■2007.07.31 morning 管理人
「桃井の頃の話を聞くのは好きだけど・・・・・」
「そんなに、色々言われても私にはよく分からないの」
某放送局の方との出会いがあって、茶の間でまたまた私の昔話が復活している。
耳にタコが出来ているのだろう、皆いい迷惑なのだ。
特に妻は最大の被害者。

長男坊が、どういう風の吹き回しか珍しくウナギを4人前買って、早めに帰ってきた。
「皆で食べようと思ってね」
早速、うな丼をはさみ、昨日の引越しの報告を長男坊に求める。
「社宅は綺麗だった?」
「エアコンは付いてた?」
「ガスコンロは、冷蔵庫は?」
その辺は、成り行き任せの不精な弟を、電気店に引っ張って行き事を済ませたと言う。
「支払いは・・・・?」
「俺のカードで」
兄ちゃん、出してやるのかなという疑問を持ったが、あえて其の点の質問は避けた(笑。
「水道、ガス、電気の手続きは?」
「大丈夫、全部済ませてきた」
こういう事は(私に似て)段取りのよい長男に任せて於けばまず心配はない(笑。
完璧だ。
朝起きると、次男坊のうな丼が手付かずで冷蔵庫に。
引継ぎだろうか、妻が寝る頃にはまだ帰ってなかったようだ。
■2007.07.30 night 管理人
「そりゃ〜筋が違うだろう!」
そうは思うが、
賞味期限の過ぎた物を其のままにしとくと、後は腐るだけだから、
「アベちゃん、もっともっと頑張って!」
日曜日、何時ものように庭仕事に勤しんでいると、
「父さん、手伝って、」
「兄ちゃんの起きて来るの待ってたら遅れてしまう」
聞くと、同僚が社宅の鍵を預かってくれ、引越しを待ってくれているそうだ。
二人でテレビやソファーを部屋から運び出していると兄が起きて来た。
引越し荷物は乗用車では運べない最低限の荷物。
20〜30分の距離だから、身の回りの必要な物はその都度運べばいい。
男三人でやればものの30分も掛からない。
「俺、ミッション不得意だから、兄ちゃん頼むわ」
兄が運転手で、借りてきたワゴン車で出て行った。
「貴方、分かる?」
何か云いたそう。
「私もだけど、兄貴も寂しそう・・・・・」
「大学生の時は別だけど、今までずっと4人でしたもの」
■2007.07.29 morning 管理人
「貴方、寂しくなりますね・・・・・」
二人で食卓を囲んでいたら、妻がポツリと云う。
「寂しいたって・・・、もうすぐ28歳のオッサンだぞ、あいつは」
妻は、10年ほど前、京都に見送った時と同じ様だと云う。
暑い最中、次男坊が転勤した
昨日から身の回りの整理を始めている。
転勤といっても30Km程しか離れていない地。
一般道だと40分ほど、高速を使えば30分も掛からない距離。
「母さん、タクシー代を考えれば職場の社宅の方がはるかに安いよ」
「それに、職場に歩いて4〜5分だし」
次男坊は極めて合理的な選択をしている訳で。
それにもう28歳、異議を挟む余地は無い。
食事のルーズさ、
身なりの無頓着さ、
経済感覚の希薄さ、
大事に育ててきたマイナス面に妻は心が痛いのだろうが・・・・・、
「でも、仕事はキチンとしてるらしいぞ」
「同僚や先輩たちとも仲良く付合いが出来てるって云ってたぞ」
気を取り成そうと妻に話しかける。
「まあ、生活面の改善は、いい嫁さん見つけるまでは無理だな」
妻はワイン、私は珍しく2本目の缶ビールの夕食だった。
■2007.07.27 morning 管理人
職場を出る際、自販機でペットボトルのお茶を買った、
瞬く間にボトルの周りの露結で握る手から水が滴る。
アスファルトの照り返しがきつい時間帯、某放送局に付く頃にはそのお茶は生暖かくなっていた。
人生60年近く、随分とこの地で生きてきたがこの建物に入るのは生まれて初めて、
まあ、私の人生の何処を切りとっても、この様なところは一生関係ないと思っていた。
自動ドアがスル〜っと開いた、
受付の向こうに髭を蓄えバッグを肩にぶら下げた方が立っている。
私のほうは場所慣れしていない田舎者、
多分顔を引きつらせていたと思うのだが、そうだろうと当たりつけて近寄った。
相手の方も、笑顔で近寄ってきた、ここら当たり状況は余裕の差で完全に負けている。
「**さんですね」
この10日程、メールでやり取りを交わしていた方の方から声を掛けてくださった。
前週の週初め、掲示板の「管理者へのメール」から一通のメールが舞い込んだ。
挨拶、前触れ、主旨・・・・、文章はきちんとまとめられており、
差出人が自称している某放送局のサーバーからの発信であることもIPアドレスから裏が取る事が出来た。
いくら文章が整然としても、この手のメールは鵜呑みで信用しない、そういう性癖が私(達)には染み付いている。
