■2005.4.30 night 管理人 wrote
帰って来ると、妻が大事そうに木箱を抱えている。
見せてもらうと中にワインが2本。
次男坊が初めての給料で、買って来たものらしい。
木箱の横に、何やら品番が。
ゼロが四つ付いているので、多分その値段だろう。
「お前、随分無理をしたな」、
尋ねると、「まあね!」、と素っ気無い素振りを演じながら、結構力の入った返事。
「少し兄ちゃんからも補助をせしめたけど・・」
やはり、兄の資金援助は欠かせないらしい。
昼からは、田舎の祖父母の所へ泊りに兄弟で出かけて行った。
祖父母には、高いヒレステーキ肉を買い求めて持参していった。
入学、卒業、就職、事あるごとに少なくない金一封を頂き続けている。
そんなものではお返しに為らないのだろうけど。
それにしても、私には何も無いようだ。
■2005.4.29 morning 管理人 wrote
自主上映の17の協賛・チケット取扱い団体。
その中の幾つかは、私らのイラク現地報告会に協力していただいた団体もあるが、
大半は初めて見聞きする団体ばかり。
こういうのを”草の根”活動団体というのだろう。
まだまだ増えそうだ。
福祉系の団体、
暮らしを見直す系の団体、
平和を考える系の団体、
名称だけでは何の団体なのか分からない団体。
ロック・ブルース系があれば嬉しいのだが・・・、(失礼。
私はイラク現地報告会を催すに当たって、思いつく諸団体を訪問した。
主に、名だたる労働組合、労働団体、そして平和団体・・・。
今回、自主上映に名を連ねていただいた協賛団体の名簿を眺めて、しみじみ思う。
世の中には、実に様々な分野で活動している方々がいるのだ。
名だたる労働団体が、その社会活動や影響力を弱め、指導力を失ったと言われて久しい。
時代は、運動を背負ってきたそれらの団体から、様々な市民団体に受け継がれ移っている事を、この身で実感している。
これを知りながらも、発想と行動が伴わない私も守旧派だった。
社会活動家は、仕事が終え、デイパックを背に、
足を棒にしてネットワークを拡げる、この仕掛け人のご婦人であり、
我らサロン代表のご婦人なのだ。
彼女たちが”違う”うところは、「選挙」に血なまこにならない点だ。
■2005.4.28 morning 管理人 wrote
三島高校OBさんのレポートを見ていると、なかなかの頑張り。
オジサン、火が着くと怖いのだ・・・・・。
少し意味が違ったかな?、
でも、嬉しいのだ。
昨晩は、東京原発自主上映の前売りチケット作成に励む。
「1000枚作ってくださいね!」と頼まれている。
1000枚は少し多すぎると思うのだが、作る手間は500も1000も一緒。
ホンとにパソコンは便利だ。
「いくら位で作れますの?」
「ただ!」
「ただって・・・???」
「そう、ただ!」
紙は前回の講演会の分が余っているし、
プリンターのインクだって、タカが知れている。
「これが全共闘の心意気よ!」・・・って、粋がらせていただくだけでも、
こちらがお金を出したいくらい。
しかし、仕掛け人の彼女、集めてくるチケット取り扱い協賛団体の数が半端ではない。
マイナーな全共闘崩れは、ただただ感心。
たった数日で17団体集めてきた。
暴力学生、ただただ脱帽。
■2005.4.26 morning 管理人 wrote
ここ2〜3日、長男が定刻に帰宅する。
一家四人で夕餉の食卓を囲んでいる。
妻曰く「この歳で、一家四人揃い踏みで毎晩食卓を囲むのは、奇跡よ!」
そう云いながら嬉しそう、食卓は四人の話題が弾む。
