■2004.9.30 morning 管理人 wrote
1968年9月の逮捕者、合計452名
9月 3日(火) 3名
9月 4日(水)132名
9月 6日(金) 34名
9月 7日(土)129名
9月12日(木)154名
1/452、が私だ。
これが日大でなければ組織は多分壊滅だが、この後の9月30日・大衆団交には娑婆に出てきたほぼ全員(多分?)プラス4万人が集まった。
私の逮捕といえばページにも記してあるが、思い出すごとに本当に格好良くない。
奪還に駆けつけた法学部バリケード前、隊列のまま最前列で座って待機していると校舎の左手から機動隊の姿が現れた。
私達は立ち上がり、角材を立ちかざし対峙した。
殆ど間もなく盾の後ろで指揮棒が振られ、機動隊が突進してきた。
ウム、と及び腰で後ろを見ると、後ろ一列ほどを残し隊列は崩れ皆は既に逃げ出している。
そりゃ〜ないよ!、と思ったが既に遅し。
角材を一度も振り下ろすことなく一目散に逃げ出した、行動隊の面目丸つぶれである。
しかし、よく考えてみるとおかしい。
この頃は「凶器準備集合罪」も無かったのでは、ただ校舎前でヘルメットを被り角材を持ち待機していただけだ。
格好悪いが、石を投げる暇も無く抵抗も何もせず逃げ出しただけ、公務執行妨害にはならない。
後ろから襟首を掴まれ、道路に押し倒され馬乗りされた、被害者は私のほうだ。
前後関係は捕まるだけの事をした覚えがあるが、捕まった時は何故捕まったのか今でも納得できない。
■2004.9.30 morning 管理人 wrote
通勤の途中、カーステレオでケニー・バレルのミッドナイトブルースを聴く。
小気味の良いフォービートのバレルのサウンド、なのに何故か涙がにじんでくる。
今朝、経済2闘から頂いたメールを思い出していた。
ホームページを開設してから今日で丁度一年、嬉しいことがあった。
先日の日記で、鹿砦社の松岡さんのホームページを紹介していた。
経済2闘から、松岡さんのホームページの写真の中に懐かしい顔を見つけたと便りを頂いた。
藤本敏夫さんの三回忌、加藤登紀子さんを真ん中に肩を組んで歌っている方々の中に見つけたらしい。
彼はその昔、傷心で京都を旅したという。
その旅先で、ふとしたことで知り合ったその御仁に、もてなしを受けたらしい。
何の義理も無いのに、彼へのもてなしは心温まるものだったと言っている。
その後、東京でも短いが付き合いは有ったらしい。
私信のメールを無断で転送するのはマナー違反だが、確信犯で彼のメールを松岡さんに転送した。
早速その日の内に返信が届いた。
そのメールにはその御仁の詳しい所在が記されており、「その情報は卒業名簿に載っているもので公開されている情報なのでお知らせします」と添えられていた。
私もその日の内に経済2闘に転送した。
その返事が今朝届いていたのだ。
電話を通じてだが30数年ぶりに再会したやり取りが記されていた、
経済2闘にとっては一生忘れない恩義を受けた御仁だ、無事生き永らえていることを喜び合った、と書かれている。
松岡さんと私のホームページを通じて、多分生きて会うことは無かっただろう二人が通じた。
私は人と人との繋がりが一番大事だと思う人間だ。
その繋がりで、喜び、悲しみ、力をもらったり、傷ついたりする、それが人生だ。
丁度一年、私のホームページも少しは人の役にたったし、同志社全学闘と日大全共闘は相性が良いと実証できた!。
継続性に欠ける私に力を与えてくれた。
■2004.9.29 night 管理人 wrote
1968年9月30日、両国の日大講堂で大衆団交が行われた。
一部のリーダーに委任し、当局と交渉するボス交渉を排し、全共闘は徹底して大衆による団体交渉に拘った。
日大全共闘の骨格は、徹底した全体会議によって成り立っていたと思う。
封鎖解除に対するバリケード死守も、緊急の全体会議で議論した。
残るも去るも、一切強制されなかった。
陽も暮れ、テレビやマスコミで大衆団交が報じられると、ぞくぞくと日大生が集まってきた。
一階は満杯になり、2・3階の観覧席も満杯になった。
決して誇張ではない、それを証明する当時の写真はいくらでもある。
後日、日大生4万人が参加と報じたマスコミがあると聞いている。
何度も言うが、決して誇張ではない。
日大は公称10万学生、静岡や福島県にも学部や校舎が散在する。
都下にいる学生の2人に一人が参加したことになる。
理事は、古田会頭を初め十数人は居たろうか。
講堂の見えない所には、心配して駆けつけた父兄会の方々も大勢居た。
私達行動隊はヘルメットを脱ぎ、角材を演壇前に集め最前列を陣取った。
学友の参加がピークになった夜半、余りの多さに講堂が倒壊するかもしれないと、2・3階の観覧席にいる学友に1階に下りてもらった。
元国技館の広い講堂は肩と肩が触れ合うほどの込みようだった、これも決して誇張ではない。
夜も更け、日付が変わる頃だったと思う、紙ふぶきが舞った。