こちらの個人情報は一切伏せて返信を出した。
「ご心配なら、**放送局の大代表に掛けて、私の名前で呼び出してください」
その返信に返信が帰ってきた。
「局でお話をしましょうか、それとも何処か?」
私にこの大きな建物は威圧感が強すぎる、「近くの喫茶店に出ましょう」
店に入ると馴染みのウエイトレスさん、「まあ、珍しい時間帯のお出ましですね」
何時も金曜サロンを開く、クラシックが流れる喫茶店に誘った。
そこでの話は3時間ほど続いた。
「おじさんたち(お爺さん達)、何で闘争始めたの?」
「何でそこまでやったの?」
インタビューでの収録を初め、幾つかの企画を思案中だという。
詳しくは書けないが、今はまだあくまで思いつきの構想中らしいが、
スタジオ収録である年生まれの方達の質問に答えるやり取りから、全共闘というボキャブラリすら知らない方々を相手に、日大全共闘に話をして欲しい企画も考えているそうだ。
「私はね、東大ではなく皆が関心を持つのは絶対日大だと思ったのです」
彼は、”1968年”という時代を語る一つの、そして一番の素材に東大ではなく日大全共闘を選んだと熱心に話してくれた。
私は、「思いつきは良いですけどね、そりゃ〜スタジオ騒然で収拾付かなくなり、責任取れなくなりますよ」
「だって、日大全共闘だもの」
(・・・・・これは皆、いい意味で理解して欲しい)
彼は10年ほど前に、チェ・ゲバラを扱った番組を作ったそうだ。
その時には、局内や上司から
「なんで公*放送で”人殺し”の番組を作らなければいけないの」
ブーイングの嵐に吹きさらされたと話してくれた。
「でも妥協はしなかったですよ・・・、私にとってゲバラは****ですので」
(彼の立場上一部伏字です)
「それが今はですね、日大全共闘を取り上げたいと企画を上げたら上司からスンナリと決済がおりました」
「今の上司は団塊世代で・・・・・、団塊の方にはいろんな意味で日大全共闘には”思い入れ”があるようです」
「この手の企画が通るのはここ数年の間でしょう」
彼は、その層の方々が定年で職場からいなくなると、後の世代の上司ではもう無理ではないかとの見込みを話してくれた。
この業界で発信出来るとしたらここ数年が最後のチャンスだという。
私(達)への強力かつ有効なプレゼンなのだろうか。
喫茶店から場所を移した居酒屋、気がついたら時計は十時近くを指していた。
わたし(達)は何をどうやって残していけるのだろう。
■2007.07.26 morning 管理人
ある方とお会いすることになった。
わざわざ首都圏からこちらまで来てくださるそうだ。
最初、話があった時は戸惑った。
実は、今でも戸惑っている。
不遜な言い方を許してもらえれば、
私は日大闘争では主役だった・・・、
ウ〜ン、秋田さんを除いてはだが。
日大全共闘ではMくんも、Sくんも、学科委員長も、学部委員長も、皆が皆、主役だった。
闘争に守るべき最低限のルールは有ったか、組織に序列はなかった。
ウ〜ン、先輩、後輩の厳しい序列は有ったが(笑。
そうだと納得すれば共に行動し、否だと思えばやらなかった。
制裁もなければ褒美もなかった。
日大全共闘とはそういう運動体だった。
何人かの仲間には連絡をしている。
どうのこうのは、会ってみて、話を聞いてから、
それから考えてみようと思う。
BS-HVの再放送は31日午後2時から、相変わらずHV放送。
HV電波と平日2時は労働者にはハンディーが多すぎる。
■2007.07.25 morning 管理人
「私もです・・・・・」
観れなかった仲間から、同じ様な嘆きが幾つも届いている。
ある方は電気店の店頭での鑑賞だったそうだ。
あの怖い顔が何十もの大型ディスプレイに映し出されている光景は・・・・、想像するのは止そう(笑。
未確認情報によれば、今月末にも再放送があるらしい。
病的までとは思っていないが気分の抑揚が激しい。
その一つの原因が仕事のストレス。
職歴、年齢上、当然負わなければいけない職責だが、
私の生き様、私の信念と、それとが少しずつズレていっていることが大きな要因。
辞してスッキリしたい思いと、ここで引き下がってなるものかとの葛藤が重い。
ショッピングセンターで、道端で、邪気の無い幼い子供達を見かけると心が和む。
時々、和みすぎて目が潤う時がある。
年のせいかな、病気かな。
■2007.07.23 morning 管理人
並み居る仲間の殆どがBS-HVを持っていないようだ。
そういう私も長男の部屋を占拠しての鑑賞だったのだが。
取り敢えずハードディスクには録った!。
思っていたアナログ出力はどうやら出来ないようだし。
ワンス・コピーなのでこの後が課題・・・・、どうすんべえ?
