■2008.08.29 night
管理人 ミヨちゃんもミっちゃんも、もう直ぐウン十歳を迎えるとメールにあった。 期せずして私と誕生年と誕生月が一緒だった訳だ。
・・・・・しかしだ、 私は”あの子”の誕生日を知らない。 普通、思い焦がれた人だったら、誕生日ぐらい知ってるはずだが。 その子は9月1日、中学三年の二学期の始業式の日に転校してきた。
その日の席替えで、仲良く一緒の机に並ぶことになった。 これは飽くまで偶然だ。 転校してきたから当然友達がいない、私の方から積極的に話しかけた。 最初は全く意識しなかったし、いわゆる一目惚れとは違う。
でもそこはやはり・・・・、 次の日から毎日毎日学校へ行くのが楽しみになった。 正直に言えば、小学校から大学までの17年間(一年余計だが)で、その9月1日から卒業までの半年余りが一番楽しかった。
決してバリケードの中じゃないからな、みな御免。 だから、息子たちの質問に躊躇なく答えた。 「一番戻りたいのは15歳の頃」
 ミヨちゃんから誕生日聞いた時、ハタと思った。
そう云えば、私は”あの子”の誕生日を知らない、 忘れたのではなく、知らない。 これはどういう事なのか、考え込んでいる。 やはり、いい加減で詰めの甘いのが私の性根なのだろうか。 ”地域紛争”の危機も辞せず、挑発に乗って、
あの子の話は蒸し返し、繰り返し、今後も続くのだ。 これは革命的冒険主義でもあるのだ、 闘争勝利! ミヨちゃん、誕生日おめでとう。
■2008.08.28 morning 管理人 「私らは遅れてきた全共闘世代」
少し下の世代の方にやっかみ半分でこう言われたことがある。 「そう、あなた達は遅かったのよ」 「色々、大変だったでしょう」 「御免ね、美味しいとこだけ全部先取りしちゃって」
ふざけてそう答えた。 公私共々・・・ではなく、”私”はボチボチなのだが”公”がバタバタなのだ。 棺桶に半分足を突っ込んだクタビレ親爺をそんなにコキ使わなくてもよいと思うのに。
私の職場は、定年まで5〜10年程残した早期退職が相次ぎ、結果、私の”次世代”がここ数年で居なくなった。 10歳(年齢)ほどポッカリ空洞、仕事を引き継ぐ相手が居ないのだ。
早く辞めた方々の責任取るには割り切れないものがある。 この呪縛は、あの時代の意匠返しなのか。 
雨に秋の匂いがし始めた。 この時期は、しっかり天気予報が外れる。 柔らかい雨もいいものだが、 お決まりの台風が全く近づかない、
こういう年はヤバイのだ。
■2008.08.27 night 管理人 ミヨちゃんから、お誕生日のお祝いメールを頂いた。 「めでたく60才になってしまいました、でもね条件はミヨちゃんと同じはずですよね」
「クラスメートは皆平等に還暦を迎えるはずですから」 くやしいから、そう返事した。 正直、嬉しい。 ありがとう。
ミヨちゃんもミッちゃんも、直に後を追ってくるそうだ。 我らめでたくシックスティ〜ン、 違った、シックスティーズ。
■2008.08.26 night 管理人
会議から直帰し、少し早めに家に帰り着いた。 妻が帰ってくるまで台所の洗い物、 スッキリ片付いていれば妻も気持ち良く夕餉の支度が出来るというものだ。
ゴム手袋を付け、しばし家事に勤しむ。 「青春のたまり場」という曲、YouTubeで拾ってきた。 阿久悠さんの作詞だそうだ。
曲はド・マイナーなコード進行。 催涙ガスの臭いが漂ってこないから、 心象風景は、私等のもとは似て非なるもの。 もう一度、あの場所で逢いませんか、♪
もう一度、あの時代と逢いませんか、 泣きながら、さよならを言いませんか。
最後の一節だけは、
世代の鬼っ子の私等だから、 「笑いながら、さよならを言いませんか」 阿久さん、それが私等。 今年11月22日に、
