管理人日記 2005年1月  
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■2005.1.31  morning   管理人 wrote

周さんからブログのお誘いが掲示板に書き込まれています。
周さんは次の点が優れていると挙げています。
 >予想していたよりも多くの方々が見にきてくれていまして、驚いているところです。私のブログは、アクセス解析が入れてありますから、毎日のアクセスが実によく判るのです。
 ブログって、一体何がいいのでしょうか。私は以下のように考えました。

1.ウェイブサイト(ホームページ)より、はるかに簡単に作成できてしまう こと。
2.ホームページ作成用のソフトも要らない。パソコンで文字が書け、メール を送受信できる人なら、すぐに1時間程度で作れてしまうこと。
3.このブログによって、従来はインターネット上で発信してこなかった・で きなかった人たちが大勢インターネットでの発信・発言が可能になった。
4.ブログのトラックバックという機能によって、同じ趣味や同じ考えをもつ 人とが、いくらでも繋がって、コミニュケーションが持てるようになった。
5.今は誰でも持っている携帯電話での書込み閲覧が完全にできること。

上記5点について全くその通りです。
仰られる通り、ブログはインターネットの世界では”革命的”なツールだと思います。
無料で手軽に出来て、何処からでも書き込み・閲覧可能、それにコミュニケーションも・・・・と言われればやらない手は有りませんが、私が敢えて現時点で個人のブログをやらないのか少し述べます。
皮肉な事に、私が個人のブログをやらない理由は、裏返せば全てブログの利点・長所なのでもありますが。

1、ブログに限らず、WEBでの発信は本人が意識しようがしまいが、大袈裟に言えばワールヅワイド、オールジャパンです。
テキスト(文書)による情報や考え方の発信が如何に誤解を招きやすいか、身に沁みて経験しているからです。

2、ブログは掲示板形式よりも更に双方向コミュニケーションの機能が強化されています。
一方通行のHTMLのページでの発信は、たとえ異論や反発があってもWEB機能上それ以上に議論が発展することはなく、いい意味で冷静化を催します。
一方、リアルタイムのブログでの双方向コミュニケーションは急激に議論が展開します、そしていとも簡単に行き詰まりを招きます。
私も含めWEBを経験していている方はお分かりだと思いますが、WEBでは何故か反論(反発)のセルフコントロールができなくなるのです。
それは実名でも匿名でも殆ど差はありません、いとも簡単に書き込めるツールが更にそれを催します。
その傾向は「主義・主張」の情報発信への反論に極端に出てきます。
今、WEBコミュニケーションで社会問題化している点といえます。

3、これは極めて私個人の理由ですが、
記事にはコメントが書き込めます、書き込んで下さるとご返事を書き込むのがマナーと考えています。
文章をきちんと書くというのは結構な作業で、少ない私の知力を総動員しなければ出来ない作業です。
コメントが有るのは嬉しいのですが、有ればあるほどノルマが被さってきます。
記事への反論や反発は無視する手がありますが、無視するというのは結構に能動的な対応で、ストレスが溜まります。

私の管理人日記は、結構コアな考え方や思いを綴っています。
読む人によってはかなりの反発(反論ではないです)を招く部分があるはずです。
私の心臓はそれほどタフではないのです。
以上の理由は決してブログの欠点ということではなく、私個人とブログの相性だと理解ください。



■2005.1.30  night   管理人 wrote

今日借りてきたサンタナのスーパーナチュラルを聴きながら、夕日を眺める。
仕事帰りに見る夕日と一味違う。
サンタナのギブソンが切なく夕日にのびてゆく。
もっとも、妻にとっては、「それ、サザンのCD?」
貴方には一生分からないだろう!

朝は洗濯、これが結構楽しいし、昼からは音楽のシャワー。
最近、妻がやっとの思いで買い求めた民芸家具、
そのテーブルで飲むコーヒーは喫茶店を凌ぐ味。
一人ではもったいない贅沢な時間だ。


今日はCD4枚にプラスして、初めてミュージックDVDをレンタル。
ご法度だが、一応DVDのコピーにチャレンジ。
四苦八苦したが、マニアへの道を進まないとヤッパリ無理な様。
この歳では、キチンとお金を出しなさいと云う事らしい。
DVDはテネシー・ワルツのボーナストラックがおまけ付き。
食事を済ませてゆっくり観よう。



■2005.1.30  noon   管理人 wrote

朝の日記に、互助会の基金を崩し、旅行クーポン券を給付する話を書いた。
洗濯物を干していて(これは私の分担)、ふと考えた。
私の職場も世間と同じで、職員が高年齢化している。
ここまま退職に入ると、長年給与から掛けた互助会の給付を全く受けずに職場を去る者が続出する。
臨時的な給付は、この世代(つまり私達)に対する、利己的な動機も一因だが。
この給付をしても全体からいえばほんの僅か、職場の次の世代に十分すぎるほどの基金が継承できる。

私の職場は営利を目的としない団体、その職場の互助会の規模もささやかなものだ。
発足して20数年、バブル期も経てきたが地道に活動してきた。
発足当初は産児休業の給付も結構あり、掛け金と給付がギリギリの時期もあった。
しかし、職員が高年齢化してくると給付も激減し、基金が貯まり続けた訳だ。

勿論、国の制度への上乗せの補完制度であるが、十分にその役割を果たしたうえ、基金は増え続けている。
これは他の事例に漏れず、私の職場も若い方の採用を極端に控えている事が最大の要因だろうが。
自分達の世代の面倒だけみると云うことでは、私達は掛け金をきちんと払い給付し、且つ基金として貯めてきている、小さな事例だろうが。

私達は自分の親の世代に十分な年金を払い、且つ有り余る基金を貯めて来ている筈なのに。
親の世代の面倒を見、子供の世代に迷惑を掛けなくていい十分な基金を貯めてきたはずなのに・・・。
どうしても納得いかないのだ。
ささやかな互助の組織でさえ、十分な役割を果たし、次の世代に十分な基金を継承できると云うのに。
私達の世代は、何故将来を削られなければならないのか。



