■2007.03.31 night 管理人 wrote
久しぶりのお勤めの無い休日、
ポカポカ陽気で草木の世話をと念掛けていたのに、曇天で肌寒い。
それでも午前中は庭に。
そこ此処に知らない花が咲いている。

my favorite songsにモーツァルトを置いたせいなのか、
牧師様からイースター祭へのご案内をメールで頂いた。
其のうち教会から届くイースターカードを心待ちしている、
50年以上忘れていた、クリスマスのサンタさんを待つ”純”な気持ち。
この不信心な不届き者が聖なる教会に足を踏み入れる心づもりは、
「汝よ、2mの塀を飛び越えて参れ」と云われるのと同じ位。
そのため・・・、
my favorite songs当分はクラッシックのオンパレードで行こうと決心の次第。
・・・・・少し違うか?
■2007.03.30 morning 管理人 wrote
出陣式なもので、
お陰でドブ板からはやっと開放される。
この間、土日・祝日全でご奉公であった訳で、
立派なくたびれ風貌に。
丘の上の一軒家を目指して
久し振りの自由な土日、
仲間の街宣活動に合流しようか、
それともゆっくり泳いで、
草花を愛でて過ごそうか。
エッ・・・テレフォン作戦?
トホホ、それはお許し頂きたい(泣。
■2007.03.29 morning 管理人 wrote
振り返れば、1968掲示板を始めて3年とちょっとになります。
今まで数千もの投稿を頂いているわけですが、
その間、嫌がらせと思われる記事は数件のみで、それも皆さんの集中砲火ですぐ沈静。
投稿管理は殆ど必要のない”手の掛からない”掲示板でした。
「他からの攻撃」のためではありませんが、
少し訳有って2ケ月間ほど休止していました。
先日、再開して10日ほど経ちました。
投稿の掲示は管理者の承認後の措置を取らせていただいていますが、
この間、掲示の”不承認”は一件もありません。
投稿の管理はネットが繋がるところであれば何時でも何処でもできるのですが、
日中は勤務のため、それと夜10時以降は対応が遅れています、その点はお許しください。
今後は、早い機会に管理の要らない元の自由度の高い掲示板にしていければと考えています。
私としましては、どこやらの板のような思想性の高い”パンツ論争”も大歓迎です(笑。
・・・ウ〜ン、歯止めが利かなくなるかな。
my favorite songs 入れ替えました
■2007.03.27 night 管理人 wrote
BGMはマッチしませんで、ストップして最後までご覧下さい。
誰だ、
「異議ナーシ、一票だ!」って云ってるのは。
■2007.03.27 morning 管理人 wrote
仕事の帰り、近くの公園を散歩した。
夜桜が目当て。
さすがに月曜日、花見の宴は未だない。
赤いぼんぼり提灯の下が賑わうのはこの週末からだろう

習慣とは恐ろしいもので、無意識に”愛称”を使ってしまう。
第四インターは”四トロ”、
中核派は”マルチュウー”さん、別の呼び方もあるがこれは云わない。
解放派は”アオカイ”、これは一字違うと大変は事になる (汗。
などなど、なのだ。
私(等)は民青を除いては全方位外交をしていた、
どちらの方々も分け隔てなく。
これが日大全共闘”黒ヘル派”の最大特徴だろう。
・・・・・ウ〜ン、最後はもう一派だけ民青の横に並んだが、これも云わない。
■2007.03.26 morning 管理人 wrote
「沖縄全面返還、安保条約廃棄」。
よく見るとコチラ方面の業界用語でない記述が。
てっきり京大全共闘のアジビラかと思ってスキャニング、
京大全共闘のものとしてファイリングしようとしたのだが。
こりゃ〜民コロだ。
ということは「S全連事務局」というのはアチラ側で、「S共闘」ちゅうのがコチラ側。
11.29S学生大会とは、S全連・敵対勢力の大会な訳。
民コロは日大では殆ど無視・シカトの存在だった訳で、
こんな元気のいいビラ見た事なかったもので。
しかし、どうしてこんなものが私の手元に有るのだろう・・・・・
■2007.03.25 night 管理人 wrote