もう一度、 あの場所で、 あの時代と、 逢いましょう。
■2008.08.25 morning
管理人 ヘベレケを通り越し、したたかに酔った。 僅か1〜2時間の間に、ビール、ワイン、シャンパン、またビール。 ニコニコ、注がれるがままに飲んでいたら、腰の軸が外れそうほど酔っ払った。
でも、私が主役だから席を外すわけには行かない。
誰もが皆、平等に訪れる年に一度の誕生日。 私の場合は、丁度それが60回目だった訳だ。 「父さん、欲しいものがあったら言ってよ」
息子二人がそういう。 家もあるしな、 それにボロだけど車もある、 「カワイイお嫁さんと・・・・、それに孫だな」 そう応えたかったけど、息子達にプレッシャーになるので堪えた。
「ウ〜ン・・・、今欲しいものは別に無い、十分だ」 「父さん、昔に戻れるとしたら何時の頃に戻りたいと思う」 「イチゴ、15歳の中学生の頃だな」
躊躇無くこう応えたら、横から妻がブーイング。 「それでは、この子達が生まれないじゃない!」 ハイ、仰る通りでございます。 あの子とスタート時点からやり直したかったとの解説は、口が裂けてもしてはいけないのだ。
「父さん、定年になったら仕事辞めるの?」 「仕事辞めたら、したいことあるの?」 息子達がそういって私を追及する。 「そうだな、まだ決めていない」
「できれば、一年ぐらい何もする事がない生活をしてみたい」 「その次は”革命”だな」 最後の一言は、聞こえないように独り言で言った。
■2008.08.23 night 管理人 「桃太郎旗だけだもの・・・フッッッ・・・・・」 ローザ姉御が嘆く。 「いいじゃない、目立つだけでも」
私のフォロー。 ゲバラの旗を持って出かけた集会。 掲げられた旗は桃太郎旗だけ、 いわゆる風になびく旗が全くない。
私のブランクが長すぎたのだろうが、 いつ頃から、由緒正しき旗が集会から消えたのだろう。 中国に行っていたサロンの仲間にお土産を頂いた。
五輪見物ではない!。 残留孤児の支援に彼は関わっている。 其のことに関して、孤児支援で訪中していた訳だ。 
しかしだ・・・・・・・、 マオさんのトランプなのだ(涙。 マオ語録でなかっただけでも良しとしないといけないのだけれども、
私はゲバラのTシャツが欲しかったのだが。 同じ赤い国だけど、隣国でゲバラは無理か。 my favorite
songs は Me and Bobby McGee 歌の一節 昨日を返してくれるなら未来はいらない
♪ ボビーと一緒の昨日のためなら 自由とは何ももたない事
ボビーは何も残さなかった 彼のブルースで気分は最高 気分がよければ私は幸せ ボビーと私はそれで十分 もう未来のない私が「昨日を返してくれるなら未来はいらない」といっても、
神様は笑って聞いてくれないのだろうが。 格好をつけてそう呟きたいこの頃の心境だ(笑。
■2008.08.22 morning
管理人 長さが1m50、伸ばすと3mになるポール。 電車やバスでは目立つので、どうやって持って来ようかと悩んだ末。 今日はマイカー通勤にし、旗をなびかせるポールを持参。
マイカー通勤は止めたと宣言していたので、少々後ろめたいが、 大儀のため・・・、マァァ・・・いいか。 社共のなかで目立つためにはこれが一番。
赤旗でも黒旗でもないが、ゲバラの旗は気持ちいい。 個人的には、”反米愛国”の御印にはこれが一番とも思っている。 私のグループの旗印としても、しっかり認められた。
今日は繁華街でこれをなびかせる。
でぇぇ・・・・、何をするのかという弁が抜けているが、 まあ、それはいいではないか。 要は、この旗がなびけば、目立てば、それでよい。
細かなことはいいから、ゲバラよなびけ! それでいいのだ。 闘争勝利!
