管理人日記 2004年8月  
管理人日記トップへ戻る

 

■2004.8.30  morning  管理人 wrote

今日はこの夏最後の”夏期休暇”を頂いている。
9月に入るとシステム移行の最終段階、かなり忙しくなりそうだ。
台風が九州上陸を窺い、上陸後は一気に日本列島を縦断する予報。
チケットの営業に回ろうと目論んでいたが、相手も台風接近を控えそれどころではないだろうと自主的に中止。

昨日は海にも行けなく、午後から書店に。
いつも私は主にパソコンコーナー、マリンスポーツ、それからガーデニングコーナーの雑誌へ。
読書の習慣のない私には珍しく書籍のコーナーに、それも高尚な哲学書コーナーへ。
higashiさんが言っていたチョムスキーの本があるかなと見渡す。

4冊並んでいる、ページをめくるとウ〜ン活字ばかり、早くも頭の中が混乱状態。
裏表紙を見ると¥2300なり、かなり高い!
私の買っている雑誌は700〜800円、高くても1000円止まり。
雑誌は良く見れば半分以上が広告で埋められている。
チャントした書籍には広告ページが無いのだ。

紐付きでない文化と教養は、原価が売価なのだと再認識。
次男坊の脛かじりがなくなるので、文化教養費にも少し余裕が出てきそうだ。


■2004.8.29  morning  管理人 wrote

意外な事が面白い、少し不真面目だが。
女子自由形800m、アナウンサーのコメントがまた良い「これは大変な事になりました・・・」
予測できない事が起こるのが、人生面白いのだ。
野球ファンには申し訳ないが、長島japanが金メダル獲ったって別に面白くは無いのだ。

こじ付けはきついが、日大全共闘だってそうだ。
大学紛争が起きる(起こす)のは”偏差値”の高い大学や、医学部などエリートな学生集団。
如何にも学問は・・・、自治は・・・、平和は・・・、果てはこじつけた授業料値上げ反対などの争点。
フランスではソルボンヌ、アメリカではバークレー、韓国は高麗大学。
日本では誰が考えても、絶対起こらないところで学園闘争が勃発した。

日大は当たり前のことを言ったらブン殴られたところから始まった、それまでの永い鬱積が”一揆”に爆発した。
アホな日大生は、出動した制服警官を拍手で迎えた。
ブン殴った体育会系の学生を規制してくれる、と信じて疑わなかった。
こちらは素手で血まみれ、相手は木刀にチェーンを振り回している、誰が考えったて助けに来てくれたと思うはずだ。

今回「安田純平さんを招く会」代表世話人に担がせていただいた”ラジカルおばさん”
意外な所で”個人”がポンとミニ爆発している。
何も準備せずにオファーを掛ける人は珍しい、貴重だ。
私はこういう方が好きだ。
走る前に考える、走りながら考える、走った後に考える。
勿論、このオバサンも私も「走った後に考える」派だ。


■2004.8.28  night  管理人 wrote

携帯が鳴る、
ウッ・・・見慣れない番号、誰だ?
「私です、携帯買いました」
安田さんを招く会代表世話人のオバサンだ。
7月31日の日記にも書いたのだが、このオバサン携帯は持っていない、インターネットや電子メールはしたことが無い、情報社会に完全に乗り遅れていた。

安田さんの講演会が終わったら解約したらと、携帯を持つようお願いしていた。
週が明けたらペアで色んな団体を回ってみましょうとも話し合っている。
会場も仮予約がしているが、正式の予約に行かなければ。
時折、直ぐに連絡を取り合いたいことがボチボチ出始めている。
「発信以外、使い方が分からないのよ」と電話で仰るが、それでいいのだ。

金曜日は昼から休暇をとり、2つの団体を一人で訪問していた。
一つは地元の国立大の大学生協に行っていた。
若い方、大学生に来ていただくにはどうしたらよいか考えた結果、大学生協にチケットを扱っていただこうと考えた訳だ。
でも、生協は多分共産党色が強烈だろうな、いつもの抵抗感もあったが。

昼下がりの強烈な日差しが照りつけるキャンパス、生協は正門からはかなりの距離だった。
空調の効いた部屋で、パソコンにかじり付いている毎日、営業は久しぶりだ。
我が母校日大理工学部は、道路と校舎は1m足らずの歩道が隔てているだけだった。
さすが国立大、大木が青々と広がるキャンパス、グランドでは学生が黙々と練習に励んでいる。

生協事務室、私より一回り位若い専務理事さんは「よろしい協力いたしましょう」、
「学生がキャンパスに戻ってくる9月中旬以降に、再度チケットを持って来てください」と仰っていただいた。
キャンパスの強烈な日差しと、久しぶりの営業で少し疲れた。
そう言えば、30数年前この生協会館の前で民青の学生と激しく口論した事を思い出した。


