管理人日記2006年6月  
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■2006.06.30  morning  管理人 wrote

ワタシ的にはメインのジャニス・ジョップリン。
歌うは「BALL&CHAIN」 かなり重いファイル、時間がかかる(泣。
ちなみに2年後の'69年ウッドストックでは「心のかけら」歌っているが、
こちらのビデオも有ったが、カビけて再生不能。

先日夜半、教祖さんから電話が。
ここんところ夜に何回か電話を頂いたらしいのだが、遅い帰宅で失礼した。
「ワシら、美味しいとこ取りして済まんかったのう」
「あんたら、苦労しなすったのう」

"一触即発"の状態は回避され、
'60年代組と'70年代組の交歓の場となったらしい。
日大全共闘、内ゲバはしないという”伝統”は守られたのだ、
まずはメデタシ。

しかし、ある筋で教祖様の最近の御尊影を拝する機会に恵まれた。
聞きしに勝る民族派の風貌、
想像以上であった。
右と左にウイングを持つ日大全共闘で良かったのだ。


■2006.06.29  morning  管理人 wrote

昨日の休暇が効いて、今朝は好調、
よってBGMは BRITNEY SPEARS。
何かと話題の多い子だが、オッサンはデビュー当時からの隠れファン(笑うな!。
'99年、17歳のファーストアルバムをガンガン車内に響かせる。



先日、高校生と思われるブログに侵入。
脅かさないように慎重にコメントを書き込んだのだが、
少し無理があった様、
返答のコメントは未だ無い。
でも、彼(高校生)ここ2〜3日の書き込み内容に微妙に力が入っているから微笑ましい。
ごめんな、そんなつもりじゃなかったのに脅かして。
学校は卒業できる程度に行った方が良いよ、月並みだが。

シリーズ2は、CALIFORNIA DREAMIN


>■2006.06.28  night  管理人 wrote

午後から、久しぶりに隣町のレストランへ。
お気に入りのガーデンテラスのある店、
平日だから客はまばら。
ミントの緑がガーデンを覆って、ほのかに甘い香りが漂う。


隣席のシルバーグレイの老婆を見て母を思い出した。
母も見事な銀髪だった。
父の葬儀の翌日に入院、父と同じ病で3度目の大手術を受けた。
「母さん、もう一度だけだから頑張る?」
泣きそうな目で私を見つめながらうなづいた。

母の手術の一月前、父は延命治療で二度と家に帰ることなく病院で果てた。
手術後、余命半年と告げられ、医師に懇願し母を自宅に連れ帰った。
同じ経験は二度したくなかった。
少しずつ衰弱していった。

オムツを換えてやった事。
お風呂に入れてやった事。
中学生だった長男が毎晩添い寝した事。
余命半年と告げられてから8ケ月後、
孫達と夏祭りの花火を見た二日後、還らぬ人となった。


■2006.06.28  morning  管理人 wrote

どちらかと言えば反米愛国なのだが、
カルチャーは物心ついた頃から米国ドップリ。
進駐軍の記憶が残る最後の世代、
米国への憧れ、’50〜60年代アメリカンポップスを聴いて育った。

この2〜3週間の間、猛烈に忙しかった。
朝、携帯のスケジュール帳を開けると、おぉ・・予定が無い!
そういう訳で今日は急遽休暇を取得。
捨てようと片付けていた大量のビデオの中に「MONTEREY POP '67」を発見。
'88年の録画だから18年も前のビデオ、カビけてなくて再生できた。

DVDに焼く前に、画面を携帯ムービーで撮ってみた。
サーバーも余裕があるので、アップしてみた。
TVの画面だからいいだろうと、何時ものように納得してみた。
最初に「SAN FRANCISCO」、説明は要らないだろう。
ジャニス、ジミヘン、フー、ジェファーソンエアープレイン、ママスアンドパパスなど順番にアップ予定。

無料版で充分 を入れてないと観れないので、悪しからず。


■2006.06.27  night  管理人 wrote



アルバムを見ていて懐かしい一枚を見つけた、
もっともアルバムち〜ゅうものは懐かしむために見るものだが・・・。
’91年、理闘委20年目の同窓会。
四十を越しても自慢のロン毛は健在、
それから彼是20年、現在は・・・・・・言わないことにする。
プライバシーのため私以外は目線を入れている。
固い絆の我が闘争委員会、当時も、今後も(多分?)動員は3桁を誇るのだ!


