■2008.11.30 night
管理人 aaghさん、
嘘言っちゃ駄目だよ。 貴方は泣いていた、 此方には”物的”証拠があるから(笑。 international
(上の my
favorite songs のプレイボタンを停止にしてからクリックください)
■2008.11.30 morning
管理人 11月22日の拡大同窓会に参加頂いた方々からお便りを頂いています、ありがとうございます。 週末から酒の席が続き夜な夜な酩酊状態、
皆様にはキチンとお礼の返信を出さないといけないのですが、 非礼をここでお詫びします。 当日は”闘う記録隊”の任務を仰せつかっていたので、皆さんと余りお話ができませんでした。
珠にムービーカメラを休めると報道の方が話しかけてきました。 テレビ、新聞と5〜6社入っていたように思います、来るものは拒まずが会の方針でしたので。
他大学の方々や、管制塔の方々とはゆっくり話したかったので、それが至極残念です。 マスコミといえば、同窓会から写真展の一連の取材は凄いものがありました。
そういう事には疎い田舎者だし、 私の当地ではこの手の事に関しマスコミは一切興味を示さないもので特にそう感じた次第です。 日大全共闘のネタは全国レベルだという事をあらためて痛感しました。 その被害者は何といっても議長です。
当然、その事は事前に十分想定はしていましたが、やはり来るマスコミ全てが議長に集中しました。 議長は余り喋らないので、その取材の補完が今度は私等一兵卒に来たわけです。
特に、会場をチョコマカ動き回って目につく記録隊の私は格好の標的。 カメラの休憩で座るとサッと報道の方が横にという状態でした。 同窓会の会場内、マスコミのテレビカメラをご遠慮いただいていたのは幸運でした。
でなければ、私のハゲ白髪頭が画面の片隅にチラリと映る可能性もあった訳で、当サイト管理人としてそれは大幅なイメージダウンにつながります(笑。 そういう事でマスコミはクリアーしました。
そして、930の会公式記録映像には私のハゲ頭は写っていません、私が撮ったものですから。 しかし・・・・・、 藪さんのは記録として残っているので悪しからずです。
■2008.11.29 night
管理人 そうかいそうかい、aaghさん。
私にもとっておきの最強のネタが一つだけある、 でも喋ってやんない。 これだけは私だけの秘密だ・・・・・ったけど。 23日東大駒場の総括集会、渋谷の居酒屋。
隣に観音様、トイメンに文闘委のゲバルトローザが座った。 お二人によるあの子ネタの追及が始まった事は先日報告している。 ローザ同志は、明治の学館でパクられたとも話してくれた、
私のマドンナがパクられたあの日、あの場所でだ。 一瞬、トイメンのローザ同志の顔が私のマドンナとダブった。 それからだ、動揺から節操のタガが外れた。
不覚にも、私のとっておき履歴をペラペラと自分から喋ってしまったのだ。 後悔先に立たず。 いいか、観音様とローザ同志。 あの話は3人だけの秘密だからな。
あの日、あの場所だけでの秘密だからな。 決して水俣闘争関連は口外してはならぬからな。 しかし、 まだ、誰かに喋ってしまっているような気がしてならないけど。
■2008.11.29 morning
管理人 まだ走り走りだが、22日から25日まで撮り溜めたムービーを見ている。 勿論、話すときの秋田さんの表情は柔らかいが、
会話をしていない時の議長の表情、 皆の笑顔の中にあって、笑っていない。 眼は一点を見据え、一貫して議長の表情は硬い。 最後のインター合唱、肩を組み、輪になって歌った。
一人一人を、ムービーカメラでなめて写した。 歌っていない、 一点を見据えた眼、 やはり議長の表情は硬かった。  右の写真は鹿砦社・松岡さん提供
でもね、 本郷に向かうタクシーのなか、 「(俺は)東大へ行くのは嫌だな・・・・」とボソボソと云ったときのダダこねる少年のような表情。
「私が持っててあげるから・・・・」 安田講堂地下食堂、カメラの機材を両手に持って配膳の列に並ぼうとすると、秋田さんが私の膳を持って下さった時の優しい表情。
気の利かない後輩にお茶まで持ってきて下さった。 秋田さん、 私が生きている間は元気で居てくださいね。
■2008.11.28 night 管理人
そうかいそうかい、 皆で、私の”野のユリ”の如く清く正しい”ラヴストーリー”を馬鹿にするがいい。 今夜は仕事の付き合い酒が有ったのだけれど、少し早めに切り上げてサロンに急いだ。
今季首都圏街宣闘争について報告せねばとの思い、酔客で溢れる繁華街を突き抜けサロンに急いだ。 牧師様の開口一番、 「その後の”あの子”の顛末は?」。
私は街宣闘争の報告に出向いたのに、牧師様はあの子に関する一連の顛末を報告せよと迫る。 この日記で”青春の総括”をしようと思ったのが間違いだったのか。 でもね、牧師様が私にこう云った、
「実は私もね、中学の時好きだった女の子の事、未だに引きずってるんですよ」 ほら見ろ、同じだ。 そういう事だ、 邪心多き者も、聖職者も同じだ。
藪さん、鍋山さん、その他大勢の皆さ〜ん、 そ〜いう事なのです。 闘争勝利!