■2004.8.28  morning  管理人 wrote

ウーロン茶一つ。
ジョッキに生ビール半分を残して次男坊は早々とノンアルコールを注文。
「兄ちゃん後は飲んでよ」
「お前なあ、こんな事じゃ職場の付き合い酒で困るぞ」、兄が弟に先輩面してお説教。
「いいもの、俺は断るから」

私の誕生祝と次男坊の就職祝いを兼ねて、妻が食事会をセットしてくれた。
店はレストランとはちょっと雰囲気の違う、少しイタリアンな”洋風居酒屋”。
長男がしきりに妻に尋ねている、「母さん、今日は飲み会なの、それとも食事会」
飲兵衛の長男にすると、会の主旨で飲み方が違うらしい。
妻、「今日は食事会!」

妻は久しぶりの一家の外食、嬉しくて沢山のメニューを注文する。
注文したメニューの半分ぐらいで私はもうお腹一杯。
食事会と言ったのにどうも長男は飲むほうに振っている、皿がなかなか空かない。
私が生ジョッキ一杯空け終わったところで、彼は4杯目、次男坊は未だ半分。

兄弟二人のやり取りを目を細めて聞いていたが、少し横槍を入れてやった。
「兄ちゃん、そりゃ〜お前の方が特別だ、今の若い奴は無理な付き合い酒なんかしないよ」
「兄ちゃんは希少種、いや絶滅種だな、弟のほうが普通だよ」
兄はマジになって言った。
「そうか、俺は会社の後輩に、お前ら付き合いが悪いと悪態をついていたが、俺はもうオヤジなのか・・・」


■2004.8.27  morning  管理人 wrote

次男坊が京都を引き払う準備に入った。
6年と半年、普通大学は4年だから滞在期間は1.5倍、その分親の脛も細った。
秋からは親子4人の生活。
簡単に嬉しいとはいえない複雑な気持ち、妻も同様な気持ちのようだ。

息子二人、どちらかは実家を離れた所で職に就き、離れていくだろうと勝手に思っていた。
その思い通りに次男坊は3年余り、ひたすら大都会のマスコミをチャレンジし続けた。
彼の頑張りは褒めてあげたいが、業界はそう甘くは無かった。
地元で決めた職も、マスコミと比べても遜色のない難関な職種、妻とも喜んだが・・・。
ツッパリの元ヤンキー息子らしく、バイバイと親元を離れていくと勝手に決めていた。

次男坊、早速兄のアッシー君をさせられている。
兄は仕事で飲む事が頻繁、夜中に迎えに来い、朝は会社に送れ、兄の無理難題に応じている。
ツッパリ次男坊も兄ちゃんに対しては従順そのもの。
私は嬉しさ5分に、戸惑い5分。
妻は嬉しさ6分に、戸惑い4分、微妙な違いを見せている。

不思議なことに、庭の”くちなし”に又花が付いている。
これって年に二度咲くの?


■2004.8.25  night  管理人 wrote

今日は運転免許の書き換え更新に行っていた。
無事故無違反の”優良”ドライバーの私、新しい免許をもらったのは9時半。
私の職場は、免許書き換えに半日の特休(特別休暇)を下さる。
午前中の時間を有効に使おうと、安田さんのチケットを持って諸団体を”営業”して巡った。

とても複雑な心境・・・。
労働団体や平和団体を回ると、どうしても旧社会党系や共産党系とはっきり色が分かれていることが嫌でも分かる。
共産党系は概して好意的でフレンドリー、対して旧社会党系は少し距離を置いたような応対。
どうしてかなあ・・・・、と考えた。

私は個人で動いている、思い込みは強いが自分の意志を邪魔されるものはない。
しかし末端の共産党の一党員の方が、この「招く会」を自分の意思だけで果たしてできるだろうか。
やはり、しかるべき方の許可をもらうか、機関に諮らなければ動けないだろう。
自分たちがやりたくても出来ない事をしているので、彼(女)らは”好意的”なのか?

