数年ぶりだ。
当時医学生であり、BUNDに所属していた”ピュアーセクト”の御方と話して強く感じたのは「日本共産党」との関りに強く拘っている事だった。
御方の幾つかの言葉に、日大全共闘との決定的な違いを感じた。
「だってBUNDは共産党から出てきた集団ですよ」
「僕等の活動の出発点は自治会民主主義から・・・・」
「革命に賛成か反対かを議論し、多数決をとったことも有ったな・・・・」
BUNDファンであった私が今更言っても遅いが、日大全共闘とは全く違うなとしみじみ感じた。
日大・・・・、共産党なんて関係なかった、自治会なんて元々無いに等しい、全員参加の直接民主主義・・と言うよりやりたい奴がやる、やりたくなければ離れるアナーキーさで形式には拘らなかった。
というより、形式なんて無いに等しく全てが後からついてきた。
BUND主流派であったにも関らず、その後の赤軍派に極めて同情的な事は驚きだった。
今の日本共産党に対し色んな思いを持っていることも知った。
結構親交のあった革共同の連中とはかなり感覚が違う。
喫茶店が閉店になり路上へ出てからはお互いの近況や、地元の住民運動へも話題が及んだ。
御方の地元での活動範囲の広さと豊富な人脈には敬服した。
■2004.3.29 morning 管理人 wrote
農闘委さんがまた怒っている。
このHPを始めてからまめに文章を書いている。
文章を書くのは知的労働だと聞いていたが、結構肉体労働でもあるし、思う以上に時間を食う。
調子に乗って書いていると、浅はかな我が頭の限界がチラホラしてきた。
昔話、趣味の園芸・音楽、ヨットの話題ぐらい、時折BBSに提供される話題で他にポケットが無い。
全共闘以後一人で生きてきた私には、市民社会でのささやかな趣味と交流ぐらい、義憤を覚えることは有っても、拳をあげ口から泡を出し言い張るものが無い。
全共闘運動は今まで喋らなかった・・・、のではなく喋れなかったのが本当。
今も弱者のため、平和のため地道に運動している方々を見聞きすると頭が下がる。
■2004.3.28 morning 管理人 wrote
皆が未だ寝静まった早朝。
昨日借りてきたエンヤのウオーターマークを聴きながら。
最初は「皆、冷静に聞いてくれ」という下りから始まった。
確か1968年6月頃だったと思う。
左翼も全学連も大嫌いなクラス幹事のY君のクラス会報告から始まった。
彼の風貌は、詰襟学ランに角刈りの頭、どこから見ても右翼。
次の7月には学部集会に来た全学連のデモを皆で押し返した。
まあ全学連にしたら、たまたま横を通っただけかも知れないが、私(達)は声を限りに「全学連は帰れ!」と叫んだ事を憶えている。
全学連もセクトの連中も多分これには戸惑っただろう。
新左翼でもない、そうかと言って日共・民青でもない学生集団が突然出現し、あれよあれよという間に増殖して行く。
自分たちが全く関与していない学生集団が、いわゆる”学生運動”の主役になって行くのだから。
前衛党としてメンツも丸つぶれ。
どう振り返っても日大闘争は”知的エリート集団”の前衛運動ではない。
仲間が”百姓一揆”と評したが。
私は前年の67年に有った佐世保エンタープライズ闘争、羽田闘争も全く興味の無いポン大生だった。
60年安保も日韓闘争も引きずっていないし影響も受けていない。
ほんの少しの”正義感”が唯一最大の闘争動機だった。
田原総一郎さんの朝までテレビで何が話されたか知らないが、多分そこら当たりがごちゃ混ぜだろう。
自らが行動しない知的エリートの評論家には一生かかっても理解できないだろう。
  