戸惑いながらも、努めて冷静さを保つ書記局の仲間を尻目に、行動隊の単純な私(達)は狂気乱舞した。
これで教室に戻れると思った。
物心付いて僅か3ケ月、この頃は既に逮捕暦はあったが、まだ普通の学生に戻れる位置に居た。
私(達)は”革命”を目指していた憶えは無い。
明けて翌々日から、盟友・佐藤栄作のバックアップを受けて、古田は約束を悉く反故にしていった。
私達の前例を認めれば、燎火の如く全国に拡がり、治安を脅かしかねない危機感を栄作は持っていたのだろう。
そういう意味では、栄作の判断は正しかったと思う。
唯の異議申し立てが、私達の意図とは別に”政治”のレベルまで行ってしまった。
9.30大衆団交を敗北と総括しようが、勝利と総括しようが、
9.30大衆団交は、バリケードストライキと共に、日大全共闘が到達した最高の地平だったと思う。
皆!、異議なしだろう。
■2004.9.27 night 管理人 wrote
BBSにも書いたが、元同志社全学闘の松岡さんがよくメールを下さる。
私は自称BUNDファンなもので、生粋の元赤ヘル(広島カープじゃないよ)から便りを頂くと単純に嬉しくて仕方ない。
赤ヘルの聖地は、西は今出川、東は御茶ノ水と今も信じて疑わない(多分これは非難轟々だろう)。
日大のヘルメットでは、農獣医の赤ヘルが一番カッコ良かったし(これも非難轟々だろう)。
やっぱ俺はミーハーだな。
つい最近、その東の赤ヘルの拠点校、中大OBの方からメールを頂いた。
私より3才年下、安保闘争を目指して入学した時は、”時は既に遅し”と言うような内容の便りだった。
私の事を”勇気がある”と褒める一文が・・・、多分「恥にもメゲズ勇気がある」という意味だろうと返事をした。
直ぐに返事を頂いた。
法律事務所を開業しておられる弁護士さん、色んな思いを事務所のホームページに綴っておられる。
直ぐにブックマーク、お気に入りに登録した。
ホームページを開設してから、色んな方から便りを頂く。
今の所、開設当初気にしていたような嫌がらせのメールは来ない。
ページの内容が内容だけに、2チャンネル的なメールは相手が控えるのか、虫唾がはしって中に入ってこないのだろうか。
それとも、この思い込みの塊のオヤジは、からかっても仕方ないと無視されているのか。
人生、恥をかいて何ぼの値打ち、格好良くは生きられない。
■2004.9.26 morning 管理人 wrote
彼らはサンフランシスコ講和条約以後も、日本を軍事的に統治するため占領駐留を続けている。
彼らの銃口は北だけでなく、日本国民にも向いているのですよ。
以前に友人Nさんからこの様な持論を拝聴した。
この極論に抵抗感を感じない。
金曜サロンに集う年長者のGさんが、「左に振り過ぎた者は、右に転ぶ」と揶揄な表現をした。
何となく分かるような気がする。
日本が独立国家でないと感じているのは、左の端と右の端。
自分がかつてどちらに振ったのか、今どちらにコケているのか実はよく分からない。
昨年の今頃はこのホームページの原稿を摂り付かれた様に書いていた。
思い出した事を棒書きに書き殴っていく。
センテンスを繋ぎ、起承転結を綴ってゆくと、最初に言った事と最後の括りが違う。
自分で読んでも何を言っているのか悩むような文章になる事がしばしば。
ええいママよ、言いたい事を適当に、前後関係無く書けば良いと開き直る。
私の知能に見合った文章の長さに割り切ると、俄然筆が進む。
棒書き原稿は結構なボリュームになった。
素が棒書きだから、出来上がった文も当然棒書き。
これを自分の記憶に忠実に時系列に並べ替える、記憶だから時系列は多分に前後している。
パソコンのテキスト原稿はこれが実に簡単に出来る、パソコンがあればこそ、この”自分史”が出来た。
書く上で肝に命じた事。
・嘘は書かない(多少のデフォルメは許す)
・個人情報に関わる情報は明記しない
・業界用語は出来るだけ使わない
・断定的な主張は出来るだけ述べず、他者を攻撃しない
これって、”マスコミの倫理規定”のパクリではないよ。
本当に、書いていく上で思いついたことだから。
■2004.9.25 night 管理人 wrote
トップページの写真は、昭和44年2月10日発行の写真集「日大闘争」から借用している。
全共闘書記局発行だから、著作権については構わないだろうとの身勝手な判断だが。
最近、ネットサーフィンしていると、この写真が使われたページに2件行き当たった。
敢えてどのHPとは言わないが、全共闘を紹介する際に使っている。
2つともプロパティやトリミングが私と同一、つまり私の借用のパクリ。
私が版権者でないが、変な使われ方をされていなかった事もあり、ホットする変な気持ち。
1968〜1969年にかけての全共闘の事を伝え知らせるホームページはごく稀にしかない。
私がせっせとネットサーフィンするが、仲間の日大全共闘のページ以外に全共闘と冠したページは芝工大のページくらい。