トホホで疲れて帰ってくると、妻が携帯メールを私に見せる。
画面にはきちんと主語と述語のある少し長い文章が。
「きちんととした文書でメール送ったら、こんなにきちんとした文章で返って来たのよ!」
顔がほころんでいる。
何時もは、
「晩御飯は?」
「要らない」
「要る」
二人の息子との簡潔なやり取りだが・・・・。
私的・ビラ保管庫に写真を二点保管しました。
一点は'68年11月12日撮影のもの
「11月8日未明、東京・練馬の日大芸術学部で、スト派の学生380人と反スト派の学生約200人が乱闘、重軽傷者62名を出した。この事件を捜査中の練馬署は、12日9時すぎ、機動隊500人の応援を求めて、スト派のたてこもる同学部を捜索した。学生側は正面入り口などに机やイスを積み上げてバリケードをつくり、警官隊が近づくと石や牛乳ビンを投げつけて激しく抵抗した。警官隊はガス銃を使って学生に応酬、激しい白兵戦が展開された。学生達の抵抗は約2時間、本館4階から火の手が上がり、消防車が駆けつける一幕もあったが、警察は逃げる学生を追跡して、正午前、講堂屋上で46名全員逮捕して終わった」サンケイ新聞12日夕刊から
'68年11月8日の記事、毎日新聞夕刊
もう一点は'69年11月5日撮影のもの
■2007.03.25 morning 管理人 wrote
ある板で「パンツの思想性」について熱く語られているが・・・・(笑。
そこら辺りの思想性について語りはじめると歯止めが利かなくなるので、論戦には参加を控える。
ドブ板奉仕で日中がママならないので早朝未明から家事に励む
先程そのパンツも含めて朝から三回目の洗濯が済んだところ。
昨日はリミットを間近に控え最後の追い込み。
雨仕度で臨んだが、車の乗り降りの頻繁な住宅街では濡れネズミ。
薄くなった頭もしだれ気味で、トホホ・・・・。
パソコンを開ける気力も無く早々と床に。
先日PDFに録り貯めていた”物”を少し整理。
「いちノンセクト44.6.7」とサインされているアジビラ
いつ何処でもらったかは記憶は無いが、日付的には新宿サタディーナイト・フィヴァーが盛り上がった時期なので新宿西口かも。
もう一本
「中大闘争報告」、中央大学全学中央闘争委員会(中大全中闘)
報告では'68.5.31〜'69.3.14の経過が述べられているので'69年3月頃のものだと思う。
今から日程最終のご奉公に。
■2007.03.23 morning 管理人 wrote
友に誘われて飲みにいった時、友の友人を紹介された。
「こいつはな、一時行方不明になっていたんだ」
「居場所がわかたなのは何ヶ月も経って、”東拘”」
「皆で今、ケア(リハビリ?)してやっているところだ」
正確なやりとりの記憶は無いが、そんな内容の会話が続いた。
その時の医学生、復学が許され今はりっぱな医者をしているという。

新聞のインクが経年でかすれており読み込み感度を上げています、16MBと非常に重いです。
出てきた新聞は、彼が峠の山荘で一網打尽された'69年11月5日より3日後だ。
彼はこのとき既に全共闘と別の道を歩もうとしていたことになる。
■2007.03.22 morning 管理人 wrote
その記録は1968年8月4日までだから、作られたのはその頃だろう。
日大体制の下での血みどろの三年間
日大闘争の総括

かすれていく記憶のなかで
事実経過の裏受けとなる貴重な資料
■2007.03.21 morning 管理人 wrote
かすかな記憶しか残っていないが、確か渋谷にJANJANという施設があった。
名前は忘れたが女性の詩人の朗読と寸劇を観にいった記憶がある。
”怨”という言葉がキーワード。
'70年の秋、ある日彼女は私の前に突然現れた。
髪は自分で切り揃えたおかっぱ頭。
ジーパンにジャケット、手に持ったズタ袋には生活用品全てが入っていた。
都内の支援者宅を渡り歩いて半年になると平然と云った。

熊本大学を一年間休学しての上京。
薬学科の仲間がそれを支えるネットワークにいた縁で知り合った。
私がJAZZを本格的に聴き始めたのはこの頃からだ。
