my favorite songs
 

■2007.11.30 night  管理人

話が重なるときは重なるものだ。
業務用の携帯電話が何本か有るのだが、
某携帯電話会社系列の取引先と話をしていたら、上手い話を聞いた。
番号継続で会社を乗り換えても、その費用はタダで、毎月の維持経費も何割か安くなるとの話。

「その証拠を示して欲しい!」
上手い話は信用しない性質なもので、要求すると、
午前の話が午後にはもう、
経費見積もりと維持経費シュミレーションを持参してきた。
イヤハヤ、凄い業界だ。

 正午の銀杏

「それで、乗り換え機種はどれにしますか?」
厚いカタログを差し出されて困った。
そこで、そうだ!、と考えたのが先日買い換えた妻の機種。
業務用が同機種ならば、マニュアル読む手間が一度ですむ。
この事例は、某官庁のような公私混同には当たらないだろう(汗。

法人契約なもので、法務局から登記簿を取り寄せ手続きを済ませた。
週明け早々には、出費ゼロで真新しい奴が届く。
あらためて、
イヤハヤ、凄い業界だ。


■2007.11.30 morning  管理人

「一晩中、幾ら充電しても半日も持たないわ」
「貴方、これ替えてきてください」
やっと腰が曲がるようになったら、早速に妻の指令が。
もう5〜6年になるのだろう、そいつは彼女の風貌と同じ様になっている。

替えるって云ったって、私には何を選べばよいか皆目見当が付かない。
PCはオタクを自認しているが、携帯電話はテリトリー外なのだ。
「オバサンに人気があって、そこそこの値段のはどれですか?」
「・・・・・・??」

ショップのお姉さん、この質問はマニュアル外なのだろう、
若者ばかりが、世の主役ではないのだ。
結局、お姉さんお勧めの業界最薄サイズで最軽量、”若者”に人気のある機種を選んだ。
カラーだけは妻の指定が有ったのでホワイトをチョイス。

早朝の銀杏

「これは如何するのですか?」
帰宅して妻に納品すると、それなりに喜んでくれた。
やっぱ、若者向けを喜ぶんだわ!
それはそれでいいのだが、マニュアルも読まずに私に質問攻め。
おまけに不気味なCDロムまで添付されているという。
「今度の電話、パソコンで何か出来るの?」

私はパソコンだけで手一杯、パソコンだけで頭はオーバーフローなのだ。
許して欲しいのだ、携帯電話までは。


■2007.11.29 morning  管理人

首都圏を走り回った数日、
我が家に帰り着いた翌日、ふとした動作で腰に電気が走った。
床に臥せていた数日を含め、この一週間はただただ”静”の状態。
元気であれば、叔母の栽培する柑橘の、
親族上げての収穫、
他にも連休に色々とイベントがあったのだが、全てキャンセル。
無理の利かぬ体だとあらためて自覚。

腰をさすりさすり仕事をしていたら、珍しくヨット仲間の訪問。
「そうか・・・、今なら例の話だな」
「そりゃ〜行くべ!」
腰の痛いのを忘れて話し込む。
元旦、初日の出セーリング、毎年恒例の行事。

未明、周りがまだ暗い時間に出航。
湾内の航路を、浮標の灯を見ながら進む。
外海に出る頃には周りが白んでくる。
船足を止めて日の出を拝みながら新年の乾杯、寒くて鼻水が滴るが。
今年の元旦は、それから2〜3mの安定したいい風が吹いた。
来年は、キャビンで雑煮でも煮て暖めようか。




■2007.11.23 morning  管理人

朝食のレストランは長蛇の列、
アジア系の団体客だろうか、異国の言葉が飛び交っている。
朝一番に予定があり朝食をあきらめ、そそくさと荷物をまとめホテルを出た。
ホテルから予定の場所はすぐ近く、そこで朝食をとった。

この夏から身辺が目まぐるしい。
Jさんは、私のサイトが「日大全共闘」のポータルサイト化していると評している。
個人的なサイトとして立ち上げ、それ以後の更新もそのコンセプトは崩していない。
「おっとどっこい、日大全共闘は老い朽ちていねえぞ!」
「しぶとく、ここに生きてるぞ!」
結果として、ポータル(表玄関)サイトというより、アドバルーン・サイトだと思ってやっている。