■2005.1.30  morning   管理人 wrote

勤務先が旅行クーポン券を支給してくれる。
もっとも支給したら、と起案したのは私だが。
職場の互助会の基金が水ぶくれ、要するに貯まりすぎているのである。
そもそも、職員の傷病休業や産児休業の所得補填を目的として積み立てた掛け金。
職員の高齢化で給付が殆ど無く、年々溜まる一方。

経営が厳しい会社なのに、こちらは余剰金が溢れているという皮肉。
互助組織は基本的に”単年度会計”が原則、余り累積すると会社の”利益隠し”とみなされ課税される事もあるという。
主旨から現金支給は所得とみなされるので、福利厚生の旅行クーポンでの給付を互助会に提案したわけだ。
総会では私の提案に、更にプラスαの修正が加わりすんなり可決。

さてこの旅行クーポンをどうやって使おうと考えたが、妻の長年の”懸案”の韓国旅行にと思いついた。
幸いな事に、旅行クーポン券は二人分ぐらいの旅費になりそう。
先日「パスポート取っとけよ、近いうちに韓国へ行くぞ!」と声を掛けた。
「急にそんなこと言われても、仕事が忙しくてそんなに簡単に休めないのに・・・」
、と言いつつ顔は嬉しそう。

昨晩、九州のSくんから電話が。
「お〜い元気か」
正月に便りが無かったので気に掛かっていたのだが、相変わらず元気そう。
雑誌を見ていて、私の県の山間地の記事を見つけ来たくなったという。
以前、私と泊った信州・浅間山の山荘に、昨年も再度泊りに行ったとも云う、相変わらず色んな所へ出かけているようだ。

友、「オイ、次の同窓会はいつだったかな?」
「多分2009年だろう、前回は1999年だったからな」
友、「それまでに還暦になってしまうぞ、2闘と3闘で合同の還暦祝いだな」
「??・・・、」
「2009年なら1闘も含め全員還暦だぞ」

大手建設会社に就いた息子は元気かと問いかけると、
「息子は九州新幹線の仕事をしているよ」
「息子に仕事を貰う様になった」、との事。
それって嬉しい事だよな。



■2005.1.28  morning   管理人 wrote

仮称・日大闘争史をつくる会の事務局からメールがあった。
粘り強い準備会を続け、闘争史のデータベースを作る作業手順が固まったとの報告。
直ぐにもダンボール箱満載の歴史的遺物が送られて来ると書かれている。
最近、何回も準備会の会合にお招きを受けていたのだがローカル在住の身、お江戸へ参るのそう簡単ではない。
出席したい気持ちは持ちつつ、未だ出席には至ってない。

少し前、送っていただいた理工学部の”つくる会準備会名簿”を見てあせった。
「ウッッ・・・、この御方はあの4闘ではないか!?」、当時恐ろしくて近寄れなかった大先輩の名簿の横に私の名前が!
私等は、体育会の序列のそれではないが、四年生の身で闘争に参加した先輩諸氏を尊敬している。
就職を間際にしながら、それを振ってでも参加し、増してや行動隊の最前線にたった4闘は、私等2闘にとっては掛替えの無い先輩である。

作る会の正式名称を決めたとの報告。
『68・69日大闘争アーカイブス』、略称『アーク会』
当時一兵卒の私も会員に入れてくださっている、4闘と並んでこの上ない光栄だ。
メールにはデータベース化の手順書が2枚添付されている。
「頑張るぞ!」、久しい決意表明。



■2005.1.27  night   管理人 wrote

「父さん、あの役者すぐ後ろでコーヒー飲んでたよ」
息子達は、先週従兄弟たちと富良野へスキーに行っていた。
次男坊は細々とアルバイトをしている身、そんな資金は有る筈無いのだが。
置いてきぼりを食った妻は、最初はブツブツ言っていたが、
どうやら幾ばくか旅費を出してやったみたいだ。
足らない分は、兄からかなり援助を受けてるようだ。

富良野は国土のリゾートスキー場、息子たちはプリンスに宿泊だったらしい。
レストランで「優しい時間」の役者と遭遇したという訳だ。
何時から始まったドラマか知らないが、先週偶然にチャンネルが合った。
一目見て、倉本さんのドラマと分かった。

主人公は私等と同世代、寺尾聰さん。
私も黄昏風情、熟年ロマンスグレーでは負けてない・・・、前から見ればだが。
いいや、ギリギリ斜め前からでもカバーできるが、後ろに回られると厳しい現実が。
如何せん天頂禿げ。
つい数年前までは、完璧なロマンスグレーになると信じて疑わなかったが。

妻は来週、車中2泊のスキーに行くらしい。
私も同伴のお招きを受けたが、ご丁重にお断りした。
息子達がリゾートスキーツアーで、妻が強行軍の体育会系スキーツアー。
少し違うのではと思うのだが。



■2005.1.27  noon   管理人 wrote

昨日、NHKで50肩の番組を流していた。
私も一昨年、6ケ月に及ぶ大騒動をした。
痛い、とにかく痛い、余りの痛さに息が詰まり、その場にうずくまる事しばしば。
服を着ること、歯磨き、食事、車の運転、生活全てが不自由で激痛が伴う。
騒動中はミッション車を運転できない、シフトレバーが痛くて動かせない、急ハンドルが切れない。
棚へ物の上げ下ろしが出来ない・・・云々、言えばキリが無い。
整形外科は少し通ったが直ぐに諦め、針灸院へしげしげと通った。
針灸は結構効いたが、費用と時間が馬鹿にならない。
ビビッたのは、首筋やこめかみにまで針を打つこと、これは最後まで慣れなかったが。