■2006.06.25  morning  管理人 wrote

WEB2.0という言葉、難しい定義は苦手なのだが、
昨今、インターネットの使い勝手が劇的に変わってきたのを私も実感。
単ゲバであるので、理屈だけでは納得しないのだが、
ネットを飛び回ることで最近色んな方々とコミュニケーションしている。

先程、高校生と思われるブログにお邪魔、足跡を記してきた。
それなりの”キィーワード”でどんどん飛んでいっただけ。
グーグルやブログの検索サイトを利用し、コミュニケーションが持てそうな方を絞り込んでいく。
ヤバそうなのは勿論避けて通る。

それが何なの!、と言われればそれまでだが、
PCの前に居ながら、未知の方々と繋がる。
WEBでなければ、こちらも構えてしまうだろうし、
離れた世代との交流はかなりバリヤーが高いだろう。
すくなくとも団塊レトロ小父さんにとっては凄いことなのだ。


雨続きの週末、
雨に打たれるクチナシの花を一杯摘んで花瓶に生けた。
部屋中にほのかな香りが、
梅雨もよいものだ。


■2006.06.23  morning  管理人 wrote

とんぼ返りの出張の予定に、思わぬ時間が空いた。
静かで、控えめで、優しい表情の先輩に会いたくなって電車に乗った。
帰路の飛行機便までゆっくり時間が有った。
ドアを開けるとご夫妻で「やあ、**さん!」
名前を憶えて頂いていた。

店が少し暇になると、私の席に座った。
美味しい珈琲を、とサイフォンで点ててくださった。
「どうしたの?、前もって知らせてくれれば良いのに」
急な予定の、突然の訪問の非礼を詫びた。

先輩の語る日大闘争以後の生き様は、
その温和な表情からは計り知れないものだった。
日大全共闘の一人ひとりが抱えた荷物の重さを思い知った、
私の生き様なんぞ柔な物で、先輩のそれと比べ物にはならないが、
それでも自分がダブる。

どんな生き様を選んだとしても、
走り抜けた私らが、棄てられないものを改めて思い知った。


■2006.06.22  morning  管理人 wrote

「そういえば、あれから一度も会っていないな・・・・・」
ぽつりと、低い声で、淡々と喋りだした。
闘争の最中、父親と口論になり家を飛び出した。
それから、もうかれこれ40年近くなろうとしている。
「この間、会うチャンスは何度か有ったのだが・・・・・」
やっぱり敷居を跨げなかったと言う。


全てのものを棄てて、着の身着のまま放浪の旅に出た。
西国の飯場を渡り歩いた話、
飲まず食わず無一文、ヒッチハイクでトラックに拾われ流れていった話。
ぽつりぽつりと気負い無く、淡々と話す。
淡々とした話なのに、聞く私の胸は段々と熱くなる。
瞼に込み上げてくるものを悟られないように平静を装って話を聞く。

日大闘争が落としたものはそれぞれに大きい。


■2006.06.09  morning  管理人 wrote

最初は「フルタ(古田会頭)倒せ、闘争勝利!」
このセンテンスを4拍子のリズムで繰り返す。
’68年9月30日頃までのデモの掛け声。
合間にシュピレフコール「日大闘争に勝利するぞぉぉぉ・・・・・」が入る。

デモの掛け声はゴスペルのようなものだと思えばよい、
イェェ・・、イェェ・・と繰り返しているうちに高まってくる、
シャウトはシュピレフコール。
括りはデモの帰り、サンジェルマンや吐夢で聴くコルトレーンやドルフィー。
掛け声に「アンポー粉砕!」が入ったのはいつ頃からだろうか。

日曜日の夜、携帯電話で通話中にピピピッ・・と警告音が鳴り出す、
ウヌッと思った瞬間プッツリ。
通話時間は2時間半ほどに及んでいた、エネルギー切れである。
列島を挟むほどの遠方、相手の通話料金が如何ほどかとそれが気がかり。

昨晩、同じ方から再度電話が、
今度は固定電話、体制を固めて子機を取りパソコンの前に陣取る。
実は前回拝聴した、八百萬万の神、縄文民族派の諸説が全く理解できなかったから、
話を聴きながら、ボキャブラリーをパソコンで検索。

ミンエイケンが民族文化映像研究所
ヒメダが姫田忠義氏、
キソウブンカが基層文化、
観て見ると良いと勧められた「越後奥三面 −山に生かされた日々−」、
”奥三面”の正しい読み方がまだ分からないのですが。

梅原猛、妻の書棚に並んでいて表装だけは見たことがある、
柳田國男、これも妻の書棚に、名前だけは知っていた。
万世一系、八紘一宇、
国学院の神道には歪曲があると。、

御方の一貫した持論は、
万世一系、八紘一宇の皇国史観と民族主義は捏造された史観、エセな民族主義。
日大全共闘・(縄文)民族派の真髄を聞かせていただいた。
バッテリーは何とか持ったが、我が頭はパニック。


■2006.06.08  morning  管理人 wrote腕力とか凄み、思想性はこちらに置いといて、

出足だけは早かった。
物理的に軽量級で有ったこともあるし、根が単純。
レスポンスの良さは、学科、学部でも結構自信が有った。

「右翼だ・・!」と聞けば、
寝てても、飯食ってても、トイレに居ても、一番先、
ゲバ棒、軍手、ヘルメットの完全装備で飛び出した。
そんな修羅場続きの生活習慣が今に結構役立っている(笑。