「母さん、でももうすぐこれが五人になり、六人になるかも知れないよ」
私が言うと、
「私はこの四人で良いの、このままで充分です。」
どうも、未だ息子離れが十分で無い様、
家族排外主義にどっぷり浸っている。
妻は相変わらず自分の世界、人の云う事を全く聞いていない。
昨夜は次男坊が中国の話題を切り出した。
次男坊はこの親に似ず右寄りだ。
「中国を苦しめたと云う点では、英国が日本以上なのに、何故反日だけなの?」
次男坊は、彼なりの歴史観を述べる。
他人様がこの持論を述べると、むきになって反論したくなるのだが、
息子に言われると、妙に納得してしまう。
やはり人格形成期に、切った張ったの話を吹き込んだ反動だろうか、反省している。
更に息子は続ける、家族三人は次男坊の講義を拝聴する。
現代史は3つのアクションに分類できるらしい。
中国で言えば、アクションの革命期。
リアクション・反動の文革期。
そして今の愛国主義への傾倒の現代期。
これを何十年も前に論説している書物を読んだという。
日本で云えば、進駐軍が布教した”戦後の平和と民主主義”の革命期、
その反動が、これへの懐疑の”私らの運動・擬制の打倒”、となるらしい。
そして今日本にも見られる、排外的な愛国主義期。
息子に、一派一からげに括られてしまった。
でも次の展開はどうなるのか聞きそびれた。
■2005.4.25 night 管理人 wrote
個人情報保護法を丸一日研修。
職場の個人情報管理責任者を押し付けられた。
規定、規約、管理基準、プライバシーマークetc・・・・。
うんざり。
皆は真面目腐っているが、
俺は人間だ、記号じゃない。
実に馬鹿げた法だ。
■2005.4.24 night 管理人 wrote
宵闇迫る夕暮れ時。
皆が出掛けひっそりした家で、ディランを聴く。
ウトウトとして気が付くとコリーナ・コーリナ、
アルバムも最後の方の曲だ。
窓の外の夕焼けが綺麗。
ソファーで固まった肘を回しながらコーヒーを点てる。
ジュディ・コリンズの「青春の光と影」を掛ける。
アマゾンを知らない数年前、街中のレコード屋を探し回ってやっと手に入れたCD、
特別な思い出がある。
桃井のコンミューン、70年か71年の冬。
仲間の仲間、又その仲間ぐらいの伝手で、芸術学部映画学科の卒業作品出演の映画のバイトの話が舞い込んだ。
バイトと云っても、飯代と一日千円位だったと記憶が定かでないが。
撮影は都内の至るところ、早朝と夕刻の新宿もあった。
セリフは後で吹き替え、という事で無し。
役割は”フーテン”の若者、実生活を地でやれば良いだけだった。
スクリーンの中の私は、肩まで髪があったはず、フーテンには負けていない。
私と同姓の桃井のYくんと二人で演じた、私の幻の主役作品だ。
試写会を見ずに私は東京を去ったので、71年の冬だったのか。
東京を去った数年後に、そのYくんから、ジュディ・コリンズの「青春の光と影」がテーマソングで流れたと聞いた。

三年前、無性に聞きたくなった。
レコード屋を何軒回っただろうか、やっとの思いで手に入れた。
この曲、1967年発売のWildflowersに入っているとディスコグラフィーに書いてある、
少なくとも時系列はあっている。
透き通るような曲だ。
■2005.4.24 morning 管理人 wrote
日大三島高校のOBさん、貴方は立派だ。
人にはどうしても譲れないものがある。
生活掛かっているから、色んな辛いことが有ってるだろうけど、さすが日大全共闘の仲間。
そうです貴方は、私らの仲間です!
