管理人日記 2004年7月 
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■2004.7.31  night  管理人 wrote

インターネットの世帯普及率は、2004年初めで42〜3%という。
しかし、2005年には、家庭へのPCの普及は現在のほぼ倍になるとの予測もある。
家庭でPCを購入するのに、表計算がどうのこうのでは無いだろう。
まず間違いなくインターネットの利用が目的だ。
となれば、インターネットの普及世帯は2〜3年で倍増するかもしれない。

私達、団塊の世代は微妙だ。
800万人を超す世代人口を有する私の世代。
インターネットに馴染めるか否かは、50歳が境だと言った方がいる。
確かに私もリミットぎりぎりで馴染める側に回れたが。
私の世代で仕事を離れ、今インターネットに馴染めているのはせいぜい10%も居れば良いほうだろう。

ホームページが”えにし”で繋がる方は、ほとんど会社のPCを使う方。
純粋に家庭のPCで、ご縁が出来た方は未だ少ない。
昨日ご縁が出来たご婦人は、PCに触った事もないという。
生活の中でインターネットを見ることは無い、とも仰った。
ホームページを作り、色んな方と繋がり、有頂天になっていた面があるが・・・、同世代はこれが現実だ。

おじさん、おばさん、お金は持っている。
もうすぐ定年になだれ込む、そうなれば時間もタップリ有る。
もっともっとハードもソフトも操作が簡易になれば、馴染めるリミットが60歳ごろまで伸びると思うのだが。


■2004.7.31  morning  管理人 wrote

「このまま何もせずに死ねるか!」
昨日、始めてあった御歳50のご婦人の言葉。
彼女、”安田純平”さんを講師に招く講演会を持ちたいと願っているとのこと。
政党や労組のコネクションを全く持たない市民派のようだ。
佐賀大学で持たれた安田純平さんの講演会のビラを大事に持っている。

イラクの人質事件が起きたとき、地元紙に何度も投稿したらしい。
けれど、ことごとく無視され没。
既成政党や団体、マスコミに頼らず出来ないものかと模索している。
Weblog「イラクに平和を」の私達の活動に、一途の望みを掛けて”接触”してきた。

話してみると面白い、目が光っている。
「若い頃は”トロツキスト”と中傷されたこともあるけど、違うのよ」
自然に進んだ話題で、ご主人を亡くされているとのこと。
ご主人は1949年生で、日芸(日大芸術学部)卒だったとのこと。
詳しくは聞かなかったがウ〜ム・・・、これは捨て置けないな。

でも彼女、携帯電話は持っていない・・・、パソコンは触った事が無い・・・
さあ、困った。


■2004.7.29  noon  管理人 wrote

遥か太平洋上を東から西へ進む台風、偏西風に乗るのでなく東風に乗って。
10年で5個の確率だというが、私の記憶には無い。
この週末は船に乗ろうと思っていたのに残念。
それにしても台風の影響か、やたら暑い。

友人の関わるホームページの掲示板が、執拗な荒らしあっている。
ついぞ覗いたことの無い掲示板だが、訪ねると確かにひどい。
友人の頼みもあり、側面から不意打ち攻撃を仕掛けてきたが。
私のなら即刻削除と投稿禁止設定にするのだが。
公共性を持った掲示板は、荒らしに合うと本当に弱い。

個人的な思い込みだが、掲示板で執拗な荒らしを仕掛けるのは、ほぼ男性。
それも、大概30歳代後半からから40歳代前半の男性だ。
女性の荒らしはあまり聞いたことが無い。
中傷攻撃して何が楽しいのだろう、いや・・・・・本人も楽しくないだろう。
書き込み時間は真夜中か昼過ぎ、昼夜転倒した生活時間の方に多そうだ。
溢れる失業社会も一要因かも。


■2004.7.27  morning  管理人 wrote

Carole King is good !
卓球の愛ちゃんの出ているCMで流れるBGMの歌声は、キャロルみたい。
久しぶりにアルバム「つづれ織り」を聴きながら通勤。
私のお気に入りは「Will You Love Me Tomorrow」

Tonight you're mine completely
You give your love so sweetly
Tonight the light of love is in your eyes
But will you love me tomorrow

Is this a lasting treasure
Or just a moment's pleasure
Can I believe the magic of your sighs
Will you still love me tomorrow

Tonight with words unspoken
You say that I'm the only one
But will my heart be broken
When the night meets the morning sun

I'd like to know that your love
Is love I can be sure of
So tell me now and I won't ask again
Will you still love me tomorrow
Will you still love me tomorrow
Will you still love me tomorrow
Will you still love me tomorrow

ハスキーが掛かった声で、切なく歌う”歌姫”
1971年にリリースされたアルバムは、2200万枚販売されたという。
’70年代、私達に「癒し」のメッセージを贈ってくれた名盤だ。

キャロル・キング、オフィシャルサイトへ


■2004.7.26  night  管理人 wrote

「看護学院の諸君が街頭デモに参加したのは、もっと前のことと記憶しています。
`69年11月,佐藤訪米阻止闘争で消耗しきっていた時、殺された早岐やす子/ 赤ん坊をおんぶして逃げ回った、中**子/ 浅間山荘直前、軽井沢で逮捕された伊**子達と初めて会いました。
日比谷公園の集会だったと思います。
その時はまだ、京浜安保共闘とは無縁であったと思います。」

