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■2008.05.30  morning  管理人

理闘委(理工学部闘争委員会)の方々に、私から日大930の会発行の「930新聞」を発送した。
偶々、1999年に開催された理闘委の同窓会名簿を持ち合わせていた。
930の会の依頼を受けて代理で発送した。
多くの方々に呼びかけて開催する11月22日の「拡大同窓会」についてお知らせするため。
会の事務局は東京なのに、消印は遥か離れたローカル、いぶかる仲間もいると思うが、そういうことだ。

「新聞が転居先に転送されてきた、新しい住所を知らせるから連絡を」
東京の事務局に早速連絡が入ったとの報。
建築学科の4年生。
そういえば理闘委・委員長も建築学科4年生だった。

日大闘争では学年によってその存在・意識が大きく分かれる。
私の学科闘争委員会にも数は少ないが4年生はいた。
就職を間近に迎えた4年生は特別だった。
本人も複雑な立場だっただろうが、本人以上に下級生の私らの方も気を遣った。

他大学の事は知らないが、日大では4年生は「神様」に等しい存在。
右翼でも全共闘でもそれは例外ではない。
先輩がゲバ棒もったりヘルメット被ったりすると大変だ。
「先輩、4年生は無理しないでください、私等がやりますから」
強引に引き止めた。
たとえ、本人がやるといっても”行動隊”には入れてやらなかった。

御茶ノ水キャンパスとは離れていた一年生は別として、
学年の絆は強い。



■2008.05.29  night  管理人

この歌は塀の外で唄われたのだろう。
宮澤君とそれと比ぶれば、語るに恥ずかしい程の経験だが、
塀の中、鉄格子窓から見上げた夜空、想ったのはやっぱりあの子のことだった。
カミさんと会うのはそれから4〜5年後だから、決して浮気ではない。

卒業でそれっきりになって、
うじうじしながら過ごした大学一年。
吹っ切れたように突っ走った二年。
そんな時期、塀のなかでい抱いたのがやっぱりあの子の事だった。

スーツ着て、ピシッと行こうか、
それとも、ジャケット羽織ってキザに行こうか、
それとも・・・・・・。、

もし、あの数年が無ければ・・・・



■2008.05.28  morning  管理人

久し振りに、BBSにimajinさんが書き込んでいる。
お誘いし削除しないと約束したから、削除しないで掲示しています。

>だから、早く死ね 静かに死ね
ここまで言われても不思議と腹が立たない。
私等の昔話が”鼻に付く”のは、言われた本人も感覚的に分かる。
100人いれば95人までが鼻に付くだろうと思う。
私らは100から95引いた5人の範囲でしか話をしていないのだろう。

でも、100から95引いた5、
疎まれてはいるがそれなりに私らの立ち位置ははっきりしているのだけど、
残りの95のなかでimajinさんの立ち位置は何処なんだろうと思う。
立ち位置が定まらず、漂浪していなければとも思う。
死に損ないに心配していただかなくても結構、それよりも早く死ね
多分、返答はこうだろうと思うが。

 ゲバラ旗(友人のブログから拝借)

高校の同窓会。
「おいクラスは別だけど、一人入れてもいいか?」
同窓会前夜に2年当時のクラス仲間で決起集会をやる段取りを進めているのだが、面子が増える一方。
よくは知らないが、何でも東京の有名私大の学長まで上り詰めた奴という。
「嫌だけどいいよ、入れてやっても」
この際、社会的立場は関係ない、仕切る者の権限なのだ。

妻に報告していると、
「貴方、それって殆ど本番の同窓会と変わらないのでは」
「本番は別に出なくても十分じゃないの?」
しかし・・・・・、
文系クラスの”あの子”の事は云えないので、
「いやいや、本番は本番なりに、色々と会えるからサ〜」
汗なのだ。



■2008.05.27  morning  管理人

特定の地域情報だから余り詳しくは書かないが、
"米軍”の迷惑施設を誘致しようという話が私の県のある地域で持ち上がっている。
過疎と衰退する地域経済を救う窮余の策だと抜かしやがる。
国が強引に押し付ける岩国市の先例と違い、地元の商工会の自発的発案だそうだ。

