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■2009.07.31  morning  管理人

「1968」5000枚の記念碑的大著、だそうだ。
縁あって、第9章だけ読む機会に恵まれた。
500Pから1048Pまで549P分が日大の章として割かれている。
ちょっとした新書本のボリューム。
まだ十分咀嚼できていないので、早々の評論は控えるが。


二次資料、三次資料の引用が著述のベース。
資料は当時の著作物、報道記事、週刊誌など。
前半、1968年4〜5月期の闘争初期のページには私の知らない逸話が多く載せられている。
私は単なる一兵卒だったから、当時の他学部や全共闘書記局などの内容が正しいものなのかどうか定かでないが、資料引用だからその内容自体は信じても良いだろう。
ただし、後半の闘争中盤からバリケード撤去、それ以後は、読んでいて”当事者”として違和感が残る。

なぜ違和感が残るかといえば、唯一の一次資料の記述がただ一人の人物からだけだから。
「橋本克彦の回想によると・・・・・」
9章だけに限れば、この回想が一次資料(当事者への取材)のほぼ全部を占めている。
まだまだ、語れる人は多く存命なのに。
これは手抜きなのだろうか?、と正直思った訳。

かの大戦や原爆の悲劇、'60安保などまだまだ関係者が存命な場合、歴史的著作は当事者への取材が重要なファクターと成るはず。
当時取材された著作物、映像、伝聞など二次資料、三次資料と合わせて全体が構成され歴史書となるのではと思う。
私は文系でないから違っていたら御免なさいだが。

唯一の取材対象の橋本さんは芸闘委だった方。
「バリケードを吹き抜けた風」という著作でそれなりに有名な方だ。
橋本さんは自身でも、1968年秋に闘争を抜けたと語っている。
かの11月8日の芸術学部への右翼・体育会の襲撃劇、
私は当事者だったが、彼の場合は体験者でなく取材者の立場だと思う。

日大全共闘は出るも残るも本人の自由意志だった。
だから、出たこと自体をとやかく言うつもりは全く無い。
しかし本当に辛い思いをした闘争後半の”後退戦”から離脱した方が、唯一の取材先だというのは首をかしげる。
「外から見ていたから、反って客観的に見えるのさ」と云われればそれまでだが。

云っておくが作者の小熊英二さんとやら、
日大闘争を全身全霊で戦い抜き、ボロボロになっても生き永らえている仲間は幾らでも居るのだ。
手抜きは良くないよ。



■2009.07.27  morning  管理人

世の中、面白くなってきた
(高温多湿のため今朝はほとんど引用、手抜き)

街頭演説のテレビニュースから。
「革命的な政権交代を」という表現、”革命”というボキャを元保守本流の政治家から聞くとは思わなかった(笑。

某国営テレビの日曜討論から。
唯我独尊、己が絶対としていた某党の発言が、都議選以降少し変わった。
相変わらず”己が絶対”は変わらないが、他党を微妙にサポートする発言が。
己が党勢の伸長が唯一で他はどうでもから、
党勢の伸長と政権交代を同等に扱う方針に変えた事が伺える。

朝日新聞オピニオン面の寄稿から
投票用紙で武装し、蜂起せよ」 賭博師兼作家・森巣博氏
だいたいの人は、希望を失ったから、絶望したから自殺を試みるのであろう。そこに一縷でも希望が残されていれば、自死など選ばずに、その希望に縋ろうとする。ロシアの諺にある。「最後に死ぬのが、希望だ」と。
年間計算でおよそ高知市の総人口にも匹敵するほどの自殺者および自殺未遂者たちのほとんどは、これまで「世間にご迷惑をお掛けしない」自死の方法を選んできた。
しかし、それがいつまで続くのか?
乾燥させた農業用肥料で、六本木ヒルズの半分が吹き飛ばされる日はこない、と誰が確約できるか。
あるいは、ボーイング747ジャンボ機が、東京ミッドタウンに突入する日はこない、と。
テロリストに希望はない。希望がないからテロに走るのである。
民主主義の強みのひとつは、殺傷能力のある武器を持たずとも、投票用紙という武器で制度の変革を可能にする部分にある、とわたしは考える。そしてもうひとつの重大な特徴は、その政策でもっとも影響を受ける人たちが、もっとも強い発言権を持ちうる点だ。
投票用紙で武装して、蜂起する日がどうやら近づいてきたようだ。