■2008.08.20 noon 管理人
今日は夏休み。 三連休になる金曜日や月曜日は何時も出遅れる。 元々、計画性のない性格、目ぼしい曜日は既に先取りされている。 我が職場は職位の序列に関係なし、先に申告した者の順に休みを取得する。
こういう職場の伝統、私は自由で好きだ。 若い方のように、何か予定を決めて休みを取るわけでない。 何時もどおり、未明からやっつけ仕事の洗濯。
その後は、Youtubeで貯め込んでいた曲でCDを作成。 30曲を書き込みホルダーに入れたら、27曲までで後はオーバーフローした。 CDのフォーマットは容量と収録時間の二つに制限があるようだ。 私の職場の定年は60歳になった年の年度末、つまり来春なのでまだまだ結構な期間が残っている。
この4〜5年、我が職場は相次ぐ早期退職で混乱を極めてきた、 私はその対処に謀殺されてきた。 でも、私の場合は久々の、就業規則通りの定年退職。
だから、辞め際はきれいに往きたいなと常々思ってきたが、 次(来年)が無いと思うと、どうしても仕事の仕方が違ってきている。 有難いことに、職場からは”継続雇用”の声が掛っている。
でも、返答は保留している。 「働けるなんて有難い話、働ける間は働いたら」 「でもね、辞め際も肝心ね、貴方は(家事が)出来るし、趣味もあるし」
「スッキリ辞めてもいいと思う」 「私の扶養家族に入れてあげるわ」 私の気持ち以上に重要な妻の見解も、その場その場で変わるのだ。
my favorite songs Somewhere Over
The Rainbow Jason Castro
■2008.08.19 night 管理人 今から丁度40年前、ハタチの誕生日の事は全く憶えていない。
八月の半ば、学科闘争委員会にバリケードに呼び戻された。 後ろ髪引かれる思いで故郷を離れた。 薄暗い教室、隅に敷かれたせんべい布団、夜明け前のお茶の水の坂道。
その時期、おぼろげに有る記憶はその位だ。 バリケード泊まり込み要員に事欠き、ノリの軽い私は呼び戻された訳だ。 私は今もかつてもパチンコも麻雀もしない、
その頃はウォークマンもなく、好きな音楽を聴いて過ごしたわけではない。 何をして過ごしたのか、それも全く記憶がない。 連夜の徹夜の見張り番、多分午後までせんべい布団で眠りこけていたのだろう。
帰り道 暗いバリケードから、あの子に出した手紙。
吹っ切れたと思い込んだ。 実のところは、吹っ切れたと自分に言い聞かせたかっただけなのだろうが。 その頃から半月後、初めてお縄になった9月初旬までは記憶が吹っ飛んでいる。
私の心象風景は、薄暗い教室、隅に敷かれたせんべい布団、夜明け前のお茶の水の坂道。 私のハタチの誕生日はきっときっと寂しく、薄暗かったのだろう。
■2008.08.19 morning 管理人 「もういいから、早く死ね!」
何処いらから気持ち良い”そしり”が聞こえてきそうだが。 もう直ぐ満60歳を迎える。 やっと60なのか、まだ60なのか。 歳を重ねるごとに何時も思うことがある。
”大人”は、年少の頃思っていた程”大人”でないのだ。 思慮浅く、 軽薄で、 短小なのだ。 私もそうだが、
あくまで・・・、世間一般の話だ。  
盆の法事に出掛けた道すがら、 山並みに掛かる雲、もう秋の雲だ、 ご先祖様、父母、兄を見送った。
■2008.08.17 night 管理人
自分で言うのも何なのだが、私は手先が器用。 長男は丸坊主になる中学入学まで、 次男坊は中学二年まで、 二人とも我が家で散髪していた。
次男坊が生まれて初めて理容店へ行ったのは丁度今頃の中二の夏、前夜は興奮したそうだ(笑。 「ここに来てちょっと座って」 少し逃げた髪があったので補正を施す。
妻が忙しくて時間がない時、私が彼女のヘアーカットする、 「どこでカットしたの?」 「**(私の名)美容室」 職場で聞かれたらそう答えているという。
 腕が未だに上がらないので、妻には低い椅子に座ってもらう。
カッティング鋏は25年来のプロ仕様、小気味に切れる。 知り合いの美容師さんに、業界のルートで調達してもらったもの。 センスは鈍っていなが、手先だけは正直に経年劣化。