医学部・高等看護学院運動史について、水産学科闘争委員会行動隊さんが補足をしてくだっさった。
メールには三人とも実名で書かれているが、”総括”された早岐さんは故人であり実名で、あとの二人は伏字にさせていただいている。
もっともインターネット上では実名の記述が至るところにあり、プライバシーの配慮も虚しい面があるが。

水産学科闘争委員会行動隊さんは、この7月18日、個人的に早岐さんの37回忌の弔いをされたと経闘委のBBSに書き込みをしていただいている。
弔いは、higashiさんが運動史を寄せてくれる数日前の事だ。
これを偶然というのだろうか、二人は37年後期せずして彼女たちを思い起こした、偶然だ。
彼女たちに縁を持つ、数少ないお二人の偶然だ。
私は些か遅きに失したが、37回経って初めて彼女の冥福を祈る。


■2004.7.25  morning  管理人 wrote

医学部年表の表題について

編者から寄せられた当運動史の表題は「日大医学部運動史」という題が付けられていました。
「見出しの"白衣の天使"は 私の言葉ではないから直接はかまいませんが、ここらあたりの論争も当然通過しています。
それで運動の論理ではまずいことはあらかじめ承知しておいて下さい。
聖職者論とかになります。 それから白衣デモは日共はしていますが、私達は止めました。白衣幻想とか大学なら「象牙の塔」、「専門バカ」とかになります。(編者higashiさんmail)」

私の希望で、日大闘争では語られる事の無かった日大高等看護学院の名前を表題に付け加えさせていただきました。
日大全共闘の闘争の最高揚期には登場することなく、70年も半ば、いわば全共闘の大半が闘争の挫折に打ちひしがれている時期、’70.6.23に彼女たちは登場したと運動史は記しています。
彼女たちの一部は京浜安保共闘、連合赤軍へ行ってしまう訳ですが。その事のセンセーショナルな一面もあり、全共闘の仲間のうちで表立って語られる事はありませんでした。
医学という産別の特殊性もあるとは思いますが、同じ学園民主化に立ち上がった彼女たちが”総括”という凄惨な渦中に身を置いたのを、私は無関心ではいられない思いです。
日大闘争はその規模、問題性の深さゆえ体制・権力にとって許されないない局面まで行ってしまいました。
仲間の多くはその思いをそれぞれ胸にしまいこみ学園を去っていきました。
彼女たちは学園をパージされた後、皆も知る壮絶な経過を辿る事になります。

全共闘の皆、彼女たちの事を忘れないで欲しい。

6月、浅間山から望む夕焼け


■2004.7.25  morning  管理人 wrote

昨日は珍しくボランティア抜きで自分のためにデンギィーに乗る。
クルーザーはボチボチ乗っているがディンギィーはほぼ三年ぶり。
昨年の今頃は50肩の絶頂期、日常生活にも事欠いていたが。
左肩も何とか不自由せず動かせるようになったようだ。

**さん以前と変わりませんよ!
海上であったヨット仲間にこう声を掛けていただいた、うれしい。
風は微風の南風、ときおり2〜3mに上がる。
ハイクアウトすると簡単にヒールがつぶせる、軽量の私には限りなく心地よい風力。

  イメージ 管理人ではありません

昼飯は海水浴場近くの”飯屋”へ。
海水浴場にはおしゃれなレストランも幾つかあるが”飯屋”でキリンラガーの瓶ビール、ここらあたりがすっかりオヤジだ。
飯屋からマリーナへは1kほど、途中のレストランでカキ氷を、隣席にはまぶしい水着のお嬢さんたち。
やっぱり夏は海だな。

昼からは矢張り体力不足、少し沖だししたが適当なところで帰港。
後始末の体力も残しておかなくては、以前後始末で熱中症になりかけた経験がある。
炎天下、遮るもののないディンギィー置き場での後始末は艤装の解除から清水の洗艇まで1時間ほどかかる。
セールの格納には結構な体力がいる。
この体調だとこの夏あと何回かは来れそうだ。


■2004.7.20  morning  管理人 wrote

higashiさんが「日大医学部運動史」を編纂し寄贈してくださった。
higashiさんは1960年代から1970年代、首都圏で医学部に在籍し、多くの大学の医学部の闘争に関わりを持たれておられた方。
Weblog「イラクに平和で」で偶然親交を持ち、当時の思い出を話す中で「それじゃ私の出来る範囲で日大医学部の運動史を編纂してみましょう」と仰っていただいていた。
それから少し経って、私が忘れかけたころ「懸案の歴史を送ります」とメールで送ってこられた。

医学部はどこの大学でも特別な学部、エリート意識の高さなのか孤高の存在。
私はそこに全共闘が存在したことも知らなかった。
ましてや看護学校の「白衣の天使」たちが民主化に立ち上がったことなぞ、35年経ったこの1月水闘委行動隊さんの投稿で初めて知ったお粗末さだ。
投稿を見たとき、パソコンの前で涙がこぼれた。
年寄りの涙もろさもあるが、日大全共闘の光もあたらず、仲間にその存在すら知られることなく民主化闘争を闘った日大看護学院の「白衣の天使」達のその後・・・、切なく辛かった。