 若者たちは暴走族よろしく、
  天上天下造反有理
  厭離穢土南無阿弥陀仏

 働き盛りは、
  連帯を求めて孤立を恐れず
  別個に起って共に撃つ

 そしてお年寄りはそれに加えて、
  失うものは入れ歯しかないっと。


■2009.07.24  morning  管理人

昨夕は役所から呼び出されて会合へ。
私の事業所に特段の問題があるわけでなく、業界丸ごと呼び出されていた。
何でも、この秋から私の業界に緊急的に発動される経済対策についての役所の説明会。
事業で一定の基準を満たすと、向う2〜3年の間、助成金が適用されると云う。
夕刻六時に会場に参じて、説明が終わったのは九時近く。
政権交代があったらどうなるのかな、と思いながら拝聴した。

ローカルな当地、午後九時を過ぎると電車・バスは数えるほどしか走っていない。
頼りになる唯一の公共輸送機関はかつての国有鉄道のJRだけ。
トボトボと駅に向かって歩いていると、繁華街でサロンの長老にバッタリと出くわした。
全くお酒を飲まない長老が、珍しく手に缶ビールを持っている。
「アレ・・・・、それビールじゃないですか?」

「ノン・アルコールビールですよ、ものは験しに買ってみたのですよ」
少し立ち話をしていると、私のHPについて、
「ああ、管理人日記読んでいますよ」
「あの〜、後の音楽が何とも良いですね、フッフッフッ・・・・・・」
マイ・フェイヴァレイト・ソングへの高い評価は頂いたが、私の文体への評論は無かった(泣。

 某党の辻説法から、バッタリと「民主党」の名前が聞かれなくなった

別れて駅に向かっていると駅前の大通りで小学生の集団に出会う。
集団というより、周辺一体が小学生だらけ。
通りの路肩には車がズラリ駐車している。
大通りの裏に確か進学塾が有ったはず、進学校目指してのこの時間まで夏の猛特訓なのだろう。
私の場合、普段ならもう就寝の準備に入っている時間帯。

夏の盛りを間近に迎えるこの時期、街は活気に満ち溢れている。
人に例えれば、青春の扉を開く丁度その時期。
暑く、切ないが、
個人的経験も含めて、私はこの時期がたまならく好きだ。


■2009.07.19  morning  管理人

先般、上京したおり同級生の女の子(還暦の小母さんだが)からこっぴどく指導された。
「ダメだよ、年金の手続きまだしていないの」
「とにかく、早くしなくちゃ〜」
有難く仰せつかって帰ってきたのだが。

取り合えず、その時は直ぐに行こうと思っていた。
一年以上前に届いた社会保険庁からの”公文書”に少し目を通りしてみた。
「誕生日になったら手続きを行ってください」
確かに、公文書の鏡にはそういう主旨の事が書いてある。

うでもって、書類の一枚目に目を通したが、そこで既にフリーズ。
既に還暦の誕生日を一年程過ぎているが、
申請は、気持の整理ができるまで・・・・・・・、
違った、公文書に挑む決意が出来るまで、当分”棚上げ”、”先送り”とすることにした。

自営業を営む友人が、誕生日と同時に受給の申請をしたそうだ。
給付を待つこと数か月、やっと届いた通知は支給額”ゼロ”。
それなりの対策を施し再挑戦。
月額一万円程の給付にやっとたどり着いたという。
それまでの手続きに要した労力と時間は膨大なものだったと。
友人の話だからデフォルメされてはいるかもしれないが、まんざら嘘とも思えない。

営々と掛けてきた年金。
本人の申請が有って初めて事が始まるそうだ。
申請が無ければ、捨て置かれるそうだ。
私は思う。
私のような”公文書難民”のために、
休日を利用した「年金受給手続きの説明会」が役所の費用負担で行われてもいいのではないか。
「ふっっっ・・・・う」




■2009.07.18  morning  管理人

山村さんが開設しているブログ、
「しばらく記事を書きこむことを中止します」とあります。
「これ以上問題提起してもしかたないし、」
「同じことを何度も提起してもこれも意味がない、」
「言いたいことは言いつくした」と、と書かれています。

アッテンボローさんと並んで、今なお褪せない中*魂でバサリと切り込む記事は、ある意味読んでいて心地よいものでした。
これはお世辞ではなく本意です。
山村さんのネット上でのストレートな物言いは、多くの誤解を招く危険を孕んではいたのは確かでしたが、
斜に構え、ストレートな議論を避ける世の風潮の中にあっては貴重なものと思っていました。
それになによりも氏は日大闘争を満身で経験しています。
これは数少ない、貴重な特性です。