色々やり方は有るのだろうけど、今後の事もあるので当分自粛。
>おいらも今日から書き始めました・・・・、貫徹出来るかわかりませんが。
南の離島のM君が珍しくメールをくれた。
番組がM君の何かを揺さぶった事は確かだ
都会の仲間の大半がBS-HVのインフラを整えていない中で、
反対に南の離島はBSの環境が先行しているのだろうか。
放送直後からHPへのアクセスが上がっている。
仲間の殆どが観ない(観れない)BS-HVだけれども、それなりに影響は出ている。
取り敢えずNHKさん有難う、今後もよろしくお願いします。
何をお願いするかは、そのうちまた。
■2007.07.23 morning 管理人
このホームページ書き出しの冒頭、1968年6月11日の出来事について。
其の頃、私はまだ渦中に頭を突っ込んでいない傍観生だった。
インパクトのある事件で詳しく書きたいと思ったのだが、その場には居合わせていないので具体的に書けば嘘になる。
経済学部や文理学部、様々な資料に残されたものを抜粋して、その時の状況の輪郭を書いている。
農闘委ホームページで、22日に新たな資料が追加されている、
「1969年4月農芸化学科闘争委員会編集部発行の「アルケー」」
6,11の記録は他にもあるが、当時としては珍しく感情を抑え具体的に、事実を克明に書き記している。
文書の構成もきちっとまとまっている。
記録としても一級品だと私は思う。
■2007.07.22 night 管理人
>「右」も「左」もない、オレは「下」や
久しぶりに面白くて読み応えのあるブログを見つけた。
とある掲示板から遡ってたどり着いたのだが。
上のブログの表題からして味わいがある。
其の中におやっと思う記事が有ったのでリンク。
中国地方では*大全共闘のマドンナと云われた方が立候補。
はっきり云って確率的に負け戦と分かっていても”立つ”のが嬉しい。
*主党でなく無所属というのがなお嬉しい。
検索でこんな記事も。
当時、大衆蜂起の様相を呈した日大の状況は例外中の例外で、
殆どの大学で、計算高い方々は、向こう見ずの全共闘なんぞに参加しなかった。
私の地元の国立大学では、全共闘を自称する勢力は、全学部・全学年かき集めても20〜30名だった。
馬鹿な全共闘の勢力は、世代の1%にも足らない。
”団塊世代”と”全共闘”を軽軽しく同意語で使って欲しくないのだ。
■2007.07.21 night 管理人
曇天、湿度の高い朝、徒長した蔓バラの手入れに挑む。
厚手の長袖、セーム皮の作業用手袋。
明るくなる頃には全身汗だく、クールダウンのシャワーを浴びて昼前まで。
分厚いセーム皮を突き破る棘、親指が今も痛む。
昼食後から、主の居ない長男の部屋に篭もりっぱなし。
畏れ多いハイビジョン受像機と専用DVDレコーダーのマニュアルを片手に四苦八苦。
録画モードがTSとVR、それにVIDEOと三通り。
ワンス・コピーだの、CPRM対応DVD−Rだの、
CPRM対応でないDVDだと、どうなるのだ?
