my favorite songs
 
 

■2007.09.30 morning  管理人

「**さ〜ん、お昼未だなんでしょう」
バッグからお弁当を取り出すと、
「お茶、買ってきま〜す」
ここまで気を使っていただくのは人生でそうはないだろう。

約1月前、収録地の移動で、渋谷駅のコインロッカーに預けてあった荷物を取るためロケ車とは別行動になった。
両国駅を降りると、ロケ隊は駅前レストランでもう食事を済ませていた。
「仕方ないな、昼飯は抜きだな」
カメラ準備を待っていると、ADさんが駆け寄ってきてくれた訳だ。

「私も一緒に食べさせてもらいま〜す」。
親子以上に年の離れた妙齢のADさんと仲良く並んでピクニック気分。
収録のエピソードは色々あるが、
どんな事より、オジサンの私にはこれが一番の思い出となった。


私と同じようにロケで彼女の人柄、仕事柄を気に入った猛者の方々から情報が入っていた。
体調を少し崩しているらしい。
この番組を仕上げるまでは、ディレクターと一緒に何が何でも頑張る、とも聞いていた。
昨晩のスダジオ収録、放送局で1ケ月振りに再会。
変わらず動きはキビキビ、笑顔を崩さない。
私の顔が崩れっぱなしだったのは、改めて云うまでもないが。

元体育会応援団の先輩も居たのだし、
出来れば彼女に、放送局玄関で”日大節”のエールを贈りたかったのだが、
収録後の”全体会議”に諮るのが抜かってしまった。
昨夜、唯一の後悔。

 


■2007.09.27 night  管理人

出張・会議続きでとにかくドタバタ。
週末は一大イベントも控えており、体力を温存したいのだが。
帰って寝て、出掛けて仕事。
週初めからこれだけの繰り返し。

今日は会議から直帰。
久し振りに夕暮れ前に帰宅できた。
書きかけの'68年11月8日も有るのだが、
もう少し、きちんと考え方が整理できたら載せてもと控える。
少し早く帰れたから、週末に向けての準備に勤しまなくては。


■2007.09.24 morning  管理人

太字部分
’86年6月発行「バリケードを吹きぬけた風」橋本克彦著、より
書籍カバーは農闘委ホームページにリンク
(文中の氏名は原本のまま使用しています)

私等の援軍本隊が始発電車で急行する間に、理工学部に置かれていた全共闘本部からレポ車で5名が先んじて江古田に走っている。
このレポ車、江古田に着くなり、運悪く真っ暗闇の中で右翼集団の真ん前に飛び込んでいる。
電柱に車をぶつけフロントガラスで顔面に裂傷、
血だらけでその場を何とか逃げ延び、法学部からの援軍10名と合流。
向こう見ずと言うか、本隊の到着を待たず400名の右翼集団相手に、正面と裏手の二手に分かれ突入したという。

新校舎の横のバリケードを飛び越したとき、彼らの見た光景を橋本さんが聴き取り綴っている。
桑原はその光景を見て、怒った。というよりも目がくらむほどの敵愾心を発した。・・・・・(捕らわれた)仲間を見た瞬間、黒い集団に対し、殺す、と思ったという」。
たった5〜6人で、5、60人の集団に猛然と突っ込んでいる。

バリケード構築隊の米原は暗がりにうごめく敵に向かって叫びをあげ、怒鳴りつづけながら闘っていた。一階のバリケードが破壊され、二階に侵入され、やがて三階へ至る階段での攻防になる。階段は机と椅子で封鎖し、人間が一人かろうじて通れる幅50センチほどの通路が設けれていた。その50センチの通路を突破しようとする右翼学生にむけて、砕石と牛乳ビンを投げ、ゲバ棒を突き出す。
本校舎西側の防火扉の向こうにも右翼学生が侵入し、防火扉を利用して築いたバリケードを壊している音が聞こえる。三階、四階の芸闘委メンバーは、そこにも、二人から三人ほどが張り付き、「来いっ、来たらプロパンガスに火を付けるぞっ」と叫び声をあげる。
七月頃に運び上げたボンベの口を開け、ほんとうにガスを流す。そのにおいがあたりに流れ
・・・。
この時、芸闘委の面々は、バリケードが破られ追いつめられたら、火を付け、右翼学生もろとも爆死する覚悟を決めていたという。
言葉の飾りではなく、マジで決死の戦いだった。