■2008.11.27 morning
管理人 24日の朝、カマボコ車が角と角に二台、信号角に張り付く機動隊、少し先には指揮官車も見える。 淡路町から靖国通りをトコトコ歩いて10分、神保町の角を曲がって真っ先に40年前の風景が目に飛び込んできた。
ヘルメットを脱ぎ、駿河台一帯からここいら辺まで逃げてきた思い出が甦る。 思わず立ち止まり、持ってるビニール袋を握り締めた。 前日の東大駒場、持ち込んでいたヘルメットをビニール袋に入れてホテルに持ち帰っていた。
ビニール袋をカラカラと鳴らしながらホテルから持参してきた。 「弱った、不審な袋だと調べられたらどう返答しよう」 「写真展の展示物と言い訳しようか」
軟弱にも動揺しながら警備陣の間をすり抜けた。 恐れ恐れ入った教育会館ホール内はご年配の方々で溢れかえっていた。 「誰か(右翼?)が(写真展に)火炎瓶でも投げ込みやがったのかな?」
同じくこの状況に出くわしたJUNさんの咄嗟の想定、 結果、JUNさんの想定は大外れだったが、呆気に取られている私に檄が飛んだ、 「**さん、この方々にビラ配ろう」
瞬時の素早い判断、さすがJUN。  
「まだまだ現役の還暦の日大全共闘です、お帰りに写真展にもお寄り下さい」 私の顔を訝しげにみて受け取らない方も居たが、大半は受け取ってくださった。
会館玄関を見ると、警備陣の間を次から次に多くの方が入ってくる。 玄関口に移動して配ったのは勿論の事だ。 後で三一さんから聞いた話だが、
玄関口で催しの方々の間に割り込み、JUNさんと二人で関係者面して配った、 「(ビラを配るのを)止めてくれないか、貴方達と関係があると間違われては困るから」
催しの関係筋から抗議を受けたそうだ。 抗議の内容は的を得ており、配るビラは全員が躊躇無く受け取ってくれ、関係者と十分間違われていたが(笑。 三一さんは、
「私等は貴方達がこの会館を使用する以前からここで写真展を開催している」 「会館の訪問者に案内ビラを配るのにどうこう言われる筋合いは無い」、と突っぱねたそうだ。
「異議な〜し」。 因みに当日の催しは「九条の会・全国大会」だったそうだ。
■2008.11.26 morningU 管理人
「私はね、奥さんに対し決して良くないと思うんですよ!」 23日夜渋谷、東大駒場・全共闘シンポの総括集会を総勢12名で決行。 シンポ総括の場のはずが、座った場所が悪かった、
気軽に話していた”あの子”の話題に対し、隣りの女性闘志2名の矛先が私に向けられた。 この追及に、しどろもどろの弁解。 
「いや〜、せっせと40年前の思いを掘り起こしていたらね、ツルハシに全共闘の鉱脈でなく別の鉱脈がカツンと当ったんですよ」
「何だろうかなと思って掘り返したら、あの子の思い出」 「私にとっては、全共闘の思い出も、あの子の思い出も等しい重さ」 「カミさんと一緒になる前の話だから・・・・」 「でもね、それでも少々ヤリ過ぎだよね・・・」
つくづく思った、女性同志には半端な言い訳は通用しない。 やわら身を乗り出し、離れた席のTさんに 「Tさん、今日の演説最高だったよ」
「でもね、元赤軍派議長を一喝したんだから、後のこと私は知らないからね」 突っ込みを入れて話題を変えることしきり(汗。
■2008.11.26 morning
管理人 「(長男坊は)三日共ね、毎晩一緒に夕食してくれてね」 「(次男坊は)日曜日に友人の結婚式に帰ってきていたし」 「兄ちゃんが、披露宴に着ていく弟のスーツやワイシャツにアイロン掛けてやっていましたよ」
「お祝いを一曲弾いってやるんだとギターケース抱えて出ていき、帰りは花嫁のブーケ貰って帰ってきましたよ」 空港バスの終点で妻が待っていた。
ハンドルを替わった帰路、嬉しそうに妻が話す。 この四日間の私の方の話を聴いてもらいたいのだが、ここはじっと我慢。 家を空けた3日3晩、殊勝にも長男坊が妻と付き合ってくれたそうだ。
「これはマズイなあ・・・・」 25日、東京滞在最終日。 休日明けという事で、JUNさんと経済Tさんと三人で三崎町と駿河台にビラを配りに行くことにした。
神保町から歩いて経済学部の前へ、学生に手渡すが殆ど受け取らない。 法学部三号館の前に足を延ばす。 更に駿河台理工学部一号館前へ。 殆ど受け取ってもらえなかったが、実行したという当事者満足だけで切り上げ。
理工学部一号館前
二人とお茶の水で別れ、その足で新宿の「佐々木みちこ」写真展へ。 サービス版の大きさの写真が壁ビッシリ。 ラッパさんが映る写真が至る所にある、彼の露出度の多さは半端ではない。
神保町へ戻る前に、東口の百貨店へ。 妻に手提げバッグ、次男坊の誕生祝いに名刺ケース、それに長男坊の”彼女”にキィーホルダー。 三点で片道の航空券代ほど、ついでの二人は別としてこれは私の上京時の欠かせぬ”必要経費”。 今回、長男の分は彼女へのお土産でいいだろうと手を抜いた。
しかし妻の報告では、 この三日間の長男の行状は評価に値するもの、功績が大なのだ。
■2008.11.25 morning
管理人 「塩見さん、貴方は全共闘じゃないだろう!」 シンポが丁度終了予定時刻になった頃、仲間が手を挙げて発言を求めた。
「日大全共闘のTさん、発言をお願いします」 別の場所からも挙手があっていたが、司会の学生は躊躇わずに仲間の方を指名した。 司会の学生と仲間Tは一晩ゆっくり話し合っていた。 仲間の声は憤りで震えていたように思う。
決して、元赤軍派議長に恐れをなしていたのではない。 この一喝で、会場は静まり返った。 彼が何を喋ったのか詳しく覚えていない、 取材が何社も入っていたし、同行カメラクルーもいたので後日映像記録をいただけたらと思っている。
でも会場に居る元日大全共闘の老人は皆心の中で「そうだ、そうだ・・・・」と叫んだ。
copyright 佐々木みちこ
「全共闘はなぁ・・・・、皆いい奴ばかりだったんだ」 立花教授をまえにして、仲間は発言の最後をこう締め括った。 理屈でもなんで無い、
かつて、私らを行動にかき立てたのは、こんな仲間の心の叫びを聞いたからだ。 それが日大全共闘の運動だ。 私はここで涙腺が切れた。
ハンカチで顔を覆い、テーブルに伏せた。 東大駒場、1313講堂で涙を流すのは想定外だった。 顔を上げると隣の学生が私の方を見ている。
シンポは終了した。 「すみません、そのヘルメットの写真を撮らせていただけません」 立ち上がろうとすると、隣の学生がそう云う。 「いいよいいよ、どうぞ」