何ッヌ・・・DVDの初期化だと、
事態は想定外へどんどん行ってしまう。
途中、何度か投げ出しそうに成るが、
取り敢えず、22日分と23日分のHDDへの録画予約設定だけには漕ぎ着けた。
「トホホ・・・・、これはホームページ作るより難しいわ」
妻にしきりに訴えたが取り合ってもらえない。
ここで踏ん張っておかないと、心密かに練っているHV受像機・大明神様の購入計画に目処が出ないのだ。
10月までには計画を決行したいのだが、その理由は秘密だ。
原発crisis、
私達はどこまで知らされているのだろうか。
私は経験値から、反原発ローザ姐御の方の情報を信じる。
■2007.07.20 morning 管理人
朝、妻は早出。
長男は遅くまでの付き合いだったのだろう、自室まで辿り着くことなく下の居間でそのままひっくり返っている。
出掛け際に電話を見ると着信が、洗面の時に掛かってきたようだ。
車に乗り込み掛け直す。
雑音が多くてよく聞き取れなかったが、
「×××ボランティアセンターです」と、何とか聞き取れた。
アッ、先輩だ!、瞬時に電話のかけ主が思い起こされた。
「**さんという方がそちらに居ませんか?」
電話の向こうで
「多分、ボランティアの方でしょう、近くに居るとは思いますが・・・」
大変な時に手を取らせてはとそれで電話を終わった。

金曜サロンのゲバルト・ローザもかなりのものだが、
もう一人、反原発・原理主義者のローザがいる。
この二人の女性に共通していることは、
奇しくも私の高校の後輩にあたること、
無条件に過激であること、
そして、私をあごでこき使うこと。
その反原発・原理主義者のローザ姉御が、
日頃、口角泡立てて言っていたことが次々と”現実”になっている。
今後は彼女への「原理主義者」という”尊称”は控えようと反省している。
■2007.07.19 morning 管理人
こんどは普通のBSだ。
1968の時代キーワードは全共闘という相場らしい。
しかし、今なんで東大ではなくて日大なのだろう。
今までは東大でしたでしょ〜。
おかしい事をおかしいと言出す学生が出始めました。
説明してくださいと言っても無視されました。
おかしいから、皆で話し合おうとしたら殴りこみを受けました。
機動隊が助けに来てくれたと、拍手で迎えました。
でも、助けに来てくれたのではありませんでした。
奴らは傷ついた学生を逮捕し、傷つけた奴らを逃がしました。
これが私の日大闘争の始まりです。
極めてシンプルで難しい理屈も、革命思想も関係ありません。
■2007.07.18 morning 管理人
草木も眠る未明に目が覚めた。
昨日、家の鍵を職場に忘れ、泥棒のように梯子で2階の窓から我が家に侵入した。
この歳でも昔の鍛錬が良かったのか身は軽かった。
そんな感激ではなく・・・・・、
昨日は職場の同僚の深刻な状況を巡るやりとり、そしてこのサイトにまつわる予期せぬ出来事など、幾つか心が波立つことがあった。
目が覚め、それらの事が頭を巡り寝付かれなくなってしまった。
このサイトの事は、信頼できる仲間に相談をした。
時代が節目を迎え、皆の興味が向かうところが偶然に同じなのだろう。
同じ轍を踏みたくない思いと、それであれば出来るだけ多くの仲間が、という思いが交錯する。
ダシに使われた同志の悔しさは私の悔しさでもある。

「貴方、*月*日は予定を空けておいてくださいね」
妻に随分と先の日程を調整された。
930は別として、私はそんな先まで日程が詰まるほどの身分ではない。
レストランを予約して、私の誕生会をして下さるそうだ、
還暦は来年なのに、どういう魂胆なのだろうか。
日の出までまだ随分と時間がある。
ヘッドフォンでショパンでも聴くか。
■2007.07.16 night 管理人
告示後の統一行動デー。
朝、証紙を貼り、
昼前から数少ない支持者を尋ね、
公認ポスター掲示を依頼して回る。
電柱や公共建造物は当然だが、
無断でのポスター貼りだけはしないでおこうとの潔い確認だから、
一枚のポスターを貼るのに車を何十分も走らせる。
「まあ、お茶でもどうぞ」
市街地から10分程車で入った長閑な田園地、