でも芝工大はよく見ると*トロさんのセクト集団、全共闘といえば言えなくもないが私が言う全共闘とはちょっと違うかな。
でも別に謗ってるわけじゃ無いので、念のため。(ゲバられると*トロさんは怖いからな)
東大全共闘はかなり前に、山本義隆さんを中心に「東大闘争の記録」を編纂したらしい。
日大の仲間から昨年それを聞いた。
思いは墓場まで・・・、山本さんや秋田さんは黙して語らない姿勢を貫いている。
その姿勢は、後の世代の方たちからは一面無責任とも謗られ、非難も受けている。
私の様にペラペラ喋らないが、記録はデータベースとしてきちんと残し、国会図書館にマイクロフィルムで収めたと聞いた。
編纂された記録、国会に用の無い者にはまず目に留まらない。
学者の研究用に資料として残したのか。
やっぱり、日大と東大の闘争は根底のところで違っていたのか、という思いが今更に感じる。
丁度、今の季節。
トップページの写真はバリケード奪還の激動の9月。
中央、角材を持たず前を向いているメガネの御仁は私のベストフレンドMくんだ。
Mくんはページ「Mくん」で紹介している。
その右後ろにいるのは多分Kくんで、その周辺は理闘委の面々だ。
右側の建物は法学部校舎だと思うのだが。
私は何処に居る・・・?、
私はこのとき鉄格子の中で完全黙秘中、残念な事に歴史的なこのショットには入れなかったのだ!。
スタンゲッツ・ジルベルトのイパネマの娘。
ボサノバの鎮魂歌が流れる。
先程レンタルショップで借りてきた。
GETZ
GILBERTO the girl from ipanema rec 1963 new york
■2004.9.24 morning 管理人 wrote
妻にはどうしても”総括”が必要らしい。
次男坊の京都での7年間を、彼女なりに締めくくる思いが必要らしい。
「ねえ、京都にいきましょう」
「息子は直に還ってくるのに、今更何の用事があるの・・・?」
引越しも運送屋に頼んでいるし、その他諸々の事も息子に任せておけばよい。
次男坊ももうすぐ25歳になるのだ。
母親がのこのこ出て行く必要など、何処を探してもある訳無い。
大学在籍5年、プラス就職浪人2年。
当の息子本人以上に、彼女の心労が大きかった反動らしい。
この飛び石連休、妻は催しで休日出勤が続く、止む無く平日を一日つぶしての京都行き。
行き足は何にするか迷った。
結局は、昨年疲れで50肩の引き金になった高速を突っ走ることに、休み休み走れば大丈夫だろうと。
でもマイカーの良いところ、誰にも邪魔されずゆっくり二人の会話が出来る事。
楽しかった子育てなぞ、心置きなく話しながら行けばいい。
京都に着く、次男坊の出迎えは「あっ、そう、何で来たの?」相変わらずの反応。
晩飯でも一緒に食べようとバイバイ。
宿舎は御所の近く、同志社も息子の住まいもすぐそこ、3度目の馴染みの宿。
京都市内はバスが網の目のように走っている、近くの御所のバス停から何処でもいける。
平日のため銀閣寺は人も少なく静か、修学旅行の中学生の姿がチラホラで、団体の中年集団もいない。
休日であれば押し寄せる団体集団に飲み込まれ、駅の雑踏の様なはず。
何度も来るが、こんな静かな京都、銀閣寺は初めて。
柔かな小雨が降り心地よい、「これで紅葉してたら最高だね!」、と妻はしきりに感激している。
銀閣寺参道脇から続く哲学の小径、往く陰もまばらで妻と散策を楽しむ。
2日目は、金閣寺エリアへ。
バスに乗るなりかわいい中学生の集団、皆一日フリーキップを手にしている、どうやら子供たちも金閣寺を目指している。
私は父の転勤の都合で、中学の修学旅行は行けなかった。
転校した中学は既に修学旅行は済んでいた。
行けば京都だったはず、40年前の悔しさが今も残っている。
昼食は堺町三条イノダコーヒー店
もう凄い人並み、修学旅行、団体、欧米やアジアの方の集団、殆ど駅の雑踏で自分の意思と関係なくゾロゾロと進む。
金閣寺から北野天満宮までは徒歩で、ここで妻の本領発揮。
京都には菓子店が多い、道筋に店があると必ず覗き買い求める。
妻曰く「デパートに出店していない、こういう老舗が良いのよ」
北野天満宮には息子の祈願をしていたらしい、お礼参り。
私は神社・仏閣に手を合わせる習慣は何時ぞから無い、彼女だけ参拝。
宿舎近くの御所前バス停には、両手に大きな紙袋を抱えて降りた。
彼女の”総括”は、お礼参りの小旅行だったようだ。
哲学の小径
■2004.9.20 night 管理人 wrote
10月になると次男坊が還ってくる、7年目のご帰還だ。
先だって京都に戻るとき「父さん、還ってくるまでに僕の部屋空けておいてね!」
彼の部屋は不用品置き場と化している。
彼は戻ってくるたび、不用品の間で寝ていた事になる。
戦中派ほどではないまでも、戦後派世代の我が夫婦、物を捨てる事がヘタ。
あれも、これも、未だ使えると捨てずに取り置く。