’68年11月8日、最初にバリケード見張り番が襲われ拉致されたのが午前1時半過ぎ、
私ら援軍本隊が江古田に着いたのは5時半前後。
芸闘委はそれまで4時間にも及ぶ死闘を続けていたわけだ。

my favorite songs 入れ替えました

 


■2007.09.23 afternoon  管理人

仲間に頂いたコピー資料を昨日読んでいた。
コピーは、
’69年2月発行「バリケードに賭けた青春」、日大全共闘編
’69年4月発行「日大全共闘」強権に確執をかもす志、日大全共闘+石田郁夫編著
’70年7月発行「1608名の逮捕者」田賀秀一弁護士著
’86年6月発行「バリケードを吹きぬけた風」橋本克彦著

何れも39年前の’68年11月8日の出来事に関わる部分の抜粋。
この4冊の著者が綴る記憶と、私のそれとを織り成してみた。
殆ど点でしか残っていなかった記憶が、ところどころで線に繋がってきた。
御茶ノ水で電車に乗り込む、新宿での乗り換え、江古田の駅に降り立った時。
芸術学部まで、未明の真っ暗な道をひた走りに走った事。
それから、昨夜の日記に書いた帰路の様子。

芸術学部に着いてから、帰るまでの間に起きた数時間の出来事、
それについては未だに詳細を書くのを憚る。
何時かは、誰かが、
其の事について書かないといけないと思うようになってきたのだが。
個人の立場で、WEBメデイアで、それを背負うのは、余りにも荷が重過ぎる。

私らは体育会系の学生達に理由の無い暴力を被った。
彼らは、間違っても主体的な意思など持ち合わせていなかった。
後ろに、億の金にまみれた理事、職員が居た。
その意味では可哀相な存在だと思いたいのだが。

それ以後の日常生活に大きなハンディーを負うような重傷を負った仲間が数多い。
傷つき、物言わず、戦列を離れていった仲間も数多い。
その暴力と弾圧は、語り尽くせないものがある。
その怨念が、’68年11月8日の未明に凝縮されている。

昨夜の日記は、ある部分で自分を傍観者のように語った。
・・・・・かなり卑怯な書き方だと思う。
でも、どういう風に伝えれば良いのか、
正直、今は分からない。

 


■2007.09.22 night  管理人

ヘン曲がったサッシの枠のゲバ棒の先に、戦利品のヘルメットを3〜4個くくりつけた。
ヘルメットはひび割れて陥没しているもの、血糊が着いているもの、かなりの物だった。
江古田から池袋で乗り換えた。
朝の池袋はラッシュアワー、ごったがえしていた。

尋常な精神状態ではなかった。
駅のコンコースを撤収一番組み20人位の隊列、ジグザクのデモで改札口まで進んだ。
サッシ枠のゲバ棒の先、戦利品のヘルメットがカランコロンと音を出す。
通勤のサラリーマンには理解できない風景だったと思う。

御茶ノ水まで、池袋から丸の内線に乗ったのか、山手線なのか記憶が無い。
電車に乗り込むと、ラッシュに関わらず、私等の周りに微妙な隙間が出来ていた。
顔は完全にタオルで覆い、汚れた軍手にヘルメット。
全員がゲバ棒の先に戦利品のヘルメットをぶら下げている。
疲労困憊、だが目は血走っていた。

始発で出かけ、ラッシアワー時に帰路についた4時間ほどの遠征。
木刀から始って、熊手にハンマー、鉈に日本刀。
私は見ていないがライフルまで有ったと云う。
陽が昇り、当たりに薄っすら陽光が差してきた頃、初めて自分らがどういうものに囲まれていたか分かった。
憎悪たぎる思いで、これらの得物をまざまざと見つめた。

捕獲したのは得物だけでなく、その持ち主達もいた。
私はもうその場から一刻も早く去りたかった。
陽が完全に上がる前に勝敗は決し、一部は御茶ノ水へ撤収することになった。
私は真っ先に撤収組みに手を上げた。
’68年11月8日、朝の出来事。

 