あれだけ痛かったが、2003年8月頃いつの間にか痛みは消えた。
それから一ケ月、取り付かれたようにこのホームページを書いた。
毎日、毎晩、毎夜、痛くて何にも考えられなかった半年間が肥やしになったのか。
それとも「これで俺も最後かと・・」と本当に思ったからなのか。

でもね、今おっとせいさん大変なんだ。
済んだこと云って申し訳ない。



■2005.1.25  night   管理人 wrote

車内の”音楽鑑賞”の良い点。
心置きなくフルボルームで聴ける。
感涙を流しても、誰にも分からず恥ずかしくない。
音痴でも歌える(唸れる)。

そういう訳で、最近はもっぱら車内感傷(誤字ではない)派。
帰路、スピーカーが破れる寸前、これでもかの音量でオールマン・ブラザーズが鳴る。
ボディー鋼板が揺れているかも。
デュアン・オールマンのギターが唸る、泣く。
ええ〜い、一日の何もかにもが吹っ飛んでしまえ!

1971年、最後の桃井コンミューン。
躁鬱が小刻みに来る。
I can't help myself.
I've got to see you again.



■2005.1.25  morning   管理人 wrote

ほぼ一週間、毎朝ノラ・ジョーンズを聞いて通勤。
職場に着く頃に、9曲目の I've got to see you again. になり、聴き終わるまで車に座る。
56才と半だが、もう初老期の兆候だろうか軽い躁鬱の気を自覚する。
今日はなんだか気持ちが高ぶり、オールマン・ブラザーズ・バンドのフィルモアLIVEを聴きながら通勤。

良くしたもので、最近この手のものがCD復刻版で発売されている。
フィルモア・イーストのライブ盤ではアル・クーパー&マイク・ブルームフィールドのLPも持っていたが何時ぞやから行方不明。
復刻版が出ているのなら是非とも手に入れたいCD、アマゾンを探してみるべし。



オールマン・ブラザーズのこのアルバムは1曲20分オーバーの曲がある、さすが1960年代の熱気を伝えるサザン・ロック、車内でノリノリだった。
もう一つ、又聴きたくなった曲がジョン・メイオール。
エリック・クラプトンも一時期加わったUKのブルースバンド、60年代ロック小僧としてはモッズ次男坊にも教えてあげなくては。


■2005.1.24  morning   管理人 wrote

久しぶりにぽっかり空いた日曜日、だがあいにくの雨天。
晴れた日なら庭仕事に勤しむのだが、インドア。
昔、乱雑に撮り溜めていた8ミリビデオをDVDに焼こうと思い付き。
納戸から8ミリカメラを取り出し、テープをセットするが再生しない、そういえばもう10年以上もお蔵仕舞い。

精密ドライバーを出してきて、カメラのドライブ部のカバーを外す。
綿棒に消毒用アルコールを湿らせ、ヘッドのクリーニング。
これで再生すると、少しの間は復活するが、同じようにノイズが混じり画面が出なくなる。
7〜8年前に、家族の大切な記録はVHSテープにダビングしていたので助かったが、これ以外は殆どといって復活できなかった。
磁気テープの寿命は、我が家のような雑な保管ではせいぜい10年が限界の様だ。

合わせて、ダビングしたり、撮り溜めていたVHSテープの処分を決行。
こちらの多さは8ミリテープの比ではない。
何百本でダンボール箱5杯程、家族の記録以外は全部不燃物回収の折捨てる!。
レコードからCDに変わった様に、磁気テープからCDやDVDの光学媒体に時代は急激に変わっているのを実践。
でも秘蔵の音楽カセットテープが、これも数百本、「ウ〜ン、これは未だ捨てれないな?」



■2005.1.23  morning   管理人 wrote

8時半に会場に着く、繁華街だが人影はまばら。
二度目のパネル展、今回は辺野古の闘いの記録のDVDも映す。
展示は手際よく出来、プロジェクターやPC、スクリーンも順調にセッティングできた。
プロジェクターと100インチスクリーンは上司の許可を頂き使わせていただいている。
プロジェクターは高価な高性能のもの、明るさや解像度は申し分ない。
仲間と、「これなら何処でも巡業できるな、テキ屋さんの様だな」

市中央部の繁華街といっても、コアなテーマの写真展、
覚悟はしていたが入ってこられる方はまばら。
辺野古の闘いの記録、1巻1時間程で4巻で計4時間、結局これを2回8時間じっくり見る羽目に。
画面に向かって思わず、「よ〜し!、異議なし、頑張れ・・!」
記録DVDを通し、すっかりと連帯した。

このツーショットは仲間が撮ってくれました

数少ない訪問者で、旧社会党系の県会議員さんも来て頂いた。
以前の安田さんの講演会の折も、仲間の県会議員さんと三人で来てくださっていた。
辺野古の記録を見ながら、ゆっくりお話をする時間が持てた。
ジャンパー羽織り、自転車こいで、来て下さっている、
私は極めて単純な性格、これからもこの県会議員さんを応援させていただく。

私のBBSが賑わっています。
余り書き込んではいませんが、嬉しかったり、心が痛んだり、しっかり反応はしています。



■2005.1.22  morning   管理人 wrote

私は自分のした事を理解してもらおうという努力を放棄した、
理解してもらいたい、とも思って居なかった。
自分を仕舞いこむ事によって、大事な何かを守ろうとしてきた。
そうしなければ、自分一人では背負いきれなかった・・・、
皆の事は知らないが、個別私の場合はそうだ。
合わせて、自分たちが多く、その事象が余りにも大きかったので、社会は忘れるはずが無いとたかをくくって居たのかもしれない。

かつての数少ない仲間に、金曜サロンに来ないかと呼びかけてみた。
「昔、し忘れた宿題をやらないか?」
取り組み自体が余り具体性を持っていないので仕方ないのかもしれないが、
「今更いいや・・・・」
思いの丈は変わらないのだろうが、かつての絆だけではなかなかのようだ。