指先は何箇所かバンドエイドが。 この週末の仕事の代償、名誉の負傷なのだ。 my
favorite songs To Each His Own Linda Scott
■2008.08.12 afternoon
管理人 此処のところあの子の昔話ばかりに執着しているが、 夏だから仕方ないのだ。 先日、仲間から草稿を見せていただいている。
とある理論誌に寄せるものだという。 小生如きに内容のチェックをと依頼されているが、 私は基本的に何を書いてもオーライの性格だから、チェック役には適さない。
世に発表の前に、ここに内容を紹介する訳にはいかないが、 しかし・・・・、 見出しが実に小気味いいので、それだけは紹介して”あの子”以外の話を少々。
第一に 「思想性なき******」という端の書き出し 勿論、思想性が無かったと自負(?)するのは私ら日大全共闘の事。 「マルクスなんて知らないもんね、」
「民青って、それ何?」 「佐世保、羽田・・・フゥ〜ン」 個別、私の場合はそれだったし。 第二に、 「団塊世代は全共闘世代か」
これは私がしつこく言っている事、 圧倒的多数の団塊世代は、そういう事には無関心、 其の世代の中で極極少数派の全共闘は、世代の”鬼っ子”であり”嫌われ者”
結論は、 「違うのだ」 途中を飛ばして 「日大闘争は『全共闘運動』にあらず」 これは反語的アプローチなので、読み込む事が必要だが。 徹底した、時にはエゴイズムにも近い個人重視、
組織としての結束よりも個人が優先、 集会をしても、デモをしても、 全く当てにならない緩い結束、 そのくせ危ないゲバルトには何処からともなく集まる輩、
義理と人情で結ばれた絆といおうか、 最後まで、運動に必要な理論とか組織にはついぞ行きつかなっかた。 筆者はこういう事象をまとめて、運動にあらずと言い切っているのだろう。
私も納得。 この草稿が何時、何処から、どんな出版物に載せられるのか知らないが、 常識を破る、小気味いい”論文”だ。
my favorite songs dont bet money
honey linda scott
■2008.08.12 morning
管理人 友は(あの子の) 余りの変貌振りに、私にこうメールしてきた。 「お前さんも会わないほうが良い」 会わなければ、脳裏に残った姿は40数年前のままだという。
会えば、否応なく現実の姿に直面するからだという。 自分の事をさて置いていて、それは大層失礼だと思うのだが。 友の有り難い忠告にこう書き送った
(原文は私のお国言葉、無理やり標準語に変換してますので、イントネーションが関西弁になってしもうて、かなりヘン) どうこう言ってもお前さんは会えたからいい。
どんだけ変わっていようが、どう朽ちていようが会いたいものは会いたい! 会った後だからそう言えるんじゃ、 会う前はやっぱし、私と同じはずやわ。 18の春、私が東京に行ってそれっきり、
19の夏、会いたかったけんど会う勇気がなかった、 祭りが済んだ頃バリケードに帰った、 暗いバリケードで手紙を書いたんや、 お前さんのように「革命に命賭けてる・・・」とかまでは書かなかったけれど、
まあ、似たようなもんや。 返事来るわけ無い。 それが分かっていて出すから、ほんまアホや。 私の場合、そこで全部が止まったまんま、
だから、今まで引っ張るんや。 19の夏に総括したつもりやったけれど、やっぱ出来てない。 会わなかったら・・・・、 死んでも総括できんかもしれへん。
そういうことや。
■2008.08.11 night 管理人 暑さ厳しき折、 せめて音楽は元気な奴を。
my favorite songs Come On And Dance Claudine Clark
■2008.08.10 night
管理人 体力というか、気力というか、東京からとんぼ返りしてから急激に萎えていた。 私なりに色々と仕掛けもしたし、一人盛り上がっていたので、若干の落ち込みも含めバイオリズムは底辺へ。
こう云う時はひたすら家事に励み、週末は出掛けず掃除、洗濯、草花の手入れ。 今朝は墓掃除に、腕が上がらなくてこの春は妻に頼んだので昨秋以来。