ビリー・ホリデーが好きなのは彼女の影響だ。
■2007.03.20 morning 管理人 wrote
スキャンをしようと黄色に焼けたビラを開くと、間からパラリと黄色い紙切れが落ちた、
紙の切れ端が紛れ込んでいると思い取り上げた。
切り取り線から右側は切り取られている、。
大事に大事に持っていたのだろう。

前年の羽田から佐世保まで、学生の”直接行動”が社会を騒がせ始め、
”ゼンガクレン”の名が60年安保から再び蘇りだした時期。
日大闘争が始まる半年ほど前。
私が全学連も安保も全く知らなかった頃だ。
Kくんが羽田に、佐世保に参加したかどうか知らないが、
当時、少なからずの日大生が息を殺すように隠れて参加していたとバリケードの中で聞いたことがある。
”それ”を見にいっただけで停学、参加の事実が知れると除籍・退学となるほどの硬派の学園が日大だったと聞かされたのもバリケードの中だった。
1968年1月31日、午後5時半、日比谷公会堂。
理工学部のバリケードストライキ突入から半年も前に、
Kくん、君は退学の危険を冒し紛れもなく”そこ”に居た訳だ。
■2007.03.19 morning 管理人 wrote
土日のドブ板奉仕隊へのご奉公は別に辛くは無いのだが、
録り貯めたPDFや手付かずのビラ・新聞・機関紙の整理に気力が回らないのが残念。
今までにスキャンニングしたものは1/3程。
既にサーバーの容量をかなり食ったから・・・・・、
「ダメだこりゃ〜、全部上げてたら・・・・・」
以前に同料金で容量が1.5倍になる同じ会社内の新サーバーに移行した。
簡単だからというサーバー会社のそそのかしに乗り、ガイダンスの手順にそって事を進めた。
律儀に忠実に手順通り進めたのだが、”マルチドメイン”対応サーバーというマニアにしか理解できないひねり技にひっかかり頓挫、やっとのことで移行を終えた。
今、丁度旧サーバーの容量の1.0倍を超えたところ、これから0.5倍分はその時の苦労の賜物という訳だが。
ブツは他大学ではご隣人の明治、中央が圧倒的に多数、御茶ノ水から少し離れた”辺地”の東大もボツボツ。
セクトのブツでは赤ヘルの各派、白ヘル、緑に黄色が少し。
”あそこ”は無い(笑。
それに・・・、自分の学科のブツは大量。
これ等をアップしていたらとてもとても容量が間に合わない、今後サーバーがパンクという事態に。
と、いう訳で。
今後は容量も見ながら”レア”なブツを優先的にアップしようと思う。
お断りしておくがブツは健全な”左”だけではない。
当時は右も左も皆元気であったのだ。
今日の”ブツ”。
その他13本アップ。
■2007.03.17 night 管理人 wrote
1968掲示板を再開しました。
当分の間、投稿の表示は管理者(私です)の承認後になります。
ご不便をお許しください。
今まで皆様に投稿いただいた千数百の記事は、全てテキストとして保存しています。
直近の幾つかの記事を除いては、近いうちに過去ログとして公開するつもりをしています。
テキストに変換した際、皆様のリモートホストもデータとして入っております。
この情報を千数百の記事から除くのにかなりの時間を要するためです(泣。

今日は横丁の小路だけでなく、
郊外の丘陵地の住宅街を”ドブ板”でした。
路端の菜の花が通り抜ける風に揺れていました。
いい年こいていますが、万年一兵卒です。
これが私の生き様です。
my favorite songs 入れ替えました
■2007.03.17 morning 管理人 wrote
実は竹内浩三さんはこのブログで知った。
未定稿@京都
日々、一篇か2篇が紹介されている。
昨日の一篇・・・・・。
:*: ・ ゜ ´★,。・ :*:♪ ・ ゜ ´☆。 。 ・ :*: ・ ゜ ´★,。
宇治橋 竹内浩三
ながいきをしたい
いつかくる宇治橋のわたりぞめを
おれたちでやりたい
ながいとしつき愛しあった
嫁女(よめじょ)ともども
息子夫婦ともども
花のような孫夫婦にいたわられ
おれは宇治橋のわたりぞめをする
ああ おれは宇治橋をわたっている
花火があがった