特に子供の物は、衣類、おもちゃ、ノートに至るまで捨てずに大事に取ってある。
納戸はとうに溢れ出し、今や不在の次男坊の部屋も埋め尽くしている。
妻が、思い出したように何度も念を押す。
「貴方、これからもう送金しなくてもいいんだよね・・・」
長男坊から始まってひたすら、離れ住む二人の息子に10年近く送金を続けた。
「子供がいなければ、毎年新車のベンツが買い換えられる・・」、半ばやけ気味に同僚にぼやいたものだ。
辛いと思ったことは一度も無いが、庶民の生活レベルの我所帯、キツイ負担であった事は間違いない。
昨日は、終日JAZZのシャワー。
ビル・エバンスの「green dolphin street」、ポール・チェンバースとフィリー・ジョー・ジョーンズのギンギンの相棒二人。
ビートの効いたフォービートで、ビルには珍しい初めて聴くアルバム。
今日は不用品の選別に明け暮れ、とうとう2日間家から一歩も出なかった。
1959.1.19 rec
at new york city 「Green Dolphin Street」
■2004.9.19 morning 管理人 wrote
ケニー・バレルの midnight blue、デューク・ジョーダン、キース・ジャレット等々、探していたCDが並んでいる。
レンタルショップ、JAZZのコーナーが以前より隅に追いやられている。
でも、新たにブルーノートの廉価版シリーズが並んでいる。
名盤中の名盤ばかり、これは借りない手はない、一山ごっそりレンタル。
ギブソンのセミアコースティックギターがシンプルでブルージーな四拍子を奏でる。
でもこのサウンドには拘りがある。
バレルのセミアコは、徹底して刺激的な音域をカットするサウンドミックスをしている。
これはミニコンポで聴くと唯の気の抜けた音。
高音と低音域を誇張して誤魔化しているミニコンポでは、バレルのセミアコのナチョナルな心地良さは伝わってこない。
私のダイヤトーンが、心地良いギブソンの中音を再生する。
KENNY BURRELL midnight blue
この一週間結構真面目によく働いた。
よく働くと音楽のシャワーを浴びたくなる。
昔、デモの帰りにJAZZ喫茶に立ち寄ったものだ。
くたくたになった体で、高円寺のサンジェルマンで聴くコルトレーンのシャワーはよく効いた。
そういえば英国製のタンノイでJAZZを鳴らしていた無茶な店もあったが。
マスターの配信に障害が発生して、解決までほぼ一週間。
配信データの中に、データとして読み誤るスペースデータ(空データ)があり、通信が異常終了。
これを突き止めるのに、2つの電算会社が牽制仕合い3日程ロス。
システムの素人の私にニ社がジャッジを求めてくる、どうしろと言うのだ。
安田さんを招く会は、地元のNPO連絡会が、加盟NPOに広報してくださるとの事で、チラシをごっそり持参、あり難い思い。
連絡用のメールに自然食品のお店から連絡有り。
お店のホームページで紹介したいのでリンクを張らせてて下さい、との申し出。
早速、チラシとポスター、それに図々しくチケットも持ってお店を訪問。
奥でパンを焼いていた店長さん(と言っても一人だが)が、笑顔でチケットを快諾してくれた。
■2004.9.15 morning 管理人 wrote
私は教養が低いから、物事を推論したり、持ち合わせている自論で断定する事が不得意だ。
考える力はそこそこあるのだろうが、如何せん知識の引き出しが少ない。
ああ云えば、こう云う・・・、という展開が出来ない。
多分、人格形成期に書物を余りにも読まなかったせいだろうと思っているが。
そのため、直感で行動する”感性派”と偽って誤魔化す。
熾烈な”経験”は、誰にも負けないと自負しているが。
子供、幼児が犠牲になる悲惨な出来事が続いている。
親である私には、何とも表現しようのない出来事。
でも、少し気になることがある。
悲惨である事は言うまでもないが、時として”異常”という表現が使われる事。
特定の出来事だけならいいのだが、少し変わった事、あってはいけない事を何でもかんでも”異常”と表現する事。
台風か1個か2個多いと、今年は”異常な年”。
天気が少し不安定で、梅雨が少し長かったり短くても、夏に気温が例年より少し高くても、全て”異常気象”と表現される。
私が気に掛かるのは「今の世の中異常だ」ということが多用されることもあるが、
統計的に平均値に収まらず、平均値や平常から逸脱する事に、それこそ異常に拒絶的な反応を示す事。
世の中、平常を願い、穏便である事を願う方が大多数だろうが、
その昔から、非力な子供は色んな矛盾の犠牲になってきている。
戦争でしかり、経済的困窮でしかり。
子供達の悲惨な状況は決して変わっていない、何も今が異常な訳ではない。
10才足らずの子供が、カラシニコフ銃を持たされ、戦に駆り出されるのも日常として存在している
異常として目を背けず、日常の中にある事として受止める”感性”を大事にしたい。