■2007.09.21 morning  管理人

最近になってですが、ホームページへの一日アクセス数が大台を越えるようになりました。
大台といっても、私の基準での大台なのですが。
トップページと幾つかのページにはアクセスカウンターを置いていますが、
カウント表示数はそのページへのアクセス数。
私のサイト全体へのアクセスの実情とはかなり差異があります。

ブログやホームページは、トップページを経由しての訪問が一般的なのですが、
私のサイトの場合には、トップページを経由しないアクセスが多くを占めています。
それはアクセスログ解析でしか分からないのですが、
そういう意味では、トップページのアクセスカウンター数よりもはるかに多い訪問数があっています。

ウン、ウン、とアクセス解析を見て、
一人ほくそ笑む今日この頃です。

 


■2007.09.20 morning  管理人

Mくんが初めて掲示板に書いた。
枕元にPHSで繋ぐPCが写真に映っている。
書き込み方法を”指導”する仲間の声がビデオ映像から聞こえてくる。
『オイラ<タンゲバ、ルンプロ>キーワードに当時を振り返ってみようっと』

思い出した、
そうだったんだよね、
当時の”主語”は、「私」でも、「俺」でもなく「オイラ」だった。
私達は「オイラタチ」。
「オイラはな、・・・・・・・」から始まるMくんの情勢分析、
オイラは全く異議なしで聞いていた。

【Mくんの用語解説】

タンゲバとは、
正確には単純ゲバルト至上主義、
どうのこうのと、手前の議論で結局終わってしまう流れを揶揄して、
マズはヤンベエ、とにかく行動、ゲバルトだっぺ。
これを称してタンゲバと云った。

ルンプロとは、
ルンペン・プロレタリアート、
プロレタリアートは「貧する層」とも同意語なのだが、
それよりも更に貧するルンペン(差別語だったら御免)
失うものが何もない、究極のプロレタリア。
まさに革命の「真の主体」という意味かな?

 


■2007.09.19 morning  管理人

朝は朝陽に向かって、
夕は夕陽に向かって、
そうやって35年、
宵闇迫る頃の、ひとときが好きです。



my favorite songs 入れ替えました

お馴染みの曲です。
何時もは極私的な暗い曲しか貼らないのですが、
今回は何故かこの曲が、仲間のWEBで競って取り上げられていますので。
ちなみに私、35年来の”おとき”、33年来の”みゆき”ファンです。
みゆきちゃんが、□○の隠れ*ンパだったという”うわさ”はここでは無視しましょう(苦。

おときさんには'69か'70年ごろ、ニミ・ライブ@明大学館中庭で遭遇した思い出があります。
勿論、聴衆は赤ヘル軍団でした。
エッ・・・・、私?
その他大勢だったと思うんだけどなァ・・・・(汗。

みゆきのファーストアルバム、漂浪途中の会長さんと一緒に入ったレコード店で買いました。
確か、33年前の'74年だったかな。


■2007.09.17 night  管理人

Mくん、
今日の午後の近況ビデオ映像が、ネットで一飛びして、もう僕の手元に届いたよ。
ベットにしっかり座り、
白い包帯を指差し、
人事のように病状を説明する。

学部の違う仲間が、休日を費やしてかつての全共闘仲間を見舞って下さった。
日大全共闘という同じベースだけど、
Mくんも見舞った仲間達も、それぞれ拠った党派は違っていた。
日大全共闘でなかったら・・・・・、
40年を経た今、この邂逅は有ったのだろうか、
ふと、そんな事を考えた。

桃井で、夜も更けて過ごすひと時、
Mくんは、折々の状況を淡々と話す。
聴き入る私。
部屋の隅で、ジンを飲みながらギターを爪弾くYくん。
製図台で、せっせとレポートに精出すGくん。

(18日朝、メールで届いた写真

Mくん、
枕元にパソコン、仲間に私の掲示板への投稿方法を習っている。
書き込みを待ってるよ、
それに・・・・、
40年経っても、喋り方はあの時のまんまだよ。

 


■2007.09.16 night  管理人

40年近く経って、このホームページが縁で当時の日大全共闘の多くの仲間と出合った。
当時の日大は10万学生と言われていた。
理工学部一学部でも、ローカルな大学よりも規模が大きい。
同じ日大といっても校地も離れており、学部同士の行き来は殆ど無い。

