■2004.4.19 morning 管理人 wrote
昨日のピースウオークに仲間が参加している。
早速その報告が来た。
日大全共闘のむしろ旗は目立ったらしい。
"叛逆のバリケード読みました。"
"ウワー、本物の日大全共闘が来た。"
"おじさんたち、何色のヘルメットをかぶったの。"
等々、若者達が旗の周りに集まった。
やがて、デモが始まった。
可愛い顔の機動隊と、並んで行進。
"君達の先輩方とは、その昔、何度もどんぱちやりました。"
から始まり、いろんな話をしながら歩いた。
写真も多数添付されていたが、うまく届いていない。
これは後日紹介だ(プライバシーは伏せて加工します)。
私も参加したかった!!
館林のつつじ(友人撮影)
■2004.4.18 morning 管理人 wrote
人質期間が短いせいもあるが、二人の表情には強い意志を感じた。
朝刊の二人の経歴を見て、なるほどと思った。
元々意志が強固な人物。
安田さんは元地方紙の記者、イラクの現状を取材をするため退職してまでイラクに赴いている。
驚いたのは、渡辺さんが元自衛官で習志野の空挺師団、急襲を任務とする最尖鋭部隊に所属していた事だ。
元自衛官という報道を見て、危害を加えられはしないかと心配していた。
しかし、元自衛官ではあるが米兵・自衛官人権ホットラインという民間団体の派遣で現地に赴いていた。
米兵・自衛官人権ホットラインの発起人の書き出しにはこう記されていた
「わたしたち一同は今回、ブッシュのイラク先制攻撃戦争・占領支配に反対する立場にたって、米兵・自衛官人権ホットライン」を開設することを発起しました。(2003年6月15日)
ブッシュの違法・非道・不当な戦争に参加させられる在日米軍基地米兵ならびに自衛官自身にとって直接な生命・生活・人権の問題について、兵士およびその家族からの身の上相談に乗り、耳を傾ける「人権ホットライン」の連絡センターは、次の通りです。
」
この方々をイラクの抵抗勢力が殺害するはずが無い。
何も危害が加えられなくて本当に良かった。
なぜなら、この二人は”抵抗勢力の味方”だったから。
今後、少なくとも彼ら二人は”抵抗勢力”から危害を加えられる恐れは無くなった。
私は彼ら二人はイラクに残留しても良いと思う、日本の”皆に迷惑”を掛けても。
流れ弾に殉職する危険は自己責任として仕方ないが。
とりあえず命を掛けてイラクの民の発行する”ビザ”を入手したのだから。
■2004.4.17 morning 管理人 wrote
クリスマスローズが盛りを越そうとしている時期、
家を建替えた時植えた3年目のバラに初めて蕾がついた。
我が家の庭をローズガーデンにしたいと丹精を込めて育てたバラ。
塀に這わせ伸び伸びと育っている。
心配していたように”人質”3名にバッシングが始まっている。
それもあろうことか政府がその率先をきっている。
3名は誰にも”侘び”を入れる必要はない。
世間で言う”謙虚さ”は、彼らの情熱を掛けた”志”を虚しいものにしてしまう。
何をしてもいい、人に迷惑を掛けなければ・・・・・・。
志を持った者達を説き伏せられないとき必ずこの言葉が使われる。
私達は、かつて人に迷惑を掛けてでもやり通す気概を持っていた。
人とのつながりを”迷惑”という言葉で片付けないで欲しい。
深夜に暴走する車とは訳が違う。
自分の生活が平穏であることで、ベトナムでどれだけの人が死んだか憶えているか、
日本が米軍の兵站基地になったのを皆忘れたのか。
■2004.4.15 noon 管理人 wrote
”えにしだ”さんから素晴らしいプレゼントがあった。
奇しくも「イラクに平和を」というWeblogを立ち上げたその夜、この事件がアルジャジーラの放送局から発表された。
今回の人質事件で、色んなネットワークを知る事になった。
私のBBSに色んな方々がメッセージを書き込んでくれている。
皆の必死の思いが伝わってきている。
一昨日12日、syuugorouさんが”えにしだ”さんからのメッセージの転載ということで、パリからのメッセージを書き込んでくれていた。
日本のマスコミのフィルターを掛けない生の情報だ。
このメッセージ、私も色んなBBSへ転載・書き込みをさせて頂いた。
昨日、発信元の”えにしだ”さんのホームページを訪問した。