昨年からの積もった落ち葉がフカフカの腐葉土になり、墓所を覆っていた。 先日の品川での決起集会で、女の子(前後関係でこう呼ぶ)と名刺を交換したらメルアドが記されていた。
ミヨちゃんとその子に、集まって下さったお礼に、当夜に撮った写真を10枚ほど添付して送った。 勿論、私のHPのURLも最後に綴って。 ここがみそだ。
今までは、高校の同窓生にHPのURLを送ったことはない、私ながらに随分の変化だ。 女の子(還暦なのだが)からは、 >HP見ました
遠い 青春時代 ですね ミヨちゃんからは >日記?ブログ見ています。
関心しています。 二人から返事が届いた。 ミヨちゃんのことはこの2ケ月余り、好き放題に書いている。 今から遡り日記を訂正したい衝動に駆られているが、
私の中のもう一人の著作権者がこう云う。 「訂正、今更それはないよ、それなら端から書いてはいけないよ」 轟轟の批難を覚悟して神妙に待機しているが、
この数日は平穏無事だ。 静かなのが・・・・・、不気味なのだが。
my favorite songs Softly My Love Annette Funicello
■2008.08.08 morning
管理人 「オ〜イ、こっちの席に来いよ!」 何度か呼ぶが、知らん振りを決め込んでいる。 彼女と並んですわり、身の上話などもう30分以上話し込んでいるのは私だ。
私が彼女の身の上を聞いても仕方ないのだ。 「今、羽田に着いた、これからそちら(品川)に向かうから」 元・北大全共闘の友人Aから電話が入ったのは決起集会開始の乾杯がすんだ後。
遅れてくる友人Aのため、かつて彼が”複雑”かつ”微妙”な交友関係にあったミっちゃんの隣の席を確保した。 「男はね、押しよ!、押さなければ何も決まらないのよ」
彼女の意味深な言葉、どう返事してよいのか? やがて友が来たが、遠く離れた席に収まった。 三次会は日付を超えて新宿で。 全共闘一派だけの集会となった(とは言っても友人Aと二人だけだが)。
「**、有難う、やっと総括が出来た、本当に有難う」 「この30数年、胸にわだかまっていたものにケリが付いた」 ほとんど呂律が回らなくなった口で、友は何度も何度もそう言う。
酒の限界をとうに越した私は、ビールをちびりちびり舐めながら付き合った。 
帰宅してから、ミヨちゃんの携帯メールが入った。 「ミっちゃんから昨日電話があって、(友人Aに)会えてよかったと言ってました」
書いたように、友は彼女と簡単な挨拶だけ、会話は殆ど交わしていない。 なのに・・・・ 友は30数年の歳月を越して”総括”ができたと語り、
彼女は会えて良かったと言っているという。 還暦の私らには、若い方々とは違う男女の関係が有るようだ。 私は性悪な座興で再会をセッティングしたつもりなのだが、
どうやら裏目に出たようだ。
■2008.08.04 night 管理人 私の19歳の人生の境目って何処だったろうと考えた。 20歳とちょっとで初めてお縄になった、人生の出来事としては大きいがその時ではない。
1969年が明け、敗退戦が始まった頃、本当に辛かったがその頃でもない。 1968年夏、帰省していた実家にハガキが届いた。 丁度、当地の夏祭りが終わった頃だった。
差出人は学科闘争委員会。 バリケードがガラガラで守備がママらないから至急戦線に復帰せよ、との指令だった。 ハガキを受け取る数日前、
短大に進んだと聞いていたあの子に会いたくて、彼女の住む家の前まで行ったが、ドアを叩く勇気がなかった。 ウジウジしている内に件のハガキが届いたわけだ。
今、思うと、闘争委員会からの召喚が区切りとなった。 バリケードは何かを引き付ける力があったのだろうか、夏休みを謳歌する友人達と、彼女との再会を置いて東京へ向かった。
殆ど人気のない、薄暗い一号館バリケードに戻ったのは8月も半ばだったと憶えている。 バリケードに復帰した直後から、 薄暗い教室で、
お茶の水駅前の喫茶店で、 一号館前のアスファルトの上で、 ひたすら手紙を綴った 彼女への思慕を綴るのではなく、 闘争のこと、
置かれている状況、 自分の事だけをひたすら綴った。 きっとそれが私の19歳までの総括だったのだろう。 駿河台のポストに投函した時、