さあ、おまえ わたろう
一歩一歩 この橋を
泣くでない
えらい人さまの御前だ
さあ おまえ
ぜひとも ながいきをしたい
:*: ・ ゜ ´★,。・ :*:♪ ・ ゜ ´☆。 。 ・ :*: ・ ゜ ´★,。
日大専門部(現・芸術学部映画学科)を公布の勅令第924号にもとづき、半年間繰上げて卒業。三重県久居町の中部第38部隊に入営。
1945(昭和20)年(23歳)4月9日、昭和22年三重県庁の公報によれば「陸軍兵長竹内浩三、比島バギオ北方1052高地にて戦死」。
■2007.03.16 morning 管理人 wrote
休日、”ドブ板”で住宅街を回っていたらあちこちに選挙用ポスターが貼られている。
其の一つにどこか見覚えの有る女性の顔が。
”ドブ板奉仕”で応援している労組事務所に帰って、其の女性の経歴を聞いてみた。
「ウン、やっぱりだ!」
東京から逃げ帰ってからはバイト以外は殆ど家に閉じ篭り外に出なかった、今で云う引き篭もりだ。
半年ほど経ってだったろうか、地元の友人達から声が掛かりだした。
首都圏からはるか遅れてスチューデントパワーの波が押し寄せたローカル、私は既に終わっていたのだが彼らは真っ最中だったわけだ。
郵便局や水道局の労働者、大学生、女子大生、自称"詩人”などなど労学取り混ぜたいわゆる反戦のグループ。
主な色分けは”白”に”青”、”毛派”、それに”ノンセク”、残念だったが赤系は居なかった。
実はそのグループの隅っこに我が家の”ナニ”が居たのだが(汗。
そのグループの女子大生集団にポスターの女性がいたと憶えている。
”ナニ”にその事を帰って報告すると、
「わぁーー懐かしい、先輩まだまだ頑張っているのね」
私・・・・・・・?、
当然、私は一宿一飯の”渡世人”の客人扱い。
当時(今でも?)、日大全共闘の”印籠”はそれなりのものがあった訳だ(笑。
'70年4月5日の赤旗号外、あの事件。
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手持ちのビラ類を時系列で並べていた。
Kくんのアパートへ急行したのは69年4月12日な訳で、
其の時緊急避難したブツはそれ以前の日付のものと考えるのが妥当。
そうすると、京大をはじめ他大学やセクトのものなどそれ以降の日付のブツは・・・・、
私の所有物としてよいのだが。
ビラ類は集会などで手に入るが、
機関紙などは何処で入手したのか、
クゥッッッ・・・どうしても思い出せない。
■2007.03.15 morning 管理人 wrote
一時間もスキャニングしていると腰にくる。
私としてはかなりの量のビラ・機関紙類を上げたと思うのだがが、これでも手持ちの何分の一。
スキャンは白黒の二階調、PDFへの直接出力を選択して実行。
今までの一度画像にしてPDF化するのに比べはるかに容量を食わない。
現時点でトータル115MBちょっと、機関紙なんぞは8〜16PDFページあるもので、平均すると1PDFページ当たり200KB程。
少し前までなら個人でこれほど公開するのは容量的にも大変だったと思う、機器の発達に感謝。
ところでだ・・・・、
ブツがある方面に偏っていることにお気づきだと思う。
いわゆる御茶ノ水トライアングルはあの方面のメッカ。
あそこにも此処にも”あの色”のメットが溢れていたわけだ。
少し新宿よりの拠点校のあの色のブツが少ないのは意図的でない、あくまで地理的事情なのだ。
しかし、関西のビラや機関紙があるのは何故だろう、
全国動員で馳せ参じた方々から入手したのか、はたまた仲間の誰かが上洛したのか。
京大全共闘の機関紙のトップを飾る二点の写真は我が日大全共闘。
援軍でかの地まで馳せ参じたと聞いているが、やっぱ仲がよかったのかな。

(写真は経闘委HPからの借用、縮小しています)
my favorite songs 入れ替えました
かなりボリュウムが低いです
●経闘委ホームページより(無断)転載
1969年1月某日
経済学部バリケード内に、京都大学からの支援要請がもたらされた。
いわく