遠くの地から”共闘”のエールを贈ります。
寄せていただく便りに、私も頑張る気持ちを頂いています。
先日、何十年ぶりに再会した友がこんな事を話していた。
彼は学生時代、全共闘には関与せず大手のゼネコンに就いた高校の同窓生ですが、ふとした事から私のホームページを見てくれていました。
「もう2〜3年すると、世の中大変な騒ぎになるかも知れない・・・」
「会社で最も重要なポストを占めている団塊世代が退職になるからな」
いわゆる2007年問題とはちょっと論点が違っていた。
全共闘を実演しなかった連中でも、正義感を持った奴は幾らでもいる。
生活掛けてまで「会社の不正」「社会の不正」を告発するほどの勇気は無かったが、
でも、会社の呪縛から、生活のしがらみから解き放された時に、どうなるのか。
とだ・おっとせいさんが昨日、116日の闘病生活からやっと退院された。
昨日、丁重な退院のご挨拶のメールを頂いた。
入院中も携帯からか、数日置きにおっとせい日記に書き込んでいた根性には敬服している。
おっとせいさんの、子供や奥さんにたいする優しい気持ちには、何度か涙させられた。
退院の挨拶には
>掲示板における皆様の発言を見て、全共闘精神というものの広がり
と持続に強く感銘を受けています。また、僕は日大全共闘も東大全
共闘も「全共闘運動」と一括りにして眺めていただけでしたが、そ
れが大きな誤りであることも分かりました。東大全共闘は言葉を使っ
て書いたり語れる人がそろっていたためか、形になって残っている
ものが多いのに対し、日大全共闘はまさに「精神」「情念」という
ものだったように感じました。それだけに、貴方のサイトは貴重
な存在だと思います。
(私信の一部を公開して申し訳ありません)
私の稚拙な「思い」だけを語る文章が、少しはメッセージできたかと思うと、とても嬉しい。
■2005.4.23 morning 管理人 wrote
金曜サロン、2週続けての精勤。
校正版のチラシ、ポスター、チケットを持参して参加。
気心が知れてて和気合い合い。
課題の「東京原発自主上映」の段取りを話し合う。
少し遅れて、サロンに張本人の仕掛け人が登場。
一連の協力に、丁重なねぎらいのお言葉を頂く。
私は楽しくてやっているのだから、少し気恥ずかしい。
でも、出来上がった校正版には少し自信がある。
張本人のご婦人に詳しく聞くと、
どうもこのイベント、彼女一人が孤軍奮闘している様。
要になる事務方も彼女一人のようだ。
私らが開催したイラク現地報告会は、6名の老人行動隊が居た。
6名がそれぞれの得意分野で、事務方、現場方の役割をこなした。
このチームワークは、思い出してみると絶妙だった。
金曜サロン6名で、一番過激だった60才台も半ばの行動隊員。
この先輩は、自転車を漕いで半径何十キロという地域にポスターを貼って回った。
炎天下の真夏から、西風吹く晩秋まで、寄る年波を跳ね返し自転車を漕いだ。
私は、この先輩を尊敬して止まない。
しかし、今回はこの先輩が問題だ。
先輩は町中の電柱にポスターを貼った殊勲がある。
今回のポスターは”原発”テーマだ、それも原発推進ではない。
電柱は電力会社かNTTの所有物件だから。
どうやって、この先輩を説得しよう。
■2005.4.22 morning 管理人 wrote
34年ぶりに会った友は、高野悦子さんと同じR大出身。
大学時代は全く付き合いは無かった。
彼は、娘さんとはもう15年も逢っていないと語る。
彼の唄う”群青”には、歌の上手い下手を超え、伝わる何かがある。
目を瞑って聴いていると、私の34年が頭の中を回る。
私の34年は、家族を守ること、育てること、
そして、私の中の”全共闘”に掛けたささやかなプライドを守りとおすことに尽きた。
そして、その妻子が私を支えてきてくれた。
妻や、息子達に感謝している。
バラが咲き始めました
2〜3日前から、合間を見ては、「東京原発自主上映」と講演会の準備に励んでいる。
仕掛け人で、このイベントの張本人のご婦人。
彼女と連絡を取り合うのは主にメール。
チラシの原稿が出来たのでメールで送ると開けないと云う。
あれやこれやとメールで診断していたが、少し前のマックを使用しているという。
チラシの校正がママならないので、強引な手段を使用。
チラシ原稿をWEBページで保存し、私のHPにアップロード。
「これなら見えます」と返事が来ました。
ちなみに、リンクは何処にも貼っていないので、非公開?ページです。
34年ぶりの友には、高野悦子さんの事を聞き忘れた。