後ろの席の農闘争委の赤ヘルも取り、モヒカン、銀ヘル、赤ヘルの3個をテーブルに並べてやった。 学生さん、ヘルメットを撮るのと思いきや、やわらそれを被って友人にその姿を撮らせている。
「すみません、”ホンモノ”の日大全共闘の方ですか?」 「一緒に(ツーショットで)撮らせていただけませんか?」 引いていた学生が寄ってきたので少しやり取りをしていると、はるばる同志社大学からシンポを聞きにきたと話してくれた。
しかし・・・・、 ヘルメットはコスプレ、私は珍しい”化石”の扱いだった。
■2008.11.24 night 管理人
「島(泰三)さんが出ないなら俺は興味が失せた、早々に帰る」 前日に同窓会を終え、駒場祭の全共闘シンポを午後に控え、ラッパの大将は昼過ぎ東京を離れた。
今思えばこのシンポの最大の難関はラッパの大将だったかも知れない。 彼が早々に東京を離れたことは、実行委員の学生達に幸いしたことは間違いない。 教授の講演は只々冗長だった。
全共闘について立花教授が何を語るのかと期待していた私らが間違っていた。 教授は全共闘について何も語らなかった。 そして学生がコーデネイトした全共闘を語るシンポの骨組みは、全学連の、そしてセクトの何たるかの範囲だった。
サブゲストとして現役中核系全学連委員長、それに元赤軍派議長塩見さんが招かれていることでそれは決定的だった。 両者の運動の是非でなく、1968〜69年、あの時代の全共闘を語るシンポとしては大いなる違和感を感じたのは私だけではないと思う。 
佐々木みちこさんより、特別に2点だけ作品の掲載の許可を頂いただいた内の一点です。 今年2008年1月27日、先立った理工二闘・行動隊長、宮澤博くんです。
服装から'68〜'69年の冬頃だと思われます。 胸の笛がデモ指揮の証です、手前は機械科三闘、鬼の(笑)のO先輩。
ビラ播きでスッタモンダして虫の居所が悪かった。 これ見よがしにテーブルにヘルメットを置いた。 隣の傍聴の学生が明らかに”引いている”のが分かった。
ご免よ、君らにプレッシャーかけるつもりは無かったのだけど。
ラッパの大将なら1時間は持たなかったと思う。 ヘルメット床に叩き付け演壇に詰め寄ったと思う。
条件反射で私はそのヘルメットを拾い、私も仲間も彼に従ったと思う。 シンポは冗長から”混乱”に陥ったと思う。 絶対そうなったと思う。
彼が居なくて幸いだった。 学生さん、御免な。 君達を責めないが、シンポの進行はそれだけ冗長で私等の想定からズレていた。 そしてそれは、全共闘を語ることからズレてたと云うことだ。
■2008.11.24 morning
管理人 「困るんです、駒場祭と関係ない外部のビラを配られると」 「何故、困るの?」 配り始めて10分程だったろうか、農闘委の赤ヘル被った仲間が学生と議論している。
面白そうだからそちらに近づいた。 途中までの詳しい正確なやりとりは聞き取れてない、だから詳しくは後日赤ヘル仲間のレポートもらって書くが、要は学園祭を行うについての構内の管理を大学から任されているので、関係ない者が関係ない物を配布してもらっては運営上困ると言うことだった。 「君達が困るということは分かるが、それを無視して配ったら君達どうする?」
赤ヘル農闘委の仲間、かなり強弁な対応をしている。 「運営に携わる者が、貴方達を取り囲んで・・・・」 返答は、要は実力で”規制”するという云うことらしい。
ここで傍観者だった理闘委モヒカンヘルメットの私も、この問答に加わった。 「それは面白い、やっていただこう」 「こちらとしては、君達ともみ合い、年寄りのメガネが飛び割れるというのは想定内、”最高”のシュチエーションだと思う」
赤ヘルの仲間も「無視して実力でやろう」という表情がありありだった。 こちらは笑顔で学生も苦笑い、さすがに還暦と若い学生のやりとりで表情は穏やかだったが、僅かだが緊張が走った。 「私等の若い頃は、年寄りが過激な私ら若者を諌めたが、今は君達若者が過激な年寄りを諌めるような時代に変わったのですね」
ここで数年前、私の地元の国立大生に云った捨てセリフを思い出し、思わず口にした。 学生は返答に困ったのだろう苦笑している。 そうしているうちに別の学生が新たに”騒動”に加わってきた。
今回の全共闘シンポの実行委員の一人が騒動に呼び付けられたようだ。 シンポ実行委員の学生とは何度か連絡を取り合っていた。 「構内でヘルメット被って写真展のビラを配るよ」と事前に”通告”していたのだが、殆ど冗談だと思っていたと思う。
先に問答していた駒場祭全体の副責任者から事情を聴かされている。 彼が困惑の表情に変わっていくのが分かる。。 「申し訳ありませんが、そういうことですのでお願いします」と訴えるような表情だ。 『潮時だな、ここら辺で止めるか、』
実行委員の彼を困らせるのは本意ではない ヘルメット部隊四人で目配せした。 余談だが、 最大手全国紙A社の記者。 何故ビラを配ってはいけないかを速攻で学生に取材していた。
そして、「ビラ配りを強行に継続すれば面白かったのに」と私らに云う。 私らを煽るのだ。 この駒場構内でのヘルメット街宣行動には、同行するの取材記者とテレビクルーがいた。
それに、「何かあったら弁護よろしく頼みますよ」と、朝一番に”安田講堂出身”のその”筋”の方にもお願いしていた。 そういう事で日大全共闘らしからぬが、事前の準備は完璧だった。
しかし、結果的に日大全共闘らしからぬ事がもう一点、そういうことで理由はあるが「強行突破」を日和見った事だ。 やっぱ、学生に羽交い絞めにされる老人、飛び散るメガネ、という状況に行くべきだったかなと個人的には深く反省している。
その一点について、還暦ヘルメット街宣強行隊四名、仲間から轟々の非難を受けることを覚悟している。
■2008.11.23 night
管理人 「**くん、たっぷり一週間分の(日記の)ネタを仕込めたね」 駒場から移動した渋谷での今日の総括集会、文理の先輩にこう云われた。
「いや〜、余りにもネタが濃いのでなかなか書けないですよ」 ネタが濃いこともさることながら、 今夜は予定通りのヘベレケ状態、 濃いネタは極力薄めて明日以降に、今夜は6行がやっとなのでもう寝ます。
■2008.11.23 morning
管理人 何人か泣いているのがファインダー越しにはっきりと分かった。 最後はインターナショナルで締め。 10才程年下の後輩達がギターとトランペットで伴奏を奏でてくれた。