「@京大でもバリケード闘争をやりたいが、バリ闘のやり方を教えてもらいたい。
Aまた、その指導の為、日大全共斗の活動家の諸君を派遣願いたい」
おおむねこのような内容のものだった。
さっそくバリ内の各斗委に集合をかけ、この旨を審議した。
まず@の問題である。このとき各人は思わず顔を見合わせた。
「どういう風にしたらバリ斗争をはじめられるのか?」
「????・・・・・・・・・・・・・・・・・」
極めて難しい質問であった。日大の場合には、バリ封は、必然の結果であった。身を守る為、バリケードで防衛する以外に方法がなかった。京大の場合には、そのせっぱつまった事情があるのだろうか?あまりの直接的な問いにその場の全員は唖然とした。意見は出なかったが、結論はこうである。
「やりたかったら、すぐに始めればいい。」としか言いようがない。
次は、Aの問題である。これは、2斗委のメンバーに「何人か募って、京都まで行ってくれないか?」と頼んだ。何とかしましょうという返事だったので、彼らに任せることにした。
その後、通称「KOBUTA」を含む7〜8名の経斗委のメンバーが、早速関西へと向かった。
翌朝、新聞、テレビ等では京大での大事件の勃発が報じられていた。
■2007.03.14 morning 管理人 wrote
デスクにいい香りが漂う。
毎朝職場に着くと給湯室でコーヒーを入れる。
コーヒーパックは近くの生協で買ったもの、10パックで200円ちょっとだから格安だ。
途中に格安なコーヒーショップもあるのだが、
私は偏屈だからイスラエル支援企業のお店にはなるべく行かないようにしている。
実はこのWindowsもそうなのだが。

宵闇迫る頃、川崎のK君のアパートに仲間と急行した。
鍵をどうやって開けたか記憶に残っていないがとにかく部屋に押し入った。
室内から押入れまで、そこら中のビラや機関紙、メモ、名簿、ノート類をかき集めてバッグに詰めた。
持って行かれてヤバイものは奴らより先に全て撤収した。
其の日の日中、K君は明治大学学生会館内で仲間の女学生と一緒に一網打尽でパクられていた。
御茶ノ水駅前での攻防戦のすえ、部隊は瓦解し一帯に逃げ散った。
私は多くの仲間と共に駿河台下あたりまで逃げ切った。
K君は逃げ足の遅い女学生を庇って手近の学館に逃げ込んだ(・・・としておこう)。
学館に逃げ込めば一先ず安心、という学習がそれまで有ったのだが。
其の時以降からその学習は役に立たなくなった訳だ。
機動隊は学館に押し入り、中に隠れていた学生を残らずパクっていった。
元々中にいた明治の学生とどう区別したのか、未だに残る疑問だが。
その頃は確かかの重信さんも学館に常駐していたはずなのだが。
撤収したブツはかなりの量で、仲間と案分して自分のアパートに持ち帰った。
そのブツが、今スキャニングしているものの多くを占めている。
預かったブツを燃えるゴミとして遺棄する訳にはいかないのだ。
預かったものは世間様にお返しするのだ。
今更にレトロ資料の電子保存に精を出すのはそういう訳だ。
「それでいいだろう、Kチン!」
■2007.03.13 morning 管理人 wrote
黄色に焼けたビラをせっせとやっつけていたのだが、
確か機関紙(新聞)も有ったはずだと納戸を探った。
ダンボール一箱、出て来た訳だ(泣。
新聞8面をA/3機でスキャニングすると16ページになる。
思っていた以上に重いPDFになる。
”しこしこ”とやっているがなかなか捗らないのだ。
日大新聞をやっと半分程、文理戦線と理工自治会報を一部ずつファイリングしアップ、
”文理戦線”'69年1月13日号、芸術のドンパチの写真に私と思しき陰影を発見、
確証は無いが、私はラッパさんと違い”露出”がないので、
この際私と決め付けておこう。
ダンボールの1/4程を取り出し書き出してみた。
しかし色々有るが・・・・・、”あれ”だけは何故だか無い(笑。
今後をお楽しみに。