■2004.3.27 night 管理人 wrote
今日は早くから起きていたが、今経闘委のBBSを見てやっと分かった。
昨晩からアクセスカウンターが異常に跳ね上がっているのだ。
私のホームページには一晩で平均して約40〜50人(カウント)が訪問してくれているが、昨夜からカウントが一気に250も跳ね上がっており、今も増えている。
これはどうした事かと気になっていた。
昨日(正確には今日)深夜、テレ朝の朝までテレビで「連合赤軍(=全共闘)とオウム真理教の精神性やアクティビティを時代を照射するものと仮説規定し、論戦を交わしていた」らしい。
グーグルで「全共闘」と検索すると、私のページが3番目に出てくる。
どうもこれを見た方たちが私のHPに流れてきたのだろう。
でもこの番組、司会が経闘委のBBSでいい加減だと指摘されていた田原総一朗氏だ。
私はこのホームページで元日大全共闘として個人的体験を綴っている。
マスメディアで評論を生業としている方のフィルターを通した全共闘像と、当事者だった者が何の加工も加えず伝える全共闘との差異を見て欲しい。
世の中にはマスメディアで伝わらない事実があるのです。
  
■2004.3.27 noon 管理人 wrote
陽が上がりポカポカ暖かい陽気。
散歩がてらにレンタルショップに行っていた。
妻にビートルズを頼まれていた。
ビートルズも含め8枚借りてきた。
 
音楽が段々昔帰りし、行き着くところまで行ってしまった様だ。
ベンチャーズのフォーエヴァー盤。
私が音楽に興味を持ったのは中学3年の頃、思春期真っ盛りの1963年。
いわゆる洋楽ポップスというジャンヌの曲に興味を持った。
ロネッツの”ビー・マイ・ベイビー”、リトル・ペギー・マーチの”I WILL FOLLOW HIM”、ヘレン・シャピロの”悲しき片思い”など、今で言うシックスティーズ=’60のアメリカンポップミュージックが私の好みだった。
小さなトランジスターラジオで毎週のヒットチャートを聴くのが楽しみ。
カセットも、CDも、コンポも増してや携帯も何にも無い時代、トランジスタラジオだけが唯一のディバイス。
休み時間、ヒットチャートのランキングを友達と喋るのが楽しみだった。
中三の二学期’63秋、初めて耳にしたビートルズの”プリーズ・プリーズ・ミー”はそれまでアメリカンポップばかり聴いていた私には鮮烈なサウンドだった。
この年の夏、日本に上陸したコカ・コーラを初めて口にした。
薬くさい飲み物だな、というのが初印象。
今日借りてきたベンチャーズはその翌年、高校生になってからだ。
この頃には我が家にも”ステレオ”が座った、コロンビア社の家具のように荘厳なステレオ再生3点セットで我が家の居間に10年以上鎮座していた。
このステレオでベンチャーズをガンガン鳴らした
そのメモリアル盤を40年経った今またガンガン鳴らしている。
若い方には分かるまいが、ペケペケペケ-----という単純明解なサウンドだ。
    
ベンチャーズ、ジャニス・ジョップリン、ボブ・マーリー、エンヤ、キャロル・キング
■2004.3.27 morning 管理人 wrote
ひっきりなしに電話が掛かってくる、負けないくらいこちらからも電話する。
業務システムの稼動直後で、問題点や未解決事項が後から後から発生している。
30〜40才台の数人のSEと、この初老一人のやりとりは能力的にも体力的にも辛いものがある。
私が”電算”に関わり出したのは50才を超えたころからこの4〜5年だ。
最初はオフコンのデータベースソフトをいじっていて、リストやデータを作成したり更新することの楽しさを憶えた。
データベースはワープロや表計算などと違い馴染みが薄いが、これを憶えると俄然仕事に使える。
たとえば顧客リストの管理とか、台帳の年度の更新など基幹業務はすべてDB(データベースソフト)で組まれている。
役所で言えば住民基本台帳や納税台帳、統計業務など殆ど全てだ。
色々個人的に仕事を組んでいたら、員数少ない職場、いつのまにか電算業務の主になっていた。
電算業務の主だからお前が職場のHPを作れ、お前しか出来ないと煽てられHPを手がけた。
20才そこそこの自分の息子より年少のWeb講師に手ほどきを受け、殆ど大脳フリーズ状態で憶えた。
余勢をかって昨年個人的に能力開発センターの”リナックスでのHP作成講座”を密かに受講したが、これはチンプンカンプンで未だに物になっていない。
気合だけでは無理なことが分った。
昨年業務のシステムをオフコンからWindowsのシステムに組替え、ネットワークをWebを利用する方式に変えることになった。
事前の準備がほぼ1年続いた。
このプロジェクトに各部門から5名の担当を選び準備・検討を進めてきたが、一人二人と脱落し、結局私一人でやる羽目になっている。
業務システムはDBの概念とWebの組み合わせで、表計算の範囲ではついてこれないのだろう。
50才前後にDBに興味を持ったのと、無理やりHPを作らされたのが今の仕事への分かれ目だった。
しかし若いSEと付き合うのは辛い、彼らはPM5時から俄然元気になる、その元気は深夜まで続く。
電話で一つの課題を打ち合わせるのに1時間でも2時間でも受話器を離さない。
私は最初の10分位で既に頭は飽和状態、後は彼らの喋ることに少し受話器を遠ざけて相槌を打っているだけ。
彼らの攻撃は私の携帯電話まで及んでいる。
所詮私の提案より、彼らの対案の方が正解で妥当なのだから。
私はこちらの勝手な事情を伝えるだけの役割に徹している。
こんな近況で、平日は仕事を終えた後、自宅ではキーボードの前に座る気力を使い果たしている。
ほっとため息が付ける休日は貴重だ。
今朝は AM4:30に起きた、ヨーヨー・マーのバッハの無伴奏チェロ組曲を鳴らしながら書いている。
このアルバムは普段は私の”お昼寝”用としてお気に入りの1枚だ、18曲あるが大抵は10曲目ぐらいで心地よい昼寝に。
農闘委さん、お互いいい歳ぼちぼち頑張ってやりましょう。
  