後でモニター観て分かったのだが、秋田さんは歌わずじっと一点を見つめていた。 後日、サウンドだけでもアップしようと思っています。 22日昼前、写真展のオープンセレモニーを引き上げ、同窓会会場へ移動した。
教育会館からどうやって移動するかワイワイガヤガヤ、 荷物の多い経済G先輩と私、それに秋田さんの三人が特別(笑)にタクシーということになった。
タクシーの後部座席、畏れ多くもG先輩と秋田さんの真ん中に私が納まり移動した。 途中でG先輩、「オイ秋田、懐かしいから安田講堂に寄っていこう」
私らとは違ってG先輩と秋田さんは同じ経済四年、当然敬語ではなく物言いはあくまで対等である。 タクシーの運転手さんに赤門の前で止めるようにお願いした。 「俺は東大は嫌だな・・・・・」
秋田さんは最初いつもの小声でボソボソと呟いていたが、G先輩に強引にタクシーから降ろされた。 二人の大先輩に従う理闘委一兵卒。 ここだけの話だが、もし東大構内で秋田さんに何か有れば・・・、
妻と息子達には悪いが、命を掛けて守る覚悟を決めた。 G先輩は・・・・・、 悪いがご自分で何とかしてもらう。 構内を散策し、安田講堂の地下食堂で昼飯となった。
「秋田、これにしよう」 G先輩が豪勢にも一番高いメニューをチョイス、600円也の定食。 まとめて3人分先輩が購入、先輩におごって貰うのは後輩の特権だから「私も払います」などと無駄な抵抗しなかった。 「秋田さん、私並びますから」と言うが、ニッコリ笑ってご自分で配膳の列へ。
気が利かない後輩のため、三人分のお茶まで取ってきてくださった。 東大構内から食堂で1時間ほど。 安田講堂の地下は分厚いコンクリートの壁なのだろう、携帯は圏外。
議長と護衛の一兵卒を含めた3名が約1時間ほど”行方不明”となっていた。 余談だがG先輩、 前のテーブルで女子学生が食事していた。
秋田さんと私が食器を戻しに行っている間にお話をしたそうだ。 「何年生?」 「法学部3年生」 「将来は何になるつもり?」 「役所に」
「ほう、官僚志望ですか」 「お国を動かすようになるでしょ、この国をお願いしますよ」 しっかり打ち解けこのようなお話をしたそうだ。
そう云えば、NHK-BSの可愛いメイクさんとも真っ先に打ち解けていた。 G先輩の凄いところは、 東大生だろうがメイクさんだろうが、若い女性は皆平等の扱いのようだ。
■2008.11.22 morning
管理人 この2〜3日、皆はネットどころじゃないけどね。 ヘベレケに酔いつぶれない限り、日記は毎日更新しようと思っています。
出来ればフォトレポートも、差し障りのない範囲で。 ムービーレポートは後日になります、 ”かしこどこ”の厳しい検閲を経なければいけませんので(笑。 機材一式持参しています。
ケーブル類、チャジャーなどそれだけでバッグは一杯になっています。 御蔭で、着替えは下着以外は入りません。 未明の出立ですが、妻が空港まで送ってくれます。
感謝です。 早朝ですから、静かに、 闘争勝利!、です。
■2008.11.21 morning
管理人 デスクに座ると顔が強張りついて元に戻らない。 この30数年マイカー通勤を続けてきたので、早朝の寒気を割って歩く通勤は初体験に近い。
「行ってらっしゃい」妻の声が玄関に響く。 マイカー通勤の頃は、妻が先に家を出ていたが、 今は私が先になり、見送られる側になった。 '71〜'72年の冬、何時頃だったか忘れたが、なけなしの金をかき集め桃井から一人で冬の京都に行った。
金が無いので新幹線でも、特急でも、急行でもない東京駅発午後11時半、大垣行きの鈍行列車。 品川辺りで酔客で一杯になる、神奈川を越し静岡に入る頃には車内はガラガラ、静岡を越すと大きなカゴを担いだ買出し人が乗り込んでくる。
寒気を突いて大垣で乗り換え、京都に着くのは昼前になる。 
京都駅から市内電車を乗り継いで、荒神口で降りる、 電停は足元から凍りつくような寒さ、寒風が吹き抜けていく。 行先は「しあんくれーる」、その年の夏から2回目だった。
黒い壁、JBLパラゴンから流れるコルトレーン、震える手で暖かいコーヒーを啜る。 帰りは、着た時と同じパターンで宿泊はなし、 京都に行く目的はそれだけ、それだけ煮詰まっていた。 冬の風景は、
凍てつく荒神口電停、センベイ布団で震えた明大学館、寂しい二つの思いで。
■2008.11.20 morning
管理人 「その子は、同窓会では”行方不明扱い”になっているよ」 全共闘をもう40年も引っ張ってきた。 そういう意味では私はかなりしつこい。
めげずに、それではとこの6月にあった学年の同窓会の代表幹事に電話した。 「ああ、**君ね、君のことよく知ってるよ」 私の名前とクラスを告げると、幹事さんはこう云う。
私は彼のこと、よく知らないのだが、 向うは一体私の何を知っているのか非常に引っかかったが、この際それは脇において更に色々と尋ねた。 有り難い返事が返ってきた。 「でもね、仲の良かった子を知ってるよ、今連絡先を教えるから」
教えていただいた連絡先は、これまたヨウコさん違いのヨウコさんの家から歩いて5分程のところ。 ブティックを経営しているらしい。 帰って卒業アルバムを見ると、
高校時代なら、声を掛けるのをためらいそうな綺麗なオシャレな子。 でも、この歳のせいで臆するものは遥か昔に飛んでいる。 とことん、やるだけやるのだ。
闘争勝利! ■2008.11.18 night
管理人 仕事のトラブル対応に朝から追いまわられる。 役所が一枚も二枚も噛んでいるので始末が悪い。 もう片足棺桶に突っ込んでいるようなものだから、
「つべこべ言うようなら何時でも責任取って辞めてやる」って、啖呵切るのは簡単だが、 そこは法人の立場、悔しいけど言えない。 ある意味、そちらのストレスの方が大きいので、
昼間は、昨日の出来事を嘆いている暇がない。 そうは言っても愚痴は言いたいのだ。 仕事の用で訪問した家が、40年前にあの子が住んでいた家の隣だった偶然。
そして、 そこの家の奥さんが、あの子の下の名前と一緒だった偶然。 それに加え、 そこの家の奥さんが、あの子と同い年で、あの子と私の高校の同窓生だった偶然。
あの子とクラスも一度一緒だったって。 「神様、お願い〜〜だ!」 テンプターズとかいうかつてのGSの歌が聴えてきそう。 笑い事ではありません、
宝くじなら三億円当たっている確率ですよ。 この何重にも重なった”偶然”を、偶然の浪費と言わずして何と言うのですか。 神様は、私を馬鹿にしているのですか?