何時になるか分からないが、今度あったら是非聞きたいと思っています。
■2005.4.19 morning 管理人 wrote
細身のブランドスーツにデイパック、フルフェイスのヘルメット。
次男坊は三河屋のスーパーカブで颯爽と出勤する。
どうしても、私は似合わないと思うのだが
最近は、職場に着くのがジャスト5分前という。
私は7時30分前には家を出ている。
ほぼ同じ場所に通勤していて、彼は8時過ぎでも間に合うと云う。
少々の雨なら、高校時代のスクール合羽を羽織っているようだ。
珠の飲み会の日は、一緒の通勤、助手席に座る。
普段余り喋らない息子が、助手席ではよく喋ってくれる。
新しい職場のこと、
上司のこと、
隣の席が、高校の先輩だったこと、
その先輩にアゴで使われること・・・。
朝の40〜50分が瞬く間に終わる。
■2005.4.17 night 管理人 wrote
25年ぶりに高校の同窓生が帰ってきた。
仲のよかった悪友たちとミニ同窓会をもった。
25年ぶりが2名、34年ぶりが2名、いつも会ってる奴が1名の計6名。
皆白髪になり、薄くもなっている。
私は全共闘の”トラウマ”がある。
かつての話題と言えば、必ず大学時代、全共闘のそれに戻る。
けれど昨夜の席は、少し違った。
その四〜五年間を跳び越して、17〜18歳のまぶしかった青春時代に戻る。
友のカラオケ”群青”は、ゆるくなった私の涙腺を刺激した。
中国の騒動、私は世間ほど感情的になれない。
災難に合った邦人には申し訳ないが、自虐的な小気味良ささえ感じる。
皆はもう薄々感じているだろうが、これは所謂”反米”デモだ。
反日は、いずれ反政府に行き着かざるを得ないのではと感じる。
論点を逸らすつもりはないが、拳を突きつけられているのは日本ではなく、中国共産党の方ではないか。
■2005.4.15 morning 管理人 wrote
職場のホームページにも管理人日記を新設。
勿論、ここで書くような日記はご法度。
今は、2002年4月に受講させられたWEB養成講習の思い出を「IT奮闘記」として綴っている。
毎朝、少し早めに出勤して書くので、此方の日記が少し疎かになっている訳だ。
市民団体の金曜サロンから呼び出しが。
イベントのないサロンに、いまいち馬力が掛からなくてご無沙汰していたのだが。
お呼び出しをいただき、先週久々に出席。
初対面のご婦人を、サロン代表から紹介された。
この方が、無謀にも県内最大規模の大ホールを借りて自主上映会を催す張本人という。
映画は「東京原発」。
呼び掛け・動員用のビラ、前売り入場券を作るのを、私に協力して欲しいということ。
昨年秋に開催した「イラク現地報告会」の動員が、この業界には相当インパクトがあったらしいのだ。
しかし、原発映画を上映するのは原発を奨励するためではない。
反原発を訴え、人が自然と共生できる社会を作るため・・・、というかなり四角な言葉のオルグを受けてしまった。
こういう四角い言葉は久しぶりだし、オルグも久しぶりだ。
イラク問題では、イラク派兵支持派から執拗な嫌がらせがあると聞いているが。
反原発は、電力会社の裏と表の両面の嫌がらせを受ける恐れがある。
特に裏の嫌がらせは、お金を使ってその筋の方を使うことも有る、とサロンの長老格の方が語る。
「自動車事故では”殺人”にならない」、なんて云われると少し引くが。
承った以上は「やらねばならない!」のだ。
■2005.4.12 morning 管理人 wrote
月曜から丸2日間。
職場のホームページ、アンケートフォームのCGIで悪戦苦闘。
フォームの入力確認ページ、入力漏れエラーページのCGIが動かない。
マニュアル通りにCGI−DATAをリモートサーバーに書き込んでいるのだが。
サーバー会社に問い合わせる。
懇切丁寧にメールで解説いただけるのだが、言われている意味が分からない。
50も半ばを超えた輩の頭は、ほぼ2日間フリーズ。
「CGIをwwwの階層にアップして下さい」
wwwと同じディレクトリ(階層)にアップロード?、
「そんなの、今まで聞いていない!」
そうか、レンタルでも我が職場のホームページは、サーバーに家主でいるのだ。
家主の下に店子でいる、ブロバイダーのサービス領域のホームページよりは格が上。
こういう風に理解すると、突然意味が分かり始めた。
やっとこさ、本日昼過ぎにアップロード成功、CGIが働き出した。
ア〜ア、この2日間疲れた。
■2005.4.10 night 管理人 wrote
「ラッパの大将」さん?