■2004.3.23 morning 管理人 wrote
昨晩、妻が階段を駆け上がってきた。
「貴方、安田講堂の番組をやってますよ!」
テレビをつけると佐々 淳行氏がインタビューに応えていた。
安田講堂の攻防戦が鮮明な画像で流されていた。
さすがマスコミ、映像記録は素晴らしいものがある。
途中で中年の男性のインタビューに変わっていた。
攻防を当事者として語っていた。
攻防2日目、機動隊が入ってきて彼は何故かホットしたと語った。
ああ、これで終われるんだ・・・と言うような事を言って言葉が途切れた。
頬を涙が伝っていた。
何を思い出したのだろう。
当事者でしか分からない「思い」だ。
私にはあの涙が分かる。
  
■2004.3.22 night 管理人 wrote
東・南海地震の番組を見ていて思い出した。
阪神大震災から10日ほど後、ある団体の救援物資を搬送する事になった。
車両はトラック2台、救援物資を満載していた。
救援物資を贈る団体の長以下5名。
深夜出発し高速道路をひた走りに走った。
途中料金ゲートは全てフリーパス、地元県庁で発行してもらった災害救援の通行証を見せるだけで全て通過できた。
兵庫県に入ると対向車がまばらになり、やがて対向車は全く無くなり、前後も走行している車が見えなくなった。
真っ暗闇を2台のトラックだけが走行している、不気味だった。
遠くに料金所が見え、その手前に車止めが並べられている。
近づくと此処で高速を降りてくれと誘導された。
降りて高架横を走ると、コンクリートの巨大な構造物が横たわっていた。
後で倒壊した高速道路だったことを知った。
少し行くと前方の視界をさえぎるものが無く、ストーンと闇が続く風景が続いた。
これも焼失した町並みだという事を後で知った。
未明の4時過ぎ兵庫県庁の直ぐ傍についた。
夜が明けるまで其処で待機するため車を止め、エンジンをかけたまま暖をとっていた。
近くの建物から人が現れ、被災者が寝泊りしているのでエンジンを切ってくださいと言われた。
配慮の足らなかった事を痛感した。
陽が昇り救援物資を引き渡した。
県庁の担当者が、災害の情況を視察していってくださいと自転車を用意してくれた。
県庁から近くの元町、三宮を周った。
倒壊した教会、くの字型に倒壊したビル、今でも脳裏に焼きついている。
兵庫県庁に帰ると、地元兵庫の代議士がお礼に来ていた。
救援物資を贈った団体の長が、自分の娘が関**院大学に在学しており、震災直後から実家に戻らせていると談笑しているのを横で聞いていた。
私だったら子供は絶対神戸に留まるように言う、学生体一つあればいい、被災者のためどんな事でも手伝えと言う・・・、と心ひそかに思ったものだ。
昼過ぎから帰路に着いた。
中国自動車道まで北上すると良いですよとアドバイスを受けていた。
大通りに出ると道路は車で一杯、車道に入る事さえ困難な状況だった。
神戸の繁華街を抜けるのには数時間は掛かりそうだとあきらめていた。
大通りに入る信号の手前で待っていると前の車のドライバーが”先に行け”と手招きし避けてくれた。
うれしくて胸がジーンとしてきた。
先に出るとまた両側、先の車が手招きをして道を空けてくれる。
2台のトラックは前と横に災害救援物資と書いていた、それに他県ナンバーだ。
殆ど苦労なく神戸市街を通り抜けれた。
神戸市民は、恩義にはマナーで応えてくれた。
  