しかし、レスポンスだけでは対応出来ない修羅場も有った。
’68年9月4日未明、機動隊導入の報をバリケード内で聞いたとき。
一瞬固まった、
思考が停止した、
どうしたらよいか、それまでの人生の経験では対処出来なかった。

周りで喋っている声は全然耳に入っていなかった。
誰かと相談した憶えもない。
残ってくれと頼まれた憶えも無い。
誰かが、「それぞれ各自で決めてくれ」といったのを聞いたような記憶だが、それも定かでない。
誰かの為に抗戦するというものでもなかった。
どうして「残る!、徹底抗戦する!」、と決心したか自分でも分からないのが本当だ。

50数名泊り込んでいた内、止むを得ない事情でバリケードを退避したのは数名。
各自が個々の決意で殆ど全員が残留、徹底抗戦を決めた。
残ったのは一人残らず皆、日大生、理工学部の学生だ、
そんな決意をした仲間が、日大全共闘には数知れず居た。

美化するつもりはない、馬鹿者である。
バリケード内には命を共にする連帯感が生まれていた、大袈裟ではないのだ。
それが日大闘争だ。
(今朝は力が入っているのだ)


■2006.06.07  morning  管理人 wrote

久しぶりにBGMはジミヘン、ヴーヅゥー・チャイルド。
天野屋さんの最大級の褒め(殺し?)言葉には恐縮する。
当時の事は前後関係不明、断片的な点の記憶しかないので、
ストーリーとしては心象風景で線をつないでいる。
やっぱり、ジミヘン最高!

丸太を抱えた応援部隊がいた、時は’69年2〜3月頃。
目の前にブロンズのドアがあった。
バリケードから追い出され、校舎はロックアウト。
イベント名は「理工学部バリケード奪還闘争」かな?、定かでない。
自身の学部だから、押しかけ部隊の最前列に陣取っていた。

他学部の部隊が丸太棒でブロンズドアに突進する。
何度めかにドアが壊れて開いた。
私は身が軽いので、丸太部隊の脇から一目散に飛び込んだ。
多分、これが天野屋さんの目に映ったのだろう。
天野屋さんの当日の回顧録と状況が一致したのだ。

私の場合、”モサ”は適切でない。
紛れも無いモサとは、天野屋さん、ラッパの大将、教祖さんらを指して云うのだ。
私の沈着冷静(何処が?)な状況判断は、校舎の中に誰も居ないと踏んでいた。
’68年春の段階では、そりゃ〜うようよいた(らしい、私は参加していないので伝聞)
動員された体育会学生、応援団、そのOBの大学職員。
その武装は、プロの筋者にも劣らないもので日本刀まであったという、
事実、私の仲間は背中を切りつけられ大怪我を負っている。

しかし、この突撃はそれから1年余り後。
渡り合った日大全共闘のハチャメチャぶりは、相手も一年掛けて十分学習していたから、
当然、中に立て篭もるような向こう見ずのバカは居ないのである。
これは、日大全共闘だけが到達した地平なのだ(マスコミの歪曲やセンセーショナルな誇張もかなり寄与しているが)。
偶然とはいえ、私はこの名誉?ある日大全共闘の一兵卒で有り得た訳、

中に相手が居ないこともあり、私は手当たり次第メチャクチャした(懺悔・・)。
教務課、消火器を・・・をまでは憶えている、
器物破損は”モサ”でなくても誰でも出来るのである。
これには授業再開阻止という大義名分はあったのだが、
私の破壊本能が満足するまでヤリ続けた。
この範囲で、私はブレーキの利かない”ヤンチャ”な馬鹿野郎。

やり過ぎた私は、後で仲間のヒンシュクも買ってしまった。
時効だからいいだろう。


■2006.06.02  night  管理人 wrote

ミルク?、 or レモン ?
ウエイトレスさんの問いに、毅然と応える
ストレート!
かつて啄木の詩の一節を読んでから
これは譲らない、紅茶はアールグレイ。


仕事の付き合い酒まで小一時間、
時間つぶしに久しぶりに入った喫茶店、
飲み過ぎた珈琲に変わって頼むはアールグレイ。
昨日届いた「ウェブ進化論」の読書タイム。

>グーグルの目指すゴールは「抜群に優秀な連中を集め、創造的で自由な環境を用意する。ただし情報を徹底的に全員で共有した上で、小さな組織ユニットをたくさん作り、個々がスピード最重視で働き、結果として組織内で激しい競争を引き起こす」
ウェブ進化論を1/3まで読み進むとこのような記述。

日大は10万人、
其の中で数千人、モチベーショの高さは抜群、
破壊的で自由な環境、
徹底的な情報の共有、
小さな組織ユニット、
個々がスピード最重視で
結果として組織内で硬い絆。

グーグルの目指すゴールと初期の日大全共闘。
ITかウェブの進化か知らないが、
一部微妙に違うが大筋で一緒、そう変わらないと思うのだが、
問題は、私等は続かなかった事。

ふらつきながら帰ってきて書いています。

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