金曜サロンでかつての全共闘運動を経験しているのは私一人だ。
全共闘に遅れてきた世代の方が一人、
ポスト安保の世代が一人、
その他の方は、学生=全共闘運動の経験を持っていない。

良く分かった事は、それらの方は当然全共闘を理解していない事とあわせて、厳しい見方(反発)を持っていること。
特に、学生を経験せず平和運動をやってきた方は、階層としての学生運動の”その後”に嫌悪感をすら持っている。
昨年の秋から、市民運動の真似事のような事を続けている。
かつての罪滅ぼしのつもりは無いが、お互いの距離が近づく程、風当たりの強さをひしひしと感じる。

これから厳しい仲間たちとのパネル展に出掛ける。


■2005.1.19  noon   管理人 wrote

少し呆けてヨン・ジウ・ウイルスを撒き散らしていたら、催さんに頭をガツンとやられた。
催涙太郎さんの、緻密で正確な考証には頭が下がる。
世の中に疑問を感じ、拠るべき思想、拠るべき組織を求めてセクト(政治同盟)に加盟する。
それはそれで、己に対する真摯な姿勢だと思う。
目の前でぶん殴られるまで、何も分からなかった私等よりずっと真面目だ。
私はセクトを忌み嫌っているわけではない。

ノンセクト連合の日大全共闘と、セクト連合の殆どの全共闘とを意識的に区別するには訳がある。
その訳を私は上手く説明できないが、私の多くの仲間が繰り返し明快な説明をしているのでそちらを見て欲しい。
良い悪いは別にして、個別日大全共闘は極めて特異だった。
クラス会の延長のような組織で、何百日ものストライキを決行し、何万人もの学友を集めた。
大半のセクトがうろたえる程の動員力と破壊力を一時期維持した。

自治会が、全学連が、政治同盟が、表面的には押しなべて”全共闘”という評議組織の形式をとった。
評議組織と云えばロシアでは”ソヴィエト=人民評議会”であろう。
ロシアにおける指導部がボリシェビキ前衛党であれば、その基盤となる人民組織がソヴィエトになる。
社会主義を標榜するセクトが目指す組織を、日大全共闘は自然発生的にいとも簡単に作り上げてしまった。
「ちょっと待て、俺達(前衛党=セクト)が何もしてないのに、先に人民組織が出来上がってしまった」、というのがセクトの偽らざる本音だろう。

前衛党に指導されるソヴィエトは理想社会に至る”過渡期社会”である、とかつて私は聞きかじった。
その過渡期社会は前衛党が革命で意識的に作り上げる社会で、無知な大衆が自分で作り上げれるものではないらしい。
だが、皮肉なことにこの無知な日大全共闘が創り上げた”ゼンキョウトー”が前衛党を尻目に、瞬く間に全国に広がった。
前衛と大衆、結果的に日大全共闘はこの言葉を徹底してコケにした。
私が拘るのは、今の世が此処から先に進んでいるとは思えないから。

I can't help myself.
I've got to see you again.
 


■2005.1.18  night   管理人 wrote

すったもんだで、やっとドライブのドライバーがインストールできた、2時間仕事。
外付けのDVDマルチドライブを購入、Win2000のPCに繋ぐのだが、手順どおりに設定するが、ディバイスは認識してもドライバーが入らない。
待てど暮らせど、ドライバーインストウインドが出てこない。
仕方ないから、マイコンピュータのプロパティからディバイスマネージャーを呼び出し、手動で強引にドライバーを注入。

途中、「適正でない可能性がありシステムに異常をきたす恐れがある」、という脅迫意味の警告ウインドが。
気が弱い(笑い)奴なら、ここで躊躇するだろうが、私は「なるなら成ってみろ、再インストだ」の根性で強行。
パソコンもお宝から、壊れるなら壊れてみろ・・・位の単なる道具になってきた、いい事だ。

妻が冬ソナ全20話のDVD作成を、”無料”で何件も承っているらしい。
お人好しで、配布すれば配布するほど注文が舞い込んで来る蟻地獄になるのは目に見えているのに。
私はそれを格好の理由に、PCに装備したかったDVDマルチドライブを購入。
さあ、DVDバリバリ焼いて、ヨン・ジウ・ウイルス感染者を増やすぞ。


■2005.1.18  morning   管理人 wrote

早稲田の学生さん、春の採用を控えてバイトに精を出しているという。
採用前にゆっくり旅に出たいそうだ。
卒論の組み立てで、私が一生掛かっても読みきれないほどの文献から引用がある。
これほどの文献を引用できるまで、どれほど本を読んだのか。

我が次男坊も4月の採用予定を控え、のんびり過ごしている。
珠に、妻の車を使い何処かへ出掛けている。
妻の車は、乗り古しの軽四”おばちゃんカー”
「俺にこの車をくれ、母さんは新しいのを買えばいい」、若者には如何にも似合わないのだが。
そういう経過で、次男坊は車はどうでも良いのかと思っていたが・・・どうも違う。

私は大学に行かせてもらったが、ことごとく親の期待に背いてしまった。
この反動から、自分の息子達にはとりあえず楽しい大学生活を送って欲しかった。
次男坊が入学した年、余裕の無い家計をやり繰りし、夏休みを利用した30日程の”語学留学”とやらを奮発してプレゼントしてやった。
何処へ行きたいかと云うと、UK・英国。

働き出したら買いたい車があるという。
かの悪名高き(失礼)英国車の「ミニ・クーパー」
元々ヤンキー上がりの次男坊、英国に行ってかの国の元祖ヤンキー”モッズ”にかぶれた様だ。
それまでは妻の”おばちゃんカー”で良いらしい。


■2005.1.17  night   管理人 wrote

同僚の父上の葬儀、午前中自宅で執り行われた。
見送りで、しばらく寒風に晒される。
大寒の時期は葬儀が多い、この時節はお年寄りには厳しいのだろう。
参列者の間を北風が吹きぬけて行く。