■2008.11.18 morning
管理人 私が受けたのではなく、参考としてですが 「60年安保ブンド結成50周年記念集会への呼びかけ」文を頂いた。 送っていただいたのは当地でご一緒に市民運動をしている方。
かつて某大学・医学部在席12年のキャリアを持つ”筋”の方。 1968年当時、ブンド機関紙の専属記者として闘争初期の経済学部バリケード内を取材している。 取材で、
「貴方達は大変な事をしでかしているのですよ」、 というような問い掛けを経闘委の仲間にしたらしいが、 「ご当人達はそういう認識は全くなく、意に介していなかった」
日大の学生は、全学連とかセクトとは全く異質な学生集団だと思ったそうです。 
色々有って(笑、 早々から寝込んだので夜半に目が覚めた。 こんな時は重なるもので、昨日は”あの事”と別に仕事でもトラブルがあった。
踏んだり蹴ったりの一日。 もう歳だから、あの事のリカバリーは当初の想定範囲の二日二晩で足りるのだが、 仕事のトラブルと合わせて、どうも三日と三晩は掛かりそうだ。
■2008.11.17 nightU 管理人 長い長い一日、やっと帰宅。
突入作戦決行は我ながら褒めてやりたいが、 予定通り、想定範囲内で落ち込んでいる。 読みのずさんさ、 想定通り落ち込む軟弱さ、
シーツ被って今夜は早々に寝る。 ■2008.11.17 nightT
管理人 職場から歩いて10分程の所だから、時間休を貰って出かけた。 行くに10分、帰るに40分費やした。 この世には神も仏もないと思った。
牧師様に言わせると「それは神のお計らい、御意志です」となるのだろうか。 丁度40年前、1968年の夏、 日和見主義に流れた苦い経験がある。
そのために40年引っ張る事になった。 繰り返しは絶対嫌だとの気持ちが重い足を進めた。 再会は、中学校の同窓会の段取りというストリーも設定していた。 ドア越に「お帰り下さい」と言われる覚悟も少しはしてた。
大袈裟に言えば、バケツの水を被せられる覚悟も。 「ピンポーン」 「ハーイ」 ドアが開いた。 経年劣化からなのか、顔のイメージが全く違う。
私、「突然済みません、もしかして下のお名前は”ヨウコ”さんですか?」 「そうですが、どちら様で」 私、「あの〜、**ですが分かりませんか?」
「・・・・・・・・」 私、「**高校の卒業ですよね?」 「そうですが・・・・」 私、「失礼ですが、何年のお生まれですか?」
「昭和23年生まれですが」 取り合えず同い年で高校の同窓生であることは確認できた。 次の質問の返答で愕然としてしまった。 私、「中学校は○○中卒ですよね?」
「違いますよ、××中学ですよ」 魂が抜け、途中の公園へ、 缶コーヒーを買い、黄色の絨毯を眺めて30分程。 昔住んでた所に、同じ高校の同窓生で、下の名前も同じ。
笑いたくば笑え、 これから先の貴重な”偶然”も使い果たしてしまった。 「”その子”、貴方の初恋の人でしょう」 いずれにしても高校の同窓生である事は確か、ヨウコさん違いのヨウコさんとは玄関先で少し話した。
ヨウコさん違いのヨウコさん、あの子とクラスが一緒だった事もあるといった。 でも、今は全く知らないと云う。 嗅覚鋭い的確な突っ込みには、タラリ〜汗で否定はしたが、女性は侮れないと痛感。 振り出しに戻ったという事だ。
リカバリーには二日と二晩程掛かりそうだ。
■2008.11.16 night 管理人 以前、阿佐ヶ谷つながりで何回かメール交換した”あぶゅうきょ”さん。
御親切にもHPの12日の日記で写真展や叛バリを紹介してくれている。
そこからのリンクで少なからずの方々の訪問があっている。 ありがとうございます。 ご本人も、都合があえば写真展に来ていただけるとのこと。 東大の駒場祭、先日この日記で紹介した。
「今語られる 東大、学生、全共闘」の企画を進めている実行委員の学生と話す機会があった。 話すといっても私は東京と遥か離れたローカル。 あれだ、
レトロ小父さんには似つかわしくないスカイプだ。 「たったそれだけの人数で・・・・」、と正直驚いた。 「君達、ホントよく頑張っているわ」、と正直そう思った。
そう云う事で、困らせないで手助けになればと思った。 しかし、いろいろと曰く因縁つきの私等が余りに関与すると、 かえって彼らがやりにくくなることも有る訳で、さりげなくだ。 私を含む少なからずのレトロ親爺連は当日駒場に押し掛ける予定。
第一部: 立花隆 氏 の講演は午後3時から、 第二部:
「全共闘 vs. 東大生」のバトルトーク集会は4時から、 だから私は、23日(日)の写真展は午後2時以降は不在です。 24日〜25日はほぼ終日写真展に詰めています。
■2008.11.16 morning
管理人 晩秋の柔らかい雨が降る。 洗濯物は昨日やっつけているし、庭仕事はあきらめパソコンに向かっている。 妻は仕事のイベントで早朝から出勤。
「何故、今日だけ雨なの・・・」恨めしそうに云いながら彼女は出掛けた。 昨日もその準備で終日出勤しているので、この間は私一人の休日に。 先日、ローザ姉御達の一笑に付された一件。
軟弱で揺れる心の内を誰かに聞いていただきと思って話したのだが。 この手の軟弱な話、女性相手はダメだと肝に銘じた。 今日は日曜日、教会のある日だから出掛けて牧師様に話そうかとも思ったが、
「その手の件は、教会の管轄外ですので」、と冷たく言われるのは必定なので止めた。 そうだ、恐妻連合の”藪さん”だ、 彼なら聞いてくれるかも知れないと思い、昨夜携帯電話を鳴らした。
「藪さん、11.22は来れるの」 無難な話題から入ったが、話の本筋はそうでない。 藪さんに経過と気持ちを切々と訴えた。 私、
「イヤ〜、総括は避けて、出来れば日和見主義で流そうかと・・・・」 直近に差し迫る連続闘争を控えて、ここは戦力・気力を温存しなければとの情勢分析。
布団被って長期間、落ち込む事態は避けなくては、 この件に関しては、戦術・戦略的にはこの日和見主義が正しいと思うのだが。 藪さんの返答、
「断固、闘争を組むべし」、 要は、丸太棒を抱えて敵正門に突入せよとの叱咤なのだ。 しかし待てよ、 私と藪さんの論争、 ”代々木”とそうでない勢力との構図になっている(笑。 そうそう、首都決戦の荷物もそろそろ準備しなくては。
藪さん、そういう事で、それどころではないのだ。 ウ〜ン、代々木の言い訳かな。
■2008.11.15 morning