行政の補助金漬けで自発的振興策も施さず、
地域が疲弊し、行政からの補助金も当てにならなくなると、
今度は、すがるのは米軍か!
議論以前の問題だ。

当該地域の街宣右翼は、”星条旗”を振って米軍を歓迎したそうだ。
貴方達は、私の憶えている限りでは、
「尊王攘夷」
「反米愛国」
「抗ソ救国」
「YP(ヤルタ・ポツダム)体制打倒」
じゃなかったのか。

それとも、今の方々はそんな事一つも関知しないのか・・・
それなら「反米愛国」一点でも、よっぽど私の方が”右翼”だ。




■2008.05.26  morning  管理人

駄文を書く頻度が上がってきている。
右肩を被っていた鈍痛がとれてきた、動かせば痛むのは変わりないのだが。
鈍痛がとれると睡眠障害が軽くなった。
睡眠が安定すると正直なもので、パソコンの前に座る時間が増える。
パソコンに向かうと習性で駄文を書き始める。

「如何ですか・・・」
「やっぱりダメですわ・・・」
少し前も症状が軽くなりかけた時期があった。
直りかけたかなと思った矢先、またまた症状が悪化。
一進一退のこう着状態が一月ばかり、
整形外科の先生とは禅問答のような問診が続いていた。

少し先に高校の同窓会と上京の予定が入っている。
同窓会までにはこのハゲ頭を何とかしたいと思っていたがそれは無理な話。
ならば、せめて肩だけでも、そう念じていた。
願いの一つは叶えられそう。
人間、欲張らなければいい事もあるのだ。


■2008.05.25  nightU  管理人

更に続いたサロンの歓談、長老が、
「某党委員会の地区委員長で面白い人を知ってますよ」
「貴方とほぼ同年輩」
「俺はトロに一度も負けた事がない」
そう云ってハバからないそうだ。

「それって私を挑発してるんですか?」
長老に突っ込むと、
「いやいや、そうでなくて貴方とはいいお友達になるのではと思って」
「今や、判で押した一枚岩のようなかつての党の時代ではないのですよ」
「彼はね、党中央からはかなりズレた人物」
「彼は、新日和見主義で茶坊主にならなかった人と思っています」

「オイラ、ミンコロには一度も負けたことがない」
売り言葉には、買い言葉。
私らにはそう云いきれる歴史的事実があるのだ。
珍しく、えらく興味が湧いてきた。
ローカルには”アチラ”でも楽しい方が居るようだ。
今度、機会があれば長老に紹介してもらおう。

※トロという呼称に対しては”ミンコロ”が最も適切な対応呼称でありますので、使用しています。



■2008.05.25  night  管理人

珍しく次男坊がひっこり戻ってきた。
車の車検が近づいたので、実家に届いている納税票を取りに来たと言う。
「お前さん、まだあの車乗るのかい」
有り難く母親から譲ってもらった10年物のオバちゃんカーである。
「別に、走れば何でもいいから・・・・」

「それで、車検の費用は大丈夫なのか・・・・・」
問い掛けると若干沈黙があった。
そうか・・・、そう云うことか。
「ボーナス出るまで、父さんが立て替えておいてやるよ」
そういう事だった。

金曜日の夜、サロンでローザ姉御と長老と歓談した。
話題は先日集会に掲げた「ゲバラ旗」。
「オイラ、見ていたんだけど、共産党のオバ(ア)様、こちらをキツイ目で見てたよ」
ローザ姐御と長老も同じくそれは感じ取っていたという。

ローザ姐御が云う。
「集会の途中で、時折サロンに来てくれる方が問い詰められたらしいのよ」
「貴方、今日はサロン(一派)で来てるの?」
問い詰めた方は共産党のオバ様族の親分格で元議員だとさんという。
「問い詰められた方は、『違います、***(共産党系組織)で来ています』と弁解したそう」


「”民主青年同盟”の旗持った方もオイラの隣りに居たけど、別に面切られなかったよ」
「それは、そもそも、ゲバラが分からないのでは?」
「解放同盟と新婦人の旗が隣りで仲良く並んで居たのは、珍しい景色だったよね」
「それなのに、何でゲバラ旗だけ面切りされたのか・・・・?」
やっぱ格調高き共産党のオバ(ア)様達、
どうも胡散臭いワタシ等は”トロ”だと決め付けられた、という結論に至った。
ゲバラ旗の意図は、当たらずとも外れていなかったようだ。