訪れた支持者の方から冷茶のもてなし。
先へ、急く気持ちがあるのだが、
支持者の長々と続く薀蓄に耳を傾ける。
東京都ほどの面積に、
一体何枚貼れたかは云わないでおこう。
■2007.07.16 morning 管理人
同志の悔しさは私の悔しさだ。
日付の変わる頃、同志と長々と話した。
彼はここだけの話だと言っていたが・・・・・・、
撮影は当初の企画とは違う”筋”で始ったという。
日大全共闘が組織として全く関与しなかった'68年10.21からだったと。
彼の年の国際反戦デーに、ただの一個も日大全共闘のヘルメットは登場していない(はずだ)、
所属するセクトや、唯の個人として参加した全共闘メンバーは数限りないのだが。
大学闘争の高揚期に、そのパワーを背景としてセクトが主導したものと、
私(達)、全学共闘会議が突き進んだ学園民主化運動とは組織的に全く別物だった(はずだ)。
「そりゃ〜違うだろう」
同志の悔しさに、相槌を打つしか返答が出来なかった。
'68年10.21から始る回顧なら、それは別の方々に聞くべきだ。
時間的制約もあってか企画書でせめぎ合った進行ではなく、インタビュアーの経験の範囲でのやりとりに終始したという。
何処かの元・全共闘だったというインタビュアーの経験では、
日大全共闘のそれは計りきれる訳ない筈だ。
サポターの尽力で何度か仕切りなおしを試みたが、
同志の言葉と、インタビュアーの言葉は調整できないズレを生じていったという。
何処かの大学で、私(達)の全共闘の形だけ模倣して作られた全共闘、
その一員だったと思われるインタビュアー。
それも全共闘といえば全共闘だが。
私らの全共闘が正しくて、他が間違っていると云っているのではない、
地から湧いてくるような大衆蜂起から形作られた全共闘と、それとは決定的に違う。
私(達)の全共闘を語るのに、このインタビュアーはミスキャストだ。
■2007.07.15 nightU 管理人
ハイビジョン特集 シリーズ 青春が終わった日 ぼくもいくさに征(ゆ)くのだけれど 〜竹内浩三・戦時下の詩と生〜
BShi 7月22日(日) 後7:00〜8:30
いつの時代にも、懸命に青春の炎を燃やした若者がいた。
しかし、その青春はそれぞれの時代の中でいつか必ず「終わり」を迎える。
夢が現実に破れ、詩歌が散文になり、恍惚と不安がリアルな生活にとってかわる瞬間。
そのとき、彼らは何を思い、どのような記憶を胸に刻みつけるのか?
このシリーズは、太平洋戦争、全共闘運動、そしてバブルといった日本の現代史の中で、懸命に生きた若者たちの青春の終わりを追跡する。それはいまの「日本」の精神が形作られてきた自画像でもある。
こんな詩を残した若者がいた。
日本よ オレの国よ オレにはお前が見えない
一体オレは本当に日本に帰ってきているのか
なんにもみえない オレの日本はなくなった オレの日本が見えない
作者は竹内浩三。大正10年三重県に生まれた竹内は、映画監督を夢見て日本大学専門部(現芸術学部)映画科に進学したが、在籍中に召集されフィリピンで戦死した。
竹内は、中学時代から書き綴った詩や漫画、入隊してからの日記を書き残していた。それらのものから浮かび上がってくるのは、繊細で、デリケートな感性を持ち、傷つきやすい若者の姿。竹内はかっこうよくない。弱虫で、いじめられてばかりで生きつつも、夢を追い、恋をし、破れ、嘆き、戦争に怯え、しかしそれに逆らえず戦争に行った。その姿は、現代の若者に重なり合い、多くの人々に共感を広げている。しかし、その青春は戦争によって終わった。竹内の遺稿は中学生時代のものをあわせても本一冊程度、今では、竹内の実像を知る親族や同級生、戦友も数少なくなった。
番組では、その作品と証言をもとに、先行きを閉ざされる時代に無垢に青春を生き、死んでいった竹内浩三の青春の結晶体を描き出す。
7月23日ばかりに気を取られていたのだが、ふと前日22日の番組紹介に目が行った。
偶然だろうか、つい最近知った詩人。
3月11日と17日の日記で紹介した「竹内浩三」さんの特集。
これも偶然といえば偶然。
日大専門部(現芸術学部)映画科、
ウ〜ン、これは日芸の回し者が関係者に居るな!?