雪原をさまよった赤ん坊は東大の看護婦に守られ、その後成長した経過をhigashiさんは医学部の仲間としてご存知だった。
プライバシーのため、今は33歳になる赤ん坊のその後はここでは伏せている。

higashiさんのコメントと水闘委行動隊さんの1月の投稿を以下に転載する

higashiさんのコメント
全日本医学生連合からみた日大闘争です。戦後、普通の学校として再建されるはずの大学が古田体制に染まってゆく。古田への戦いは同じような境遇の関東の私立医大の学友には理解出来、格段の同情がありました。自治会の基盤は弱いなりにありましたから、むしろもっとも過酷な運命を強いられたのは日大看学生たちでした。将校としての養成されるものと使い捨て兵員の差でしょうか。医師の看護婦に対する当時の意識は学卒の「学士様など手元で使えない」というものでした。
1970年6月、自分達の旗を持って始めて明治公園に現れたキラキラした彼女たちと、その後の浅間山荘に至る歴史は涙が出る物語です。最初にこちらに来ないかと声をかけなければもう少し違った運命となっていたのではと悔やまれます。
●1970(昭和45年) 6月23日 全都の看学共闘単独200で戦う。日大看学初参加デモ。(明治公園から日比谷公園まで)

水闘委行動隊さんの投稿
子守革命 投稿者:水闘委  投稿日: 1月24日(土)03時10分32秒
30年前の連合赤軍関連記事で、『子守革命』というのが有りました。生まれたばかりの赤ん坊をおんぶして、雪原をさまよう、新米看護婦の記事でした。新聞か週刊誌かは、覚えていません。それは、赤軍からの脱出行でした。赤ん坊の母親は、総括と言う名で、虐殺されていました。そして、彼女の看護学校の同級生も殺されていました。その他多くの、同士であったはずの人たちも、しかり。この事実は、あの銃撃戦の数週間後に発覚した。1971年3月、『白衣の天使拒否宣言』なるビラを最後に、音信不通となる。彼女とその同級生達は、全共闘を名のることは無かったが、民主化闘争を立派に闘った。
日大高等看護学院に関わる、微かな記憶よりーーーーーーーー

今日付けでアップロードしています、ご覧ください。


■2004.7.19  noon  管理人 wrote

暑いので気晴らしに庭中に散水した。
立ち木にも勢いよくホースで水を浴びせかける。
木の葉からポタポタと水が落ちてくると、通る風も心なしか涼しい。
南側の立ち木には慎重に水をかける、通行人に掛かると大変だ。

我が家の両サイドは幸いにも住居が隣接していない。
一方は公務員宿舎の駐車場、少しぐらい枯葉が飛んでも、散水が飛んでも気に留めない。
もう一方の隣家、敷地は200坪も超える宅地で我が家との間に100坪以上の空間がある。
お蔭で、隣家との境界で気を使った事がない住環境。

夕方5時も過ぎて庭中に散水すると風に冷気を感じるが、さすがに昼下がりは殆ど気休め。
それに日中の植物への水遣りはかえって蒸散作用で草木が弱るらしい、反省。
駐車場に干していたセールもボチボチ乾いた。
水に浸していたライフジャケットやブーツもそろそろ潮が抜けた頃だ。

ヨット体験試乗、最後に乗せた24〜5才の若い女性。
海水浴場を出る頃、5分ぐらいで既に顔が蒼褪めている。
少しうねりがある、どうやら船酔いらしい。
防潮堤から少し離れたところまで出てから、「じゃあ艇を倒しましょう、海に入ると気分が戻りますよ」と言って強引に”沈”を実行。
海にドブンと落ち、這い上がってきたら少し楽になったようだ。

しかし、このままセーリングはとても無理と判断。
「舟からロープを垂らしますので、海に入って掴まっていてください」
海が安全な時はこれに限る。
艇は若い女性の大きな錘を引っ張りながら帰還した。

さあ、明日からまた仕事だ。



■2004.7.19  morning  管理人 wrote

強烈な太陽と、砂浜の照り返し。
かろうじて仮設のテントが直射日光をさえぎり、居場所を確保している。
ヨット体験試乗の受付コーナーには、いつもの見慣れた顔が並ぶ。
今日一日私の体力が持つだろうか・・・・・。

「父さん、サンオイルを持ってるかい?」、
次男坊が私に尋ねた。
この日差しでサンオイルなんて冗談じゃない、のん気な事を言っている。
「今日はサンオイルでなく、サンスクリーンのUVクリーム!」
次男坊は、「今日はすこし焼けたいの」との弁解。

次男坊はD大の新聞学専攻を卒業し、就職活動をして数年になる。
意固地に新聞社や出版業界を受け続けているが、なかなか芽が出ない。
教授に「ゼミの中でマスコミに拘り続けているのはお前だけだ!?」と、褒められたのかけなされたのか分からないがそう言われたらしい。
長男とは違う”しぶとさ”を持っているが、如何せん結果が出ない。

「面接で日焼けした顔は印象が良いだろう」、と言うのが次男坊の弁。
ああ!、そういう計算だったのか、
だから、久しぶりに海に一緒に行くと言い出した訳だ。
それでも親子三人の海は楽しい
次男坊は、UVクリームをほんの申し訳程度塗り、海にプカプカ浮かんでいる。

