my favorite songs

 
■2008.02.29 morning  管理人

痛い腕を摩りながら・・・・、
仕組みはチンプンカンなのだが、
MyPageをハングルで見るサイトを見つけた。
多分、自動翻訳サービスのサイトだろうと思うのだが。

さすが、ネット先進国のコリアだ。
ネットは限りなくワールドワイドになっている。
これはパクリで、トップページにも、リンクを設けなければなるまい。

念のため・・・・、
ハングルページはページ内のリンクでの行き来は出来ても、
プラウザのボタンでは行き来が出来ない。
これは私の”管理責任”ではないので、クレームは当然受け付けない。


1968年全共闘だった時代ハングルサイト




■2008.02.27 night  管理人

それでも、仕事を投げる訳にはいかず、
痺れた指を騙し騙しキィーボードを打つ。
職場のホームページの更新管理も、この団塊オヤジの飯の種。
己のHPは疎かにしても、仕事はそういう訳にはいかないのだ。

お陰でと云うか、
職場の業務HPのアクセスカウンターは順調に伸びて・・・・、
今や一日当りMyPageの倍以上のカウント数。
注文や問合せも頻繁に入ってくるようになった。
我ながらさすが・・・(要は自慢なのだ!)


でも、自宅に戻ると、痺れた腕が・・・・、
画像処理などは、思った以上にくたびれた腕に負担が多い。
もうキィーボードを叩く馬力を残していない。
当分、この状況が続きそう。




■2008.02.21 night  管理人

スキー道具を取りに帰ってた次男坊が部屋でリッケンバッカーを鳴らしている。
つい聴き惚れる、
やはり、オヤジとはスジが違う。
「あのヘタクソ親爺、俺のリッケンいじりやがったな」・・・(汗。
何でも週末、八方尾根まで出張るそうだ。

道具を持って帰る息子の背中にこう言ってやった。
「オヤジの仕込んだスキーを思い出せよ」
「いいな、北壁も直滑降一本だからな!」
オヤジが仕込んだのは技術ではない、根性だから。

息子が帰った部屋でリッケンバッカーを手にした。
ここのところ急激に進んだ”否定的な状況”で弦が弾けない。
10日前は弾けたのに・・・・・・、
フライング何とかのほうは・・・・、
形状的にもっと”否定的状況”。
あぶら汗がにじんで来るので断念した。

aaghさんより同盟への参加の呼びかけがあっている。
勿論、当然、私の方が同盟内では”左派”なのだ。
ほぼ一週間ぶりに、
キィーボード打つにもあぶら汗がにじんできやがる。




■2008.02.16 night  管理人

この歌手、今一ピンとこないのだが、
ロケーションが・・・・、
聖橋、ニコライ堂、神田川、神保町。
喫茶店は”さぼうる”だろうか、
ギター弾いているのは錦華公園だろうか。


青春のたまり場

何故、ピンと来ないかと云うと、
御茶ノ水には、
聖橋には、
かつての其処には”催涙ガス”の名残りが必須だから。
この歌手からは、それが匂って来ないのだ。





■2008.02.14 night  管理人

>69年4月12日に明大学生会館・・・・・

その時の”事件”の事が、軟弱銀ヘルさんと明大全共闘さんとで掲示板で交わされています。
私の場合は駿河台下まで逃げ延びたのですが、
私のマドンナは学館でパクられました。
この話題は何度となく、しつこく書き綴っています(泣。

”事件”の2ケ月ほど前、'69年2月の始めにバリケードから撤退しました。
私を含め多くの仲間には、もう前年の9月のような徹底抗戦する馬力は残っていませんでした。
それから事件の4月12日までは・・・・・、
ほんの僅かな間ですが、今でも胸が痛くなるような記憶が残っています。

バリケードという場を失い、中大の学館、明大の学館と居候の状態が続きました。
泊り込むには肩身の狭い立場、親元離れた私の新高円寺のアパートが溜まり場状態になりました。
誰とはなく集まり、夜が更けると皆でなけなしの金を出し合い近くの”スナック”へ、
そんな中にマドンナも居ました。

当時の”スナック”には今のようにカラオケなんぞは有りません、
店の片隅に”ジュークボックス”が置いてありました。
あと、白いギターも有りましたっけ。
ジュークボックス鳴らし、ギターを弾いて唄ったり、
ほんの僅かな間でしたが、普通の学生に戻る時間が有りました。

凍る夜道を、明け方、スナックから下宿に戻り皆でコタツを囲み仮眠。
ウトウトしていて気が付くと、朝日の中にマドンナが座っていました。
時代も情景は少し違いますが(かなり違うかも?)、「思い出まくら」をYouTubeで聴いてて、そんな事を思い出しました。
彼女は事件の4月12日を境に、僕らの前に二度と現れませんでした。

その年、アポロが月面に着陸した夏、騒がしいと下宿も追い出され阿佐ヶ谷に引っ越しましたっけ。




■2008.02.11 afternoon  管理人

蜜柑の樹の下、クリスマスローズが咲き始めた。
午前中、蜜柑の収穫。
こいつが落下すると、花がひとたまりもない。
大きいのも小さいのも、器量の良いのも悪いのも、
脚立を出してきて、正月に取り残していた手の届かない奴、それでも一山になった。
ついでに生垣に刺して、鳥にもおすそ分け。
今日は陽気が良い。