■2004.9.11 morning 管理人 wrote
やっぱり予想した通り。
皆の表情が明るい、よく喋る。
会の雰囲気がこうも変わるものか。
昨日から、安田さんを招く会に若い仲間の参加があった。
大学3回生、国際関係学を学んでいる学生。
学究心からだろうか、それとも”ピース”なのだろうか。
私達の活動を聞きつけ、自ら参加を求めてきた。
早速、明日から大学構内で呼びかけの活動をしてくれるという。
彼女なりの目論みも隠さず語ってくれた。
安田さんの講演会の後、安田さんも交えて学生の”ワークショップ”を是非持ちたいと言う。
いいじゃ〜ないですか、オジサン達は異議なし!、だ。
どころで最年長のGさんが、おおきなボケをかましてくれた。
「ところで学生さん、そのワークショップとやらは何なんだ?」
実は、私も良く分かっていない。
濃〜いオジサン達は、嬉しくて更に喋りだす。
特に、Gさんにとっては孫世代とは言えないまでも、子世代よりは更に若い。
普段、寡黙なのに・・・、にこやかに喋る。
「それはゼミナールなのですか、それとも集会?」。
ポスト60年安保世代のGさんの質問、的を得てないようだ。
私は、「ここのオジサン達の願いは、ベトナム戦争に反対したベ平連的な市民運動を目指しているんですよ」と学生に、ブレーキを効かしながら喋る。
でもねえ、よ〜く考えれば分かる事。
学生さんは1980年代の生まれ、ベトナム戦争もベ平連も知るわけ無い。
1970年代生まれの私の息子たちでさえ知らないのに。
彼らにとってのムーブメントは9.11であり、パレスチナ、イラクなのだ。
オイオイ!、そんなに皆で畳み掛けると、学生さんが逃げてしまうぞ。
第5回「安田さんを招く会」
■2004.9.8 night 管理人 wrote
久しぶりに山崎ハコを聴く。
納戸に潜り込み、仕舞っていたお皿を出してきた。
レコード針をゆっくり下ろし、アナログのサウンドを聴く。
ノイズのプチプチ・パチパチも、たまにはいい。
CDがディスクを圧巻するまでは、プレヤーはオーディオの最重要ユニットだった。
ターンテーブル、アーム、カートリッジそれぞれ得意のメーカーがあり、その組み合わせに興じたものだ。
私のチョイスはマイクロのターンテーブルにシュアーとエンパイアのカートリッジ。
プレーヤー本体は当時3〜4万円だが、シュアーのカートリッジは3万5千円、エンパイアにいたっては5万円オーバー費やした。
でも今は全部で1万円なりのSONYのプレーヤー。
山崎ハコ 望郷 1975
青い空 白い雲
菜の花の小道を
かけまわり 蝶ちょ飛び
遊んだ故郷 ♪
真っ白な 霧のなか
神社の階段で
駆け上がり 手を合わせ
泣いてた 小さな子 ♪
寂しくて 悲しくて
出てきた横浜
優しくと 思っても
みんな他人さ ♪
いつのまに こうなった
鏡の中には
知らぬ人 疲れた顔
悲しげに笑ってた ♪
帰ろうか 帰ろうか
田舎のあの道へ
青い空 白い雲
田舎へ帰ろうか ♪
あの家へ 帰ろうか
あの家へ 帰ろうか
あの家は もう無いのに ♪
 
■2004.9.8 morning 管理人 wrote
日大全共闘の真髄は・・、私は勝手にこう思っている。
「共に別個に闘う」。
私達は、他(大学)と比べ圧倒的に数が多かった。
でもただ数が多かっただけではない。
遠く離れた他学部、規模からいったら殆ど他の大学ぐらいの関係性。
その最たる学部、福島県郡山の工学部。
バリケード奪還に体を張って出かけていった。
行けない奴は汽車賃をカンパする、上野発の夜行便だ。
全共闘の一体感は何処にも負けない。
先月8月26日朝。
4闘の先輩、日大全共闘・工学部郡山闘争委員長の大塚規雄さんが逝去された。
安田講堂攻防戦に先んじる1968年10月14日、右翼・暴力団に襲われた郡山工学部バリケードを一歩も引かず死守した先輩。
それまでの他大学の形だけの死守をあざ笑うかのように、一歩も引かず死守した先輩の戦いは、後の安田攻防戦の手本となったとも言われている。。
闘士、大塚4闘のご冥福を祈る。
安田さんを招く会の取り組みを綴っていると、色んな支援を頂く。
私にとって特に嬉しいのは、日大全共闘のかつての仲間からの物心にわたる支援だ。
チケットをまとめて購入しよう、振込先を指定せよ。
チケットは送らなくて良い、金の無い若者に配ってやってくれ。
30数年も離れていて、それにこんなに遠く離れているのに。
なんでこんな申し出が来るのだ。
「共に別個に闘う」。
■2004.9.7 morning 管理人 wrote
どうでも良いのだが、気分が悪い始末記。
安田さんの講演会の会場ホールは、公共団体が運営している。
協力を申出ていただいた教組の書記さんが、近辺の多くの会場を探し回って結果、そこに電話予約を入れてくれていた。
官庁街のど真ん中の絶好の立地、さすが公共団体の会館ホール。
仕事の合間に、申し込みに行っていた。