「これはこれは光栄の限り」
「ここは一つ調子に乗って、ワタシとしては、次回は”日の丸”か”黒旗”にしたいけど」
「日大全共闘は、赤旗も、黒旗も、日の丸も、全部アリだったよ」
サロンの雰囲気は、
「勝手にしたら」、という反応(寒ブ・・・。




■2008.05.23  morning  管理人

ヤフーによると週末は天気が崩れるとの予報、今日一日はなんとか晴天が持ちそうなので昨夜励んだ。
一週間分、全工程ほぼ2時間で三回分、最後の回を干し終わると午後10時をまわっていた。
掃除洗濯は私の家事持分なのだ。
我が家は永年の”石けん派”、洗濯機も、洗濯物も、石けんカスに悩まされながら洗っている。
買った時は真っ白な下着も、直ぐに黄ばんでしまう(泣。

しかし、ワイシャツ類だけは”生成り色”になるのは勘弁して欲しいので、限っては蛍光漂白剤入りの合洗を使用する。
石けん至上(原理)主義者は目くじら立てて怒るだろうが、
夏はエアコン欠かせない生活態度も含め、
そういう意味では、私はいい加減なのだ。

日大930の会で「930新聞」を発行している。
個人情報や会員の写真もふんだんに掲載しており、発行は会員に限っている。
先日送っていただいた新聞の今号のトピックは拡大同窓会。
見出しは、

「 暮れなずむ白山通りで隊列を組んだ・・・・・・・
  あの輝ける日々の学友たちに、もう一度会いたい
 」

毎年、私たちは大衆団交のメモリアルデーである9月30日前後に同窓会を定期開催している。
十四回目に当る今年は、日大全共闘結成の40周年目にもなっている。
今年は日大だけでなく、多くの方々に声掛けする「拡大同窓会」にしようとの確認がされている。
開催日は2008年11月22日に。
そう、あの日!
1968年、東大安田講堂前で開かれた「11・22日大・東大全国学園闘争勝利総決起集会」の日。


会場は安田講堂に出来るだけ近い場所、
日大全共闘の仲間のみならず、東大や明治、中央をはじめ多くの大学の学友、
もちろん、私達の後の世代の方も含め、
出来るだけ幅広い方に参加の呼びかけをしていくそうだ。
闘争を支援してくださった方々、お世話になった方々にも心からお礼を言いたい。

改めて云っておきたいのは、
かつての日大闘争の始期と同じく、
この集いに「政治的意図は全く無い」と、
私は思っている。
私個人としては、出来れば秋田さんにも出て来ていただきたいと願っている。



■2008.05.22  night  管理人

「俺んところにも案内来た、出るよ」
「そうか、お前さんも出るのか!」
数年に一度くらい会う同窓生の何人かに連絡入れるとそう返事があった。
「これは本格的だな」

私等の高校生活は平穏無事なシックスティーズの中間の時代、
今の若者のように、トラブって高校でダブる(留年)るのは極希な時代、
同窓生のほぼ全員がこれから60歳を迎え、サラリーマンは定年を迎える。
雇用延長して更に働く方もいるだろうが、人生の節目であることは間違いない。

私の高校は公立校。
私立の進学校に遅れはとっているが、かつてはこの地の県立第一中学校。
屋上には教育勅語を納める社があり、校舎外壁にはグラマン戦闘機の機銃の弾痕が残る。
学力でなく、伝統というどうでもいいものではピカイチだった。
それが団塊世代を抱え込んで、クラスの数は二桁に及び、プレハブの急造校舎も建てられた。
お城下の真中にあり時計台がシンボルで、観光客からは大学と間違えられる
(ここまで精一杯の自慢話!)