夕焼け直後の宵闇

早稲田の学生さんの卒論、プリントアウトして少しずつ読み進んでいる。
彼の”思い”と、学究論文としての内容がいたるところでせめぎあっている。
でも、全体の流れは難解な言い回しをせず、至極分かりやすい。
分かり易いというのは、当事者として読むからかも知れないが。

私には”思い”は有っても”論”が無い。
当事者には”論”を組み立てる必要が無かったのか、それとも組み立てる能力が無かったのか。
後者だろう。
彼は”思い”をベースに、緻密な”論”を組み立てている、見事だ。
自分の息子のように自慢したくなる。

私の性根は単純、論文の日大に関する箇所を先に読む。
BUNDがどうのこうのという部分は後回し、御免。
秋田明大さんを”論”ずる箇所は圧巻だ、最初から最後まで「異議なし!、異議なし!、異議な〜し!」
ここまで”思い”を”論”に組み立てていただいて、「参った!」


■2005.1.17  noon   管理人 wrote

今日は気持ちがルンルン、嬉しいのである。
朝、早稲田の4年生から返事が入っていた。
ワードの添付ファイルも一緒に付いている。
A/4原稿で61頁、400字詰め原稿用紙換算で167ページに及ぶ力作だ。

ホームページを立ち上げなかったら、この若者の”思い”にも巡り合う事は無かっただろう。
この一年ホームページを通じ、優しい気持ち溢れる人達と巡り合う事ができた。
ちっぽけな、本当にちっぽけな私に、過ぎたる回向だ。
今日は気持ちがルンルン、嬉しいのである。

提供いただいた卒業論文、2月頭に口頭試問があるので、それまで公開は控えて欲しいとの事。
読み始めたとたん・・・・・、目がかすみメガネが曇ってきた。
「はじめに」と「おわりに」だけなら良いだろうと、抜粋でほんの一部載せる。
2月の中旬には。HTMLテキストページとPDFファイルの二つで公開させて頂くつもり。

  は じ め に

 沢木耕太郎は、著書『若き実力者たち』の中で、同世代が書いた最も美しい文章として、日大全共闘の秋田明大が書いた次の文を挙げている。
「日大から去っていくすべての学友へ。屈辱感、挫折感を持って日大から去っていかないでほしい。もし去っていくなら、日大闘争を、ほんの数時間、数日間でも、自己の良心に、人間性に従い闘ったという誇りと勇気を持って去っていってほしい。そうするなら、君の青春は無駄ではなかったろう。そして、君の第二の人生も、君自身が切り開こうとするなら、必ず君を待っているであろう」(沢木,1979,p86)
 沢木本人は全共闘運動には直接関わっていなかったようだ。しかし彼は、一人の大学生として当時の空気を吸い、最も美しい文章として秋田の文章を選んだのである。
だが、私には同世代が書いた最も美しい文章など思い浮かばない。いくつかの理由が考えられる。ひとつは、同世代が書いた文章というものをあまり読んだ記憶がないということ。もうひとつは、そもそも「同世代」という言葉で括れてしまうような共同性を私たちは持っていないのではないかということだ。
 なぜ、今、全共闘なのか。30年以上も昔のこの学生運動はもはや歴史の彼方に埋もれそうである。卒論のテーマが全共闘だと話すと、周囲の人からは「時代遅れだ」という反応をされるか、あるいは無反応な場合が多かった。しかし、全共闘運動を直接に体験していないにもかかわらず私の内部に今なお、そこに引っかかっているものがあるのも事実である。だから、私がそこまで全共闘に固執する理由のようなものを最初に述べておく必要があると思う。
以下、割愛。

  お わ り に

 私は冒頭に立原道造の詩を掲げた。この詩が全共闘と重なって見えるからだ。若くして死んだこの詩人の書き残した詩が、青春の感傷を永遠にとどめているように、全共闘の一人一人が闘争の中に見出したものもまた、掛け値なしの真実だったのではないだろうか。
 この詩にはまだ続きがある。ここでその全文を引用しておきたいと思う。

ある日 悲哀が私をうたはせ
否定が 私を酔はせたときに
すべてはとほくに 美しい
色あひをして 見えてゐた

涙が頬に かわかずにあり
頬は痛く ゆがんだままに
私はそれを見てゐたのだが
すべては明るくほほゑむかのやうだつた

たとへば沼のほとりに住む小家であつた
ざわざわと ざわめき鳴って すぎて行く
時のなかを朽ちていく あの窓のない小家であつた・・・

しかし 世界は 私を抱擁し
私はいつしか 別の涙をながしてゐた
甘い肯定が 私に祈りをゆるすために

                        (立原道造「午後に」)

 安田講堂に立てこもった全共闘の一部の学生は放水と催涙ガスの中で、立原道造の詩集を持っていたという。そうした、全共闘の叙情性とでもいったようなものに私はあふれる共感を禁じえない。彼らがバリケードの中から見たであろう美しい色あいの世界を私はこれから見ることがあるだろうか。否、私はもうそれを見ているのかもしれない。ただそれを「見た」と意識できないだけなのだとしたら、まさに、私のこれからの人生はそれをどう認識できるかという闘いなのだと思う。
 本論文では全共闘をできるかぎり包括的に捉えなおそうと努力してきた。あるいは、「一点突破の全面展開」ではないが、ひとつの角度に絞って論文を貫徹するという方法もあっただろうと思う。しかし、現在の私にとって、その方法を採ることは出来なかった。私はどうしてもその総体を見つめたかった。それゆえ、この論文にまとまりきれていない点があれば、それは私の力不足であり、その点の批判は甘受しなければならない。だが、こうもいえるのではないかと思う。つまり、そのまとまりのなさ、その非論理性こそが全共闘の全共闘たるゆえんなのではないだろうか、と。
 この論文を書いたことによって、私は全共闘運動に批判も持ちつつ、そこにはなお現代的な意義があることを確信した。これから大学を出て社会人になることによって、さらに全共闘へのまなざしを深めていきたいと思う。