写真集「日大闘争」、のこの写真の次ページに次の文章が、
紹介させていただきます。
この文もラッパの大将さん筆?
東京ぽん太のトレード・マーク、唐草模様のブレザーは有名だが、この唐草のフロシキをデモの先頭に押し立てた全学連部隊は、日大を除いて未だかつてない。
"古田打倒"のスローガンから始まった日本大学全学共闘会議の闘争は、少なくとも、それまで存在していた学生運動や学園紛争のイメージを大きく変え、そして莫大なエネルギーをその中に注入していった。
創意と思いつき、その綴密さと大胆さ、そしておおらかさとしつこさ、命を賭けた闘いと、遊び、あらゆる予盾した心がこの闘争の中には渦巻いている。
客観視すれば、それは長い圧殺の歴史から吹き上げた解放の表現であり闘いを支えている大なテコといっても過言ではない。
そして、これらの心が、思想と固く緒びあっているところに、この闘争の広さと深さが存在する試みに幾うかのエピソードをひろってみよう。
レポと云えば情報収集の係だ。フェアレディのオープンカーに、かわい子ちゃんというアベックレポも日大ではめずらしくない。
第三機動の屯所前のドブから首だけ出して、一晩中その動きを監視するA君、機動隊の動く所なら"どこまでも…"というB君に至っては警察も顔まけ、"何だまたオマェか、今日は演習だから心配するな"こんな話もある。折を見つけては警察に出むき、パトカーからの通信をメモして本部に伝えているD君等など。E君は機動隊をつけている最中、あのカマポコ車の中でリンチにあったと目をつり上げていたのも古い話ではない。
西条巡査死亡は"末必の故意"などという用語を世に出したが、"そんな所へ行けば死ぬかも知れないのに、敢えて行ったのは末必の故意でなくて……不幸なことだったが"、浅草署で"日大生”といったら撲打したのが西条巡査の弟だったと語るF君は、"しようがねえや"とポツリ……。
バリケードの中では一体どんな食事が食べられていたのだろう。ある日のメニュー。食パンニ片にレモン四分の一。これでは長くは続かない。
G君は夜泣きソバの屋台を引きながら、学校に通っていたが、バリケードが築かれてからはバリ内で屋台を開業、一部を闘争資金にまわしている。ラーメン60円、チャーシューメン00円也だ。農獣医学部では自家製のソーセージや肉入りカレーライス。近所の犬や猫が少なくなったと笑い飛ばしていた食対。これでは病気にもなりかねない。
カゼや胃病は普通だが、闘争が長びくにつれて栄養失調が多くなったし、寒くなってからは"ぢ”を訴える学生もふえて来た。H君の母堂が三カ月ぷりに我子に逢って、彼の持病を気にしていた光景は目に痛い。
11・22以降、逮捕される人間もふえ、勾留期間もぐんと長くなった。それに逮捕されると、必ず家宅捜査を受けるが、我々の仲間はひるんでいない。十二月二十日現在のぺ逮捕者629名だ。
中には変った御仁もいて、オレは千人目になる"……。記念品まで考え出すオチャメもいる。曰く"取調べがない限リ、バリケードの中よりムショの方が楽さ。それに何たって税金を思う存分喰って、肥えて帰れるんだからな。H君なんか腹が出て来たぜ……"。機動隊の中には妙な人間もいるらしい。
芸術学部にはネコビアン、つまり猫をかわいがる女性のことーが多くなったのも珍現象だが、パクられてホモられたなどという話も聞く。
"ありゃ神経まいるよ。あんなホモにかかっちゃ、黙秘も長く続かないネ……。
J君あたりはすご腕の代表格だろうか。元フェザー級チャンピオン、茶研の一年生。機動隊のタテをはがしてストレートパンチ、四人目に味方の投げたレンガを足に受け倒れパクられた。しかし手首が太くて手錠がかからなかったとか。挙句に点呼の時、元気に"オス”。