旧社会党系の方々はどうだろうか、
組織動員の”運動”に慣れてしまい、自分が一個人として動く事を忘れてしまったのか。
組織動員でもない一個人の呼びかけに反応する”感性”を既に無くしてしまったのか。
コネクションも面識も無い私の働きかけが”疎ましい”のではないかと勘ぐってしまった。

日大全共闘は突っ込む時でも、敵前逃亡する時でも、何時でも個人の”決意と主体性”だったよ。
古い言葉を思い出してしまった。


■2004.8.25  morning  管理人 wrote

よく考えてみると、世話人代表のオバサンしか、安田純平さんと連絡をとっていない。
オバサンは業界人ではないズブの素人、本当に大丈夫かな、という思いが及ぶ。
チラシは刷り、入場整理券は作り、会場のホールは予約を入れた。
しかし、これまでの準備は万一開催がダメでも、会場はキャンセルしチラシは廃棄すれば済む。
問題はいろんな団体・組織に助援をお願いして巡っている事、既に入場整理券をお願いしている所もある。
これだけは「済みません」では済まない。

昨日呼ぶ会のメンバーで、安田さんの携帯電話に電話を入れた。
日程の再確認である。
携帯電話は電源が切られ繋がらなかった。
今、ほんの少し不安な気持ち。

多分オファーは大丈夫と信じているが、体調やその他の理由で講演がダメになる事だってある。
その時は、集めた参加費はどうやって換えそう、使った経費はどう負担しよう、いやいやそれ以上に協力してくれた団体にはどうお詫びをしよう。
考えると結構リスクのある事を始めてしまった・・・、
でもやるよ。


■2004.8.22  morning  管理人 wrote

ダイジェスト版ながら、オリンピックレースを初めて見せていただいた。
セーリング470級、銅メダル!!!
お蔭で、普段は絶対に放映の無いヨットレースがVTRながらBSであった。
メダルを取るとこうも扱いが違う。
でもアナウンサーはルールを解説するので精一杯、内容は今一盛り上がりに欠けていたが。

私は30才台からヨットを始めたので470艇には乗った事がない。
社会人では学連(大学のヨット部)上がりの方なら経験があるだろうが。
この新艇は高い、200万円オーバー掛かるし、レース仕様のチューンアップをしようとすると湯水のように金が掛かる。
私のレーザー級艇と違い、この艇は大学か企業のクラブでないと維持できないレーシング艇。

最終第11レース、アメリカとイギリスの”マッチレース”の場面の放映があればもっと面白かったのに。
最終レースは、ポイントの関係で両国は順位に関係なく先にフィニッシュした方が金メダル、レースの中では全く別個の動きをしていた。
他のレース艇は全く関係無しに、2艇だけで相手を押さえ込む”マッチレース”を展開していた。

マッチレースはある意味面白い、技術に裏打ちされた駆け引きの塊のレース方式。
特にヨットレースでは、如何に相手を押さえ込むかで、ルールで許されるあらゆる手段を使う。
相手の反則を誘う仕掛け、時には観覧艇や審判艇をも利用し相手の進路を塞いだり、風のない所へ追い込む。
ルールが分かっていると非常に奥の深い、面白いレースなのだが、如何せん中継が無い。


■2004.8.22  morning  管理人 wrote

海に着くと予想外の晴天、既に仲間2人が艤装に掛かっていた。
10時ジャスト出艇、前週よりは足を伸ばし隣の隣町まで。
40才台の頃は、ディンギーの乗るといえば”レース形式”のセーリング。
如何に速く走るか競うセーリングが主だったが、今は流すセーリング。
風と波との駆け引きだけで精一杯だ。

南東の風、海岸沿いにやや後ろからのアビームで快調に1時間で目標の海岸の建物の前まで着いた。
途中防水ケースに入った携帯が鳴る。
昨晩、もっと広い会場を当たって見ましょうと言って下さった方からだ。
セーリング中、直ぐには出れない。
艇を風上に立て、風を逃がしながら慎重に携帯を取り出す。
返信電話を掛けると、「**教組です」と応答。
うわ〜ヤバイ!、ここって共産党バリバリの巣窟。
ついでに自画撮りを一枚。

  

1968年7月8日にバリケードストライキに突入した。
日大理工学部の民青のメンバーも一緒だった(らしい)。
7月終わり、彼らは理工学部一号館バリケードから総退去した、多分他学部も一緒だろう。
別にそれに関しては恨みは持っていなかった、私(達)にとって許せないのはそれからほぼ1年後だ。

バリケードを終われ、授業再開の攻勢が始まり私達は厳しい立場に追い込まれていた時期だ。
授業再開を推し進めてくる大学当局の後ろに、奴ら日共・民青はいた。
私(達)が血を流して勝ち取ろうとした”民主化”を、授業を再開し話し合いで進めて行こうと主張し授業再開に積極的に加担した。
そして、この間の運動の成果は、日共・民青が勝ち取ったものだとのたまわった。
1月足らずでストライキを撤収し、何万もの日大生が参加した集会、デモ、大衆団交にも一切出てこなかった奴らが「運動は民青が勝ち取ったもの」だと、どの面下げて言ったのだ。