管理人 2回目の洗濯が終わった頃、辺りがやっと薄らとしてきた。 肌寒いのでフリースの上着を重ねる。 クリスマスローズの新芽が活き良いよく伸び始めている。
そろそろ鉢植えのレモングラスも部屋に取り込んでやらなければ。 それに、一週間先の”長征”の準備もしなければ。 「明日あると信じて来たる屋上に、旗となるまで立ちつくすべし」道浦母都子
不覚にも、何度も何度も真っ赤になる目をはばかりながら、 3日間の朝夕の通勤列車で、島泰三さんの「安田講堂 1968-1969」の2.5回目を読み終えた。
2.5回というのは、買ったとき日大全共闘に記述が及んでいるところだけを一度パクリ読みした。 それから少し経って完読。 さらにこの3日で再度読み直した。
一週間を控えて、どうしてももう一度読んでみたくなったし、読んでおかねばと思ったから。 
「ハッハッハッ・・・・」 某大学の講師を務める牧師様の連れ合い、店内に響くような声で笑う。 苦笑するローザ姉御。 落ち込む私。
二人合わせて笑われてしまった。 残った仕事もあったが、定刻で切り上げサロンに顔を出した。 昼間の動揺を抑えて、稀な偶然と、軟弱にも揺れる心をローザ姉御に報告せねばと思った。
席に向かうと、牧師様のお連れとローザ姉御が座っている。 着くと早々に昼間の出来事を報告した。 でもお二人、 笑い飛ばすなんてヒドイじゃないですか(泣。 ローザ姉御の闘争心と、
牧師様の連れ合いの信仰心には、 私の動揺など、笑い飛ばすほどの些細なこと。 そういう事だ。
■2008.11.14 night 管理人
ひょっとしてと思い、下の名前で再度尋ねてみた。 「ああ、**さんですね、そうですこのお家の方ですよ」 「綺麗な奥さんですよ」
「・・・・・・・、」 仕事の関係で非営利団体が運営している託老所を見学に行っていた。 その施設は閑静な住宅街の古民家を借り上げ、築80年と引率者は話してくれた。
「地震がきたら間違いなくアウトですね」と私が質問。 「行政の方は見て見ぬ振りですわ」 そんな和やかな話をしながら近くの駐車場に車を止めた。 近づくにつれて何となく気になることが有った。
路地を通り抜け託老所に近づいた。 かつて”あの子”の家があった住宅街の一角。 託老所はその家と路地を挟んでいた。 路地の向うには築10年ほどだろうか、洒落た洋風の家がある。
表札は以前も書いたが、勿論違う「姓」 「この路地の前の場所に、かつて私の中高の同級生が住んでいた家が有ったんですよ」 「つわ蕗の花が咲いて綺麗なお家ですね」
託老所の女性の管理者と談笑している際に、そんな話をした。 「そうですか、でも前のお家は最近奥さんが亡くなられていますよ」 「そうですか・・・・」
本人か別人かも分からないので淡々と話した。 「で・・・、亡くなられた方はお幾つ位でした」 「もうかなりのご高齢でしたが」 託老所だから、その辺の事情は詳しい。 「もしかして、このお家に60歳くらいの方は居ませんか?」
詳しそうなので念のため更に聞いてみた。 「そうですね、今の奥さんはそのくらいかな」 「もしかして・・・・・・」 この後のやり取りが冒頭に続く。 そんな、
何て事だ、 何でなのだ、 あのときも、そして今日も、 盛り上がっている時に限ってこうだ。 神様はオイラを弄んでいるのか、 だから・・・、そういう事だ。
闘争勝利なのだ(泣。
■2008.11.12 morning
管理人 軟弱銀ヘルさんから忠告がはいった。 順番としては次は”警告”。 そして、その次は”夜討ち”かな。 銀ヘルさんだから、某セクトのように未明の押し込み、警告無しのノーテンにハンマーの不意打ちはないだろう(汗。
でもねぇ〜、 '68〜'71年の間の思い出話、どれ一つ成就しませんでしたよ。 '68年7月8日から'69年2日8日までの理工学部一号館バリケードストライキ中、周りはむさ苦しい男ばかり。
珠の救いは、昼間出てくる薬学科の彼女達におごってもらう喫茶店。 銀ヘルさんの状況と大差ありません。 センベイ布団で寝起きし、風呂は下宿に帰り10日に一度程、
コインランドリーなんて当時はある訳ないので、シャツの襟は真っ黒に。 朝シャンなんて夢の夢。 ソックスは垢で固まりバリバリ、私に近づけばクサく臭っていたはずです。
でも、バリケードではそれが下宿生の”スタンダード”でした。 これでは女の子と付き合える訳が無いじゃありませんか。 だから、 私のその手の思い出話は、むさ苦しかった日大闘争をすっ飛ばして、清潔で明るかった”共学”の高校時代に還るのです(笑。
そういう事で、 銀ヘルさん、お励ましありがとうございます。 ”規制”されればされるほど抗したくなる日大全共闘のソレを分かった上でのご忠告。
今後も益々精進しますから。
■2008.11.11 morning 管理人 「とっちゃん、そりゃ〜おかしいや」
「オイラ江戸子でえ、筋の通らぬ銭はビタ一文受け取れねえや」 「あのな、子供じゃ有るまいし」 「頂ける物は何でも貰っとくほうがいいんじゃねえか」
大家と熊さんのやり取りではないが、 「俺は貰わない」 朝、新聞越しに妻にこう宣言した。 「貴方、何言ってるの?」 「だから、俺は貰わないの」 「俺は馬鹿だから、
幾ら考えても納得できない」 「こんなんじゃ、何処かの宗教政党の福祉へのバラ撒きの方が万倍ましだ」 「分けのわからぬ、筋の通らぬ事がまかり通るほど世間はヘタれているのか」
妻は、またまたレトロ親爺が吹き上げていると呆れている。 困窮している人に貰うなとは言わない。 年収は大幅に基準以下で余裕は無いが(泣、
少なくとも住む家が有り、食う事に困っていない私は筋を通す。 勿論、金持ちは論外だ。 あの”ゲス野郎”に札びらで頬を張られる覚えはない。
政治から”筋”が抜ければ、この世は何でも有りだ。
■2008.11.10 night 管理人 コスプレちゅうと、コスチューム・プレイの略だろうと思う。
このコスプレを、無謀にも団塊レトロオヤジが試みてみよういう魂肝。 この歳で常識的に思いつくのは”貫一お宮”・・・・、ほどレトロではないし、
ほらもう少し後の、月光仮面でもない。 今は物が贅沢になって、シンプルで由緒正しきアレが手に入りにくい。 フルフェイスの奴だと、もうほとんど銀行強盗だし。
私等がこだわるのは、あくまでワーカーズ・ユースのアレなのだ。 二桁までは届かない数だが、密かに準備が進められているはずだ。 昨夜は、超々エリートな優しき若者を脅かしてしまった。