原宿署に勾留された8人の侍は、それ以降同窓会を結成。完全黙秘をやり通した信念で、以降の闘争にもお互に励まし合っている。妙な同窓生だ。
文理学部に"大安吉日紛砕"などというコトバが流行した裏には悲しい恋物語がある。一年留年決定、彼女は適令期。この三月には帝国ホテルで挙式の予定だ。そこでM君涙で"大安吉日紛砕"そして"日帝紛砕"。
"ねえ、月がたくさんあって美しい夜だなあ”バリケードの中、たき火にあたりながら女の子をくどいたL君。少しふざけているがまあいいだろう。
タレ目のゴンベェという犬にあやかって、焼きいもも"ゴンベエイモ"。これは"全ブス連”のお歴々にはうけた。ただし、N君が気負い込んでアジッてると言葉の切れ目で"ワン”、ゲラゲラっという笑い声にN君気がぬけてションボリといった風景もなつかしい。
日大闘争を支える顔はまだまだつきない。10万の怒りが爆発した日から、10万の目が開き、口が語りかけた。
闘いの日々は長い。だが、この顔と心がある限り、我々は既成という概念の深みには落ち込まないだろう。いずれは記憶にうすれるこれらの日々とこの顔をとどめておきたい。勝利はやがて金ての学友の上に来るはずだから……。
1969年2月10日発行、写真集「日大闘争」より
■2005.4.8 morning 管理人 wrote
akikoさんの記事が1969年1月に入った。
初めて聞く東大生の肉声に、思わず身を乗り出す。
それぞれに、其のことについては両論があるだろうが、
私個人の率直な思いは、「akikoさんは講堂に残らなくて良かった」だ。
歴史に”もし”は無いが、
安田講堂に東大全共闘だけが立て籠もっていたなら・・・・
数千の日大全共闘が本郷目指して進撃を開始していたはずだ。
全ての制約を無視して行動を起こしたはずだ。
そして、その後に続くセクトに凌駕された全共闘運動も違ったものになっていたはずだ。
単純な私は、今でもそう信じている。
セクトの諸氏、
あなた方は・・・・、
・・・・・ 止めよう。
■2005.4.6 morning 管理人 wrote
>日大全共闘が、銀杏並木を進んで来たときの感動は、今でも生き生きと思い出します。
経闘委4月4日掲示板
素晴らしいブログを見つけました「あなたへのEメール」。
見つけたと云っても、私から見つけたのではないですが。
経闘委の掲示板に、リンクを張って自己紹介いただいたのを見つけたのですが。
>日大全共闘経闘委の同志からの連帯の表明に、東大全共闘文学部学友会中文学生会を代表して、熱い感謝の意を表し、更なる連帯の強化を希求するものであります。(少し時代がかりました)
私の書き込みに、こう答えてくれました。
経闘委と間違われたのは、経闘委のホームページから飛んできましたと、自己紹介したからです。
私と前後して、正真正銘の経闘委さんの書き込みもありました。
さすがに東大、緻密なブログは素晴らしいものがあります。
開設して約半年、これから少しずつ読んで行こうと思っています。
1969年1月20日早朝、陥落直後の安田講堂、
少し前まであの今井さんが時計台放送をしていた天辺。
私の黒色旗の横で、赤旗を掲げたのも東大文学部の小柄な女の子。
人は違えど、36年ぶりの再会です。
■2005.4.4 night 管理人 wrote
>ドラム缶で造った風呂に入っている、催涙太郎氏の言う「太く黒々とした髪の毛が肩までかからんとする長髪、無精ひげ、眼光極めて鋭く、とても人間には見えなかった。」・・・が私です。
「ラッパの大将」さん、これですか・・・・?