安田さんを招く会とその代表者の名義で申し込むと、受付の女性が「団体は社判を押さないとダメです」。
急ごしらえの任意の団体、社判などあるわけがない。
少し考え、「じゃ、個人で申し込みます」。
受付の女性、「このホール、個人の利用申し込みは出来ないんです」。
公共に準ずる施設だから利用に制限があるのか?、確かに利用料は破格に安いが、これには困った。
職場に戻り少し思案したが、独断で自分の職場の法人印と代表者印を使う事を思いついた。
早速、職場の長とに相談すると、主旨は分かったので代表者に口頭でも了解を取っておけと指示。
代表者の所へ赴いたが、極めて好意的に了解してくださった。
早速、申込書に法人印と代表者印を押し、法人代表者名を記入し提出していた。
昨日、そのホールから電話が入った。
「使用の許可が下りました、それについて請求書をお送りします」。
「請求書の宛名は、何でしたら当初の招く会で代表者宛でも出せますが」と言って下さる。
それは好都合、それではそれでお願いしますと返答をしていた。
少し経ってから、男性から電話が入った、受付の女性の上司と思われる。
「会館使用料の請求書は、申し込み名義でしか出せないんですよ、何かあった時にはその名義の方に責任を取っていただく事になっているのですから」、結構つっけんどんで無愛想な口調である。
私は面くらい、「そちらの受付の方がそう仰ってくださったのですよと」と低姿勢に応えた。
電話の男性、私の言い訳なんかには聞いていない、申請人と請求先は同一なのが常識だ、そんな当たり前の事が分からないかと言う事をしつこく説明する。
普段ならここで切れている。
すみません私がきちんと聞いていなかったようです、申込者宛てに請求書を送付してください。
すると今度男性は、請求書を私の職場の代表者宛に送って本当に良いのかと念を押すように言ってくる。
どうやら、この手の催しの請求書を代表者に送ると、私が困ると思っているようだ。
「代表者にはきちんと了解を取っていますから、大丈夫です送ってください」とはっきり応えた。
男性は最後に「任意の団体で、社判や代表者印がない場合は個人の認印でも申し込みが出来るのですがねえ・・・」と慇懃な口調で言って電話を切った。
私は受話器を置いた後、切れた。
怒鳴り込む衝動を一日抑えていた。
■2004.9.6 morning 管理人 wrote
私は気持ちで動いている。
日大闘争は止むに止まれぬ気持ちで、衝動だった。
プチブル急進のそんなものが続くのか?
途中休みはあったが36年続いている、変わらない。
安田さんの営業をしていて、反応は大きく分かれる。
幾つかの団体以外、大半はアポなしの初対面で飛び込み、仕事柄営業は慣れている。
身を乗り出して聞いてくださる所、いぶかしげな眼差しで淡々と聞くところ。
訪問するのは、こういう主旨には理解があると思うそれなりの団体なのだが。
前者はその場でチケットを預かるか、具体的な協力を約束してくれる。
後者は「検討しておきます」。
この取り組みの発起は、本当に一人のご婦人の発起だ。
安田さんへのオファーの段階までは、彼女一人でしている。
有志に集まった5人も、組織に属さない個人だ。
個人の思いが、止まらない気持ちが発起になっている。
県内最大の単組の委員長と書記長、即答で協力を約束してくれその場でチケットも預かってくれた。
草の根の平和団体の若い事務局長、初めて会った席で「構わないだけチケットを預からさせて下さい」と反対にお願いされた。
人権団体で知り合った教組の専従書記さん、「その日、組合は大会があるけど、私個人でチケットを売りたいので協力します」。
個人で実行委員をしたいと申出てきた大学生、感性派のおじさんはメロメロだ。
自分がどう思い、どうしたいのかより先に、
組織がどうのこうのと反応する方々への営業はもう止める、対応保留への追い詰めも止める。
「ヤカマシ〜イ!、こちとら、テメ〜個人がどう思い、どうすんのか聞いてんダ!よ〜」、昔よく切った啖呵だ。
私は、会場が満席になることに拘らない。
■2004.9.5 night 管理人 wrote
安田さんを高知へ招く会にヤングパワーが登場しそうだ。
8月18日の準備会で私は日記にこう書いた。
>昨夜は、安田純平さんを招く会の3回目の準備会を持った。
私を含め6名、皆髪が白いかハゲかかった(私だが)初老世代。
私は言った、「何故ここに若者がいないのか・・・・・」。
いい歳こいた6名が秘密謀議。
有志の一人からの連絡。
地元国立大学の人文学部の助教授に協力を申し込んだそうだ。
助教授は「絶好の機会だから学生を協力させてください」との返事。
それに、「今の学生はイラク問題に無関心ではないですよ、できればワークショップもやりたい」と積極的な反応。
もう一人の有志からは、
一人の大学生が実行委員をやりたいと申出てきている、今度の世話人会に出てくるとの事。
オジサンは嬉しい・・・・・、とにかく嬉しい。