単純な私には、許せることと、許せないことがある。


■2004.8.21  morning  管理人 wrote

私が今の職場に就いたとき、労組の方から活動のお誘いがあった。
全共闘の引きずりを持っていた私は、彼らに理解できない理屈でお誘いを断った。
労組は社会党色の強い大手単産。
お誘いを断ったにも関わらずノンポリらしからぬ言動、それ以後長い間共産党のシンパと受止められていた。
めんどくさいので敢えて否定もしなかった。

”疑い”が晴れたのは10数年たってから、労組関係の方の選挙を手伝った時。
今回の「安田純平さんを招く」乗りと同じ、根が単純な私、走るときは結構走る。
周りの方々は、選挙の助けで”走る”私を見て、とりあえず共産党でない事は納得してくれたようだ。
「助けてください」とお願いに上がった労組の委員長と組織部長、身を乗り出して趣旨を聞いてくださった。
「ウ〜ン・・・、こういう取り組みは平和運動センター(旧社会党系平和団体)がしなければいけないのに」、委員長が悔しそうに且つ好意的にポツリと言ったのが印象的だった。

先週土曜は寝過ごして、ゆっくりセーリングが出来ず少し物足りなかった。
今日は早くから起きて海に行こうと思っていたのに、うらめしい曇天。
でも海に出ると、1週間自分が活動的になるのがわかる。
潮風に当たるだけでもよい、オジサンはやっぱり海を目指すのだ。


■2004.8.20  night  管理人 wrote

吹っ切れた・・・かな?。
昨日、経済4闘の先輩からメールでこう言われた。
>共産党云々はこだわりをもたぬほうがいいと思います。
私たちは、全共斗の昔から共産党や右翼体連の一部(拳法部他)でさえ、ともにあり
ました。
昔、58年闘争の事を教えてくれたのは、当時現役の共産党員のOBでした。
その後の反戦闘争でも同様な立場でやりました。
もっともか彼らは、必ず裏切りましたが、でも裏切りは彼らの自由です。(最後まで
ともにやった者もいましたが・・・)

安田純平さんを招く会の年長者Gさんが、アムネスティー支部の会合に招いてくれた。
そこなら入場整理券も捌けるはずだと。
当地のアムネスティー支部の会員さんには、共産党色の強い方が多いと聞いている。
出来れば関わりたくないのが本音だが、お招きにのった。

受けた、とにかく受けた。
アムネスティーの会員さんが「会場が狭すぎる、もっと広いホールを」
「私も入場整理券を預かりましょう」と次から次に仰ってくださった。
拘りは捨てざるをえなかった。

朝一番にお願いに上がった労働組合でも、「安田純平さんを呼ぶには会場が狭すぎる」と言われたばかり。
共産党色の強い労組の書記をしているというアムネスティーの会員さん、「私がもっと広い会場を探して見ましょう」と協力を申出て下さった。
嫌な事に、段々と”バリバリの共産党さん”とのネットワークが広がっていく、どうしよう。


■2004.8.19  morning  管理人 wrote

昨晩は夜なべをして安田純平さんの入場整理券を作っていた。
厚紙を一枚一枚プリントする。
何となくその昔、ガリ版を刷っていた頃を思い出す。
安田さんの今までの講演会、何処もきちんと連絡先電話を表記している。
メルアドとURLの表記だけに制限した事、少し慎重で”日和見”かなと気に掛かる。

このまま何もせずに死ねるか!
”ラジカルおばさん”の一言が中年オジサン連を奮い立たせた。
有志年長者のGさん、共産党関係者にもチケットを売りに行くと宣言した。
「共産党が運営に入れば、俺は抜ける!」と早々と宣言していたが、チケット売り先が共産党なら仕方ないか・・・・・、と渋々妥協。
拘る私は偏狭なのか。

しかしこの”招く会”、何の策も展望も準備していない。
普通の”ラジカルおばさん”の一心な思い付きを、何も手を加えずそのまま実現したい。
何の恩義も義理もない、助けて下さいと声を掛けられただけだ。
私は名前も顔も一切表に出さない、ただひたすら自分に出来る事をする。
主役はこのおばさん一人で良い。

 



■2004.8.18  morning  管理人 wrote

昨夜は、安田純平さんを招く会の3回目の準備会を持った。
私を含め6名、皆髪が白いかハゲかかった(私だが)初老世代。
私は言った、「何故ここに若者がいないのか・・・・・」。
いい歳こいた6名が秘密謀議。

世話人代表の”おばさん”、己の実名も電話番号も呼びかけチラシに出すと言い張る。
私を初め殆どが、それは止めといた方が良いと説得。
イラク戦争、イラク人質事件は受止め方を2分し、どんな嫌がらせがあるかもしれない。
「正々堂々と個人名で呼びかけよう」という”ラジカルおばさんを、”日和見オジサン連”が何とか説き伏せた。