(大きい写真は、目線に少し墨を入れらしていただきました)
■2005.4.4 morning 管理人 wrote
道路の左側が気になる。
4月1日、次男坊はさっそうとスーパー・カブで出勤。
「父さん、途中で追い越したの気が付かなかった?、20分で着いたよ」
私の所要時間40分、バイク恐るべし。
朝一番、ホームページを開ける。
豆腐屋こと「ラッパの大将」さんの書き込みが。
先日とある写真集で見つけた”芸術的”ショットをトップページに乗っけた。
早速、何処の誰という詳細情報の書き込みが。
情報ネットワーク、恐るべし。
「ラッパの大将」さん
書き込みを読み進む。
最後、
>ここに結集されたー 全ての戦う同士諸君にー 熱いー 連帯のー 挨拶をー送りたいとー 思いますー
今こそー 立ち上がるー 時が来たー 過去を総括しー 未来に展望を開く為―
戦うぞー 我々は戦うぞー 最後の最後まで戦う
いかん!、起きだちの涙腺が緩む。
涙が込上げて来た。
■2005.4.3 night 管理人 wrote
先頃、51歳の方に「私ら団塊の世代は・・」と言われて、
私の様に、全共闘と団塊世代がダブっているこだわり派には、余計に違和感がある。
別に公式な定義がある訳でないが、51歳までは少し拡げ過ぎ。
極めて狭義な定義は、昭和22年から24年、1947年〜1949年の間に生まれた世代と云われている。
幼稚園から大学まで、教室から溢れる世代人口。
急増のフレハブ校舎が建てられ、中高は二桁クラス数。
戦後も、貧しさも、其処此処に残っていた。
ジープに乗った”進駐軍”にキャラメルを貰った微かな記憶もある。
小学校の5年か6年の頃、昭和34年か35年頃、
家の裏山に粗末な長屋が建った。
山間僻地から多くの家族が移って来た。
幼子にその意味は分からなかったが、
ある日、学級総出で国鉄の駅に小旗をもって出かけた。
長屋に住んでいた方々が”共和国”へ帰還する見送りだった。
その中に私の小学校の生徒も居た。
その生徒の名の入った小旗をクラスで作った。
プラットホームで壮行会が開かれ、
離れていく蒸気機関車を万歳で見送った。
名前も顔も忘れたが、
あの家族、あの級友は、共和国で生きているのだろうか。
私の世代は、微かだが忘れられない”戦後”の記憶がある。
■2005.4.2 night 管理人 wrote
「いいか、電話は2コールで取れよ」
どう返答するかの指示も無く、いきなり電話を取らされたらしい。
少々手荒い新人の扱いのようだ。
それでも次男坊、初めての職場は「面白かった!」
そんな日に限って月末・月初めの残業の山。
それでも息子の”今日の一日”の話を聞きたくて9時には仕事を切り上げ帰路。
長男もほぼ同じく帰宅、午後10時、一家四人の遅い夕食。
次男坊を中心に話が弾む。
「これからは兄ちゃんを見習わないとな」
「俺はな、飲み会は断った事が無い!」
「俺は飲み会は苦手・・・」
「人の関係はノミニケーションで拡がる」
同じDNAでもこの兄弟、かなりライフスタイルが違うようだ。
|