それはともかく”あんず”さんに知らせてやった。
■2007.07.15 night 管理人
ハイビジョン特集 シリーズ 青春が終わった日 戸井十月インタビュードキュメント 全共闘それぞれの“決着”
BShi 7月23日(月) 後8:00〜9:30
1960年代末期、ベトナム反戦運動、フランス5月革命など、世界中で若者たちの反乱が燃え広がり、日本でも、全共闘運動の火の手が全国に拡大した。あの時代に身を投じた団塊の世代の作家・戸井十月が、自分自身の青春を確かめるために、当時の全共闘経験者たちと再会し、語り合う。熱く燃え盛った日々の思い。そして、若者たちはその後、青春にどう「決着」をつけたのか。団塊の世代の胸にいまも残る青春の炎に迫る。
仲間から聴いた番組内容と、国営放送の案内のそれとは随分と隔たりがあった。
そもそも、番組を意図した方達とは全共闘に対する認識が大きく違っていた。
今日見た番組案内は以前の分とかなり趣が変わってきている。
泥縄というか、企画の手直しで刻々と変化している。
私(達)は当事者だ。
協力依頼を受けた仲間は企画書を見て徹底的に抗弁した、
受け入れられなければ協力拒否も辞さない強い信念が、仲間から寄せられたレポートから読み取れた。
企画書に全面的に”朱”を入れる事を譲らなかった。
連赤事件を全共闘と結びつけ、「全共闘=共産主義運動・暴力革命」との当時の図式化キャンペーンをそのまま踏襲したような”安直”な企画書に、仲間は怒りもって全面的に反論を行っている。
私は期待している。
全共闘の当事者が、ありのままの事実を伝える番組が作られるかもしれないから。
東大は今は偉い先生様だが、日大の出演者の一人は正真正銘、皆が認める”単ゲバ”のあの方だから。
今度は国営放送がどこまで”朱”を入れ編集してくるかだ。
■2007.07.14 morning 管理人
災害に見舞われている方々には不謹慎になるが、
あの男の熱気はついに台風まで呼んで来た。
でもさすがだ、
当時と違うのは、先を読むという”知恵”が付いた事だ。
一足先の戦闘機で彼は飛んだので安心を。
それとだ、アクセルだけの宰相と違い、彼には効きのいい”観音様”のブレーキがついている。
もっとも、ブレーキを掛けなければいけないのは当人より回りのサポーターではないかと思うのだが。
嵐の真っ只中での決行、あの同志らしい。
嵐の近づく昨夜、金曜サロンへ出向くのは億劫に感じたが、
先週の”総括”もあるので、雨に濡れながら参加。
総括といっても、ああだこうだとワイワイガヤガヤ、お喋りするだけなのだが、
これが、私の一週間のストレス晴らしなので。
街宣カーの先発組、むつけき男三人衆だったのだが、
皆、口々に「楽しかった」との報告。
当初の「楽しくやれば、それでいいのだ!」の目的は達せられたようだ。
後発の私はローザ姐御との二人組み、
傍目には街宣カーでのデートなのだが。

「街路市に行ってください」
「**に支持者が居るので・・・」
マイク片手に次から次に”指示”が飛ぶ・・・・・トホホ。
私としては先発”男組”の方が良かったと思ったのは後の祭りだった
隣の車窓から手を振ってくださる。
ボディーに貼り付けたポスターを歩道からじっと眺めている方、
嬉しくなる反応も有った。
真面目なローザ姐御に、”反米愛国”連呼の要望はついに言い出せなかったが。
おっと、○共さんの事務所、こちらに手を振っている。
あいつら、多分自前の”**の会”と勘違いなのだろ(笑。
■2007.07.12 morningU 管理人
友が刻々とレポートをくれる。
「影で支えてくれる同志の熱い連帯を感じています」
多くの仲間が彼のサポートに回っているようだ、
遠く離れている私も、彼と同じ臨場感に浸っているような気持ちになっている。
貰うレポートを見ると、彼は努めて気を静めようとしているのが伺えるが、
サポートに回る”同志”がやたらとテンションを高めそうで、
それが心配種なのだ。
同志の皆、頼みますよ!
■2007.07.12 morning 管理人
「ブラウン管(HVだから液晶か)突き破る奮闘を期待しています」
「PS. でも・・・・、やり過ぎてオール没にならないようにね」
友にエールを贈った。
すると友から、
「同じ事を息子からも言われてるよ」
やはり、心配することは皆同じ様だ(笑。
でも・・・・、いい息子さんだ。
私(達)が身を投じた全共闘運動は、多分皆々が伝え聞いたものとは違うと思った。
このホームページを始めた動機の一つにはそれもある。
マスコミでそれを伝えることが出来れば、それは善い事だと私は思う。
彼はきっとやる!