呼びかけ人は「安田純平さんを**に招く会」の団体名で、連絡先には電話でなくヤフーでメールアドレスを取得、ついでにライブドアで専用のブログホームページも立ち上げた
ここなあたりはネットを最大限に利用、如何にも若者主導という見掛けだが、言ったように実態は”オバサン・オジサン連合”。

この会合の前に、次男坊の就職試験の発表を見に行っていた。
中旬に発表という事でここ数日日参していた。
合格番号を手帳にメモし、息子に電話を入れた。
「お前の受験番号は何番だ?」、息子は今日発表があると思っていなかったらしく電話のむこうであせって受験票を確認しいている。
「何番だ?」、
息子は「父さんの方が合格番号を言ってよ」。
私は番号を読み上げた。

最初の試験が大学3年の早春から始まった。
大手新聞社、大手出版社、放送局と数知れず受験しことごとくコケて足掛け4年、丸3年。
頬はコケ、目つきも段々鋭くなってきた。
さすがに息子も参ったようで、今年はマスコミ以外も受けると妥協し、慣れない”受験勉強”に時間を割いていたようだ。

集団面接で仲良くなった東大生も一緒に受かっているという。
受かったら一緒に酒を飲もうと約束していたらしい、早速出かけていった。
気難しくツッパリで、おまけに下戸な息子が、何時のまにか”付き合い”を覚えている。
順調に行かず息子なりに苦労したこの3年間、彼には良い経験になればと思う。



■2004.8.17  morning  管理人 wrote

日記7・31に書いた、おばさん(失礼)パワーに敬服する。
彼女はめげていなかった。
フリージャーナリスト安田純平さんの話を聞きたい、この一心で彼と連絡をとり講演会の承諾を取り付けた。
日時、会場まで決めたという。

先日その彼女から電話があり、昨日夕方会った。
ここぞと決めて申し込んだ会場は、「政治的な会合には貸せません」と断られたという。
その会場はこじんまりしたホール、演劇や詩の朗読劇、ギャラリーに使用されており、反戦・平和をテーマにしたものも多いと聞いている。
普通の市民にとっては、リアルな人間のリアルな体験の報告会が”政治的”で、反戦・平和の演劇はそうでないらしい。
ここのホールのオーナーは共産党のシンパとの風評を聞くが、さもありなん。

しかしここまでこのオバサンが突っ走ると、サポートしない訳にはいかなくなった。
”興行”の総費用はさすがジャーナリスト、往復と宿泊に僅かばかりの謝礼でよいというらしい。
彼女、「何なら会場費も含め私一人で全て負担しても良い!」との決意。
其の上、世話人代表として個人名、電話番号の個人情報を晒しても良いという。
彼女こそ今の世の「ノンセクトラジカル」だ。
私は黒子に徹しサポートしよう。





■2004.8.15  night  管理人 wrote

昼、黙祷に合わせた様に大粒のにわか雨。
窓を開けていた車を気にしながら黙祷。
敗戦記念日か、それとも終戦記念日かはさておいて、おおくの方が犠牲になった事に黙祷。
何故、一宗教法人の靖国でなく”国立慰霊墓地”ができないのだろう。

雨が通り過ぎると、風が涼しい。
雲が高く、すこしだが涼しい風は秋の兆し。
そういえば赤トンボは8月初めに舞っていた。
今年は秋が早いだろう。

近くの清流の一級河川、毎年同じ場所で何人か水難の犠牲者が出る。
今年も中学生が早々と犠牲に、先週は二人目の犠牲者。
事故は毎年同じ場所で起こるのに、何の警告も注意書きも無い。
その度に我が家の上空を、災害救急ヘリがバリバリと舞う。
水難事故は自己責任なのか、ヘリの爆音が忌まわしい。



■2004.8.14  night  管理人 wrote

マリーナに着いたのは午前10時、少し出遅れた。
夕方からお盆の法事が入っている、タップリ海を楽しもうと思っていたのに寝過ごしてしまった。
艤装も急ぎ海に出たのが10時半、南東の風を受け西へ西へとアビームで海岸線に沿いセーリング。
舟足を伸ばすこと45分マリーナの隣町まで、距離にして3Km足らずだが.
引返して往復1時間半のセーリング、デンギィーはクルーザーと違い結構体力を使う。

風を逃がしながらデンギィーのキャビンから携帯で、舵を切り間違うと”水没”

マリーナに上がり少し時間があったので、いつもの飯屋で昼飯を。
いつもの通りキリンラガーをコップ二杯、オヤジはこれがたまらない。
帰路は飲酒運転だろう?・・・・・、これがそうでない。
炎天下、後仕舞いに小1時間、セールを収め船体を洗っていると吹き出るような汗。
少々のアルコールなんぞ、少しも残さず吹き飛んでしまう。

帰路は高速をかっ飛ばし、我が家に2時半着。
シャワーを浴び、服を着替え妻の実家の法事へ。
体も時間もタイトな一日だったが、火照る体が”もうすぐ56歳、年の割りに頑張ったなあ・・!!