それが19歳の人生の境目だったのだろうと思う。 あの手紙、多分、あの子には迷惑千万以外の何物でもなかったとも思う、 今更だが、済まない気持ちで泣きそうだ。
■2008.08.04 morning 管理人 最近、たまにIE(インターネットエクスプローラ)でmyHPを開けると目茶遅い。
験しにと職場のパソコンでもやってみたがやはり遅い、時には一昔前のISDNレベルのスピード。 時には開きかけでフリーズしている。 職場と自宅では、ブロバイダーも通信回線も異なる、勿論、パソコンも異なる。
験しにFirefoxで開くと、自宅でも職場でも快適にサクサクと動く。 という事はプラウザ(ネット閲覧ソフト)のせいしか考えられない。
マイクロソフトは帝国を築いた。 ウインドウズとそれに無理やりセットされたIEは、帝国のフラッグ。 当然だが、帝国ゆえにあらゆる攻撃の対象となっている。
ガチガチに固めたセキュリティーで中身が緩慢になっているのでは。 私は物事を難しく考えないので、そういう風に捉えている。 と言う事で、私のHPの閲覧はFirefoxを推奨。 昨日、ミヨちゃんに携帯メールを打った。
先月29日の日記にも書いた、友人Aと”複雑”かつ”微妙”な友人関係にあったミっちゃんを決起集会に呼び出してもらう要請メール。
私としては、友人Aの”青春のノスタルジー”を弄び、還暦娘連合の孫と旦那の話に対抗しようという魂胆なのだ。 「はい、彼女は(面子に)入っています、現在、私を入れて(還暦娘は)次の8人になっていま〜す」
早速、名簿入りの返信メールが届いた。 しかしだ、話の端緒はミヨちゃんプラス四名だったのに、既に倍近くなっている。 挙げられた8名の名前の内、ミヨちゃん、ミっちゃんを含め4名までは認識できたが、やはり残り4名の名前に覚えが無い。 友人Aに参加の確認の電話を入れた。
「いいか、品川には這ってでも来いよ」 「???・・・、何故だ」 「いいから、どんな事があっても来る事だ!」 「絶対、楽しい仕掛けをしたから、楽しみにな」
事前に仕掛けがバレると、友は敵前逃亡する恐れがあるので、本当の事は言わないのだ。 私は性悪だわ。
■2008.08.03 night 管理人
1968年のこの時期、バリケードから一時帰省していた。 列車を乗り継ぎ、丸一日がかり。 親はまだ息子の素行を知らず、帰省前の仕送りには旅費がキチンと追加されていた。
特急列車という当時は贅沢な便に乗った帰省は、学生時代これが最後だった。 肩に提げたナップサックにはヘルメットを忍ばせ持ち帰った。 帰ると当地は夏祭り、祭囃子が響く喫茶店で自慢げにヘルメットを披露した。
まだその時は、19歳を境にしたそれ以前の付き合いが続いていたわけだ。 テーブルにヘルメットを置き、6月から有った事を熱っぽく話す、 学部集会の事、
デモの事、 機動隊の事、 バリケードの事、 右翼の襲撃の事、 僅か2ケ月程の体験だが、話す事は山ほどあった。 その時は、それから続くあんな時代が待ち受けているとは夢にも思わず、有頂天だった。 皆が肩を乗り出し聞いてくれたが、今度40数年振りに会う友だけは違った反応をした。
友は東北の国立大に進んだが、元々は防衛大を第一志望にしていた。 露骨な反論や批判こそされなかったが、私の話に距離を置いていることは十分に分かった。
それ以後会うことは無くなった。 その友とは、 学校を一緒に抜け出し、授業をさぼった、 体育祭の夜、悪友の下宿でウイスキーを飲み回し一緒に泥酔した、
別の組は発覚し飲酒で停学になったが、私等は運良く助かった。 フォークダンスの相手選び、内気な友の背中を押し、一緒に頼みに行ってやったな、 そう云えば女の子の下宿に、クリスマスプレゼントも一緒に届けに行ってやったな。
そう・・・・、語る楽しい思い出は人並に一杯有る。 今度の決起集会・・・・、違った首都圏の同窓会では、 日大闘争の話はしないでおこうと思っている。
それよりも、今度こそ”あの子”の情報を集めなくては。 還暦娘連合の情報ネットワークはあなどれないのだ。
■2008.08.03 morning