そんなアドバルーンが時折世間様の目に付くのだろう、
夏から幾つかその筋からのコンタクトが続いた。
今回は、とある出版社。
日大全共闘なら誰もが知る出版物の”リメイク企画”の相談話。

差し出された名刺には「代表取締役社長」
頭にささげ、かしこまり、頂いた次第。
版権や過去の経緯が複雑で、この件に関する判断の権限も能力も私には無い、
案内役に徹し、座敷にご案内して私の役割は達せられたと満足している

そのあと午後、以前からお会いしたいと願っていた「山川明子」さんにお会いすることが出来た。
「私は赤い紙袋をもっていますので」
「どんな方だろう・・・・・」
イメージを膨らませながら、30分前から約束のデパート玄関に立った。

あなたへのEメール

躊躇しているうちに赤い紙袋が近づいてくる。
「アッ・・、思い浮かべていた通りの方だ」
飾らなく、素朴な雰囲気、勿論インテリジェンス!
帰路の飛行機便の時間ギリギリまで、午後の時間一杯を費やして私の話に付き合ってくださった。




■2007.11.22 morning  管理人

「あそこはな、ヤバイってもんじゃなかったんだぞ」
「エッッ・・・、そんな!」
Mくんが私の知らない桃井コンミューンの話をはじめた。
私の知らない組織の話、
私の知らない非公然活動の話、
吹っ切れたようにMくんは話続ける。



朝集合し、渋滞の都内を抜けるのに難渋した。
ハンドルを握ると、人の性格の”素”が出ると言われるが、
とにかくナビの判断(指示)が、JUNさんのハンドル、アクセルより遅れる。
熟慮、沈着型だと疑わなかったのに、
JUNさん、間違いなく日大全共闘の模範的DNAだ。
途中からMくんに付き添う理闘委ゼロ年生('69年入学組)が出迎えくれ先導してくれた。
丘陵地帯を走り、林を抜ける。
木立に覆われる理闘委の元・救対Sさんその家にやっと着いたのはお昼前。

”派”は違うが、永く組織に属していたJさんとMくんの話に耳を傾けた。
ノンセクト・ドジカルを通した私との昔話ではまず聞けない”レア”で”ディープ”な話が続く。
「これ以上はまずいな?」
話が佳境に係ると、どちらからでもなくブレーキがかかる。
オーディエンスの私はそこでつんのめるが、我慢するしかない。

帰り道で、ハンドルを握るJUNさんに言った。
「オイラ、Mくんの事、ほんの少ししか知らなかったんだ」




■2007.11.21 morning  管理人

出張の会議の合間、少しエスケープして館内レストランの窓から紅葉を眺めていた。
銀杏は黄色に色付き、晩秋というよりもう冬の風情。



空港の手荷物検査、係員が紙袋をいぶかる。
「中味は何ですか?」
「植物です」
「・・・・・・?」
大麻か何かと思ったのだろうか、
「開けて見せていただけませんか」
「梱包しているので勘弁してください、花のポット苗ですので」
少し間がおいて、
「いいでしょう、通します」

仲間に出張でそちらに行くと言ったら、注文があった。
「クリスマス・ローズを持ってきてよ!」
近くなら大株を進呈するのだが、大鉢はちと道中が辛い。
昨年に芽吹いたポット苗を幾株が箱に詰めて持参した。
まさか、空港での検疫検査に引っかかりそうになるとは思っていなく、冷汗ものだった。

宿舎に入り、箱から取り出しコップで水をやる。
この子が遥か遠くの地で育つかと思うと、子を手放す親の気持ち。
丈夫に育てよと、子供たちをテーブルに並べ念じた。




■2007.11.19 morning  管理人

途中からマイクがプッツン、スカイプ会議の蚊帳の外に。
会議の音声は入ってくるのだが、こちらの声が届いていない。
スカイプのマイクは「音声がミュートされています」とのメッセージ。
別のマイクに差し替えてみるのだが、症状は変わらずマイクのせいではなさそう。
息子からのお下がりの2003年後期の製品、丸4年のマシンだから機能障害か?
画像や映像の負荷の掛かる処理は抜群のスピードで喜んでいたのだが、トホホだ。

明日から数日出張に出る。
我が家の玄関から羽田まで、空港での所要時間を入れても2時間を切る。
首都圏までは、陸路や鉄路を利用すれば恐ろしいくらいの時間を要する田舎だが、空港が近いという事は誠に有り難い。
日帰りも、気力・体力さえあれば時間的には可能。