同じ時代、同じ思いで行動を共にした。
いくら日大だって、大学まで行かせて貰った負い目がある。
目をつぶり、親の思いに応え、無難な人生を選ぶ選択肢もあった。
皆、多かれ少なかれ、そのジレンマを背負い、悩み、突き進んだ。

当時、面識がある訳でない。
でも、其の思いがあるから、初対面でも隔てる壁が無い。
そんな昔の全共闘仲間と付き合い始めて、例外なく殆ど皆がそうだと思ったことがある。
皆、生き方が不器用、地を這って生き抜いてきている。
団塊のジコチュー的と云われるそれとは正反対の生き様。
全共闘をもって団塊世代の特徴などと呼ばれるのは心外だ。

何時だったか、管制塔カンパの祝勝会で出会った方。
東北の国立大学へ進んだ同い年の彼は、'69年1月18日法学部研究室で真っ先にお縄になったと話してくれた。
私に手を差し出し、満面の笑みをたたえこう云った。
「私、人生の負け組みです」
作業服姿、ゴツゴツした其の手は暖かかった。

桃井の同居人、室蘭出身の浪人生Iくんの所在が昨日判明した。

 


■2007.09.15 morning  管理人

子羊さんは、通称”お銀”と呼ばれていた。
当時流行っていた東映の任侠映画なのか、それとも水戸黄門のお銀なのか、定かではないが。
会長さんから彼女の連絡先を聞き出した際、改めてこう聞いた。
「御免、会長さん、お銀の本名が思い出せないんだけど」
「35年振りに電話するのに、切り出しが『オイ、お銀』では幾らなんでも」

でも、やっぱり電話の切り出しは、
「オイ!、お銀、オイラだよ」
「ワッ・・・、**さんだ」
「先日、私も会長さんから電話番号聞いてたけど、ワタシャ〜、電話は受信専門だから」

昨晩、お銀さんとの電話を妻に報告した、彼女は妻の先輩にも当たる。
「35年振りに話したけど、”ボケ”と”飛び”ようは相変わらずだったよ」
「それで私の事、何か言ってた?」
「最強のオバサンになってるって、云っといたよ」

「今度、会う約束した」
「テメエ、抱きつくなよって、云っておいた」
「其の前に、貴方もお銀さんも、お互い分からなかったりしてね」
「貴方、35年のギャップは覚悟しといたほうが」
妻は笑い転げていた。


■2007.09.14 night  管理人

「二人でレンゲ畑見に行ったの憶えてる・・・・」
「アンタが、グズグズしていた私を東京へ放り出したのよ!」
レンゲを見にいった記憶は、全く残っていない。
放り出した記憶は、
放り出された方も、放り出した方も、しっかり一致していた。

35年の歳月を経て、二人目の子羊さんに電話した。
歳月を経ても、二人の飾らぬ口調は当時のまま。
新聞部の生意気な女子大と、呆けた私。
電話は小一時間も続いた。

「近々に上京するから、久し振りに会おうか」
「新宿の西口交番前は?」
「私は新宿は分からないの」
「分からないのって、テメエ何年東京に住んでんだ?」

「池袋なら分かるけど」
「御免ナ、オイラは池袋はからっきしダメなんだ」
「そうだな、こうなりゃ〜・・あそこしかネエナ」
「渋谷のハチ公前だ」

「しかし、35年飛んでるから、お互い分かるかな?」
「隣に居合わせて分からないかもナ」
「オイラは白髪のてっぺん禿げ」
「懐かしいって、人前で抱きつくのだけは、頼むからよしてくれよナ!」

日時は丸秘なのだ。

 


■2007.09.12 morning  管理人

「アッ・・・、そうだ、あの子から毎年年賀状が来るぞ」
会長さんの電話で意外な名前を聞いた。
桃井コンミューンの4名の同盟員が繋がったのだが、付随の関係者?の消息も明らかになった。
しかしだ・・・・、少しヤバイのだ。
私が桃井の狼の中に送り込んだ2人目の子羊さんなのだ。

公立女子大の新聞部の猛者。
クラブのボス的存在で、かなりアナーキー的傾向。
彼女の卒業間際に相談を受けた。
「私は東京に出たい!」
就職が決まっていた訳ではない、ただ漠然と東京だったようだ。
住所と地図を渡し、送り出した、・・・・否、放り出した訳だ。