父さん母さん、兄ちゃんも当分お前さんのバックアップするからな。


■2004.7.19  morning  管理人 wrote

>あなたも帆船に乗れます!大阪市が建造・所有する帆船「あこがれ」は、1994年から広く一般市民の方を乗せてセイル・トレーニングを行っています。日本各地はもとより、グアム・フィジー・ニュージーランド・オーストラリア・インドネシアへ航海、そして2000年の世界一周と、これまでに地球を5周半以上航海したことになります。
Sail Training Ship AKOGARE ホームページより転載

夢のような話を聞いて、鳥肌が立ってきた。
県の教育委員会に勤める昔からのヨット仲間が、ヨット体験試乗会にプラリとやってきて空いてるディンギーに乗る前にこう話した。
「今知事まで行く企画の稟議書で、青少年の教育の一環として大阪市が建造・所有する”あこがれ”を自県でも実現したいと訴えている」。
現代の「海援隊」だ。

実は私も「日本丸や海王丸」のような帆船に乗ってみたい夢がある。
それもゲストでなく、チャントしたクルーで挑みたい。
「先生(彼は教職なので)、それは良い、夢があって無条件で良い」
とりあえず今はこの”先生”に頑張っていただこう。
大型帆船を支えるには停泊港や保守のインフラや、クルーをはじめとするスタッフなど大きな裾野が必要で、並大抵では出来る事業では無いだけに”夢”がある。
私の県の知事は何事にも意欲的だ、にべもなく却下する事はないだろう。
楽しい”夢”だ。

   大阪市所有帆船「あこがれ」


■2004.7.18  night  管理人 wrote

昨日、「お前の葬式には、俺は何があっても札幌から飛んで帰ってくるからな」
酒が入りだすと友は饒舌に喋りだした。
「何を言うか、俺の方が札幌へ駆けつけてやる」と切り返してやった。
私と友、どちらが早く死ぬか言い合っていた。

もうそんな歳になってしまった。
友は叔父の葬儀に帰省した、急な段取りで航空便は最高値の通常料金。
葬儀で帰省するのは「身内以外ではお前だけだ」「お前の葬儀は必ず駆けつける」と力説する。
それって、私のほうが早く死ぬって事だよな。

昼頃電話があり、夕方着くので飛行場まで迎えに来いとの事。
ハイハイ、いつも貴方はこの調子だ。
飛行場からは僅かなバス料金で連絡バスがあるのに。
友は元北大全共闘。

更に酒が入ってくると彼はいつものように言い出す。
「俺は人生、自分の好きなように生きてきた、お前はどうだ」
良くも悪くも”帝大全共闘”のプライドが見え隠れする。
全共闘なら日大も負けてはいない。
ほんの少しカラミ酒。

彼は、北大を出て帰省し、一時予備校の講師をしていた。
それから難関な公務員試験に合格し公務員になる。
それも4〜5年だったろうか突然辞めて札幌へ”帰る”と言い出す。
札幌に”帰る”と大学に戻ったらしいが、何を生業にしていたか定かでない。
暫くすると教授の伝手で大手生保会社に入社していた。
しかし40歳も半ばに支店長の職を捨て、自分で会社を興して現在に至っている。
会社は結構順調に行っている様だ。

彼は常に変化を恐れず人生を歩んできた。
惰性を拒み、変化する事で自分の人生を歩んでいる。
私は居続けること、変らない事で自分の人生を歩んできた。


■2004.7.16  morning  管理人 wrote

帰宅途中、空を見上げると青い空に真っ白な入道雲、やっぱり夏だ。
次男が帰省していて、久しぶりに家族が四人揃った。
何故かいつもは夜も更けて帰社する長男も帰宅している。
長男なりに家族四人が揃う事に気を掛けてくれているのだろうか。
矢張り家族は全員がいると和む。

  

妻が皆で食事に行こうと言い出した。
最近めったにないことだ、即決だった。
妻が助手席、息子二人が後部座席、この配置は20数年変わらない。
変わったのは、息子二人が後部座席で”プロレス”をしなくなった事。
今でもあの図体で、やってくれても良いのにと父さんは思うが、車が壊れるかも。

しかし、こいつら本当によく食う。
焼肉を次から次へたのむ、おいもう15人前だぞ。
それでも妻は野菜中心に食べている。
ダイエットの為なのか、それとも息子たちに少しでも多く食べさせたい”習性”がまだ残っているのか。

長男に「今度の休日、海は手伝えるか?」と聞くと、「大丈夫!」との返答。
珍しく次男も行くと言う。
息子二人と久しい海だ。


■2004.7.15  morning  管理人 wrote

暑い、暑い、とにかくモーレツに暑い。
夏はこうでなくちゃ。
家を建て替えたときに、車庫スペースをコンクリート張りにしている。
以前、我が家はうっそうとした”森”状態。
色んな虫に悩まされながらも、夏は結構涼しい家だったのに。
僅かなスペースだが、このコンクリートの照り返しは結構きつい。
都会は町中がこんなんだろうな・・・、お気の毒さま。