 最後に、全共闘が話すのを待っているだけでは物足りないし、いつになるかわからない。こちらからも彼・彼女らの発語を促していきたいと思う。秋田明大、山本義隆両氏をはじめ、その他、全共闘に関わった人間たちに一人でも多く話を聞けたらと考えている。


■2005.1.16  night   管理人 wrote

朝からぶっ通しの会議が2日続き、
会議の後の酒の席も2晩続き・・・・、
さすがにヘトヘト。
会議は、神経を使うが体は使わない、
酒は余計に堪える。

最近は、仕事で無い限り外ではまず飲まない。
元々外向的でない性格、家で家族で囲む酒が一番、加齢で自分に素直になったのか。
昨晩はパソコンを立ち上げるのもシンドかった。
少し呆けた頭で、次男坊と一緒にBSのアメリカンミュージック・アワードを観る。

次男坊はヒップホップは嫌い、この点は一致している。
この子と音楽番組を見るのは楽しい。
最近ご執心のノラ・ジョーンズが何度もノミネートされるが、結局賞は取れなかった。
シャルル・クロウが幾つか賞を取ったのに残念、ライブを聴きたかったのに。
ボン・ジョヴィのライブ演奏が最高!、私も若いのだ。

迫ってきた沖縄国際大学米軍ジェットヘリ・墜落抗議パネル展。
前回は合板壁にピンで止めて展示が出来たのだが、今回は本格的なハンガーパネルがあるギャラリー。
ハンギング出来る様にナイロン線でパネルを加工、半日費やした。
辺野古の闘いの記録のビデオ4巻も4時間掛かってDVDに焼く。
これは先日DVD一枚に4時間ごっそり焼いたのだが、画質の劣化がキツイ。
改めて、一巻1枚のDVDにファインモードで焼き直した訳だ。


ほぼ真上、澄んだ夜空に上弦のお月様が出ている。
携帯カメラでは点にしか映らない。
マニュアル露光ができるアナログカメラでないと無理なようだ。



■2005.1.14  morning   管理人 wrote

「よう!、久しぶり元気か」、後ろから声が掛かった。
所用で訪れた県の庁舎、庁内の喫茶店で後ろを見ると高校の同窓生。
彼は土木の技術屋さん、作業服をまとっている。
「!元気ないぞ・・・、そちらはどうだい?」

人のことは言えた柄ではないが、作業服に白髪頭・・・、どう見てもくたびれている。
彼とは一年間クラスも一緒で仲良し、
成績はいつも全校でトップクラス、一流難関国立大学も合格可能な成績を挙げていた。
私の友人の中では、数少ない勉強の出来る仲間だったのだが。
経済的理由で地元の国立大に進み、県庁に入っている。

「今何処に居るの?」
聞くと、郡部の土木事務所だと言う。
てっきり本庁の管理職ぐらいになっているつもりで聞いたのだが、未だにドサ回りらしい。
「俺はな、部下にはもてるが、上司には嫌われるからな」
付き合いの無い同窓生では、部課長もチラホラ居るのに、正直で世渡りが下手なタイプだったんだ。
でも、こういう奴が私は好きだ。



■2005.1.13  night   管理人 wrote

昨晩、帰り道で観たお月様は綺麗だった。
今晩も、何処に出ているのかなと見上げながら、危なっかしくハンドルを握っていた。
今晩の夜空は薄曇、昨日より少し高い所にほんのりと白い輪郭が見えているだけ。
ついぞ忘れていたお月様に気を引かれるのは、何年、いや何十年ぶりだろう。

早稲田の学生さんが、かなりムッと来ている。
だから云わんこっちゃ無い、だろう!
卒論を少し読ませていただきましたが・・・
という掲示板の下りも頂けない。
公開もしていないものに言及するのは、何も構えていない無防備な相手に、突然襲い掛かるようなもの。
何故、何処で読めたのか、本人にとっては人格を傷つけられた様な思いだろう。
日大全共闘にとっては、沽券に関わるルール違反だ。

この日記で初めてキツイ事を書くが、
こういう最初のボタンの掛け違えというのは、なかなか修復できない。
私はホームページを開設して僅か1年と数ヶ月。
それ位の期間でも、私はメールや他の掲示板で、気持ちが引き裂かれるような経験を幾度かしてきた。
メールや掲示板で、テキストによるコミュニケーションの難しさを、嫌というほど味わっている。



■2005.1.12  night   管理人 wrote

帰り道、行く手に綺麗なお月様。
月の右側、線を引いたような細い三日月。
幼い頃、母に手を引かれ、背に満月の光を受けて歩いた記憶がある。
「母ちゃん、お月様がボクに付いて来るよ・・・」
月光に照らされた母の横顔を今も忘れない。

当時、昭和20年代、
その頃はポツンポツンと電球の街路灯が細々と道を照らしているだけ。
月光で照らされた所と、陰になったところ、月夜の風景に陰影があった。
今は街の光り、車のライトが溢れ、月夜の陰影なんて風情は無理。

早速、携帯のカメラを取り出し映そうと信号待ちで試みるが、
周りのキツイ明かりで、画面にお月様が映らない。
昭和の20年代の風情を書くようになってしまったら・・・
これはもう昭和レトロだな。



■2005.1.12  noon   管理人 wrote

経闘委掲示板で、早稲田の学生さんが催涙太郎さんから厳しい叱責を受けている。
少し感情的にものを云わしていただくと、これは可哀そう、厳しすぎる。
今の大学生は一学年で70万人強。
その中で、今やイミダスの辞典からも外されたという”全共闘”に興味を持つ若者が果たして何人居るのか。
増してや、卒論テーマにそれを選択するなんて、70万人居ても彼一人だ・・・と思う。