■2008.02.10 night  管理人

宮澤君はR・ストーンズのコピーをやっていた。
桃井でEとAの二つのコードで弾く曲を習ったのだが、何の曲か思い出せない。
基本的には3拍子目をセブンス・コードでアクセントをつけるロックンロールなのだが。
困ったときのYouTube、
昨晩、夜鍋して探したが分からない。



次男坊の部屋にギターが有ったのを思い出した。
エレキギター(表現が古いが)は奇怪な形をした奴とマトモな奴が2本、
よく見るとリッケンバッカーではないか。
ジョン・レノンご用達のそれだ。

アンプを取り出してきて昼間大音量でロックンロールしていた。
曲名は・・・・・?、
勿論EとAだけ、私のオリジナルの追悼曲なのだ、
神様、天国へ響け・・・・




■2008.02.08 morning  管理人

少し先の話だが、上京の予定。
しかし・・・、”上京”という言葉が違和感なく使えるほどのローカルが哀しいのだが。
以前は仕事の出張を利用して、色々と事を済ますことが多かったのだが、昨年からは純粋に自腹の上京。
これが度重なると私のヘソクリは疲弊する。

折角だから久しく会っていない友に連絡を取っている。
友といえば例外なくかつての全共闘仲間。
同窓会は10年毎に有り、今まで3回開かれているが、その友とは40年近く一度も会っていない
僅かなつながりは昨年秋に掲示板を通じて突然入ってきた一通のメール。
電話も住所も定かでない、メールアドレスだけが頼りのつながり。
メールを入れてみたが、スパムに埋もれて果たしてつながるかどうか。

You Tube

久し振りに通勤の助手席に次男坊。
「夜は同期の飲み会でね」、深夜のご帰宅だったらしい。
何でも数日の日程で研修を受けさせられているという。
息子と二人でピンク・フロイドのクレイジーダイヤモンドを聴きながら出勤。




■2008.02.04 morning  管理人

会長さんから電話が入った。
「学科の先輩(三闘)が近々に偲ぶ会をやるので出て来ないか」
「先輩の店だけど、狭いので学科の範囲でささやかにということになった」
「オマイサンは桃井だものな、是非来いよ」

「でもな、早くも誰かが抜け駆けして委員長に声を掛けたらしいけど(笑」
「・・・・・、オイラは立ち席でもいいから、絶対行くよ」
「桃井だものな!」
できれば、参加は拒みたくないないのは当然だが、何せ先輩の店のキャパに限りがあると云う。

昨年11月21日、療養のため逗留する山荘に宮澤君を訪ねた。
昼過ぎ、食事をして丁度寝付いたところだった。
元・救対のSさんが、
「折角だけど、起こさないで寝かしておいてあげましょう」
暫くは皆でボソボソ話をしていた。

10分も経たないうちだろうか、2階のロフトから宮澤君が降りてきた。
思っていたよりも元気そう、
いがぐり頭に白いヒゲ、
「ヤア、皆んな来てくれたのか」

それから宮澤君は喋り続けた、
皆が訪ねて行けば、ハイになる。
滞在した2時間余り、間断なく喋り続けた。
決して希望は捨てていなかっただろうが、覚悟もあったのだろうと思う

「アスパック闘争で伊豆に行ったとき」
「党派の部隊だったけど、オイラは全共闘のヘルメットを被ったんだ」
「そりゃ〜当然さ、その時は理闘委の皆にカンパしてもらったんだから」
「伊豆の駅前、部隊の最前列でオイラ一人が理闘委のモヒカンヘルメット」
「それって、セクトで許されるの?」
「当ったり前よ、日大全共闘だからな!」

ヤバイ話も含め、ビデオに一時間ほど収めた。




■2008.02.03 morning  管理人

セブンス・コードで3拍子めにアクセントを付けてフォービートを刻む。
確か、AとEのコードだけで進行する。
「オマエさんにいい曲があるから教えてやるよ」
余りのヘタさに宮澤から教わった、チョー・シンプルな曲。

「オイラは全共闘やんなかったら、バンドやってたよ」
「R・ストーンズのコピーでさ」
「'68.6までは、授業そっちのけでギター担いで走り回っていたさ」
会長さんの正統クラッシック奏法とはかなり違っていた。

しかし、コード二つでも、
私にはR・ストーンズは歯が立たなかった。
持ってるスピリツァルが違ったようだ。
私はドォ・・・Amなのだ。




■2008.02.02 morning  管理人


「飲んで、踊って、見送ってくれ」
屋久島の漁師さんたちにはそう伝えてあると言っていたそうだ。
全てを処分して、身一つで屋久島まで。
処分して得た僅かな資金で、クレーン付きのユニックを買った。
廃屋同然の家を手に入れ、ユニックを使って住めるようにしたと電話で言っていた。

生活の糧はというと、
「目処は無い」、
「週一、連絡船で種子島の職安出張所に通っている」
でも、電話の声は明るく元気だった。
当然除籍組だが、取り合えず機械を専攻していた。
漁船の機関のメンテや修理でなんとか生計を立てていると、

「駐在のところには差し入れが無くても、オイラのところにはキチンと届くんだ」
「漁師さんたちが魚や何やら、色々持ってきてくれるんだ」
「オイラはな”労働者”には人気が有るんだ」
地域には若い駐在が一人、”良好”な緊張関係を保っているとも云っていた。
そういって笑っていた。

「骨は屋久島の海にまいてくれ・・・・」
この一週間、
Amの曲を聴くと涙ぐむ、
Dmでも同じだ。



管理人日記トップへ戻るトップページへ戻る