赤旗、民主青年新聞、ローテ/共産同再建準備委員会、京都大学新聞、STRUGGLE/京大全共闘、整列ヤスメ/隊友社、人民新聞/毛沢東思想研究会、国際新報/国際新報社、明治大学新聞、前進、前衛/前衛社、叛旗/共産同、戦砦/日本大学教員共闘委員会、戦旗/戦旗社、先駆/先駆社・統一社会主義同盟、統一/共産主義労働者党、進撃/東大闘争全学共闘会議事務局、赤光/日本マルクス・レーニン主義者同盟、全国全共闘/全国全共闘連合書記局
■2007.03.11 night 管理人 wrote
ご紹介です、
勝手な応援団。
大木晴子さんが代々木の本部に乗り込んだらしいです。
オッッ・・・・・恐、無事帰れたのか??
(時代錯誤か・・・)
■2007.03.11 morning 管理人 wrote
リンクを辿っていてとあるページに行き着いた。
何処が如何とか云えないが、何か心に沁みる物がある。
三ツ星さん
竹内浩三
私のすきな三ツ星さん
私はいつも元気です
いつでも私を見て下さい
私は諸君に見られても
はづかしくない生活を
力一ぱいやりまする
私のすきなカシオペア
私は諸君が大すきだ
いつでも三人きっちりと
ならんですゝむ星さんよ
生きることはたのしいね
ほんとに私は生きている
この墓の土塊の下、遙か南方の空に消え失せた浩三の遺骨はない。
十年目の命日に最愛の姉、松崎こうは「一片のみ骨も還らずおくつきに手ずれし学帽深く埋めぬ」と詠った。
日本よ
オレの国よ
オレにはお前が見えない
一体オレは本当に日本に帰ってきているのか
なにもみえない
オレの日本はなくなった
オレの日本がみえない
文学者掃苔録より
HP

ポットの子供達が元気に育っています。
この方、ラッパさんの先輩に当たるんですよ^^
■2007.03.09 morning 管理人 wrote
朝の通勤、薄いグリーンのマイクロバスが何時も前後ろになる。
社会福祉法人・通所更生施設****と記されている。
そのバスが停まるバス停に見覚えの有る女性が何時も立っている。
次男坊の小学校の同級生。
授業参観、音楽会、運動会、その子は何時もクラスメートが支えていた。
気負いなく、普通にクラスに溶け込んでいた。
息子たちには当たり前の日常なのだが、参観する父母には胸打つものが。
こういう環境を創れる息子の学校、先生達をありがたく思ったものだ。
卒業式を控えた頃の音楽会。
息子のクラスの発表の番、その子も楽器を持ってクラスメートと登壇した。
その子を支えるため数人の子供がサポート。
その数人は当然楽器は演奏できない。
演奏が終わると拍手が鳴り止まない。
アンコールの声があちこちから飛ぶ。
決して上手とはいえない拙い演奏、それでもアンコールが止まない。
子供たちは戸惑いながらもアンコールに応えた。
終わって妻が云った。
「あのアンコールは頑張ったあの子と、それを支えた数人の子、それにそれを包んだクラス皆へのエールですよね」
私もそうだと思った。
其の子が立つバス停の前を、息子のバイクがブッ飛ばしていく。
一度止まって「お早う!」ぐらい云えば良いのに。
■2007.03.08 morning 管理人 wrote
メゲて居ましたが、農闘委さんに刺激されて
少し気を張って「私的・ビラ保管庫」をアップしました。
今後レアなものも含めボチボチ追加を上げて行きます。
個人作業ですので、分類やインデックスとビラの内容が食い違う場合もありますがご容赦を。
保管庫はPDFファイルのみです。
ご覧になる方はアクロバット・リーダーが必要です。
ちなみに、私が一番大切にしているビラはこれです。PDF
と 画像(画像はかなり重たいです)
分割せずにアップできました(喜。
1968年6月4日に向けて配られたもので、日大全共闘が産声を上げた時期です。
縁はもうボロボロです。
額に入れて飾っておきたいのですが、妻の”賛同”が得られません(泣。
my favorite songs 入れ替えました
■2007.03.05 night 管理人 wrote
余りこのての画像は載せないのですが、
せっかく勝手連のサイトを教えていただいているので紹介がてらにどうぞ。
嫌味や辛辣な突っ込みも削除せず載せています。
でも、読んでると結構面白い。
デザインがマッド・アマノと記されていますがその割には平凡、本当かな?