はなつまむ自慢話はさて置いて、
私の現在の最大の関心事は・・・・・、
文系クラスの”あの子”が同窓会に現れるかどうか。
事前の情報収集をしたいのだが、この40年という年月を挟んでは伝手が全くない。
それと、もし再会してもお互いが顔を見分けられるか。
こちらは白髪のハゲ頭と皺だらけの顔だし・・・・、
そんな事を考えていると肩の痛みが忘れられ、楽しく切なくて実にいいのだ。

会えなかった時にはこの歌を用意している。


PS.
現在、1968BBSに書き込まれた幾つかのコメントの掲示を保留しています。
スパムに近い書き込みに対し頂いたコメントです。
内容は実に適切で的を突いたものです。
適切なだけに保留しています

この辺を仲間の皆さんにご理解いただきたく存じます。
出来るかどうかわかりませんが、無駄かもわかりませんが、
imajinさんともう少し話しを続けてみようかと思っていますので。




■2008.05.21  morning  管理人

私等の高校生活は勤評・'60年安保と、'70年安保・学園闘争の時代の狭間にあった'64〜'67年。
高度成長経済下、東京オリンピックに新幹線開通、時代は湧きかえっていた。、
ベトナム戦争や日韓闘争ちゅうもんも有ったらしいが、
田舎の高校生には分からんもので、御免。

私らには平穏無事で何事も無い時代、難儀な事は受験受験で追い立てられた事ぐらい。
女の子の事、成績の事、ヒットチャートの事、関心事はその範囲。
正直なところ、社会的な関心なんぞこれっぽっちも持ち合わせてなかった。
そんな時代の仲間と40数年ぶりに同窓会で再会する。

札幌、東京、大阪の同窓生から「出席するぞ」と連絡が入った。
其のうち東京と札幌の悪友は「空港に迎えに来い!」との指令。
片方は1時半、もう一方は4時、どうやって時間調整したらいいのやら。
一人は社長さん、一人は元ゼネコン。
その夜、2年生当時のクラス仲間で同窓会の前夜祭をやることになった。

ローカルな地なもので、進学した同窓生の7〜8割が都会に、その多くが今も都会に残っている。
私もそのつもりで東京に進学したのだが、訳有って故郷に逃げ帰った(笑。
大学時代の事や、逃げ帰った理油は殆ど話した事がない。
しかし、ここ数年の出来事であの当時の数年のギャップを埋める余裕が出てきた。
今回、40数年ぶりに初めて同窓会に出る気になった。



■2008.05.19  night  管理人

まあ、目立とうと思って掲げたので他意はないのだが。
共産党のオバ様達はニコリともせず怪訝そうな顔で旗を眺めていた。
仲の良い新社の議員さんは笑っていたし。
意図は見事に当たり、僅かな動員数の社共合同の集会では目立っていた。
集会の終わり際、平和運動をしている若者が挨拶に来た。
ゲバラ旗効果だろうか。

集会後、サロンの総括茶話会。
「これで、貴方はその筋にしっかりマークされましたよ」
長老が意地悪く私に云う。
「あの手の集会、その筋が目をつけるのが正体不明の輩」
オイオイ、それならそうと手前に言ってくれなければ。
40年前の赤ヘル被っていこうかとも思ったが、被らなくて良かった。

「家にある日の丸の旗か、それともゲバラの旗か迷ったのだけど」
「反米愛国なら日の丸でもいいと思うし」
「黒旗でも良かったし」
社共と一緒くたにされなければ何でも良かった、
私の思想性とは其の程度のもの。



■2008.05.17  morning  管理人

同僚に韓流オタクの女性が居るので聞いてみた。
「『砂時計』 知ってる?」
「ああ・・、あの古い奴で、暗い奴ね」
「社会ブームを起こし、見るためにサラリーマンの帰宅を早めたらしいですよ」
「別名『帰宅時計』とよばれたとも聞いています」
さすがオタク、キッチリ彼女の帳合いには入っているらしいが、見てないという。

5本まとめて一週間千円のサービス料金で借りている。
週末に戻し、残りの5本をと思っていた矢先。
職場で書類と睨めっこをしているとサロンの長老がひょっこり訪れた。
「砂時計のBOX2を貸して差し上げましょう」
見ると6〜10巻のセットではないか。


「これをやっつけたら次は「ソウル1945」にチャレンジするつもりですが」
「でもね、そいつ探したけどレンタルショップには置いてないのですよ」
「ネットショップではDVD19枚セットでウン万円だし・・・・」
今後の方針が定まらないと話していると、
「いいですよ、それも私が貸して差し上げます」