今度の休日はマリーナのある海水浴場のフェスティバル。
恒例のヨット・シーカヌーの体験試乗のボランティアにお呼びが掛かっている。
これがまた暑い、とにかく暑い、一昨年は危なく熱中症になりかけた。
パンツにライフジャケット、ゲストをキャビンに乗せ私は前部甲板に跨る。
青い海に真っ白なディンギー、絵になるがとにかく暑い。

    私の愛艇シーホッパーU

ディンギーはいとも簡単に沈(転覆)する。
私の持論は、「ディンギーは沈起こしの体験から」。
若いゲストだと、私は必ずこの”沈起こし”を体験していただく。
後で聞くと、皆が「沈起こしが一番楽しかった」と必ずおっしゃる。

要領は実に簡単、マストの上部を持って片方に体重を掛ける。
船はみるまに傾き横転する。
この時、乗員は見事に海に放り出される。
ヘタをすると横転したセールが上から覆いかぶさってくる、こうなると危険だ。
事前に、放り出された際の対処方法とリカバリーをしっかり教授させていただいてから実行する。

いくら事前に言っておいても、実際はパニック。
若い方はキャアキャアと実にこのパニックを喜ぶ。
海岸から何百メートルも離れた沖合いで、海に入る(落ちる)経験は貴重だ。
こうやって怖かった海が、船が身近なものになっていく。
頭も薄くなっているので帽子と、UVクリームを用意しておかなくては。 


■2004.7.13  morning  管理人 wrote

とだおっとせいさんの日記を見ていると心が和む。
息子さん二人をみる眼差しや、素っ気無い言い回しの中に、
父親としての優しさがじんわり伝わってくる。
二人の息子さんは優しい人間に育つだろう。

>兄は友達の意見を聞いた上で自分の意見を言えるようになったそうだ。これは俺より偉いかもしれない。勉強面では、小テストの再試をやると1回目より点数が下がるという。飽きやすいらしい。
>弟は・・・・・一つのことに脳髄を支配されたら、彼は容易に別のモノに思考を移すことができない。周囲に合わせず、マイペースで考え続ける。生活の中で困る局面があるかもしれないけれど、これは実はかなり凄いことだと思う
おっとせい日記2004.7.9より無断転載です、御免なさい)


実は我が息子二人の取り合わせも、おっとせいさんちと同じなのに驚いた。
我が家の長男は、協調性に富み器用だが”根気”に掛ける。
それに比べ、次男坊は我慢強く根気が続くが、いかんせん反抗心旺盛で生き様が”不器用”だ。
同じDNAなのにどうしてこうも対照的なのか。
それとも父親は、息子二人の性格を対照的にデフォルメする傾向があるのか、と思う。

次男が高校に進級した春休み一日目だったと憶えているが、朝起きると彼の頭は金髪。
妻がオロオロすると、彼は「僕が金髪で誰に迷惑が掛かるか?」と毅然としている。
春休み最終日に、誰に言われること無くヘアダイで髪を黒く染めなおし始業式に登校した。
約1ケ月程後、ツートンカラーになった頭で学校の指導を受けそうになったらしいが。
この次男坊、喫煙で2回の停学、夜間俳諧で警察に一回補導、出席不足の留年イエローカードは卒業間際まで出続け、大学受験よりも卒業を最後まで心配し続けた。

彼は進学校でツッパリ続けた、私の自慢の息子だ。
おっとせいさん、息子二人は楽しいよ。



■2004.7.12  night  管理人 wrote

久しぶり、明るいうちに職場を出た。
西の空、濃いグレーの雲の上に夕日が赤くツートンカラーのようになっている。
もうそろそろ梅雨明けかも。
ロッド・スチュアートのしゃがれ声のバラードが車内に流れる。
ウ〜ム、feel so good !

この休日で脳内ストレスが大分回復した。
朝から気分が良いのは昨日の自民党、共産党揃っての劣勢、これも効いている。
何が「わが党はいつも正しく、間違わない」だ。
そうやって何時までも”独善的”な主張を繰り返してるがいい、スターリン主義者どもめ。

共産党の候補者は、何故皆が皆”語り口”がああも同じなのか。
優しく、語り掛けるように、全員が全く同じ口調で物を言う。
民主党候補を応援したタレントの5分のアジテーションが、どの共産党候補の1時間の演説より説得力があることが分からないようだ。
かつて私(達)を突き動かしたメッセージ、
メッセージする力を、かつても今も共産党・宮本一派は失っている。

元BUNDの御大は日本共産党に理解を示すが、私は違う。


■2004.7.12  morning  管理人 wrote

>共産党は・・・・自衛隊と天皇制を当面容認する姿勢を打ち出すなど「ソフトイメージ路線」をアピールしてきたが、有権者には“本質”を見抜かれていたともいえる。生き残りに向けて党内から「先祖がえり」を求める声が強まる可能性も否定できない。(産経新聞)

小泉さんも安部さんも、やり過ぎた。
過ぎたるは及ばざる如し、とは諺だ。
過ぎれば必ずリアクションはある、今までだったそうだった。
しかし、リアクションで世の中変わったためしはない。

民主党の集票は、プロ筋では既に織り込み済みらしい。
民衆の動態をマスで読みきるプロもいるからだ。
こんな選挙祭りの経緯では、民衆の反戦・平和のうねりは湧き上がってこない。
押し寄せるようなうねりは決して予測できないからだ。