彼は、私に「もっともっと語り伝えて下さい」とメールしてきた。
このくたびれたオジサンの励みにどれだけ成ったものか。
彼のメール文の中に、彼の”思い”のキーワードらしきものがかすかに覗いていた。
「卒論のテーマに全共闘を選んだのには父の存在も関わっているのだと思います・・・」
「僕の父も学生時代、全共闘運動をやっていたようです。もっとも父からはほとんど話さず、僕もいずれ聞こうと思いながらまだ話を聞いてないのですが。」

私の次男坊も、オヤジのやった事に興味を持ってくれたが、なかなか批判的なのだ。
彼の父上も、私も、30数年以上語らなかった、いや語れなかったのだから、今まで何も伝えていない。
少しばかりの、いいや全く的外れでも誤解でもいい、
分かる範囲で調べ、かつて全共闘が存在したことだけでも記録に残す作業をしてくれたのだから。

全共闘も色々有った・・・。
全学で共闘するため任意に集まった集団。
そういう言葉の意味では、セクトの政治的な人間が居ても当然。
当時は全国何処でも、国立や私学を問わず、ましてや偏差値も関係なくキャンパスが暴発した。

ノンセクト、ノンポリ、一般学生がその大半を占め主役だった”日大全共闘”が、全国でも特異な存在で、かつ”突然変異体”だったと理解したほうが分かりやすい。
幾つかの基準で括りきれない学生集団だから、理解せよと言う方に無理がある。
この私でさえ、「あれは何だったのか?」、
未だに悩んでいるのだから。



■2005.1.11  morning   管理人 wrote

11月27日と12月7日の日記で紹介した早稲田の文学部社会学科の学生さん。
卒論テーマに”全共闘”を選び、我がホームページにも訪問してくれていた。
興味深く見せていただきました、と礼儀正しいメールを頂いていた。
今春には出版社に内定が決まっていると、嬉しい報告もあっている。

昨日、経闘委の掲示板を訪問すると
早稲田大学大久保研究室、学生の卒業論文、極めて、重大な、問題を投げかけて
おり・・・・、

という志田糺さんの書き込みと、
POP南さんの該当のホームページのURLのリンク書き込みを見つけた。

早速、早大大久保研究室のホームページを訪問すると、
「アアッ・・、メールをくれた彼だ!」
研究室には、彼の2004年4月30日付けの報告文が載せられている。
表題は「全共闘運動論〜明日のジョーになれなかった若者たち

終わりに―今後の展望―
全共闘運動は多分に青臭い側面を持っている。それは時として稚拙な印象さえ受ける。しかし、その青臭さ故に私は全共闘に惹かれているような気がする。それに私は共鳴するが、現実に共有する機会はない。大衆、一般学生の支持を失った全共闘は衰退し、各セクトは孤立、急進化した。好意的に解釈して、1972年のあさま山荘事件までは一定の理解がまだ大衆の中にも存在した。その後明らかになった集団リンチ事件によって、大衆運動としての新左翼運動の息の根は完全に止まったと見て間違いないと思う。時代は既に大衆消費社会に入っていた。「新左翼」の言語はリアリティーを失ったのだ。全共闘運動の当事者たちはそれを知ってか知らずか、自分たちの運動を次の世代に引き継ごうとはしなかった。語ろうともしなかった。全共闘の最大の罪はここにあると私は思う。普遍性を持ちえた運動を結局自己完結させてしまったということ。それはあまりに無責任だったのではないだろうか。

今回はほとんど触れなかったが、全共闘を考える上で欠かせないのは同時代の海外の学生叛乱である。「スチューデントパワー」と言われる先進諸国の学生運動の高揚と比較対照することによって60年代末の学園闘争の世界的性格を考察してみたいと思う。

卒論は12月のはじめに何とか提出でき、ホットしているとメールをくれていた。
上記転載の報告文は、卒論に取り掛かる序章だと思われる。
彼はこの報告(序章)を書いた後、私や経闘委のホームページを訪問している。
私や経闘委のホームページを見てどう変化したのか、
もう一度連絡を取り、何らかの形で論文全文を紹介できたらと思っている。



■2005.1.6  night   管理人 wrote

今頃が陽が一番短い、仕事の帰路には周りはとっぷり暗い。
今日は昼からの会議が5時前に終わり、そのまま帰路に。
行く先に、久しぶりの夕焼け。
メランコリックな気分にしてくれる夕焼けは好きだ。


ノラ・ジョーンズの曲を掛けながら、夕焼けに向かって車を走らす。
I can't help myself.
I've got to see you again.
 
雑踏の中にジュンサンを認め、我を忘れて捜し求めるユジン。
ノラのこの曲は、冬ソナのこの場面を思い浮かべる。

こんな場面と共に、丁度いまの時節の30数年前の風景を、ふと思い出した。
凍て付くような深夜の阿佐ヶ谷南口、目的も無く徘徊する自分の姿。
セーターを何枚も下に重ねた、カーキ色の米軍ジャケット姿、
冬ソナのように美しくは無いが・・・・・、
I can't help myself.
I've got to see you again.
 
夕焼けはメランコリックな気分になる。



■2005.1.5  morning   管理人 wrote

戸田おっとせいさんが年末より「脊髄炎」で入院している。
病名も現役記者の奥様が臆することなくBBSで”公開”している。
毎日、おっとせい日記をみるのが楽しい日課になっていたのだが・・・、途絶えて一週間余り。
必ず日課で見に行くホームページの一つ。
彼の日記は、愛情あふれる子育て記と、するどい独特な社会批評で綴られている。
さすが元記者だ、物事を見る角度の広さには感心する。

おっとせいさんの素晴らしい点は、彼の個人履歴をHPで堂々と公開していること。
京大構内で一人党派で民青とゲバっていた学生時代。
朝日に入社し、退社した経緯。
>1990年代の前半はこの新聞社で記事を書いていました。神戸支局で泊まり勤務の時,マリファナを喫ったのがばれて退社を余儀なくされました。
これを堂々と書く”根性”が、私は限りなく好きだ。