これ以上は・・・・、と云わないで、
百回でも、
千回でも、
誰にも聞かれていないとめげても、私は聞いています。
同じ事を何回でも何回でも言い続けてください。

「黙して語らず、思いは棺桶の中まで」
それも”おとしまえ”の一つの有り様と思いますが。
棺桶まで語り続けるの、
それもまた、一つの”おとしまえ”と思っています。
山村さん。





■2009.07.17  morning  管理人

某党が方針を変えたと朝刊に載っていた。
「民主党が・・・・」
「民主党は・・・・」
鉄の一枚岩の党派だから、今日からはこのような辻説法もピタリと止むだろう。
でも、あの感情を抑えた説法は好きになれない。
人それぞれ、もっと自分を出せばいいと私は思う。

  

昨秋と比べると看板が替わったが主役は一緒。
老人、若者、そして子供達への執りたい政策を語ってくれた。
彼女が訴える現状認識、若者や子供の貧困の部分は何処かで聞いたことがある。
湯浅誠さんの著書、「反貧困ーすべり台社会からの脱出」に書かれていることと全く同じだった。
浅学な私の場合はパクリ理論が常套なのだが、
彼女の場合は、4年間に渡りドブ板を巡ったうえで行き着いた認識だろう。

話の途中で声が震えている。
正直なところ、笑顔で隠しているが彼女が疲労している事は目に見えて分かった。
猛暑の中、終日ドブ板巡り、そして夜の集会、それを連日繰り返している。
並の人間ならドクターストップが掛かる毎日だろうと思う。
オジサンは震える声を聞いていて、何時ものパターン通り目が潤んできた。



■2009.07.16  morning  管理人

業界の懇親会に出席。
久し振りにJRではなく市内電車に乗って帰宅。
ゴトンゴトン、ほろ酔いで揺られていると運転席の前に宵闇迫る青空が見える。
いつもより一時間ほど遅い帰宅。


今般、国政を目指すジャンヌダルグ嬢とはこの数年、いたるところで席を同じくした。
出馬当初、彼女は長い髪が似合うお嬢さんで、正直これは大丈夫かなとも思ったものだ。
つい最近席を同じくした時には、髪は短くなり、表情は精悍そのものだった。
この数年が彼女を大きく変えたのだろう。

「私は目印にゲバラの旗持っていくからね」
「次は米海軍イージス艦の寄航反対集会でまた会いましょう」
何時だった、宴席で隣り合わせたとき彼女と約束した。
寄航時間は未定で早朝、現地まではゆうに3時間は掛かる。
結局、仕事の都合が付かず、約束は守れなかった。

今日は地元で集会がある。
ほぼ告示が確定したので決起集会の様相になるだろう。
前回の彼女との約束は果たせなかったが、
今回は約束を果たすからね、
頑・張・ろ・う!




■2009.07.15  morning  管理人

少し前から、
朝の通勤路、
夕刻の通勤路、
連日、善良(笑)な勤め人を狙ってなのか、某党の辻説法が頻繁に繰り返されるようになっている。

「民主党が・・・・・・・」
「民主党は・・・・・・・」
通り過ぎる間に、耳に入ってくる”主語”は”民主党”ばかり。
でも、辻説法の主は民主党の国政選挙の候補者ではない。

某党も馬鹿ではないので、
割を食って自分ちの分が今後どこへ流動するのか、嫌な予感があったのだろう。
ブロックしようと思えば、”盗”んでいきそうな相手に攻撃を集中するのは当然の方策なのだが。
その気持ちは十二分に分かるのだが。

日大全共闘の相手は一貫して右翼体育会、それに連動する警察権力だった。
運動の勃発時点から袂を別った民青は別として、
左翼党派や他の全共闘のような”内部対立”は殆どなかったし、そんな事をしている余裕は無かった。
敵対する対象から照準を外す事が出来なかった訳で、結果的に対権力で学園民主化闘争を一貫して闘った。
今考えると、日大全共闘は極々稀な存在だった訳だ。