仕事が済めば、その後、少し私用もこなそうと予定している。
このホームページを始めて、本当に多くの方々とお会いする機会に恵まれている、
いろんな方からメールを頂いたりしたが、こちらからメールを差し出した方もいる。
旧友との何十年振りの再会と合わせ、ネットを通じて今回初めてお会いする方もいる。

人の青春時代には一生の付き合いといえる友が何人かは出来る。
私の場合にはその数が半端ではない。
そう何度もは無かったが、「命が・・・・・・」と思った状況もあった。
そんな思いを同じくした仲間は、誰彼なく一生の友。
その思いが有るから、あの時代の大学の枠を越え、其の輪を広げたいと思うようになった。
明日は未明の起床、日の出前の出立。




■2007.11.15 morning  管理人

オタクなもので、
ああでもない、こうでもないと作り直しているとWEBページはやたらと重くなる。
ソースをみれば分かるのだが、ページが不要なHTMLタグで埋め尽くされている。
表示するページは同じでも、後ろに書かれているHTMLタグが同じである訳ではない。
上手いと下手ではHTMLタグの量は何倍も違う。
まあぁ、ベーシック(懐かしい)を使ってプログラムを書くのに、上手と下手があると思えば分かりやすい。
勿論、簡潔で少ないHTMLタグで記述するページの方が良いに決まっている。

ムービーのページをリニュアールした。
このページ、不要なHTMLタグの”ゴミ”でページが埋め尽くされていた。
まあぁ、見る方には支障が無いのだが、ページが重すぎて、メンテ更新に苦労をしていた訳だ。
ついでに、「テーブル」という表形式のHTMLタグを使ってみた、私のページでは余り使わないHTMLタグだ。
これを使うと、レイアウトが如何してもスクエアーでシンメントリーなものになる。
私の性格と似ていて嫌なのだが。

夕焼け

「ウン、WEBは確かワールド・ワイドなのだ」
もう一つ、ついでも思いついた。
「マイ・ページには英語版があれば」
決して、私の英語力でチャレンジしようなどと大それた事を考えてはいない。
IEには、ページ英訳という便利なツールがある。
プロの翻訳家のようなニュアンスを意訳するほどの事は出来ないが、
要はマイ・ページを主語、動詞、接続詞が整然と並んでいる文に書き直し翻訳すれば意味は伝わる訳だ。

文法無視のハチャメチャなこの日記や、思い込みの激しいHP本文の英訳はとても無理、
IEの英訳機能がふっ壊れてしまう(笑。
シンプルな資料のページとかに限られる。
まあぁ、そのうちボチボチと、
ただ、「標準語」でないと上手く英訳できないのが、田舎者にはいまいち気に食わないのだが。




■2007.11.14 night  管理人

「日記読んだよ」
「誤解を恐れず言うとな、俺はな、近代医学を断念したのではない!」
「反主流派を弾圧してきた、今の近代医学主流派を見限ったのだ」
「ロシア革命以後の1930年代から主流派を占めた・・・・」
途中まで話に付いていけたのだが、
アフリカのシャーマンに話題が触れたところで、かつての桃井コンミューンの様相を呈した。

1970年頃だったか、毎晩とは言わないが頻繁にMくんに階級理論の薫陶を受けた。
傍らで、我関せずにギターを弾く会長さん。
せっせと製図台に向かい定規を当てるGくん。
そうだ、あの頃のMくんだ。

受話器の向こうで、Mくんの話は益々熱を帯びて来る。
電話に時々咳き込むノイズが入る。
何時までも付き合ってあげたいのだが、体力が心配だ。
30分近く話したろうか、
「もうすぐ、沢山の全共闘仲間と見舞いに行くからね」
「頑張ってね・・・・」

「Mくんが最後にこう云ったよ」
『オイラ、(あれから)四十年近く生きてて良かったよ、皆にこんなにして貰えてさ』
「アイツ、泣かせる事言いやがるんだ」
受話器を切って、妻に泣きながら報告した。




■2007.11.13 morning  管理人

1968年の11月は色々有った。
有ったといっても記憶は薄れるばかり、闘争年表を見て思い出す。
この月、年表を見なくても覚えていることが二つ有る。
11.8と11.22