昨日はとある行事で、少し肩に無理をした。
朝風呂に入ってゆっくり暖めているが、それでもかなり痛む。
妻に行状を報告すると叱られるので、そこは秘密なのだ。
さあ、週末の洗濯に勤しまねば。


■2008.05.16  morning  管理人

「両手に満たない数の、じい様おば様共闘でして・・・」
「主なコンセプトは反戦平和、講演会などが主な活動でして・・・」
「会の名称はサロン・・・・・」
ここまで云うと、
「お名前はよく知ってますよ」

とある業界の集まりに招かれ祝辞を述べる機会があった。
その後の宴席、お客様のテーブルに座らされた。
片側には旧社系の議員さん、もう一方には今度国政に臨む候補者。
ローカルな地なもので、業界筋の会にでるとこういう顔合わせが時たまある。

片側はおっさん、もう一方は20才代台かなと思う若い女性、
白いスーツを着込み、候補者だから当然目は生き生きしている。
乾杯の後、片側の女性の方と会話を交わした。
隣りのオッサン議員よりは当然此方が優先なのだ。
「サロンは存じていますが、そんな年齢の方々でしたか・・・」

話していると、選挙区が私の居住区。
「よく街で見かけるポスターとはお顔が違いますね」
「席をご一緒しても分かりませんでしたよ」
ポスターはロングヘアー、実物は可愛いショートカットなのだ。
「選挙活動はじめたのが数年前、ポスターの写真はその当時のもの」
「すっかり歳を食ってしまいました」

隣りに席するのも何かのご縁、
ここは一肌脱がねば、
相変わらずお節介根性がムクムクと、
宴席に居る彼女の選挙区内の知人を一人一人紹介して巡って差し上げた。

云っておくが、決して候補者が若い女性であったからではない。
隣席したご縁と、サロンをお褒め頂いた事へのささやかな御礼なのだ。



■2008.05.15  night  管理人

近日に、珍しいことに、
ある事で社共の合同の集会が開かれる。
社といっても今は昔、今は民主と社民、それに新社の三派(笑)なのだが。
私も珍しく参加しようという気になったのだが、
そこは元全共闘・・・・・・、
一緒くたにされるのは嫌なので考えた。

ハタと思いついたのが、以前amanoyaさんに頂いたゲバラのテーブルクロス。
大きさといい、デザインといい、良いのだ。
指をブスリと刺し傷だらけになりながら、昔習った運針で紐を縫い付けた。
ウ〜ン、立派な旗印になった。


このゲバラの旗を掲げて、社共合同の集会に参加する。
なんか、嬉しいのだ!




■2008.05.12  morning  管理人

お陰でエライ被害、眠くて眠くて。
昨日、BBSでエデンの東さんに紹介いただいたDVDをレンタル。
安くなるというので、全巻10本のうち5本をまとめて。
砂時計」・・・・・、今評判の同名の日本映画ではない。
1995年に韓国で放映されたドラマで、当時驚異的な視聴率でサラリーマンの帰宅を早めるほど韓国の社会現象にもなったそうだ。
エデンさんの評では「1980年光州だった時代」、これは観ない訳にはいかない。

学園闘争と青春物、それに任侠映画がミックスされたような作り。
相変わらずストーリーはしつこく延々と続く、これは韓流の作風だから仕方ない。
1980年の光州蜂起の実写映像が多く抽入されている。
「全共闘(チョンゴントゥ)のように闘おう」が合言葉だったというから、尚更人事ではない。
ただ、違うのは、隣国はいとも簡単に”銃器”が登場するところ。


DVDは四本目まで制覇、・・・・・ほぼ丸一日を要した。
一本が2時間20分程と結構長編。
フッッッ・・・・、まだ手元に一本とレンタルしてない分が5本残っている。
それに「光州5.18」という映画も土岐さんが紹介しているし、
永嶋慎二・原作「黄色い涙」の鑑賞も予定に入っているし、
これは・・・・・・・、映画「靖国」を観るような暇なんぞないな。