私のその後の想定は、
夢破れ、
出身地(北陸)の実家に帰り、
すんなり収まっている、
そうとばかり、勝手に決めていた。

しかしだ、
未だ・・・・、
単身で、東京の空の下で暮らしているそうだ。

 


■2007.09.11 night  管理人

桃井の同居人の会長さんとやっと連絡が付いた。
「会長が先日見舞いに来てくれてたんだ」
「今、電話番号教えるわ」
何のことはない、入院中のMくんから所在を聞いた訳だ。

「大丈夫だよ、アイツは未だ生きる根性が残っているからさ」
会長さんがそう云うなら、俺は信じる、絶対間違いない。
早速会長さんに電話を入れ、Mくんのレポートを求めた訳だ。
涙が出そうなレポート。

「俺か?・・・、オレも一年位入院していた」
「色々有ってな、でも大丈夫さ」
実は、Mくんから電話で聞いた会長さんの近況はかなりショックなものだった。
電話を掛けるのを憚ったのだが、勇気を出した。
「ハハハッ・・・・、仕事止めたから毎日が日曜日だワッ!」

そうだよな、オイラ達は桃井の同盟員だもな!
皆が繋がった。

 


■2007.09.11 morning  管理人

雲が高い、
夜半、通り雨、
虫の声、
秋だ。


Mくんの病室に虫の声が届いているだろうか、
昨夜、他学部の仲間から電話が、
「近い内に(見舞いに)行ってみるよ」
仲間は、Mくんの分厚いメガネの印象が薄っすら残っているだけだという。

遥か40年近く前、バリケードでちらっと見かけた記憶だけ、
仲間にとっては、面識も交流も全く無い病床に伏せる我が友、
それでも、会いに行こうと云って下さる気持ち、
無言で受話器に深く頭を垂れた。

「組織を離れたのは私とほぼ同じ時期ですね」
全共闘の強い絆と合わせ、その後のMくんの人生が人事とは受け止められないのかもしれない。

 


■2007.09.09 night  管理人

四隅を揃え、折り目が綺麗に一本。
洗濯物のたたみ方に性格が現れるとすると、まさにそれだ。
シンメントリーでスクエアー、気が小さく几帳面。
折りたたんだ洗濯物の向こうに桃井のアパートが浮かんでくる。

私の小心な性格に、ハチャメチャな桃井は楽しかった。
鍵もかけず、戸締りもせず、
通りから丸見えでも丸裸、流し台で体を洗った。
明日が見えない時期、皆で時間を分けあって暮らした。


今朝、’72年過ぎまで学内で闘争を続けたという後輩と電話で話した。
「’70年を境に、学内から仲間が急激に居なくなりました」
「私の周り、最後は20〜30名でした」
彼は、孤立無援の戦いを続けていたわけだ。

私が桃井に移り住んだのは’70年。
その随分以前から仕送りは止まり、私の経済は破綻していた
月曜から土曜まで週5日、ひたすらバイトへ通った。
既に、学内集会に顔を出す気合を失っていた、
・・・・・、御免な。

 


■2007.09.08 night  管理人

一週間に、遠出の旅行と、泊り込み缶詰の研修・会議が入った。
心が痛い事もあり、週末は心身ともボロボロ。
この歳になると、気持ちの急な上がり下がりはキツイ。
日課の掃除・洗濯、草木への水やりは欠かさないが、その他は何するでなく。


写真、これ位縮めればいいだろう。
下馬家さん、暑かったね。
やっと日焼けが収まりました。

 


■2007.09.07 night  管理人

桃井コンミューン、誰が最後で、如何なる撤収がされたか私は知らない。
Mくんは桃井コンミューンの果てに、私と違う”総括”をした。
彼はある組織で、更なる活動を続ける選択をした。
彼はそれ以後、30年近くその組織で生き抜いてきた。

10年ほど前だったろうか、残業している職場に電話が掛かってきた。
久し振りに聞くM君の声。
「俺、今な、**島に居るんだ」
「エッッ・・ **島?」

組織を辞め、首都圏での生活を全て清算したという。
それに至るまで、壮絶な経過が有ったのだろう。
とにかく全てを処分し、島に来たと話す。
廃屋を手に入れ、僅かな資金でクレーン付きのユニックを買ったという。
今から住めるように家を一人で直すところだと。
島には職業安定所が無いから、隣島の出張所に週一回、船で通っているとも話してくれた。