9.30、大衆団交の約定が佐藤(首相)の発言でひっくり返された直後、
日大だけでなく多くの大学のバリストや闘争を鎮圧する目的で、都内で結成されたという”関東軍”。
それは、かつての帝国陸軍のそれを模して付けられた紛らわしい名称なのだが、
其の名の下に首都圏の多くの大学から、日当ウン千円でかき集められた体育系学生。
その中には、その後スポーツ界で頂点を極め名を成した方も居た。
捕らえた現場の指揮官"I "は、新宿が縄張りといわれた某プロ集団の筋の方。
Movie11.8を参照

その部隊が400余名、江古田・芸術学部バリケードに夜襲をかけてきたのが11月8日未明の出来事。
先般10月6日BS2の番組で当日早朝の実写映像が流された。
僅かな断片的な映像ではあったが、マスコミで報道されたことは稀有な事例である。
報道のタブー的映像を、紛れもない事実として、アーカイブから取り出されたことには最大限の謝意を表す。

11月22日、本郷に辿り着いたのは、日暮れも過ぎての時刻。
日大全共闘の全部隊が御茶ノ水に結集したのは其の日の午後、
御茶ノ水橋を挟んで機動隊の阻止線が張られているとレポから報告が入っていたそうだ。
数時間の待機の末、阻止線突破を覚悟で部隊は動き出した。

ピッッ、ピッッ、ピッッ、ピッッ・・・・
鼓舞する笛の音をリズムに暗闇の道を本郷に向けて進撃した。
経路は記憶に無い、片手に石、片手にゲバ棒。
東大に近づくと、両側の歩道に上がり進んだ記憶が微かにある。
如何しても安田講堂に辿り着きたい一心だったろうと思う。

改めて年表の11月を見ると、
右翼と連動したバリケード破壊と並行して、逮捕状が乱発されている、
学部の委員長、書記長クラスが根こそぎ逮捕されていった月でもある。

もうすぐ、39年目の11.22、
当然、来年は40周年の11.22でもある。
区切りの良い10年先の50周年は、半分以上が・・・・・
皆の寿命が持たないだろうな(泣。
何としても40周年カンパニア、との個人的希望(野望)がある。

my favorite songs 入れ替えました





■2007.11.12 morning  管理人

10月6日のBS2の番組終了後から、当ホームページへのアクセスが跳ね上った。
ようやくその影響も消えたかと思っていたら、先週からアクセスがグングン伸びてきている。
昨夜は、番組終了後の勢いまで追いついてきた。
多分アレだろうと思ってアクセス解析を眺めていたら、ヤッパリだ!

10月初めだったろうか、見知らぬ雑誌社からメールが入った。
雑誌に私のホームページのトップページの画面と紹介記事を載せさせて欲しいという内容。
少しでも多くの人に見てもらうのがページのポリシーなもので、
「よござんす、ついでに930の会の事も書いてくれないか?」
ついでとは思ったが要望も付け足して、返事を出した。

要望はやんわりと断られたが。
11月8日に、確か11月6日発行と聞いていたのをハタと思い出し近くの書店に。
棚に寂しく一冊だけ残っていた「TVBros」、滑り込みセーフ。
パラパラとめくると、有る有る、マッチ箱大(笑)のサイズの紹介記事。

 ほぼ記事の原寸大

「ウン、これではな?」
正直、馬鹿にしていたのだが、
でもこれが大した影響なのだ、
脱〜帽。

このページの11月8日の記事からは結構たくさん飛んできている。
このページには、こんな感想が11月7日の記事に、
今号の「ネット探偵団」で気になったのは「1968年全共闘だった時代」というサイト。写真がいいね。ぼくの「遅れて生まれてきてしまった」感が沸々と。
普段は聴けない、若者の言葉が聴けたようだ、




■2007.11.11 night  管理人

Mくんが、近代医学の治療を断念し病院を出ることになった。
「一貫して気丈夫だったのに、少し気弱になっている・・・」
先日、見舞った会長さんからの報告が入った。
「でぇ・・・、Mくん如何するって言ってるの?」
今後の”方針”について、会長さんに問うた。

このホームページを開設した2003年の11月頃、理闘委の仲間に無差別にハガキを出した。
差し出して枚数は150枚程だった。
何件か返事が戻ってきた。
其のうちの一つを「便り投稿」→「全共闘仲間からの便り」→「K.Sさんからの便り」2003.12.13に紹介している。