管理人 間近に、還暦娘7名+オヤジ5名+αの首都圏決起集会が近づいてきている。 決起集会は品川で行う、 デモの申請は出していないし、ゲバラ旗も持っていかない。
参加者12名+αのうち、全共闘一派は僅か2名のため、無届デモに至る懸念も全くない。 しかし集会参加者の娘7名の内、私が承知しているのはミヨちゃんも含め3名のみ。
クラスの同窓生で在京組はそんなに居ないハズなのだが、 後の4名はいったい誰なのか、未だに知り置いてない。 ミヨちゃんに聞いてみようとも思ったのだが、それはそれで集会の楽しみに取って置くことにした。
私の”あの子”は文系クラス、私とミヨちゃん達は理系クラス、 よって”セクト”が違うので、あの子の集会参加確率はゼロなのだ。 分かってはいるが、残り4名に賭けてはいけない。
とは云いつつ・・・・・・、その根性がつくづく情けないのだ(泣。 先月初めに受けた定期検診の結果が届いた。 1枚目のカード、 『”胃潰瘍”が疑われますので、胃カメラで再検査を』
2枚目のカード、 『コレストロール値が高いので、2ケ月後に再検査を』 イエローカード、レッドカードを含め他にも要再検査の用紙が幾つか入っている。
思考は弱くても、健康には自信があったのだが。 課題1については、 この半年、キツイ鎮痛剤とそのプロテクトの胃薬を服用し続けていた、潰瘍が疑われるのは当然、
検診の直前に服用を止めたので、そういうことでパス。 課題2については、 その筋に明るい妻に検診報告書を見せて分析してもらったところ、
「貴方、高いって云ったて、リミットをほんの僅かオーバーしてるだけでしょう、それに去年より下がっているし」 「貴方の歳では大半がその程度よ」
「それに”善玉”の方はいいし、”悪玉”の方はリミット内に収まっているし」 判定を善悪を言われると、古い人間なのでなんとなく納得、よって再検査はこれもパス。
と云う事で、 最近、○共の容認に傾いている思想変節の再検査なら受け入れるが、 検診の再検査は全て辞退することにした。 時計が五時をささないうちから西の空が薄ら明るい。
草ひき、落ち葉拾いをしている間に、妻がスポーツ教室に出かけた。 シャワーを浴び、珈琲を点てパソコンの前に一息ついても、まだ七時半。 暑い一日はこれからだ。
■2008.08.02 night 管理人 反貧困全国キャラバン実行員会ちゅうものに招かれて顔を出していた。 この間、私等の幾つかの催しに協力いただいている労働団体の親分直々のお招き、
いわゆる業界の”義理返し”もあるし、むげには断れなかった。 当日間際の声掛け、長老にもローザ姉御にも連絡がとれない。 仕方ないから一人で出かけた。
反貧困キャラバンといっても、事前の予備知識は全くなし、 サロンの活動範囲が反戦・平和をモットーとしているため”分野外”、 本来なら、グループを名乗っての参加には事前の皆の合意が必要だが、
義理もあるし、”反貧困”というのは反グローバリズムであり、 反米愛国であるし(かなり無理があるが)、 事後報告することでよしと勝手に合理化。 「噂には聞いていましたが、サロンの方には今日初めてお会いしました」
実行委員会に参加している団体の紹介があった。 名だたる労働団体、大手単産、政党系列の団体の紹介の最後に、私も、サロンも、司会者からそう言って紹介された。
コツコツと社共の隔たりない講演会活動を重ねてきた、 両手に満たないジイ様と姉御共闘なのに、 嬉しいことに、その評判が独り歩きしているようだ(汗。 夕立が激しく降るなか、破れたビニール傘をさしてサロンに出かけた。
こんな時に限ってサロンの出席が悪い。 姉御も一時間遅れ、長老はサロンを終わって出るとこでやってきた。 雨でぬれた歩道で報告と立ち話。 反貧困キャラバンは嬉しいことに”社共”ごちゃ混ぜ。
賛同団体には連合も全労連も名を連れている。 「それぞれ団体の旗を持ちより賑やかに街宣行動をやりましょう」 実行委員会より賛同団体にこう要請があった、
やっぱこれだと、私等は”ゲバラ旗”でしょう、ノリの軽さは日大全共闘のDNAなのだ。 my
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