皆、期待しても良いと思う、
東大の事は、知ったことではないけどね。
■2007.07.11 morning 管理人
6日以後、幾つかのやり取りがあった。
NHK・BSハイビジョン、”青春の光と影”
7月23日(月)後8:00〜9:30放送は「青春が終わった日」
日大、東大、お茶大の三大学の元・全共闘が出演予定。
それぞれ、誰が出演するかは教えて貰っているけど、今は言わない(御免。
我が家は、長男坊の部屋にだけデジタル・ハイビジョンTVが鎮座している・・・・、
HVのDVD録画はワンス・コピーなので、DVDに落とすとそれ以上のデジタル複製はできない(泣。
アナログ出力でVHSに、
VHSより普通のDVDに・・・・・。
今から予行演習しなくちゃ!
自分で楽しむ分には問題無いでしょう(苦。
■2007.07.06 night 管理人
今は未だ詳しく書けないが、
その事に気が付いたのは昨年の12月16日。
仲間から一報が入った。
「左翼から非難轟々。右翼から弟子入り志願が続出?」
そうなるかも知れないと彼は書いてきた。
私はこう書いて激励した。
「右翼と間違われても、大いに結構。
もし、それで左翼に謗られれば、私は今後ホームページで”右翼”を宣言してもよい」
私も本気だ。
友の奮闘を祈っている。
■2007.07.06 morning 管理人
大学の先生の講演を聴く機会があった。
社会福祉学の先生、理系の私には馴染みのない系統。
学生を連れてフィールドワークというのだろう、過疎の地域を回った時の話。
老人の聴き取りをしているスライドがパワーポイントで映し出される。
「今、この地域で一番望む事は何ですか」
学生は一軒一軒まわり、土間で、部屋に上がって老人と話している。
「この答のトップに、皆さん何があったと思いますか」、
先生が笑みを浮かべて聴衆に尋ねた。
私は常識的に、介護や医療、買い物の便利さかなと思ったのだが。
第一番の答えは、
「子供の顔が見たい」だそうだ。
地域に子供の声が響かなくなって久しいと云う。
老人は子供から命の生き生きさ、瑞々しさ、そして元気を貰う。
子供は老人から”優しさ”を貰う。
介護や医療は公共のサービスが有る。
失われた、世代が途切れない共同体は何がカバーするのだろう・・・・・。
私は社会福祉学の何たるを知らなかった。
今時の若者はというが、
この社会学系の学生達は善い学問をしていると思った
■2007.07.05 morning 管理人
ついでの勢いで、この週末も街宣カーを借りることにした。
”反米愛国”の一点で街宣をやりたいのだが、
さような私の心情はさておいて今回は主旨が違う(笑。
予定候補者を見送った後の総括集会、ローザ姉御から強力な動員要請が発せられた訳だ。
街宣カーは3列シート8人乗り。
何処かの国のような自爆テロをやるわけではない、
飲み物買って、お弁当持ち込んで、仲良しの楽しいドライブと思えばよい・・・・、
そう言って、私もサイドからローザ姉御のフォローに回る。
私としては単純に○共や※民本部の真ん前で、ガナリ飛ばしたいだけの話なのだが。
かつての、跳ね上りブランキー魂が少し湧いてきそう(汗。
昨晩、幾つか電話があった。
遠くの地から、
「なら・・・、ついでに※島さんの連呼もお願いしますよ」
以下切り上げ、最大公約の全国連帯の要請を受けてしまった。
■2007.07.03 night 管理人
帰路、携帯電話が鳴る、ローザ姐御だ。
何時もの電話は淡々とした声なのに、珍しく上ずっている。
よっぽど嬉しかったのだろう。
何度も何度も「有難う!」って連発する。
そもそも、この予定候補者、ローザ姐御を頼っての一方的な押し掛けだった。
告示を直前に控え、あちらの都合だけでの日程。
有志の、若者の私も(笑、年長の大先輩達も、頭を突き合わせ、受け入れに途方に暮れた。
たったこれだけの手勢で何が出来る?。
「そうだ、街宣カーを借りよう!」
「辻演説やるなら県庁の真ん前、昼時だ」
「県庁に記者室があるから、そこに記者会見頼みに行こう」
「記者会見って、頼めばしてくれるの?」
「街宣カー、駐車違反ならオレが被るよ!」