共産党はもっともっと衰退すればいい。
これは敵愾心だけからいっているのではない。
日和見主義と、独善主義に毒された組織は一度完膚なきまでに解体すればいい。
産経のいう「先祖がえり」を標榜する分子の登場を期待する。
それは日共=日本共産党・宮本一派の矛盾を露わにし、解体を意味するからだ。



■2004.7.11  afternoon  管理人 wrote

もうすぐ梅雨明けだそうだ。
夏が来〜れば思い出す、「平和行事」
何故、春や秋、冬でないのか。
米軍が無差別兵器を我が日本に使用したのが夏だからだろうか
真夏が敗戦記念日からなのか。
日本人の戦争への思いが夏に”凝縮”しているのか。
それとも役人の段取りが行事化してきたからだろうか。
私はへそ曲りだから”行事化”した事は好きでない。

私の夏は人並みに海だ。
ヨットを始めてかれこれ20数年になる。
30才半ばに始めたヨット、上達は既に遠の昔に諦めた。
それより楽しむ事、それが目的。
その間国体も経験したが、クラブ内では年長者故に色んなお役が回ってきた。

ヨットは見た目の華やかさのため、海の色んな行事にお呼びが掛かる。
4〜5年前にあった話。
ヨット連盟の公式レースの観覧艇にボランティアで動員され、ティラー(舵)を握っていた(つまり船長さん)。
観覧に乗ってきたのが、国際交流員をしているというイタリア娘2名、通訳らしい女性はそれじゃといってソソクサ下船した。
30分もレースを観覧していたろうか、こちらは英語は少々でもイタリアンはまるで不可。
身振り手振りももどかしい。

船上は照り返しもあり見た目とはまるで反対、猛烈に暑い。
一人の娘が盛んに何やら私に訴えかける。
もう一人の連れの娘が彼女に「oh crazy」と返しているのだけが分かった。
ヨットは浜の海水浴場まで2〜300mの位置。
どうやら海に入って泳ぎたいと訴えている。
船長さんの返事は、当然「no !
すると彼女はライフジャケットを指差し貸せというジェスチャー。

やにわに彼女は着ているものをその場で脱ぎだした。
上着にパンツ、当然下はTシャツの様な下着にショーツ姿。
ライフジャケットを付けてスターンから海にザブンと飛び込んだ。
連れの娘は、両手を上げて「oh crazy!」という例のジェスチャー。
船の周りを無邪気にキャッキャッ喜びながら一時泳ぎ船に上がって来た。
船長はバスタオルを持って待機したが、ラテンのノリには脱帽。
ピッタリ濡れた下着姿はご想像に任せる。

選挙は済ませたよ。

 



■2004.7.10  night  管理人 wrote

午前中、伸び放題だった庭木の剪定に精を出した。
ここんとこ仕事はシステムの検証作業。
ほぼ終日エアコンを効かせた部屋に籠もりっぱなし。
朝から晩までパソコンと睨めっこ。
汗をかく事がまずない。

着ているものが搾れるほどの噴出す汗。
シャワーを浴びると実に爽快だ。
人間やっぱりこうでなくちゃ。
芙蓉の紫が鮮やかに咲き出した。

昼からはフリーズした頭のリカバリー。
レンタルショップでCDを3枚。
サラ・ヴォーン、ロッド・スチュワートのバラードベスト、それにお決まりのオールデーズベスト盤。サラ・ヴォーンの芯のある”サマータイム”はビリーとは一味違う。
ロッド・スチュワートの”セーリング”は最高だ。
3時間ほどボリューム全開で音のシャワー。
デジタルフリーズの頭がアナログに融解してゆく。

やっぱ、明日は選挙に行こうかな・・・・・。

  rod stewart


■2004.7.10  morning  管理人 wrote

それじゃ又、と言って帰って行った。
我が職場に一週間居続けたSE二人、最後は東京行きの夜行バスに飛び乗った。
その間徹夜を挟む連夜の深夜残業。
最後、私の気力・体力は切れていた。

システム移行の最終段階に入っている。
不備な箇所が次々と出てくる。
明らかにバグであるもの、初期の打ち合わせ不足から来るもの。
彼らが会社と連絡を取りながら、一つ一つ修復していく。

午後になると、私の頭は殆ど機能していない。
目から、耳から入った事が見事に頭から抜けていく。
そんな頭が午後5時を過ぎると、少し働き出すから不思議なものだ。
どうやら、彼らの活動パターンに慣らされてしまったようだ。

さあ、年齢相応の早寝早起きモードへリカバリー(?)させなきゃー


■2004.7.6  morning  管理人 wrote

ネットワークコミュニケーションが難しいのは、Weblogで身に沁みたのだが。
今度は職場のPCがネットワークに繋がらないトラブル。
ネットワークのトラブルはどこも嫌がってサポートしてくれない。
「サーバーの管理者に相談したら?」と、どこも冷たい対応。
サーバーの管理者って誰だ?・・・、私の事か。

2日間すったもんだの末やっと繋がった。
マザーボードのリカバリーにファイアーウオールのソフトが入っていたらしい。
パソコンにデフォルトでインストされていないソフトをパソコンのリカバリーの際入れてしまった事が原因だった。
私に分かれと言うほうが無理だ、ショップに持ち込んでやっと原因解明。
この2日間のパニックが嘘のように解決。