私のHPとは違うインテリジェンス溢れる格調高いホームページ。
ウーンと思わず立ち止り、見入ってしまう”芸術作品”を見る思い。
リンクお願いのメールを差し出した。
今日の朝、BBSにチェックを入れると見事な英文のメッセージのサンプルが書き込まれている。
常々、外国のメディアに出したいと思っていた内容そのものが”英作文”されていた。
☆転載・転用歓迎。
☆同趣旨であれば一部割愛・改変も可。
まるで、私の意を汲むかのような英文メッセージがそこに書かれている。
早速、使わせて頂き アルジャジーラにメールした。
私には英作文の能力は無い。
中学校から始めて10数年、英語は必須科目で習わされたにも関わらず英作文は出来ない。
素晴らしいWebの友人ができた。
”えにしだ”さんに感謝する。
■2004.4.11 night 管理人 wrote
藪さんに教えていただいたアルジャジーラのホームページを、英語が分からないのに闇雲に開いてみていた。
トップページの右上、Aljazeera exclusive in pictures: というリンクを押した。
Fallujaという字があるので、今アメリカ占領軍が掃討作戦を展開している地のことだろう。
16枚の連続写真で出てきた・・・・。
そのうち、爆撃の犠牲になった幼子の写真が14枚。
この幼子に何の罪があるのだ。
決して日米のマスコミが伝えないこの戦争のむごたらしい現実を見せられた。
■2004.4.10 morning 管理人 wrote
8日木曜日、かねてからせっつかれていたWeb反戦共闘の謀議を嫌々持った。
私はあまり気乗りがしていなかったが、年長の’ピァーBUND’の御大が参加してくれるという事で、’遅れてきた全共闘世代’さんに俄然気合が入った経過だ。
元BUNDの御大がまとめ役なら、まあしょうがないか・・・・・という極めてテンションの低い動機である。
35年前にBUNDのある派のキャップに、兵隊に使われた苦いトラウマがある。
いい歳こいて又・・・、という思いもよぎったが。
でもWebなら私の方が大先輩だ。
Web共闘は遅れてきた全共闘世代さんの提案で、無料のWeblogを使う事に決めた。
共同管理が出来るWeblogを、彼が早くも準備していた。
いやはや彼の行動力はたいしたものだ。
タイトルはBUNDの御大を配慮し”反戦評議会”を冠すればと提案したが、二人ににべも無く反対された。
二人に「今更・・・・・?」といわれた。
ご時世に沿って「イラクに平和を」、「市民ができることからのスタート」というサブタイトルを冠した。
無料のWeblogなので容量は多くて10MB程だろう。
バカでかい画像さえ貼り付けなければ、テキスト原稿であれば相当量の書き込みが可能なはずだ。
私のこのページでも、画像を除けばテキストはほんの数MBしか食っていない。
よろしければ、ぜひ訪問下さい。
Weblogの初期設定が済もうとしていた丁度その時、妻が階下から呼んだ。
「貴方、イラクで大変なことが起きていますよ」
直ぐにTVのスイッチを入れると、目隠しされた三人の映像が飛び込んできた」
「イラクに平和を」、「市民ができることからのスタート」のWeblogを立ち上げたその矢先だった。
■2004.4.6 morning 管理人 wrote
昨日、仕事である総合病院へ立ち寄った。
院内売店の前を通ると、3〜4才位のパジャマ姿の女の子がおもちゃの前に立っている。
無心にそこにある幾つかのおもちゃを手に取っていた。
よく見ると頭髪は抜け落ち、殆ど残っていない。
幼子の病状がうかがい知れた。
10分後だろうか、用件を済まし売店の前を通り過ぎようとすると、店内から女の子の悲鳴のような泣き声が聞こえてきた。
店内を伺うと、レジ前で女の子がおもちゃを抱きかかえ泣いている。
「嫌だようーーー、これが欲しいよう、嫌だようーーー」
おもちゃが欲しくて駄々をこねている。
そばで付き添いの母親と店員さんが困ってなだめている。
それでもこの幼子は
「嫌だようーーー、嫌だようーーー、これが欲しいようーーー」
この子の為ならば、
何でも買ってやりたいだろう、
何でもしてやりたいだろう。
この幼子の辛い病気の事を思うと、いやそれ以上に辛い母親の事を察すると・・・。