こんな感じで皆が色々と案を出し合った。
辻説法を聞いていた有志仲間が、隣にいたご年配の質素な身なりの銀髪婦人に声を掛けられたらしい。
「折角遠くから来ていただいたのだから、知事さんを紹介しますよ」
最初は微笑み返して聞き流していたらしいのだが、更にこういう内容を続けられたらしい。、
「私は知事の後援者だから、行けば必ず会ってくれます」
私は同行をご遠慮したが、
候補者と有志代表はご婦人の顔パスで知事公室へ入り、知事の歓待を受けたという。
翌朝の新聞、4段記事で、写真まで載せてくれている。
民主党のKさんが来た時よりも記事の扱いが大きい、ざま〜みろだ。(根が単純なもので・・・・)
記事の中の「県民有志」という4文字が嬉しいではないか。
何度も云うが候補、”招いた”のではない、押し掛けてきたのだ。
■2007.07.03 morning 管理人
「私ら若いものがやりますから」
言われたのではない、此方がそう言った。
「もう少し若ければお役に立つのだが・・・・・」
今回の予定候補者をサポートする取り組み、
事前準備の打ち合わせで、色々メニューを提案するのだが。
サポーターにはオールド社会党や、60年安保、勤評、日韓闘争を経てきた世代の方がいる。
この世代の方々、革新と言われる政党の四分五裂の時代を経てきている。
無党派と言われる若者と同じ様に、この年配の方々も思いを託す器か無くなっているのだろう。
市民交流会はそういう年配の方々が多数いる。
私は、何時になったら年寄組み入れてもらえるのだろうか。
■2007.07.02 night 管理人
とある筋から街宣カーを借りた。
強力な街宣用アンプも付いている。
とある場所での、とある予定候補者の演説用にと借りてきた。
駐車場に着き、持ち主から拡声装置の操作方法を習う。
ローザ姐御を助手席に乗せ出発。
二人の話し合いに、結論は直ぐに出た。
「予定の時間まで、折角だから街を街宣しよう」
官庁街、大通り、ローザ姐御の声が響き渡る。
予定候補者の演説の後、聴衆の一人のご婦人がこう言ってくれました。
「この地で、宣伝カーで初めて”その名”を耳にしました」
「嬉しくて涙が出てきました・・・・」
涙もろいのは私だけの専売特許ではないようだ。
予定候補者は滞在4時間余り、
トンボ帰りで空の人となった。
■2007.07.01 morningU 管理人
催促されているようで・・・・・・・、
一様、貼っとくけど、
でもジャニス、小母さんだよ(泣。
Janis Ian "Jesse"
■2007.07.01 morning 管理人
金曜の夜は八時前に仕事の宴席が終わった。
それでも六時ごろからたっぷり2時間、かなりの酩酊状態。
「この時間ならまだ金曜サロンに間に合うな」
街は昼間のような人通り、そういえば公務員の手当支給日。
千鳥足でサロンへ。
宴席を出たところで、日頃親しい同業の方と移動方向が一緒になった。
「これから年寄りの楽しい茶話会へ行くのですが、ご一緒しませんか」
「牧師様の楽しいお話も聴けますよ」
統一*会でないことはキチンと説明したが、
ゲバルト・ローザが口を尖がらせ、
「9条が・・・・」なんてアジり回るとはとは決して言わなかった。
新顔を引き連れサロンへ。
殆ど人気の無いビルで、土曜日も終日仕事。
私の勤めるビル、閉館日は空調が入らない。
ラフな綿素材の格好で出勤、お陰で汗が出ても不快感は少ないのだが、やはり集中力は落ちる。
ゴソゴソと、倉庫から久しく使わない扇風機を探し出しだしてきた。
私が小学低学年だった50数年ほど前、父の職場に行った事がある。
小学校の廊下と教室のような、戦後急造りのバラックの木造役所。
丁度、私が今勤めているビルの敷地に有った。
扇風機が回っていたかどうかは憶えていないが、
白い開襟シャツの襟を広げ、扇子でバタバタ扇いでいた父の姿が記憶に微かに残る。
その当時、既に現役だった元総理が亡くなった。
自民党のリベラルな方が”左翼”のように思える時代になった。
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