民主党の選挙の勢いが良いらしい。
私の妻は「隠れ小沢ファン」らしい、さもありなん。
この層が動くと世の中が動く。
今や民主党の顔は鳩山・管ではないし、岡田さんでもない。
一般大衆の小沢さんへの期待が湧き上がっている、小沢さん大変な事になっているよ

小泉さん、安部さんはやりすぎだ。
拉致問題をここまで選挙に利用する、
なし崩しの海外派兵に多国籍軍、
私のような”札付き”人種でなくても、反戦スイッチにスイッチが入る
いくらなんでも、という思いが募る。



■2004.7.4  afternoon  管理人 wrote

今日は朝、妻が久しぶりに「姉さんところへご機嫌伺いに行こう」と言いだした。
妻と姉は仲が良い。
妻は、10才違いの我が姉を自分の姉のように接してくれる、あり難い、感謝している。
多分、昨日の私のこの日記を読んだのだろう。

姉は又一回り細くなっていた。
2年前胃がんを患い、手術以降抗がん剤を服用している。
しっかり者の、頑張り屋の姉が会うたびに細くなっている。
両親、兄を亡くした私に、姉は母のような存在だ。

姉は5年前、永い都会暮らしから夫の実家のある隣町に戻ってきた。
二人の息子はそれぞれ独立し、北日本、西日本に家庭を構えている。
長年住んでいた都下の住まいを売却し、夫と生まれ育った故郷に戻ってきた。
夫の実家はかつて広い農地を有する旧家、姉は朝は4時には起きて一反ほどの家庭菜園に精を出す毎日という。

家庭菜園はコスモスが繁殖している。
「こぼれ種でいくらでも出てくるのよ・・・」、なかば諦めの口調。
あれほど丹精を込めていたのに、体力の衰えが隠せない。
姉さん、どうか長生きしてくれ。



■2004.7.4  morning  管理人 wrote

職場の、同僚と私のパソコンがほぼ同時、見事にspywareにやられた。
インターネットを立ち上げると、英語のソフトウエアーのページが立ち上がる。
ご丁寧に、「ワーニング!、あなたのIPアドレスはスパイウエアに感染しています」、との警告ウインドまで出てくる。
無視して使っていたらメモ帳が起動しなくなった。
無料の駆除ツールを3種類ダウンロードし、スキャンしたが駆除できない。

そうだ!、パソコン専門店なら何かいい情報があるかもしれないと問い合わせた。
しかし、「今のところ有効な駆除方法はない」との冷たい返事。
ならどうすればいいのかと聞くと「再セットアップがベストな方法です」との答え。
ア痛ー・・・、再セットアップとは全部を入れ替えることですよね、
インターネットやメールの設定も、LANネットワークの再設定、プリンター、スキャナーやMO、それに私は職場のホームページの管理者、FTPソフトのインストとサイトの再定義も必要。
頭がくらくらしてきた。

一昨日、午後から作業を開始。
必要なファイルのバックアップや設定情報の記録に2時間ほど。
OSのインストールは30分位で思っていたよりはるかに簡単だった。
しかし私のパソコンはほぼ2年前の製品、ウインドウズのアップデートで重要な更新が60MBほど、50個も出てきた。
これにほぼ2時間費やし、終わったのは夜も8時過ぎ。
疲れきって後は明日へ。

昨日はおかげで土曜出勤、各種ソフトのインストと接続機器の設定に2時間ほど。
ネットワークプリンターの認識がなかなか上手くいってくれなくててこずった。
何やかんやで終わったのは昼過ぎで、始めてからほぼ一日コース。
昼からは同僚のパソコンに取り掛かった。
同僚のパソコンは、性能重視のショップブランドの高性能機、これがまたややこしい。
マザーボードのリカバリーってのは何だ?、メーカー品とは随分違っている。
これで又少し雑学が身についたが・・・。
インターネット社会に成ろうとしているのに、これじゃ先が思いやられる。


■2004.7.3  morning  管理人 wrote

6月中旬、東京で会った仲間の中に理工学部の1斗がいた。
私が2斗だから彼は1個後輩になる。
彼とは、私がページを立ち上げて直ぐにメールを交わした。
グーグルでページを検索すると彼のページが直ぐ出てくる。
同学部ということで親しみをもって話した。

自己紹介で高校時代のことも話してくれた。
私もホームページで知っていたが、普通は日大には来ない首都圏で有数の進学校だ。
生来の頭の良さか、差し出された名刺も日大卒には稀有な名だたる一流企業。
私が日大全共闘に拘ると同じくらい、出身高校の拘りを引きずっているのが分かった。
彼は高校と日大全共闘の二つの拘りを引きずっている。

私の姉は7歳年上の昭和16年(1941)生まれ、乳飲み子の時は姉に背負われあやされていたという、しっかり者の頑張り屋さんさんだ。
この世代は戦中派といわれ、本当に物のない時代で腹を空かせて育ったせいもあるのだろう、我慢強い世代だ。
進学校で、そんな姉に思い計ることがある・・・。