■2008.05.09  morning  管理人

日大闘争の詳細な年表を頂いている。
仲間の努力で、この秋にある本の再出版が予定されている。
そのこともあり、今まで作られた幾つかの年表を基に、より正しく、より詳細な編纂がされている。
当HPに寄稿された年表もそのベースの一つになっているそうだ。
医学部の年表をこのHPに寄稿いただいた全日本医学生連合の有志の方にも謝意が寄せられています。
ここの年表をそれと差し替えたいのは山々なのだが、
掲載の許可は頂いているのだが、本来が再出版のために改め編纂された年表なもので、本の出版後に使わせていただくのが礼儀と心得、それまでお預けとしている。

私のそれ以前とそれ以後の分かれ目となった日は、教職課程必須で受けた憲法の講義の初日だった。
一号館の二階か三階の教室、坂下の中大の方からデモの声がダンダンと大きくなってくる。
経済の惨劇があったのが1968年6月11日、スト権集会成立でストに突入したのが1968年7月8日。
分かれ目の日は、この間のある日だということは分かるが特定できない。
集会とかデモの履歴をこの年表で精査するのだが、やっぱりダメだ。

それ以前も、理工学部の校舎の其処此処でピラは配られていた。
校舎の其処此処といっても御茶ノ水の理工学部にはキャンパスが無いので公道なのだが(笑。
多分、経済か法学の学生が出張って配りに来ていたのだろう。
その日までは、申し訳ないが余り関心が湧かなかった。
それよりも余分に履修した教職課程ことや、アルバイトを始める準備の事など、そちらの方に関心が向いていた。

映画「靖国」の試写会の予定が立った。
映画をこの地に呼ぶ関係者の範囲での試写会で公開ではない。
しかし・・・・・・、
あくまでこの間の”経過”が、私の感性を刺激しているのであって、
私自身この映画自体に余り興味は無いし特段観たいとも思わない。
こんな騒ぎが無かったら、試写会といえども観にいく事はなかっただろう。

それよりも永嶋慎二・原作「黄色い涙」の鑑賞が方が待ち遠しい。


■2008.05.08  night  管理人

ラブ・ストリーを観にいった子とはよく喫茶店に一緒した。
バイトの帰り、他愛もない話をするだけ。
赤坂見附から帰る丸の内線が偶々一緒だったから。
バイトの帰り道から、日曜日にと状況は少し進展もしたが・・・。

荻窪の邪宗門、高円寺のサンジェルマン、少し戻って阿佐ヶ谷のポエムにもよく行った。
荻窪駅前のラーメンも一緒に食った。
新宿のピットインとかいう店に、拳で鍵盤叩くピアノトリオ聴きに行った思い出もある、
このライブは、決してロマンティックなシチュエーションではなかった(笑。
井の頭公園も散歩したっけ。
喫茶店で何を話したかは憶えていないが、決して宮澤君のような階級理論ではなかった事は確か。
ただ話しているだけで楽しかった。

そんな事を暫くしていると、ある日喫茶店で深刻な顔でこう言われた。
「兄さんが、貴方とは付き合ってはいけないと云うの」
彼女は地方出、三歳上の兄と一緒に暮らしていた。
私は”付き合っている”という状況認識は薄かったのだが。
私と同い歳のその兄さんに私は過激派と思われたのだろう。

ラブ・ストリーのような深刻な仲でも、深刻なストーリーでもなかったが、
私が東京に見切りを付けて故郷に戻る少し前の出来事だったから、1971年の頃だ。
断っておくが、決して振られたから東京を後にしたのではない。



■2008.05.07  morningU  管理人

開けてびっくり玉手箱。
この四連休中、メールチェック以外はPCを覗かなかった。
久し振りにアクセス解析ログなどつらつら眺めていたのだが、
5月4日からアクセス数が異常に跳ね上っている。
昨年の「日めくりタイムトラベル」放映直後の跳ね上りをはるかに凌ぐアクセス。
ダイレクトに該当ページにアクセスしてきているので、トップページのカウンターにはそれほどの変化はない。

改めてログをつらつら眺めていると、ここだと思われるリンク元の箇所が。
マル共フォーラムの5月4日の書き込みスレッドのリンクからのアクセス。
該当スレッドには旗旗さんが紹介してくださっているページの紹介も。
革命的マル共連フォーラムあなどるべからず。

塚本さん、これは凄いことになってるよ!