私はうすうす、彼のそれまでの複雑な人生を知っていたのでそれ以上深く経過は聞かなかった。
唯、一点だけは聞いた。
「オイ、それで生活の目処は立っているのか?」
彼は即座に、明確に私に言い放った。
「ヤカマシイ・・、俺はナ、今まで一度だって生活の目処なんか立った事ネエや!」

ベランメエに何にも言い返せなかった、
その時は、受話器を持ったまま、最敬礼するのみだったが。
でも今はな、話してもらいたい事が一杯ある、
未だ、生きていてもらわなければ、
Mくん、俺は許さねえからな。


■2007.09.06 morning  管理人

桃井のコンミューンの同盟員は、結構入れ替わっている。
私が参入するまではM、Y、O君の3人だったはず。
私と入れ替わりにO君が大学を辞めて山陰の実家に帰った。
実家は工場を経営していて、大学に見切りをつけて家を手伝うため。
O君の後に私が入った訳だ。

少ししてI君が参入してきた。
実家が裕福なI君、色々高価な生活用品を持ち込んできた。
其の中に、今でも高価なLUXのステレオアンプがあった。
これで、音楽が溢れるコンミューンに変わった。
彼はジャニスやジミヘン、シカゴ、エルトン・ジョンのレコードも持ち込んできた。

この後、室蘭出身の浪人生が参入してきた。
何で浪人生が参入してきたか、誰が呼び込んだのか私は未だに分からない。
高校時代にアイスホッケーをやってたらしく、頑強な体つき。
生きのいいカードマンが付いたと思えば納得できた。
反面、酒はめっぽう弱いくせに勢いでやたらと飲む、結果アパートはゲロの海、
下戸で世話役の私は始末に走り回った。

実家に帰ってきてから、地元の公立女子大の新聞部から私にお声が掛かった。
是非、日大全共闘の話が聴きたいとの事だった。
当時の私は、一言で言えば”腑抜け”で”失語症”状態。
女子大と聞いてトロトロと出て行ったが、余り彼女らの期待に応えることは出来なかった。

女子大生の中に、「東京へ行って秋田さんに会いたい」とせがむ子が出てきた。
そういう意味では、当時、秋田さんはアイドルでヒーローだった訳だ。
仕方ないから、桃井の仲間に連絡をとった。
女子大生に、桃井の住所と地図を渡し、送り出した。
狼の巣窟の中に小羊を放り込んだも同然だが、
彼女のその後を、私は関知しない。

其の後、実家に戻って1年程経過した頃。
女子大新聞部の学生に、「卒業して上京するから桃井のコンミューンを紹介してください」と頼まれた。
これも住所と地図を渡し、送り出した。
私は、計2名、子羊をコンミューンに供給した事になる。
その点では大きな”功労者”だろう。

その後の経過は報告を受けていないが、多分にスッタモンダになったのではないかと思っている。
遠い昔の出来事だから、もう(喋っても)いいだろう。

 


■2007.09.05 night  管理人

昨夜は二本目に至った。
缶ビール一本では酔えなかった。
私にとって二本目は年に何度も無い。
泣きそうな気持ちを押さえて二本目を飲んだ。
やっぱり酔えなかった。

夕方電話が、
「HP見たよ、俺知ってるぞ!」
「**市だろう」
1999年の同窓会の名簿の住所だった。
「折角だけど御免ナ、会長はその住所から引っ越してるんだ」

今日もやっぱり、二本目を飲みたくなったけど我慢した。
昨夜は、ビールのせいで洗濯物干すのを忘れていた。
も一度濯ぎ直して、今干したところだ。

 


■2007.09.05 morning  管理人

10日程前かな、彼にあるDVDを送っていた。
それが今届いたという御礼の電話だった。
郵便は遥か南の離島から、関東まで回送されてきたと言う。
だから返事が遅くなったと友は詫びる。

仕事をしていて倒れたらしい。
病状は深刻なもので、離島で治療は無理だと言われた。
鹿児島に搬送すると言われたが、それなら親族のいる関東へと希望したらしい。
こちらの大病院に移って1ケ月に。
南の島で、漁師さんたちに交じって穏やかに暮らしているとばかり思っていた。