姉が高校三年の時、担任が我が家に訪ねて来たという。
岸首相から池田首相に変わる昭和34・5年、まだまだ庶民の暮らしには余裕が無かった時代。
後で母から聞いた話だが、担任は姉を是非大学へ進めてやってほしいと父に頼みに来たらしい。
姉は毎年T大に2桁合格者を出している県内トップの進学校に通っていた。
私が受験戦争に早々と砕け散った進学校だ。
その進学校で、姉の成績は学年でいつもトップクラスだったらしい。

父は、「弟たちが後に2人控えている、経済的に無理だ」というような事を担任に返答したらしい。
当時は何処も同じ、限られた経済力では男が優先された。
教育には理解があった父だが、父なりの辛い決断だったろう。
学校にしてみれば、姉は進学実績を稼ぐ貴重な駒だったのだろうが。
姉は反抗することなく、大学進学のチャンスを二人の弟に譲ってくれた。
地元の国立大という選択肢もあったろうに、大手銀行に就職し我が家の負担を少なくした。

兄は良いとしても、出来の悪いこんな馬鹿な弟にもチャンスを譲ってくれた。
1968年当時、姉は嫁いで京阪神に住んでおり、時折訪ねた。
当時パニックだった母と違い、優しく穏やかに接してくれた。
姉はどんな思いで必死に勉強し、そして大学に進む友を見送ったのか、どんな思いで馬鹿な弟を見ていたのか、姉さんには返せない借りがある。


■2004.7.2  morning  管理人 wrote

36年前の7月、夏休みを目前に控えた8日、バリケードストライキに突入した。
9号館空き地での集会後、デモ隊は1号館になだれ込んだ。
大学は学生の力を削ぐため、早々と夏休みを告示したが、その後200日を越すストライキになるとは誰も予想していなかった。
私はデモの後方をへっぴり腰でついて行った、もちろんヘルメットなんぞ被っていない。
1号館になだれ込むまで、まだ自分がバリケードに参加するとも決めていなかった。

周りには誰も顔見知りはいなかった。
実は学科にも友人といえる者はだれも居なかった。
全く唯の一人、田舎者の学生が恐る恐るデモについていった。
中ではヘルメットを被った見知らぬ学生がガラガラと机を引っ張り出し、正門にバリケードを組んでいた。
見よう見まねで私も2階に上がり机を引き摺り下ろした。

働いていると不思議なもので、一緒に机を担いでいると仲良くなった気分になる。
その晩から”全体会議”があった。
勇ましくヘルメットを被ってくる学生も居た。
早くから三崎町経済学部に出張っていた”先進的”学友だ。

私はこの間、バリケードに参加する事に誰の誘いも受けなかった。
全学連も民青も知らなかったし、羽田も佐世保も安保も関係なかった。
全体会議に出てくる仲間の意識はてんでバラバラだったが、これだけは一致していた。
大学は使途不明金を明らかにせよ
体育会は暴力を使うな

本当に、たったこれだけだった。


■2004.7.1  morning  管理人 wrote

闘争が敗北に終わった時、人はその後どういう生き様をするのか。
のちの時代の人たち、そして傍観者たちには興味の的だろう。
企業や役所に静かに入り込むもの、実家の家業を継ぐ者。
突然いなくなり、見知らぬ土地から便りが届いた者もいた、当てのない放浪の旅に出た仲間だ。
中にはセクトに入り、しぶとく闘争を継続するため地下に潜った者もいる。
日大は名だたる有名大学とは違う、除籍や前科を負った者のその後は皆厳しかった。

1971年、私は大学を放り出されしばらく東京でバイトを続けた。
埋めきれない喪失感をもって1972年の早春、生まれ育った故郷に戻った。
このとき以来20数年、全共闘の話は妻以外には口にする事は無かった。
故郷に戻ってほぼ一年、地元の役所に臨時職員で務めた。
仕事は単調、毎日ただ時間を潰すような補助作業ばかりだった。

仕事が終われば、ひたすら一人JAZZ喫茶に座り込む毎日。
職場とJAZZ喫茶、それ以外は自宅にほぼ引きこもりの自閉状態。
この時期、地元の女子大のサークルが知人を通じ”日大全共闘”について聞きたいと接触してきた。
喫茶店で会って話をしたが、私は殆ど喋べれない「失語症状態」。
女子大生、きっと私の事を腑抜けだと思っただろう。
何を聞かれてもア・・ウ・・・・の返答で、まともな会話にならなかった。

いつものように単調な仕事を終え、JAZZ喫茶に。
席は満席で、ウエイトレスが「相席で良いですか?」と、じっと目をつぶりJAZZを聞きほれている見知らぬ女性の前の席を指差した。
若い女性との相席を断るわけがない、相対で座った。
若い女性は少しして曲の切れ目、やにわに毛糸と編み棒を出して編み物を始めた。

JAZZ喫茶で毛糸の編み物。
当時のJAZZ喫茶の風景をご存知の方は少ないだろうが、薄暗い穴蔵のようなもの。
店内に流れるのはコルトレーンかマイルスか、それともミンガスだったか忘れたが。
私の性格で、若い女性とJAZZ喫茶で出会ったと言っても人は容易に信用しないが。
帰郷後、偶然だがまともな会話が出来た最初の”友”だった。

その妙な出会いをした友も最近は少し疲れ気味だが、30数年仲良く(?)暮らしている

 

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