■2008.05.07  morning  管理人

連休中、日の出から日没まで、庭の隅に潜り込み土にまみれ草花と話す。
夜はテレビも見ずに早々と寝る。
白髪頭と伸び放題の無精ひげが相まって風情をかもし出していたが、
相方に言わせるとビンボーじみたレゲエのおじさん風情らしい。


朝夕の掲示板のチェックは別として、この連休中PCは健康のため、なるだけ自粛していた。
が・・・・・・・・・、
昨晩、携帯が鳴り、スカイプのお呼び出し。
スカイプを介して首都圏の”某密議”に加われとの指令。
密議の傍聴のあと、ついでに久々に日記も軟弱ネタで更新。

肩は、部位の痛みが自覚出来るようになった。
酷いときには痛みの自覚よりは体全体が辛くて、何する気も失せていたが、
痛みが特定できるということは症状の随分の改善と受け止めている。



■2008.05.06  night  管理人

丸の内ピカデリーだったと思う、「ラブ・ストリー」を観にいった。
'70年だったか'71年だったか、冬だったか夏だったか覚えていない。
その当時、赤坂の化粧品会社でアルバイトに励んでいた。
経済封鎖をされ生活は困窮、殆ど授業には出ていない正しき勤労学生だったのだ。

輸入した化粧品を容器に充填・箱詰し、全国に出荷する作業。
憶えているのは明治、東女、恵泉、それに近くの跡見など、男女半々位の学生で2〜30人程、女子は女子大の学生が殆どだった。
東女の子はバリバリの青ヘルさん。
この子は可愛かったので、多くの野郎から軟派されそうになったが私がしっかりとガードしてやった。
この時点でも日大全共闘の旗印は無敵であった訳で、云い寄る野郎には十分な睨みになった。

「オイ!、オイラにもその仕事世話しろよ」
この評判を聞きつけて宮澤君が遅れてこのバイトに参入してきた。
一時は、桃井の四人組のうち3人がこのバイトに通った。
食い詰めた日大全共闘が3人揃って就労したら、ある意味恐いものなし。
その作業場を仕切るようになるには時間がかからなかった。

容器詰の工程を少し調整すると、出荷検品の後に、作業場の隅っこ、社員の見えないところに余剰の・・・・が残る。
これをしかるべきルートで捌くと、僅かだが・・・・が手に入った。
持ち帰るバックが異様に膨らみ、赤坂見附の検問に何度も引っ掛かるおまけもあったが。
もう40年前の話だから時効だろう(汗。

一緒の作業班に恵泉の二人組みが居た。
二人とも地方出の学生、
闘争とは無縁の女の子だったが、私等の事を煙たがらず、気があって桃井にも遊びに来た。
その子がラブ・ストリーを観に行きたいと云うので付き合った。
帰りには御茶ノ水レモンで檸檬ジュースを・・・・・・・・(涙。
私と宮澤君・・・・、汗と涙の桃井コンミューンでは唯一浮いた話なのだ。

宮澤君、思い出して天国で笑うなよな!



■2008.05.02  morning  管理人

「黄色い涙」
職場の建物の掲示板に貼ってあるポスター。
映画館でなく一日限りの会場での自主上映らしい。

映画のオフィシャルサイトを除いてみると、溜まり場のコーヒーショップは「SHIP」

阿佐ヶ谷に住んでいて、毎日のように通った。
ジャーマンコーヒーが私の定番。
ちょっとキザっぽいマスターの山之内さんに、アルバイトの可愛いウエイトレス、
永嶋慎二さんもカウンターによくとまっていた。



その店の名前は「ポエム
今でも全国各地にチェーン店が沢山ある。
そこいら辺も考慮して、店の名前は違えたのだろうが、
私にとっては懐かしい「ポエム」の店名でシナリオを書いてもらいたかった。
久し振りに前売り券を買い求めた。


映画「靖国」の会場上映を決めた。
そうそうたる団体の隅っこに我がサロンも名を連ねることに。
「それでは、サロンをトップに広く市民に呼びかけましょう」
本当は、呼びかけ人の序列の最上段に持っていかれそうになったのだが、
そこは謙虚なローザ姉御、それは丁重にお断りした。



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