刑事おっとせい(BBS)を見ると、根性で本人が携帯から書き込んでいる。
経過はとりあえず順調との事で一安心。
予備校の生徒が心配して書き込んでいるのも彼の人柄。
入院保険にも入っているとの事、焦らず、ゆっくり療養して欲しい。



■2005.01.04  morning   管理人 wrote

ノラ・ジョーンズの”I've got to see you again”
そこにうずくまりたくなる様な、アーバンメランコリックな歌。
ヘレン・メリルに少し艶がかかった、ハスキーで透明感のある歌声。
ウーアもノラも共通している、私の好みだ。

妻の母上が、冬ソナのビデオテープを繰り返し観ているという。
すり切れ、ノイズの混じった雑な画質に甘んじ観ていると聞いた。
HDDからDVDディスクに全20話と、特別番組の冬ソナクラッシックコンサートをダビング。
それだけでは観れないので、安価なDVDプレヤーも買ってきて、セットで元旦に届けた。

「母さんがとても喜んでいる、使い方も大丈夫と電話が有ったよ」
「貴方、ありがとう」
プレーヤーが使えるかどうか心配していたが、昨晩電話が入っていたらしい、妻が嬉しそうに話す。
DVDレコーダーが活躍してくれる。
昨日は音楽を聴く間に、「辺野古の闘いの記録」ビデオをDVD化。
今度開催する米軍ジェットヘリ墜落パネル展で、上映できたらと考えている。



■2005.01.03  night   管理人 wrote

一昼夜にわたる飲闘を貫徹された方々が居るが、私はこの三が日ひたすら音楽に浸っていた。
初めて聞くアーティスト、耳馴染んだアーティスト手当たり次第に。
元旦はスメタナの交響詩「わが祖国」、ドボルザークの「新世界」、これで半日が終わる。
趣を変えてワーグナー、ヴァルキューレ騎行などの管弦楽集、これも元旦にふさわしい。、

次は元旦から開いているレンタルショップで、手当たり次第に借りてきたCDを聴く。
ウーアも良かった、結局アルバム4枚聴いた。
ハービー・ハンコックの処女航海。
マーりナ・ショウの ”Who is this bitch,ANYWAY”
ノラ・ジョーンズは3枚、中でも” come away with me”が良い。

 

音楽漬けになっていると、3日はすぐ過ぎてしまった。
明日から又仕事、嫌だ嫌だが仕方あるまい。
ノラ・ジョーンズの”I've got to see you again”をもう一度聴いて寝よう。
これで正月は終わり。



■2005.01.02  night   管理人 wrote

何気なく教育テレビのチャンネルをかすった時。
歌のお姉さんの歌声が聞えてきた。
かすれた透明感のある歌声、「??、子供番組でこのボイス」
居間に一緒に居た次男坊が、「父さん、その人はウーアだよ」

初めて聞く歌手の名と歌声、気になって早速レンタルショップへ。
打ち込みのサウンドに、ボサノバのような歌唱法、組み合わせが良い。
ベースのシンプルな打ち込みだけで、ディスクU9曲目アカペラに近い曲「赤いあなた」、
何かのカバー曲のようだけど、とても良い。
中山ラビさん以来、最近久々の私の好みにヒットする歌手。


でも、こんなアーティストが何故、子供番組、歌のお姉さんなんだろう。
世の中変わったな!



■2005.01.02  morning   管理人 wrote

もう決意表明をする歳でもなく、淡々と年が明けた。
何か決意を念頭に置いて、出来た事は余り覚えが無い。
日常の積み上げでしか成さないのが、年の功の人生訓。
バリケードは非日常の日常だったように思う。

ヘルメットを被り、角材を手に取り、バリケードに暮らした半年余り。
それから二年間の’70の末まで、数え切れないくらいのデモと集会、それに続く競り合い。
そこに至るまでの契機となる”決意”をした覚えがトント無い。
階段を一段一段気合を入れて上がるのではなく、僅かな勾配のついた坂道を知らず知らず、日常より上がって行ったようなもの。
人生で敢えて決意が問われたのは、後にも先にも1968.9のバリケード防衛=死守を自分で決めた時が唯一。

その時も主義とか主張なんて何にも関係なかった。
強いて言えば「仲間を残して去るわけには行かない」という薄っぺらい義侠心かな。
大袈裟に言えば”人生掛ける”場面だったろうが、それや怖さに勝った事と思い浮かべれば、その程度しか思い出せない。

その時バリケードを去らなかった事は、今自分の中にそれなりの思いで残っている。
そんな思いを持った同志が、老いさらばえながらも多く居るはずなのだが。
皆どうしているのか・・・。
決意なんて、そう簡単にしたり言ったりするもんじゃないよ。



■2005.01.01  morning   管理人 wrote

友と語らいの際、何気なく中山ラビさんの「ラビひらひら」を掛けた。
友が「おやっ・・・・」という表情をする。
「おい、これラビの曲だろう?」
このアルバム1974年のリリース、その当時から聞いている曲という。
LPも持っているという生粋のラビファンだった。

先達ての上京の際、Y・たかしさんにお世話になった。
お礼の気持ちで、当地特産の柑橘をほんの少しだけ送った。
Y・たかしさんからのお礼には、「ラビさんに少しおすそ分けしました。ラビさん、喜んでいらっしゃいました」と。
送った気持ちを分けていただき、ラビさんにも喜んで頂き本当に嬉しい。

先日、水闘委行動隊さんから「いいものを見つけた」とメールを頂いた。
メールの添付写真には”チェ・ゲバラ”の敷物が。
うっ、これは良い旗になる、「私も是非入手したい」と訴えていたら、
「そちらで活躍されている皆さんへ、連帯の意味を持って進呈致します」というメールが入った。
代金も送料も負担するからと言っていたのに・・・、有り難い。
水闘委行動隊さん有難うございます、着くのが楽しみです。

                 

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