■2004.3.22 morning 管理人 wrote
昨夜早く寝たので案の定早朝目覚めた。
コーヒーミルでカリカリと豆を挽きたてたコーヒーは香りが良い。
昨日は海の帰り、オーディオアンプを買いに店に寄った。
十数年来使っていた愛機のSONYのプリメインアンプが鳴らなくなってしまった。
初代ラックスのアンプからかぞえて3代目、30年で3台だから物持ちは良いほうだと思う。
四代目は何にしようと思案していたがショップでデノンという耳慣れないブランドが目に入った。
店の方に聞くとDENONと言う。
それなら知っている、音も気に入ったのでそれを選んだ。
アンプは重さが値打ち、フウフウ言いながら車から降ろし接続した。
ラックスやSONYよりも明るい抜けの良い音質だ。
最近寄る年波で、音楽の好みが”昔がえり”している。
クリームにバーズ、コルトレーンにロリンズ。
車中で聴いてきたビーチボーイズがこのアンプで気持ちの良いように鳴る。
もう少し渋めの音質が良かったかな、とも若干後悔。
メールを開くと昨夜出したメールに返事が来ていた。
大変な御仁だ。
プライバシーのため詳しい事は書けないが。
当時医学生で第2次BUNDの真っ只中におられた方だ。
一時”戦旗社”の記者もされてたと言う生粋のBUNDだ。
自己紹介変わりに亡き田宮高麿さんへの弔辞をコピーペーストして送ってきた。
私の地元にもこんな御仁が居たのだ。
近いうちにお会いしようと思っている。
多分生粋の全共闘とピュアーセクトは合わないだろうと思うが。
  
■2004.3.21 night 管理人 wrote
久しぶりに海に向かった。
マリーナまではハイウエーを20分、一般道を20分。
どんより曇った空模様、気分を変えるにビーチボーイズのサーフィンUSA。
乾いたカルフォルニアサウンドが車内に響く。
アクセル全開、ヤット145kmまで。
私のくたびれた4WDではこれが限界。
でも何時に無く気分は爽快だ。
小気味良いエイトビートのサーフィンサウンド。
乾いたエレキギターのサウンドが私の気持ちを軽くする。
うねりは少し、微風の1m。
4時間ほど海上に居た。
ふとしたことで生粋のBUNDだったという地元の2歳年上の方と繋がった。
結構一方的なセクトへの思いのメールをしたためた。
かつてほんの一時期だが、渡世の義理でBUNDの一派と行動を共にした。
その時の思いを、随分経っているからいいだろうと恨み半分書いてみた。
私を兵隊としてしか扱わなかった”恨み”だ。
一年ぶりの海、今日はさすがに疲れている。
  