サイトはクリック
■2007.03.05 morning 管理人 wrote
時系列、ジャンヌ毎にバインダーにかなり整理したが、それでも未整理のビラや新聞、機関紙がダンボール一箱ある。
大半は集会やフラクションで手に入れたものだが。
中には京大***の物まで有る、なんで私の手元にあるのか分からないが。
粗悪な藁半紙のビラには開くとバラバラ崩れかかっているものもある。
遮光し空調を効かした状態であれば100年でも持つだろうが、我が家の”博物館”ではそれもママならない。
紙媒体で保管するのはもう限界。
その往時のアジビラはB/5かB/4版サイズが殆ど。
かつて日本の紙サイズのスタンダードはB版、私らは青春を”B”で過ごした。
多分これもアメリカンナイズだろう、いつしかスタンダードがA版に変わった。
当然事務機器もファイリングもAが基準。
個人で持てるスキャナーはA/4が精々で、B/4版は一部か分割するかで電子媒体に変換するのもママならなかった。
この数年の電子機器の普及と低価格化で、私もA/3対応の電子器機を手軽に利用できるようになった。
コピーであればそれなりの費用が発生するが、このスキャニングの直接コストは”零”。
最近の優れものはスキャンしたものを直接PDFか画像で指定のPCのホルダーに出力できる。
あとはCDかDVDに焼き付ければよい。
いずれのロムも今や一枚が何十円の世界となっている。
農闘委がサイトで精力的に資料をアップしている。
・・・・・いい刺激を受けた訳だ(笑。
メゲてなく、私も追随しよう。
■2007.03.02 morning 管理人 wrote
浅野史郎さんについて日記に書いたらある方からメールを頂きました。
管制塔支援サイトの世話人を務めていた方からです。
あの熱い思いを共有し、今も有志の方々が連絡を取り合っておられるとのこと。
あれだけの取り組みの後、ネットワークが解消されることは寂しいと思っていたので嬉しい限りです。
その有志が浅野さんに”火を付ける”ため奔走しているらしいです。
関連するネット情報を集めてみたら、その運動は選挙区の東京都だけにとどまらず全国規模に。
人格を否定するような踏み絵を強い、弱者をいたぶる傲慢な都政へのやるせない思いが全国に拡がっているのでしょう。
「人として見捨てて置けない」という一点で、管制塔支援のネットワークは誰もの予想を超えて拡がった訳ですが、
この拡がりも「東京で起きていることを見捨てては置けない」という共通の思いで拡がっているようです。
私は子供達の卒業式で一貫して「起立斉唱」を拒みました。
後ろ振り向いて確認はしていませんが、いつも私より前の席は妻も含め皆起立していました。
これは私の”人格”です。
これを無理やり犯される痛みは誰よりも分かります。
私にも「東京の悲鳴」が聞こえ来るようになりました。
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