時代の主役は、間違ってもオジサン達ではないのだ。
ヤングマン(ウーマン)、貴方たちなのだ。
サア〜、この濃〜いオジサン達が若者を萎縮させないようにするには、どうしたら良いか。
”動員営業”よりも、こちらの方が難しそうだ。
■2004.9.5 morning 管理人 wrote
戸田おっとせいさんの日記は楽しい。
特に二人の息子さんに関する記述。
細やかな愛情と、父親らしい冷静な観察、思わず顔がほころぶ。
心が癒される。
二人の息子さんは小学校低学年、これからいっぱい楽しい事があるよ。
楽しい事と言えば、ヤンキー次男坊の昔ネタ。
彼が高校ニ年のクリスマス、悪ガキ級友と隣町のカラオケでクリスマスパーティーを実行した。
夜も10時過ぎ、カラオケから出て、ワイワイガヤガヤと通りを歩いて帰路についていたらしい。
彼らの横を通りかかったパトカーが止まり、チョット待てと言われた。
本人も級友も蜘蛛の子を散らすように逃げたのだが、我が息子だけが袋小路に追い詰められ補導されたという次第だ。
これだけなら別に何でもなかったろうが、次男坊は友人の自転車に乗っていた、自転車泥棒の疑いを掛けられたてしまった。
それから12時を越すまで、延々と「この自転車は盗んだのだろう」と、取り調べ室で責め続づけられたと言う。
息子が「人から借りた自転車だ」と応えたら、「じゃあ持ち主の名前を言ってみろ」と責められる。
自転車の持ち主は逃げ散った級友の一人、2時間以上責められても頑として名前を割らなかったらしい。
12時を過ぎた頃、長男がそ〜っと妻に分らぬように私を起こしにきた。
「父さん、警察から電話が掛かっているよ」、コードレス電話を渡された。
妻に気付れないように起き、車をカッ飛ばして隣町の警察へ。
受付に言うと、係官に連れられ息子が奥からしなだれて出てきた。
私の顔を見ると、表情が崩れ涙ぐんでいる。
係官に聞くと、防犯登録から自転車の持ち主を確認したとの事。
持ち主が、逃げかえった娘を問いただし、次男坊に貸したことの”裏”が取れたと言う。
無事放免となった次第だ。
「父さんごめんなさい・・・」警察の玄関で、高二のツッパリ息子が私の胸でオイオイ泣いた。
冬休みが終わり3学期が始まる。
警察は「学校へは通報はしませんよ」と言ってくれたが息子と二人、信用はしてなかった。
息子の学校は進学校、バレれば厳しい処分が待っている。
彼には何度かの停学前科がある、学期が始まり1週間、学校からの呼び出しも無く、次男坊とピースマーク。
妻に、深夜のドタバタ劇を報告したのはそれからだ。
妻の過保護な育て方に反抗していた彼だが、係官の責めにも仲間を売らず良く頑張った。
父さんは、そういう事が大切だと思う人種だ。
これが最後に彼の”非行暦”はピタッと止まり、反抗期が終了した。
それからだ、彼が私の全共闘暦に興味を持ち出したのは。
息子二人ほぼ20年前、兄ちゃんに遊具を取られしょげる次男坊。
■2004.9.4 afternoon 管理人 wrote
勢いで早く起きたが、体は正直だった。
夕方まで殆ど死んでいた。
ホスト役で飲む酒、いつもの許容量ははるかに超えていた。
それでも宴席二次会までもったのは、仕事という縛りがつっかい棒になっていたのだろう。
昼にうどんを食らっただけで、何時もはちゃんとしている掃除も洗濯もせずズーと寝ていた。
妻が「貴方、最近頑張っているね・・・」。
仕事のことだろうか、それとも安田さんを招く会のことだろうか。
「頑張りすぎだよ!」と忠告しないのが彼女らしい、火がつくと一時走り止まない私の性格を熟知している。
まあ、そのうちに程程に落ち着くだろうと読み切られている。
ホームページを書き始めたときも同じような反応を受けた。
彼女、数ヶ月程で熱が冷めるだろうと思っていたはずだ。
妻と初めて出会った時期、私は殆ど腑抜けのような状態だった。
当たり前だが彼女は「1968年全共闘だった時代」の私を知らない。
見てみろ、ホームページも日記も、とりあえず一年近く続いているぞ。
■2004.9.4 morning 管理人 wrote
滅多にないが仕事上で宴席を構えた。
私の職場のシステム導入の進捗状況を視察に来られた団体。
神戸地区の幾つかの大学で事業を行う方々だ。
この団体、私の職場が導入しているWEB業務システムを導入予定らしい。
概況報告のまとめに2〜3日、視察の昨日は丸一日それに費やした。
夜は交流会、酒宴に出るのは得意でないが、立場上ホスト役。
神戸の有名なミッション系の大学関係者、酒がまわったのか「ぜひシステム導入の時には指導に来てください、当校のチアリーダーは一見の価値がありますよ」
どうもシステム指導よりもチアリーダー見物の方に意味が強い。
ホスト役もあり酒が許容量を超えて、帰宅すると酩酊状態。
お蔭で朝は早くから目が覚めた。
メールを開けると鹿砦社の松岡さんから便りが入っている。
>毎朝、出社すると、貴方の日記を覗くのが習慣となってしまいました。