■2004.3.19 morning 管理人 wrote
今日もまた残業だ、仕事が繁忙を極めている。
35歳の方からメールを頂いて返事が一週間以上も滞っている。
全共闘のその後に対する素朴な質問だ。
私(達)が全共闘をどう引きずり、何を思い、時代をどう感じ今まで生きてきたのか聞かれている。
結構重たい質問で即答しかねている。
このページを開いてから時間が経つにつれ、世代を代表した言動をしなければという変な自意識に陥っている。
自分の思いだけを語ればと書き綴ってきたが、色んな方々とコミュニケートするなかで何かを背負ってしまったようだ。
ホームページで書き綴る事に「日大全共闘」の看板の重さを感じるようになった。
この看板が異世代に与える「強烈な先入観と威圧感」を良くも悪くも感じてしまう。
こんな思いを持ちだしてから、思うように文書が綴れなくなった。
この35歳の方に返事が書けなくなった。
■2004.3.7 morning 管理人 wrote
昨日は自宅で半日溜まった仕事をしていた。
年が明けてから、業務システムがWebを利用した方式に変更された。
そのシステム変更の責任者もしている。
自前のサーバーを運用し、ケーブルでつなぐ端末で仕事をする方式から、データ処理会社のサーバーを介して、インターネットを利用して業務端末を結ぶ方式だ。
世の中めざましい変化だ。
端末を特定し接続にセキュリティーガードを掛ける予定だが、システム稼動直後のためどこの端末でもIDとパスワードさえあれば業務システムに繋がる。
昨日は自宅で業務システムに繋ぎ、仕事をこなした。
会社の場所、セクッション、仕事の縄張りなど、今後大きく変化をしてゆきそうだ。
夜はまたレンタルショップへ出かけた。
かつて余りにも有名すぎて買っていないアルバムをごそっと借りてきた。
リー・モーガンのザ・サイドワインダーはJAZZ喫茶のテーマソングの様な曲だ。
キャノンボール・アダレーのサムシング・エルス、物悲しいトランペットの”枯葉”は余りにも有名。
マル・ウォルドロンのレフト・アローン、マルは晩年のビリー・ホリディーの伴奏をしていた、ピアノの右側で歌う亡きビリーを偲んで綴ったアルバムで心に沁みこんで来る。
ウイントン・ケリーのケリー・ブルー、これもJAZZファンなら誰もが知る曲だ。
   
がらっと変わって、単純明快なロックの古典クリーデンス・クリア・リバイバル(CCR)のベスト盤。
クリームのカラフルクリーム(1967)と2枚組みのライブ盤(1968)、若きエリック・クラプトン、ジンジャー・ベーカー、ジャック・ブルースのシンプルでブルージーなロックの古典だ。
バーズのミスタータンブリンマン(1965)はT社の車のCMのバックに今でも流されている。
全部あわせて10枚のCD、妻のレンタルカード支払いで借りてきた、呆れられるのと一緒にムットともされている。
でも、まだまだ借りるつもり。
■2004.3.6 morning 管理人 wrote
朝から天気が目まぐるしく変化する。
晴天かと思うとにわかに突風が吹き、みぞれが混じる。
咲き誇ったクリスマスローズが痛みやしないかと気が気ではない。
昨日、久しくレンタルショップに立ち寄った。
CDコーナーが増えている、何気なく入った。
おや!っと気が付いた。
コルトレーン、ウェス・モンゴメリー、ソニーロリンズもある。
次のコーナーに行くとクリーム、キャロル・キング、オールマン・ブラザーズ・バンドまであるではないか。
チョット待て、以前来たときはこんなの置いてなかったはずだ。
私は洋楽CDが10年前ぐらい前だったかレンタル禁止になってから、ほとんどCDレンタルは利用した事がなかった。
今のJポップで好きなアーチストは椎名林檎と矢井田瞳、中途半端な奴は好きじゃない。
私はレンタルカードを持っていない、明日借りにこようとワクワクする気持ちをこらえて帰途に着いた。
また青空が見えてきた、空気が澄んで爽やかだ。
ジョン・コルトレーンの「至上の愛」「マイ・フェイヴァリット・シング」「ブルートレイン」、キャロル・キングの「つづれ織り」、オールマンブラザーズバンドの「フィルモア・イーストライブ」、ウエス・モンゴメリーのTHE
INCREDIBLE JAZZ GUITAR、ソニー・クラークのCOOL STRUTTIN の7枚をレンタルしてきた。
妻にレンタルカードをレンタルして借りた。
   