「ほら、あくまでコスチューム・プレイだから」 「モノホンの日大全共闘が催し盛り上げるために協力するのだから、こんな機会滅多にないよ」 キャッチセールスに捕まった断り切れない若者のように困っていた。
ごめんな、決して困らすつもりはなかったのだが。 
講堂の前の集会はビッシリの人だった。 こちらの手勢は100人に足らない。 多分向こうは千名ははるかに超えていた。 キャップの怒号が後ろから響いた。 「突っ込め・・・・・・」
なりふり構わず突進すると、人垣は左右に割れた。 突っ込んだというのはこちらの主体的な思い込み。 正確に、客観的に云うと、大きな集団に負勢が飲み込まれた。
ハッと後ろを振り向くと周り中が人でビッシリ。 「引けぇぇ・・・・・・」 間髪入れずに又怒号が響いた。 無我夢中でゲバ棒振り回し、必死の思いで門の外まで引いた(逃げた)
「全員居るか・・・・」 無事な訳きゃぁないだろう(怒、 4〜5名が欠けていた。 「民青の全国集会を〜、断固粉砕し〜、云々かんぬん」
その夜の総括集会の括り。 極々一部だったろうが、私が関与した何回かの党派の”闘争”はこんな感じだった。 決して党派を揶揄するつもりはないか、これが私の中途半端な助っ人の経験だ。
その夜、この4〜5名の同志をどうやって奪還したか、それは”企業秘密”だ。 これではストリーの訳が分からないだろうから注釈を。
集会:民青の全国集会 講堂:安田講堂 こちら:とある赤ヘル党派
向こう:民青 キャップ:亀(分かる人にこれで分かる) 4〜5名:結果的に捕虜
■2008.11.08 morning
管理人 「や〜、お久しぶり」 久しぶりに金曜のサロンへ、 一番乗りの定年リタイヤ一年生の先輩にお迎え頂いた。 私の後にローザ姉御、牧師様、長老連が続々と、昨夜はほぼフルメンバー。
「**さん、同窓会の準備は順調にいってますか?」 「いや〜、それが色々あってね」 和やかなやり取りが続いた。 「週末だから、食事に行きましょうよ」
1時間ほど談笑していると、携帯に着信が。 妻からのデートのお誘いコールが(笑。 「いや〜、悪いけどカミさんに拉致されてしまって、お先に失礼」
まだまだ盛り上がる前の時間帯にサロンを退出。 
時計台の下でフォークダンスを踊っている。 宵闇が迫っている。 輪の中でキャンプファイヤーが赤く揺らめいている 小節毎に相手が変わっていくあれだ、オクラホマミキサーだったかワシントンスクエアーだったか。
次の相手の顔が、キャンプファイヤーに照らされて見えた。 ”あの子”の顔だった(勿論40年前のだ)。 私の前に近づいてくる。 嬉しくて嬉しくて・・・・・・。
余り嬉しすぎて、 そこで目が覚めた。 何とか続きを見ようと再び入眠したが、 夢はそこでジ・エンド、続きはなかった。 もう、そういう歳だ、
見る夢は青春映画のように爽やかで切ない。 そう、そういう事だ、藪さん、 だから、心配ないのだ。 my
favorite songs You Know I'm No Good Amy
Winehouse (びっくらこいた、ビリーホリデーかと思った)
■2008.11.07 morning 管理人 私の地元の某国立大学園祭のメイン・イベントは、今年もお笑い芸人のショー。
後は模擬店のオンバレード。 後は・・・・・・・、何もない。 本当に、本当に、本当に、何もない。 高校の文化祭の方がまだまし(涙。
仲間から、とある”情報”が入ってきた。 さすがは、私の地元の某国立大学とは一味違うのだ。 「おう、私の在京日程と合うではないか」
メニューのパネラーには私等と親しくさせて頂いている”紳士”の方々が並んでいる。
野蛮な日大全共闘がお招きを受けているかどうかは定かでないが、 個人的には日程も合うし、有志を募って押し掛けなければと。
ともあれ、芸闘委行動隊長のラッパさんは万難排して行かなくては、 遡る事40年(正確には39年)前1月18・19日の仁義をどうしても切らなければ、
「ラッパさん、日程が合えば私が警護してやるからね」 どうしてか? 、 そりゃ〜当たり前ださ。 少なくとも全共闘を語るのに、日大を外してはないでしょう。
”骨”のある催しになるか、 ”小骨”が引っかかる催しになるか、 ”お子様プリン”の催しになるか、 面白いじゃないか!
■2008.11.06 night 管理人 目まぐるしく日替わり、Motown 炸裂なのだ。 別にオバマさんを意識しているのではない。
それと、 誰だろうが私は”反米愛国”の旗は下げないよ。 今にも泣きだし様な夜空の下、早足で駅に向かった。 駅への帰り道の途中には私の母校がある。
まばゆい照明の下、野球部の掛け声が聞こえてくる。 半世紀を超す遥か昔には、県下では名門の野球部だったこともあると在学当時に聞いた。 かつて、その下でフォークダンスを踊った時計台も見える。

詳しくは書けないが、幾つかのマスコミとの関わりが生じている。 時代だろうか、 日大全共闘だったからだろうか。 誓って言うが、個人的にどうのこうのとの思惑は一切ない。
皆の汗と涙、それに流された多くの血が日大全共闘の歴史だから。 使えるものなら、 使わしていただけるものなら、 私はマスコミだって構わない、
それが私の信条だ。 my favorite songs
When Your Lover Comes Back Mary
Wells
■2008.11.05 morning 管理人 YouTubeで音楽拾いに行っていたら、
この頃、好みが限りなく'60年代モータウンサウンドに近づいていく、格好いいだろう(笑。 でも、これ昔からの趣味じゃなくて、最近のハイテンションのなせる趣味だからね。
「aaghさん、 Mary Wells は知らなかっただろう?」 シュープリームスなら誰でも知ってると思うけど、何、知らない? そういう意味では、ネットは時空を越えているわけだ。
昨日は職場のHPの更新、 月初めに連休が入ったので、普通は2〜3日かけて行う月替わり作業メニューを一日で。 真面目に細かな画像処理から、CGIのメンテナンスしてたら夕方4時頃から目の前に白い蝶々が飛び交いだした。
腰が椅子から浮いてしまうような感じも、典型的なパソコン急性中毒症状。 オジサンの業務用としての耐久性は脆く、一日持たなくなってしまった。 こりゃ〜ポンコツだわ、もう潮時かも。
■2008.11.04 night 管理人 もし会えたら、セリフは決めてある。 その時もし私に孫がいても、決して孫の自慢話はしない。