書き出しから有り難いお言葉、松岡さんは私のホームページを見て、何度か便りを頂いている。
私の管理人日記にも触発され、ホームページで肩肘はらずに折に触れ日記を書き綴っていこうと一念発起したらしい。
早速見せていただいた、コンテンツのタイトルは「甲子園村たより」。
私の日記よりもはるかに”濃い”、さすが元同志社全学闘で、且つ又出版業界の方。
私が畏敬して止まないピュアーレッド。
語り伝える仲間が一人増えた。
■2004.9.3 morning 管理人 wrote
昨夜は安田さんを招く会の4回目の世話人会。
集まろうと決めた喫茶店へ入ると、電気が消えている。
奥で会をしていた方が、今日は4時で閉店です。
ア痛〜、朝日の記者も取材に来る予定なのに。
喫茶店、障害者を支援するNPO団体が経営している。
夜は4時〜8時まで、大学生がボランティアで働き開いている。
学生の休みが明けるまでは、午後4時で閉店しているという。
関係者の方「いいですよ、待ち合わせに使っていただいて」と仰って下さった。
この喫茶店にもチケットの頒布をお願いしていた。
NPO団体の経営という事で、幾ばくかの頒布手数料を出しますと伝えていた。
そのチケットをお渡しすると、NPOの責任者の方は「みなさんの主旨の催しでは手数料はいただけません」と。
前日、ある大学生協に行ってチケットの頒布をお願いすると、事務的に手数料に拘るような応対を受けた、事情はあるのだろうが随分な違いだ。
この喫茶店、後で飲み物まで出してくれた、それに代金はいいですよと。
オジサン達、この厚意へのお返しはきっとするからな!
招く会に有力な方の参加があった。
地元で、草の根で永く平和運動をしている市民団体の方。
不偏不党で、本当に地道な活動をしてきている、偏狭な私でも心を許せる団体だ。
案内チラシとチケットをごっそり持ち帰ってくださった。
朝日の記者に、戸田おっとせいさんの話をすると、よくご存知だった。
■2004.9.2 morning 管理人 wrote
56才になっている、兄よりも1年長生きした訳だ。
勉強が出来て真面目、でも妙に不器用だった兄、働き過ぎで逝って5年が経った。
兄より多く生き永らえたこの1年、結構いろいろあった。
安田さんの講演会で走り回っていると、色んな方と知り合いになる。
この30数年、この手の付き合いは拒んできた。
はいそうですかと全共闘を整理し、新たな事に向かうには荷が重すぎた。
謗しられても仕方ない、家庭へ、個人へ籠もっていたのが正直な所だ。
この早春、メールを頂いた方がいる。
「きっと同じ隊列にいたはず」という表題の、学科は違うが同じ日大理工の一年後輩からのメールだった、嬉しかった。
その後輩から、改めてメールが届いた。
先輩は安田さんの講演会の事で頑張っているようですが、そちらの平和運動センターの方は30数年来の友人です、先輩の事をよろしくと話しておきましたから・・・、という内容のメールだった。
思いがけない側面支援だった。
大げさに言えば、私(達)は体を張って、命を張って全共闘を突っ走った。
名前も顔も知らない同志も大勢いるが、真の友の多さは誰にも負けない。
でもその重さゆえ、多くが適当でいい加減な付き合いを拒んできているし、今もそうだ。
30数年、厚顔に走り回っていれば築けたネットワークや、圧力集団は小さいものではなかったろうが・・・。
私は今のささやかな市民のネットワークの方が性に合っている。
■2004.9.1 morning 管理人 wrote
朝もやを切ってバイクの音が近くづくと飛び起きた。
新聞受けの新聞を取りに行く。
昨夜、招く会のメールに始めてメールが届いていた。
いや、届く前から「メールが届くから」と招く会有志から電話があっていた。
メールの差出人は朝日新聞地元支局の記者。
メールは「9月1日朝刊に紹介記事をのせます、問い合わせのメールが来るでしょうから対応下さい」という旨の内容だった。
「誠にあり難い、了解した」という返信メールを送り返そうとするが何度やっても発信しない。
yahooメールを使うのは初めて、諦めて自分のメーラーから返信メールを発信した。
チケットの頒布の協力を県の職員労働組合にお願いしていた。
組合は快諾して下さり、早速庁内の組合掲示板(ネットではないよ)に掲示してくださっていた。
これが県政記者クラブに詰める朝日新聞の記者の目に留まった、という訳だ。
今朝刊の告知記事、一段30行の結構なボリーム。
朝日には恩義が出来た、できれば安田さんの本人の取材を出来るように取り計りたい。
週末、メールで営業していた「ピースカフェ」というカフェから返事が来た。
チケット取り扱ってもいいですよ、と書かれている。
早速、face to face の営業に行かなくては。
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