レコード盤のコルトレーンは納戸に眠っている。
CDから流れてくる久しぶりのコルトレーンのサックスが呻いている、泣いている。
30年前が蘇ってくる。
次はヤード・バーズ、クリーム、ジャニス・ジョップリンのライブ盤も借りてこよう。
若い方は多分知らないだろうから、レンタルの競争相手がいないオジサンの世界だ
、万歳!!
■2004.3.5 morning 管理人 wrote
朝日新聞の今日3月5日の朝刊に、立川自衛隊官舎にビラをいれ3名が逮捕拘留され6ケ所が家宅捜査された一件に対しての社説が出ていた。
社説の内容は、市民が自分の意見を言ったり、集会を開いたりする事をためらいかねない状況を生むのではないかという”言論の自由”に対しての恐れを言っている。
内容は「立川自衛隊監視テント村」が出した公式の抗議声明とほぼ同じ内容だった。
天下の大新聞が、弱小の「反戦団体」の抗議文そのままを社説に引用するのはごく稀ではないかと思う。
それはこの事が、全ての反戦平和運動に対して行われた権力者の「恫喝」と理解されたからと思う。
だた、私の理解はもう一面がある。
弾圧は露骨であればあるほど、”抵抗勢力”は大きくなるという事を当局は傲慢にもわすれている。
自分たちの思い通りに出来ている権力者の傲慢が、一人ではか弱い者達をしたたかな抵抗勢力に育てた日大闘争の教訓を権力は忘れている。
■2004.3.3 morning 管理人 wrote
2月29日にホームページ友達からメールが入った。
立川の自衛隊官舎にポスティングをして3名の方が逮捕され、6ケ所が家宅捜索されている。
逮捕された方の中に、彼の知る方がいるらしい。
自分は何をしたら良いのかアドバイスを求めていた。
具体的なアドバイスは出来なかったが、私の掲示板に返答を書き込んだ。
「臆病でもいい、自分にできることを無理せず、できる範囲で」と。
逮捕された方たちは、証拠物件でパソコンも押収されているらしい、彼らのホームページも更新が止まっている。
彼らの仲間の掲示板が情報交換で使われていた。
その掲示板に激励のメッセージを書き込んだ。
多分、公安もチェックを入れている掲示板だと思ったが、承知の上でメルアドもURLも張った。
これで私のホームページも多分「公安」デビューしたと思う。
合わせて日頃お付き合いをしている幾つかのホームページにもこの「不当逮捕」について書き込みさせて頂いた。
ご本家「経闘委」は早速連帯の書き込みをしてくれていた。
反応の速さは元N大OBの特技だ。
反対に普段付き合っている方のホームページは反応が無い。
内容が内容だけに、仕方ないと思うのだが。
不当逮捕とか、家宅捜査とか物騒な内容は、日常生活のコミュニケーションではちょっと憚ったようだ。
多分「公安」デビューしたと思うので、以前から引きずっている著作権の懸案は一度整理した。
要はページを取り除いた。
ビラをポストに入れただけで逮捕される「寒い」世の中だから。
目を付けられるとどんな難癖付けられるか分からない。
■2004.3.1 morning 管理人 wrote
5年前の3月に兄が逝った、急性の心筋梗塞だった。
葬儀の前日が日大全共闘理闘委の30年目の同窓会だった。
兄は通信系電気会社F社に勤めており、過酷な勤務状態だったと義姉に聞いた。
終電車で帰る途中から左胸は痛んでいたらしく、帰路の坂道を何度も休みながら家に着いたという。
明日は医者に行こうね、と話して床に付いた。
朝、還らぬ人となっていた。
父にとって自慢の息子であったが、私にとっても自慢の兄だった。
兄の棺の前では「兄ちゃん」と声を上げて泣いてしまった。
父のときも、母のときも人前では泣くまいと堪えていたが、兄の棺の前ではいとも簡単に涙があふれてきた。
兄は妻や子どものために働いて働いて、逝ってしまった。
自慢の兄には3人の子どもがいた。
3人とも兄の遺伝子を引き継ぎ、それぞれキャリア官僚、研究者、医師になっている。
自慢の甥、姪たちだ。
下の甥が昨年結婚した。
結婚式の司会者は、慶事を配慮してか兄の事には簡単に触れただけだった。
私は型どおりのお祝いのスピーチを用意していたが、兄の事を意識的に避けている進行を不満に感じた。
スピーチでは、用意した祝辞はやめアドリブで兄の事を語った。
家族のために働いて過労で逝った事、兄との幼い頃の思いでも話した。
気がつくと新郎新婦が目を真っ赤に腫らしていた。
甥姪、義姉、実姉が泣いていた。
スピーチを終わり席に戻ると、妻がコクリと頷いてくれた。
もうすぐ命日、逝った兄と同じ歳になった。
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