戦術で、照準がコロコロ変わるのは、それが政治といえばそれまでだが、
聞いているほうは哀れに思うし、
言わされているほうも惨めだと、私は思うのだが。




■2009.07.14  morning  管理人

「'70年代のそう遠くない時期に、民主連合政権の樹立を」
馴染みのブログのコメントに、某党への遠回しのこんな嫌味が書いてあった。
”願望”が語られたその当時、私も確かに某党の機関紙等でこのフレーズを見たことがある。
歴史の証人は私を含め、まだまだ健在なのだ(笑。
当時の某党の責任者は、トロツキストへの”目くらまし”でそうアピールした訳でないと思うのだが。

「パレスチナに革命の拠点を構築し、世界同時革命を!」
対する赤軍派はこのような事を叫んで、本当にパレスチナや北朝鮮に飛んで行ってしまった。
どちらも等しく夢物語だった訳だ。
しかし赤軍派は、離散した個々が今もってそのつけを営々と払い続けているが、
某党の歴々は、今もって云った事さえ知らん振りし続けているとしか受け取れない。
これへの私の判断基準はイデオロギーではない、
どちらが男らしいか、或いは女らしいかだ。

もう直ぐ政権交代があるといわれているが、
云っとくが、'70年の当時言われた民主連合政権の主体となる某党は蚊帳の外。
これでは例え100年経ったとしても、某党を主体とする民主連合政権の目途は全く無い訳で。
だから「確かな野党」などという自嘲的な叫びになるのかとも思う訳。

また、議会制民主主義を是とする某党が、
革命戦争に代替した”選挙闘争”で、何度負けても負けても責任者の”けじめ”がないのは解せない。
私らのように、性根に全共闘が沁みついた人種には、
例え、変革の遂行のためでも、縦のヒエラルキーには生理的な拒絶反応がある。
もしかしたら、某党は最高幹部が責任逃れし、常に末端に責任をおっ被せる硬直構造のヒエラルキーなのかも?

何度も云うが、私の判断基準はイデオロギーではない、
どちらが男らしいか、或いは女らしいかだ。
私を含むいわゆる”大衆”は、そういうところを敏感に見て取っているのだ。



■2009.07.13  morning  管理人

土日・祝日のお休み、この日記の稼動はそれに連動している。
実に分かりやすいのだ。
近頃はそういう事で、土日・休日はメールのチェック以外はパソコン自体をなるべく開かないようにしている。
ディスプレイの光は、脳と眼をやられるし、
なによりも、いい歳こいてネット中毒はいただけないので。

しかし、昨夜は午後八時過ぎからネットに釘付けになっていた。
国営放送の選挙ページ、開票速報を閲覧。
過半数へのカウントダウンを一人楽しんでいた。
私の目標は社共・・・、違った民共で過半数を超えること。
2議席及ばなかったが、ネットを加えると過半数になったところで観戦終了、日付が変わっていた。

全共闘仲間が小平市で熱烈な民主党のサポーターをしている。
「お前もサポーターになれよ!」
昨年、上京し新橋で一緒に昼飯を食ったとき、強制的にサポーター会費を徴収された。
なんで私が首都圏のサポーターにと思ったが、かつての仲間の要請は断れないので数千円払った。
それ以来、首都圏の民主党の選挙情報紙が頻繁に送られてくる。
そういう事で、お金を払っている情報誌だから結構まめに読んでいた。

「頑張れよ!」
演説で言葉詰まった候補者に聴衆が励ましをおくっている。
告示3日前の6月30日、葛飾区に落下傘出馬を決めたという佐藤さん。
法テラスで弱者のサポートをしていた佐藤さん。
さすがに、三日前に立候補という候補者の情報は事前に届かなかったが、
こんな候補者が当選するとは、世の中捨てたものじゃない。
お決まりどおり、朝のニュースを見ていて涙が出てきた。





■2009.07.09  morning  管理人

高野悦子さんが一番、秋田議長が二番は納得しているが、
今回7〜12の順番は納得していない、
日和見パフォーマーの菅直人や、反動町村の後というのは絶対納得がいかぬ。
お二人、あの時代に息をしていたのは間違いないが、
反逆と言うタイトルからしてお二人はそぐわぬ。
そういう訳で、12番を一番に。