「実はな、**科の仲間が、是非私のところへと誘いが有ったらしい」
「でぇ・・・、Mくんもいろいろ考えて、行くことに決めたらしい」
薄れる記憶のなかに、其の仲間の名を最近聞いたような気がした。
引出しの中をかき回し、K.Sさんの便りを見つけ出した。

「私の祈りの家です」
「近くに来ることがありましたら立ち寄ってみてください」
「玄米御飯でおもてなしをしたいと思います」
「寒さ厳しき折御自愛ください」

社交辞令ではなかった、、
全共闘の絆は、かくも・・・・・
また、泣き虫オヤジになってしまった。




■2007.11.06 morning  管理人

この土日、ラッパの大将ご夫妻が我が家を訪れた。
夜は妻と四人で馴染みのイタリアン・レストランへ。
ラッパさんは日頃から酒に馴染まないし、私は運転手、
妻達はワインで、ラッパさんと私は水で乾杯

ラッパさん、日頃私らに”愛妻”の話はよくしてくれる。
まあ、美女と野獣の話だと思えばよい(汗。
今般の妻同士の話題は、当然に子供達の話になる。
日頃はラッパさんから聞けないお子さんの話をたくさん仕入れた。
「ウ〜ン、そうなのか、優秀なのだ!」

日曜の朝、見送る際には、我が家恒例のクリスマスローズを進呈。
ラッパさんご自慢のフル装備のキャンピングカーの後部座席に鉢と苗を積み込んだ。
帰った後、妻が一言、
「本当にいい奥さんですね、それにお子さん達が優秀で羨ましいわ」
私にはどちらかと言うと、「お子さん達」に力が入っていると聞き取れたのだが。

こう云っては何だが、妻は同性にはなかなか手厳しいのだ。
妻が同性を褒めるのを私が聞くのは珍しい。
最近では撮影でお世話になったADさん、
それと今回のラッパさんのお連れ合いだ。




■2007.11.05 morning  管理人

やはり独り言でウダウダと続きます。

昨日、仲間から当時の詳しい経緯を綴ったメールを頂いた。
それによると1969年1月18日〜19日、各セクトの幹部の方々が理工学部一号館に居たそうだ。
私等のバリケードは、全国動員の闘争などでは、地方の学生に宿泊所として開放していたし、
それ以前から、秋田議長や全共闘の主だった方々のお顔は頻繁に拝見していた。
しかし、そこに常駐(泊り込み)していた私は、秋田さん達以外にセクトの幹部連が結集していたとは気がつかなかった。

一号館は、御茶ノ水カルチェラタンの中心部に位置する地の利、
いざとなれば逃げ込める中大、明大なとが隣接、
それらよりも、建物がバリケードには好適な構造だった。
古い建物は、入り口は数箇所、階段も狭く、
守るには日大のバリケードで最も堅牢だったと思う。

阻止線の最前線に居た私(等)も、全く静かになった時間帯を経験している。
数時間ではなくそれ以上だったと霞む記憶がある。
仲間の中にはヘルメットを脱ぎ、恐る恐るレポに出かける者も居た。
周辺に機動隊が居ないことだけは確認したが、其の先は私等には未知だった。

仲間が綴ってくれた内容によれば、
御茶ノ水から本郷まで私らの進撃を阻むものが何も無かった十分な時間帯が存在し、セクト幹部の方々はその事を御茶ノ水〜本郷の各所に張り付いたレポからの報告で承知していたということだ。
薄々は感じ取っていたが、39年経って正確な証言に行き当たった。
ゲバルト的にタイムリーな指示が下りていれば。

歴史にはもしもがつきものだが、
もしも・・・ほど詮無いものはない。
辿り着けたとして、何が出来たといえば、何も出来なかっただろう。
それでもオイラ達には、行かねばならぬ何かが有った。
しかし、それはオイラ達だけの問題であって、
セクト幹部の方々には、その何かは必要ない事だったという事だ。

これ位喋れば、もういいだろうamanoyaさん。




■2007.11.02 night  管理人

ウダウダと、ここ数日かつての悔しい思い出を書き殴っていたのだが、
世の中、良くしたものだ。
嫌な気分を埋めても、まだ有り余る嬉しい便りを頂きました。
訳有ってご披露できないのが残念なのですが、
「報われる」って、こういうことだよねJUNさん。