格好付けて、ハゲを隠したり白髪を染めたりもしない。 あの時の”闘争勝利”の勢いでだ。 「オイラの馬鹿な手紙、憶えている?」
「最後の”闘争勝利”はアイ・ラヴ・ユウって意味だったんだけど、ちょっと文学的すぎたかな」 「ワッハッハッハッ・・・・・(涙」 「御免な、馬鹿な手紙出して」 Yさん、オイラこう云うつもりだよ。
やっぱ、 馬鹿だわ。 my favorite songs Your
Old Standby Mary
Wells ■2008.11.04 morning
管理人 昨日は朝一から出かけたので、折角の牧師様のお誘いメールを見抜かしてしまった。 年に一度の教会のバザー、 牧師様は「出し物の焼きそばを焼いているから」と書かれていた(微笑。
残念至極。 心清き方々が集まる集い、このケガれた心が少しでも薄まったかも知れないのに。 実はもう一つ、牧師様とお話したいことがあった。
知人の辛い出来事。 牧師様も心を痛めており、その事でメールもいただいている。 私はどうしたらよいのか、何が出来るのか、牧師様とお話が出来たらと思っている。 首都圏ではつい最近木枯らし一号が吹いたそうだ。
少し早いかなと思うが、私も今年初めて少し厚手のウールのジャケットを羽織った。 この初老に冷えは応える。 以前は明るい色のものを好んだのだが、今は年相応の黒か紺色。
でも、このビジネス用の格好も今年が最後、 来シーズンは無いだろう。
■2008.11.03 night 管理人
今日は所用があって一日出かけていました。 曇天、ハゲ頭には肌寒い一日でした。 昨夜、仲良しのネット友達から電話が。 携帯電話は通話料が高いので気になりながらも30分以上。
Yさん長話になって、御免なさいね。 「本当に大丈夫なんですか?」 「大丈夫って?」 「あの子の話ですよ、奥さん見てないんですか?」
「俺、ほんとマジ、ヤバイと思うんすっ」 「大丈夫だよ、もうそんな歳じゃないし、ただ会ってみたいだけ」 「ただ会ってみたいだけ??、俺にはそんなに風には読み取れないのだけれど」
「あのね、もういい歳だから、若い人のようなそんなじゃないから」 「・・・・・・・・・・・」 「バリケードから馬鹿な手紙出してさ」
「正直、闘争さえなかったらと思う時があるのは確かさ」 「何にもなしで、尻切れトンボで終わってしまってさ」 スッキリ振られたり、
別れる切れるの泥試合でもいいからやりたかった。 あんだけ思ってた人にさ、闘争勝利って書いてさ、バカみたい。 ほんと、何にもなしだった。
ゴメンナYさん、心配掛けて。 埋め込みプレヤー、IEでのオートスタートに変更しました。
■2008.11.03 morning 管理人 「これから先、ずっと長いのだから」
こう云って友に教育的指導を施したのは訳がある。 指導とは、連れ合いとの老後を今後どう作り上げていくかについてだ。 最近、仕事の関わりでとあるセミナーに出ていた。
「皆さん、各自で個人データを入れて計算してみてください」 講師がこういって計算方法を示した。 私の場合 12時間(一日の勤務時間+昼休+通勤時間+平均残業)×20日(月平均実働日数)×12ケ月×36年(今まで働いてきた年数)
これだと退職までの仕事時間の総計は10万3680時間 14時間(一日の睡眠時間8時間+アルファを引いた生活時間)×365日×22.4年(60歳男性平均余命)
これだと私の余命の生活時間の総計は11万4464時間 私は欲張りでないから100歳まで生きたいとは云わない。 そんなに生きて、そんな年になった”あの子”に会っても楽しくないから(笑。
だから極めて謙虚に統計データの平均余命で計算してみた。 数字は嘘を言わないから上の通り。 仕事一筋人間が仕事を離れたとき、何かを見つけないと上の数字が重くのしかかってくる。
もっとも、上の計算式はそういう意図で教えられたのではない。 「これだけ時間があるから、リタイア後の楽しい人生にはお金が要るのですよ」 要は老後の資金確保がテーマのセミナーだったのだが。 私はファイナンシャルという言葉、
金融という言葉は”悪の象徴”にしか聞こえない偏屈者なもので。 この教唆は、老後には”革命”を目指し行うに足る十分な時間があると教えていただいたと受け取っている。
それと・・・・・、”あの子”を探す時間も若干入っているのだが(涙。 もっとも革命と探索に必要な資金のあてはないのだが。 更に、憎まれ口に加え負け惜しみを言えば、
決して”それ”に若者はあてにしてないのだ。 (ここも小声で)
■2008.11.02 night 管理人
今年の8月6日、品川パシフィックホテルで行った同窓会。 仕事で上京した折に、”みよちゃん”が在京の同窓生を10数名集めてくれた。 ほぼ四十年ぶり、千葉に単身赴任している仲良しだった友にも会えた。
彼とは1968年、私がそれまでの生き方から別に生き方に足を踏み入れた時から疎遠になっていた。 通りすがりさんと違って、12名の同窓会の中で”全共闘一派”は私と北大に進んだ2名のみ。
その話題には触れないで、楽しかった高校時代の話に終始するつもりだった。 北大に進んだ友のかつての彼女も来ている、あの時代の甘酸っぱくほろ苦いノスタルジーに浸りたいと願っていた。
会はほぼその進行ですすんだ。 疎遠になっていた友が私に話しかけてきた。 「偶々、お前さん達のテレビ見たんだ」 「あんなに真剣にやっていたなんて思わなかった」
そんな事を云われ、なんかどう返事してよいか。 でも嬉しかった。 先週、職場にその友から電話が入り、姪っ子のお祝い事で帰ってくるという。
六時にデパートの前で待ち合わせ。 行くと奥さんも一緒、居酒屋で夜更けまで三人で飲んだ。 奥さんの嘆き、 「この人、家では何もしないで寝転んでテレビばかりなんです」
「リタイアしたら、何か趣味を見つけてもらわないと」 友は真面目で実直な性分、きっと仕事一筋だったんだろう。 彼も私ももう直ぐ定年退職、
「リタイヤ後の人生は長いから」 「奥さんと穏やかに仲良くやっていくためにも、もう少し努力しなければダメだよ」 奥さんを援護して、キツイ教育的指導もさせていただいた。
楽しくて瞬く間に時間が過ぎた。 my favorite
songs To Know Him Is To Love Him Amy Winehouse
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