アビーム:セーリング用語で艇の横から風を受けて走る帆走。風上に帆走するのはクローズドホールドという。



■2004.8.13  night  管理人 wrote

妻は同僚たちと飲みに出かけた。
「帰りは電話して来い、迎えに行くよ」と声を掛けると、にこっと嬉しそう。
次男坊は母方の祖父母の所へ、従兄弟達と泊りに行った。
彼は、幾つかの就職試験の結果待ち、けっこう辛い日々だ。
長男は相変わらず、何時終わるか分からない残業。

コニー・フランシスのアルバムを流している。
カンツオーネに似た彼女独特の情感豊かな”泣き節”、’50のサウンドだ。
私より一つ上の世代のアメリカンポップス。
ボーイ・ハントを聴くと、少し切なくなる。
久しぶりの独り。

 



■2004.8.12  noon  管理人 wrote

貴方は連合赤軍を擁護するのか
ここのところの連合赤軍に関する感傷的な言い回しに、厳しい指摘のメールをいただいた。
日大高看、早岐やす子さんの命日の黙祷。
大槻節子さんの手記本「優しさをください」の入手。
確かに連合赤軍に関する記述を続けている。

「私は連合赤軍を擁護していない」、と言い訳の返答を送った。
彼等の壮絶な経過は、哀しい気持ちはあっても擁護できるものではない。
ただ、私は彼等と同じ時代を生き、同じ空気を吸った世代だ。
人事として受け止めるほど冷静ではいられない。

集会で襲われ、血だらけになった彼等をつぶさに見ている。
彼等が投げた鉄パイプ爆弾が公園隅で破裂したときも、私は公園内にいた。
大菩薩峠で拘束された*大生とも痛飲した。
明大学館に居候していたとき、世話になった赤ヘルの多くが赤軍派に流れ、平壌へそしてパレスチナに飛んだ。
私達は”セクト”とは一線を引いていたが、彼等は私達のすぐ傍に居た、そしてとてつもなく離れていた。
感傷的になって申し訳ない。



■2004.8.11  noon  管理人 wrote

中核自衛隊、独立遊撃隊、祖国防衛隊、山村工作隊・・・・。
1950年6月朝鮮戦争が始まり、当時の日本共産党が1951年から”後方撹乱”のため行った武装闘争という。
革命を信じ人民軍たるべく武装し、地下に潜り、指令を実行した党員達。
やがて”極左冒険主義”の間違いとして、共産党から切り捨てられる。

お盆の休暇時期を迎え、閑散とした職場で一刻ホームページを閲覧していた。
昔も結構凄い時代があったのだ、私が小学校に上がるまでの数年間の出来事。
先日届いた大槻節子さんの「優しさをください」を読んでいる。
彼女達が山村を彷徨った時から20年前にも、時代は違うが良く似た事が起こっている。

でも違うのは・・・、
1951年の武装闘争の首謀者は責任を転嫁し、その後も素知らぬ顔で生き永らえた事。
1971年の連合赤軍は、今も修羅の道を歩んでいる。



■2004.8.9  morning  管理人 wrote

お盆の時期を間近に控え、朝の道路も空いている。
休もうかな、と思ったが惰性で出勤。
システムサポート会社も夏休み時期なのか、やたら「外出してます」と留守が多い。
仕事も少し”中休み”状態。

この機会に、かねてから放置状態の職場のホームページのメンテに精を出そうか、
それとも若い職員に、メンテ・管理を引継きついでいただこうか思案している。
業務システムのWEB方式への移行を始めてから、そちらに手を取られ更新は停止状態。
それでも殆ど苦情が来ないのは、まあ其の程度の評価なのかと自虐気味。
ホームページはとりあえず作る、という時代は過ぎたのか。
とりあえず作ったページなんかは、ネット上で埋没するのが運命。

荒らし行為を受けていた、友人の関与する掲示板。
助っ人参入で飛び入りしていたが、不意打ちの効果があったのかやっと収まったようだ。
友人はHP関係者で掲示板上で個人情報を晒している、個人攻撃を射掛けてくる匿名者とのやり取りは一方的に不利。
二人居れば二通り、三人居れば三通りの考えがある。
個人名を晒してのネット上での主張には、大きなリスクがあることを友人も肝に銘じなければ。