そんなJUNさんに、色々とオタクの手ほどきを受けている。
先日は教えてもらったFireFoxのFLVダウンローダーをインストールした。
見ているYouTubeがワンクリックでダウンロードできる優れもの。
瞬く間にハードディスクはギガ単位でFLVムービーの山。


更に次々と新しい技が寄せられる、
一昨日はFLVから音声をmp3で取り出すテクニックがメールで来た。
Jさんは既にチャレンジしたらしく、悪戦苦闘の末に習得できたと報告有り。
私は週末にチャレンジ予定。
mp3が溜まれば、2ギガのi-podでは溢れてしまうのが悩み。

FLVPlayerExという優れものがある。
ホルダーにあるFLVムービーを次々に連続再生してくれる。
デスクトップ上に名刺大のプレヤーを出して連続再生。
ありとあらゆる音楽を次々再生し続けながら、
ますますパソコンに向かう時間が増えてしまうのだ。




■2007.11.02 morning  管理人

神田から本郷への進撃については、今更云ってもせんないことですが、その悔しさはあります。
でも、ビデオに残る機動隊阻止線の撃破は、こちら側の一方的な美味しいとこ撮りで、実際は完全に制圧されていたことは、あそこに居た者なら誰にも十分に分かっていた筈です。
殆どがパクられる覚悟なら、敗北主義的な進撃方針も有ったのかなとも思っていますが。

党派の指導部は、安田講堂という最高のステージがあったので、周辺でのイザコザでの消耗は意味が無かったのではと私なりに理解しています。
安田講堂の壮絶な敗北劇は、後に続く燎原の野火を呼ぶ、革命的ステージとして用意されていたのでしょう。

私らの片思いかも知れませんが、
その党派の思惑とは別に、
共に1968年を闘って来た日大と東大の全共闘には義理の関係が有ったと感じていました。
そういう意味で、御茶ノ水ではなく、本郷まで辿り着いて、負けても良いから敵の背後を突く戦いをしたかった訳です。
理屈ではなく、
日大全共闘とは、そういう全共闘であったと思っています。




■2007.11.01 morning  管理人


掲示板での「お願い」が誤解されたようですので弁解を。

1)、私が掲示板に管理人で書き込んだ31日付けの「お願い」は、”文理\(^o^)/学科”さんが投稿された記事に対してではありません。

2)、議論が分かれる点とは、
'68年1月18日〜19日の間、日大全共闘を含む多くの部隊が御茶ノ水に結集し、機動隊との激しい攻防戦を繰り広げました。
攻防の末、御茶ノ水橋を挟んで阻止線が構築され機動隊と対峙しにらみ合いになりました。
私を含む(多分ラッパさんやamanoyaさんも)多くの日大全共闘の仲間が、本郷・安田講堂への進撃を念じていました。
極めて幼稚と云われるかも知れないけれども、
また勝つか負けるかは別として、
それ(進撃)は、前年の11.22で東大全共闘と交わした戦いの連帯の具体化であったはずです。
日大全共闘の中には、進撃の結果として、逮捕される覚悟を決めていた方も少なくなかった筈です。
実際、部分的・個別的には機動隊の阻止線の一部を撃破した状況はありましたが、全般的な状況は圧倒的な力で制圧されていたと受け止めていました。
最終的に、安田講堂の陥落まで”本郷進撃”のゲバルト方針は全共闘中枢からは下りて来ませんでした。
この闘争方針について「議論が分かれる」点があると表現した次第です。

 時計台でなびく学科の黒色旗('69.1.20、午前8時前)

私が安田講堂に辿り着いたのは、機動隊が引き上げた一瞬を突いての20日の早朝、何処の部隊で何人居たのかは全く記憶がありません。
ガスが充満する講堂、階段を時計台まで駆け上り黒色旗を掲げて退散しました。
朝靄に浮かぶ安田講堂、もう少し早く辿り着きたかった悔しさはあります。
しかし、この攻防戦についての方針で、その是非を問う議論は今更する気はありません。
その議論を今更に蒸し返したいのであれば、別の場で、私の与り知らぬ場でお願いします。




管理人日記トップへ戻るトップページへ戻る