「俺、未だ生きたいよ」
「やりたい事、まだ有るし」
「携帯、24時間電源入れてるからさ、何時でも通じるからさ」
「何か有っても、この携帯は親族に頼むから通じるよ」

7月23日のBS-hiの番組の後、珍しくメールをくれた、
「観たよ、知らせてくれて有難う」
「俺も書き残したい事がある、これからぼちぼち書いてみる」
私は頼んだ、
「書けたら、俺のホームページに上げような」

絶対、約束は守ってもらうからな。

 


■2007.09.04 night  管理人

桃井コンミューンの大切な同居人、Mくんが重い病気を患っています。
Yくん、Iくん、Mくん、それに私。
四人一緒に暮らしました、一生の家族です。
Mくんの痛みは私の痛みです。

Iくんには連絡が取れました。
でも、どうしてもYくんの所在が掴めません。
Yくんは、私らの仲間では”会長さん”と呼ばれていました。
どうしても至急、会長さんと連絡をとりたいのです。

何方か、会長さんの居所をご存知の方は居ないでしょうか。
日大全共闘の仲間で、理闘委の仲間で、ご存知の方は居ないでしょうか、
どうか、助けてください。
お願いです、助けてください。
助けてください。

 


■2007.09.04 morning  管理人

赤鼻が残るものの、顔や腕の腫れはかなり収まった。
何とか腰も曲がるようになり、出勤できそう。
「イヤ〜、二泊三日でグァムに行っててネ・・・」
旅行に行くと云って休んだので、職場ではこれで通そうかどうか。
でも、お土産が国産ではツジツマ合わないな。

あの頃は二百数十日、始終走り回っていたが、
肉体のリカバリーは一晩寝れば十分だった。
今は、気合で数日突っ走れても、リカバリーにはその数倍掛かる。
明日頃からが勝負だな。

あの頃のメンタルリカバリーには30数年掛かったが、
今は、心臓に毛が生えたのか、
今日はもう平常だ。

 


■2007.09.03 morning  管理人

昨晩、
「お帰りなさい、ご苦労様」
妻が途中まで迎えに来てくれていた。
「お土産無しだよ、昨日まで一緒だったからね」
私は所用で滞在が一日延び、妻は一足先に帰っていた。

炎天下、日中殆どが屋外の用事だったので、顔や腕が真っ赤に焼けている。
「弱ったなあ・・・・」
「これじゃハワイかグァムに(遊びに)行ってたと間違われてしまいそうだ」
私は”真面目”な所用で出かけていたのだ。

今朝、
申し訳ありません、
ベッドから起き上がれませんでした。
「今日(も)、休ませてもらいます」、職場に電話 (汗。
腰が岩のように固まり、顔は日焼けで水ぶくれのよう。
関係者の方に「ヨットマンなのでしょう・・・」って言われたのですが。
海に出る時は完璧なUVケアを怠らないのです、
今回は完璧に想定外でした。

昨日(2日)の日記は宿泊先でアップロードしたつもりでしたが上がっていませんでした。
ホテルのLANは、FTPブロックを掛けている所が多いようです。
一日遅れのアップです。
関係者の皆さん、Kさん、本当にお世話になりました。

 


■2007.09.02 morning  管理人

昨日(1日)の夕方、先輩の店に寄った。
「飯も食ってけよ、つくるから」
其の日は無我夢中で、昼食は殆ど手付かずだった、なのに腹は減っていない。
一日の出来事を一気に喋った。
喋っていると落ち着いてきた、
手作りの夕餉がテーブル上に並ぶ、この店はまるで自分の家のようだ。


日中、所用で人とあの当時の話をした。
話をしていると、情景が頭の中に蘇ってきた

カ〜ン、カ〜ン・・・・
真っ暗な先、ライトに浮かぶ時計台、
角材を地面に打ちつける音、
不覚にも言葉が詰まってしまった、
冷静に格好付けなきゃ、そう念じたが、気持ちが込み上げてきた、

様なものだ、60近いオッサンが鼻声だ。
ティッシュ差し出してくれた。
ご免なさい、キレイに話せなくて。




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