私も敢えて”匿名”で参戦・応酬したが、荒らし行為の一歩手前と自覚。
不意の助っ人参入に慌てたのか、相手は都度ゞにハンドル名を変えて、目くらまし書き込みをするので、モグラ叩き状態。
掲示板管理者にIPアドレスのチェック警告を要請すると、こんどはIPアドレスが付かない携帯電話での投稿と、最後の悪あがき。
また、其のうち息を吹き返してくるだろうけど、とりあえずジ・エンド。
若干反省。



■2004.8.8  night  管理人 wrote

遠くまでいったのはまさしく連合赤軍に参加した人々であった。
・・・そのうちの一人が大槻節子だった。
時代の列車から最後まで降りなかったからこそ、時代の極北まで駆け抜けたといえるのだ。

序文より、立松和平。

ロックアウト・授業再開と、時の佐藤政権の後押しを受けた一連の攻勢で全共闘は追い詰められていた。
浅間山荘に至る頃には、仲間の殆どは”パンク”していた。
早稲田の反戦連合が出した「遠くまで行くんだ」という機関紙(詩集?)に妙に共感した事を憶えている。
行き先の見えない状況で、行く先は”遠く”という言い表しにしか行き着かなかった。

本当に遠くまで行ってしまった連合赤軍。
最後まで列車を降りなかった者達、立松さんの言い当ては正にその通り。
アマゾンで注文していた本が今日届いた。

  パンク:消耗して潰れてしまうこと



■2004.8.7  night  管理人 wrote

ここんとこ欠かさず書いている、自分を褒める。
レベルは低いがとりあえず理数系、文書を書くのは苦手。
自分でも良く続いていると思う。
こんなことならもっと本を読んどけば良かったと、しみじみ思う。

昨日昔からの友人がフラリと職場に訪ねてきた。
職場は夏季休暇の消化で閑散としており、周りを気にせずゆっくり話せた。
彼は明大二部卒、重信さんや遠山さんとも面識があったと聞いている。
同僚には聞かれるとヤバイ昔話。

今日8月7日は母の命日、あれから丸15年。
父母とも私が40才の時に相次いで癌で逝き、それ以来親なし子。
8月の初め、納涼祭の打ち上げ花火を庭で孫と一緒に見せてあげた。
伴侶の延命治療をつぶさに見た母は、頑として治療を拒んだ。

我が家に戻って半年以上生きながらえた。
仕事を持つ妻には大きな負担が掛かった、感謝している。
ドーン・ドーンと夜空に上がる花火をにこやかに見上げる母、傍に孫息子、ウチワで扇ぐ私。
2日後、自分の布団で息を引き取った。
幾つになっても母は”恋しい”



■2004.8.6  morning  管理人 wrote

日大高看、早岐やす子さんの命日に関連ページを見ていたら、またしても”戸田おっとせい”さんのおっとせい日記に行き当たった。
以前、石川啄木の”ココアの一匙”でも同じ日記に行き当たった。
さすが元大手全国紙の記者、所感の幅広さには敬服。
これで二度目。

元記者、指摘の手厳しさには痛み入った。
>しかしながら俺は、この時代をリアルタイムで体験した人々が、半端な運動体験を若き日々の武勇談のように誇らしげに語るのが嫌だ。某塾の某講師のような同業者を含めて、生き残ったものが死者に与えられるべき花束を全て自分のもののような顔をしているように感じられてならないのだ。どうせなら山本義隆氏のように、一切を黙して語らず、墓場まで想いを持っていくつもりでいてほしい。(おっとせい日記 2003.4.26 無断転載)

しかし、何故か”カチン!”とこない、(私の事はさておいて?)その通りだ。
それは、私がおっとせいさんの日記の愛読者で、一連の日記の中で彼の思考に共感を持っているからだ。
「恐れ入ります・・・」とメールを出すと、真面目に返事を下さった。
> 僕の「武勇伝」に対する反発は、「その結果が今の日本ですか?」という問いが裏にあります。
「武勇伝」と共に、「なぜ負けたのか・後につながらなかったのか(つながったものがあるならばそれは何か)」を語ってほしいと、僕は全共闘世代の人たちに強く望みます。
(これも無断転載)

おっとせいさん、山本義隆さんが講師をされる予備校に通ったらしい。
山本さんの講義は履修していなかったらしいが、何度か授業にはもぐりこんだと云う。
>「山本さんを見に講義には何回かもぐったことがあります。ジーンズにTシャツやポロシャツを着て、関西弁で明快な講義をなさっていました。」(これも無断転載)