見ていて、涙がにじんできた。
でも、何でも買ってやらないのも愛情なんだ・・・、そう自分に言い聞かせてその場を離れた。
■2004.4.4 noon 管理人 wrote
記事の見出しに、
日本初「良心の囚人」、アムネスティ認定
反戦ビラで逮捕の3人。
私の住んでいる地方紙に初めて”立川反戦ビラ”事件が報道された。
2月27日以来、37日も過ぎた今頃だ。
この事件3月5日に朝日新聞の社説に取り上げられた。
その後毎日新聞が報道しただけだ。
3月5日、私は地元の地方紙に「全国紙が社説にまで取り上げているのに、何故報道しないのか」と質問の電話をした。
応対に出た係員(男性)はあわてた様にストックの朝日新聞を調べている様子が電話の向こうに伺えた。
やがて受話器に出てきた係員は、「この事件については共同通信から配信がないので」と応えた。
係員に「貴方はその事件の事を知っていたのか」と聞くと、係員は「知らない」と応えた。
私の地元の地方紙はそれ以後、この事件について報道した経過はない。
アムネスティに認定されないと、重大な事と受止めないのだろうか。
否、今でも重大と受止めていない。
記事にはジャーナリズムとして、この事に関する論評を一切していない。
アムネスティが認定したという、その経過の報道だけだ。
週刊誌が発行停止処分を受けてとして、世間がひっくり返る程の騒ぎで「言論の自由」を報道し論評している。
方や、反戦ビラを郵便ポストに投函しただけで逮捕され、長期に拘留され、起訴までされている3人を国際人権団体アムネスティが、思想信条を理由に拘禁された「良心の囚人」と認定するまでその事件さえ報道しない。
日本での「良心の囚人」認定は、1961年アムネスティの発足以来初めてという。
アジアではミャンマーの民主化指導者アウン・サン・スー・チーさんがそうだという。
権威に弱い新聞が、国際団体に指摘されやっと報道した。
共同通信の配信記事だから、多くの地方紙が報道しただろう。
やっと・・・、という思いと、マスコミへのますますの不信感が募る。
■2004.4.4 morning 管理人 wrote
学園紛争は、考えてみれば普通はサークルや、研究会が核になるのだが。
永い永い潜伏期には、そういう集団が根を絶やさず、陽の目を見ない不遇な時代を経てきている。
法学や経済、文理などではそういう歴史を持ち、そこからの出発点もあったと思うが。
暗い永い歴史を背負いながら、日大は急激な発症期を迎えた。
少なくとも日大理工学部の我が学科は純然たるクラス(学科)から、ゼロからの出発だった。
クラス会でのクラス幹事の報告から全ては始まった。
クラス会は小中学校で行われる「学級会」と思っていただければよい。
セクトの難解な主張をする者もいなく、きわめて幼稚(純な)な議論が主だった。
それでも幹事は、小中学校で教えられた手順をかたくなに守った。
クラスのほぼ全ての学友が理事会に対する憤りを持っていた。
だが、ストライキを確立するか否かでは意見が分れた。
30数年振りにピュアーセクトの御仁と親しく話す機会があった。
「僕らの出発点は自治会民主主義ですよ・・・」と話された事に違和感を持って聞いていた。
私達のやった事の過激さ、アナーキーさに比べ”自治会民主主義”という言葉の響きはすこし陳腐な響きだった。
2〜3日その言葉が頭から離れなかった。
”自治会民主主義”・・・・・ちょっと待て、私達が踏んだ手順こそ正にそれだったのではと思うようになった。
運動の過激さの陰にかくれて、その手順がイメージとして薄くなっていたが、サークルが、セクトが、”集団”としてクラスの意見を引き回すはことはなかった。
クラスの皆を駆り立てたのは”特定の集団”のアジテートではなく、暴力を使う理事会や日大生を打ちのめす機動隊への単純な怒りだった。
襲われ血みどろになった日大生を、同じ日大生として無関心に見て見ぬ振りは出来なかった。
そうだ、私達のとった手順こそ小中学校で教えられた、教科書通りの”自治会民主主義”だったのだ。
私達のとった”民主主義”と、世間で言う民主主義とどう違ったのか。
私は今も”個”に拘っている。
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