何故か素直に聞いてしまう。
16歳も年下なのに、年上のように思えてならない。



■2004.8.5  morning  管理人 wrote

先日、関東の友人からメールが届いた。
リストラされた上に自身も体調不良で鬱病気味、医者に掛かっているという。
家族にも病人を抱え、家庭は沈みがちな様子を伝えてきている。
簡単に”頑張れ!”と云えないところが辛い。

彼は、デモには主に傍らに付いてきたと憶えている。
私と違い自宅生で、親の手前かなり行動に制約があったはず。
たまにはヘルメットを被り、角材を持ってデモにも加わったが。
私達の云う”行動隊”よりは少し引いていた。
でも、当時からず〜っと仲間。

前回の同窓会が1999年の春、次は2009年のはず。
まだ後5年もある。
とりあえず、それまでは生き抜かねば、
仲間の顔を見ずに死ねるか。

理工学部一号館(今は無い)、四階正面には理闘委の旗がなびいていた

理工学部一号館(今は無い)、四階正面には理闘委の旗がなびいていた



■2004.8.4  morning  管理人 wrote

赤トンボが飛んでいた空が、今日は曇り気味。
昨日、妻が幼いころ我が子のように可愛がって貰ったという小父さんさんが亡くなった。
通夜は6時半からというが、我が家からは車で1時間半ほど離れている。
電話の妻の声は涙声だった。
連日の残業でクタクタの中年おばさんに、往復3時間の車の運転は酷。
「俺が運転するわ」と会社を少し早く退けた。

通夜の会場に着いたのは7時20分過ぎ、終わる間際だった。
実の父母以上に可愛がってもらったという80歳を越す小母さんの手を優しくさする妻。
私にはそんな相手が居ないので解らないが、
親子を超えた親愛ってものがあるものだと思った。

夕食は帰り道のレストランで。
妻と二人でレストランに入るなんて何年ぶり。
妻は生ビール、私はウーロン茶。
しみじみとした夜だった。



■2004.8.3  morning  管理人 wrote

朝、庭に出ると赤トンボが飛んでいる。
通勤途中、橋の上を赤トンボが群舞している。
私の記憶では、こんな風景は8月も末だったと思うのだが。
これから夏祭り本番というのに。
今年は、季節が半月以上早まっているのでは。

昨日は次男坊が珍しく酒を飲んで帰ってきた。
就職試験の2次集団面接で一緒だった7名で飲みに行ってたらしい、深夜12時近くに帰宅した。
誰か知人が居たのかと聞くが、初めて会った人ばかりと言う。
ライバル同士なのに珍しい事だ。

集団面接の一人に、東京生まれの東京育ち、東大卒の方が居たらしい。
次男坊の話によると、彼は祖父がこちらに住んでおり、本人だけこちらに移住してきたという。
集団面接では、こちらの生活のために受験した、とだけ発言し後は人の話をにこやかに聞いているだけだったという。
彼の積極性やヤル気、協調性を面接官はどう評価するのだろうか。
それとも学歴だけの評価なのか。

次男坊が就職戦線を闘って、早3年目の夏だ。



■2004.8.2  night  管理人 wrote

ヘルメットを被った君にもう一度会いたい
何処に居るのだ、君たちは・・・

TOKYOを去り、一年間以上
誰とも話さなかった、話せなかった
胸の思いにどうケリをつけるのか
どうしまい込むのか

36年経ったも、ケリが付かない
しまい込めない
ヘルメットを被った君にもう一度会いたい



■2004.8.1  night  管理人 wrote

1951年生の同志社大学「全学闘」の方からお便りを頂いた。
嬉しくなって、お礼の返事を出すと、また直ぐ返事を下さった。
>日大全共闘の闘いは、その戦闘力ゆえに私たちにとっては模範でした。正直のところ、東大全共闘よりも魅力的でした。京都における<京大ー同大>の構図と同じです。

もったないお言葉だ。
普通は関西<京大ー同大>の構図だとすると、関東<東大ー早稲田>が”同意語”だと思うのだが、そのラジラルさ故の大出世なのか。
でもホームページでも書いているが、単ゲバ至上主義派の私は関西学生運動の潮流には親近感を持っている。
色んな”えにし”があり、関西赤ヘルにも特別な思いがある。

代表取締をされている出版社のホームページに、老兵「全学闘」はこう書かれている。
>私たちは、いつまでも怒りを込めて振り返る世代であり続けよう。そして、若い 日々に、 あの場所で培った“武闘派”の精神を持ち続けたい。
 当時の理事長(故人)は、次のように歌った。──
「赤ヘルの学生おのがコートぬぎ 我に着せたり激論の中」(『同志社百年史』よ り)

やっぱ、関西はいいよなあ

藤本敏夫さん一周忌老兵関西赤ヘル軍団

トップページに戻る