ところで先輩、JUNさん、
「お二人とも年貢の納め時ですね(笑)」
手配写真800万枚、全国津々浦々にばら撒かれたので、
もう逃げ隠れできませんぞ。

私も微力ながら、800万枚にプラスαして、
80年代さんと協力して当サイトからばら撒くことで”加担”しますぞ。
お覚悟めされ(笑。

人脈記7〜12
パスワードは6月29日にアップしたものと同じ。
またまたスキャナーの関係で、縦横が逆になった、
最新のアクロなら紙面上で右クリック → 右回転






■2009.07.08  morning  管理人

最近、リンクページの筆頭に「遠方より」を追加しているのをお気づきだろうか。
リンク先の筆者とは、随分前にメール交換をした事がある。
その当時、その筆者のページはブログ形式でなく一般的なホームページ形式だった。
幼少期から、高校時代の生徒会活動、駿河台での大学時代の思い出が回顧録的に綴られていた。
懐かしい青春映画を見ているようで、とにかく面白く一気に読み進んだ。
筆者は三井嘉雄さんといい、九州で弁護士事務所を開かれている。

特に高校時代の回顧録が面白かったという事もあるが、
私も丁度ホームページを開設した直後だった事、
同年代で同時代に中大法学部に在席され、同じ駿河台の一角、隣同士の校舎で学生時代を送っていた事、
そんな事が重なり親近感を持つことになった。

それからしばらくして、三井さんはホームページを閉じられた。
ホームページ上に多くのプライバシーを晒けて居た事などがあったのだろうと私は推測しているが。
つい最近、覚えていたお名前で検索を掛けたら、運よくリンク先のブログに行き着いた。
それから、RSSという機能を使い、記事が更新されたら必ず読みに行っている。
そして、何時も 「そうだ!」「異議なし!」 と納得している。

三井さんは、
私が(能力的に)表現できない事を、実に分かり易く語り続けている。
それは私の信念と寸分違えず同じである。
そして、あの時代持っていた感性を今も違えず持ち続けていらっしゃる。
私は、あの時代から40年経ってもブレない方が居る事がとてもとても嬉しい。





■2009.07.07  morning  管理人

'68年、暮れも押し詰まった頃。
確か隣の教室が機械科闘争委員会だったから、その隣りの土木学科闘争委員会の入り口に小さな立看が置かれた。
立看に書かれていたのは四文字、「越冬貫徹」
南極の遠征隊ではないが、年末・年始も欠かさず寝泊りしバリ守備を貫徹するという土木学科の強い決意表明だった。

40数年前は、今とは違いまだまだ年末・年始の風情が色濃く残っていた。
多くの学友がバリケードから実家に戻る予定をしていた。
一人減り二人減り、年末が近づくにつれてバリケード守備要員を事欠くようになっていった。
危機感から、土木学科が真っ先に越冬宣言を出した訳だ。
他学科が順次その宣言に続いたのは言うまでも無い。


年越し派遣村と反貧困に関わる本を幾つか読んでいる。
その中に「越冬」という単語を見つけ、今更に反応した。
本に書かれている越冬と、かつての私等の越冬とはかなり意味が違うのだが、
年末年始を何とかしのぐという意味では同じだ。
しかし今の世、越冬という単語が登場するほど深刻なのだ。

先月、ある会合で湯浅誠さんの講演を聞く機会を得た。
予備知識も何も全くなかったが、彼の話に引き込まれた。
その後、彼の本を幾つか読んだが、特に”反貧困「すべり台社会」からの脱出”(岩波新書)はお勧めだ。
内容の評論はさて置き、とにかく彼の”文体”は泣けるのだ。
人が人として生きる尊厳にこれほどまでにこだわり、それを実践している。

「泣くような作品ではないのでは?」・・・、との突っ込みを頂くかもしれないが、
文学作品に馴染みのない私には、彼の”こだわり”だけで十分に泣けるのだ。
そういう意味で、私等と同じ世代の皆にはお勧め作品と思う。
貴方もきっと泣くと信じている、
是非、ご一読を。

ところで、
私が'68-'69”越冬”バリケード守備隊に残ったかどうかだが。
地方出身の私は、ちゃかり実家に帰省した。
バリに再度登場するのは、本郷でのドンパチの日だから確か1月8日。
そういう訳で、ラッパさんのような芸闘委の年末餅つきは知らないし、年末年始に各学部バリケードで開かれた盛大なパーティーも知らない。
今思い出すと、残念至極。





■2009.07.05  night  管理人

1969年は6月頃だったから、あれから40年って訳だ。
昨日BBSに投稿いただいた大木さんとは、2005年暮れの管制塔被告支援カンパのサンクス・パーティーでご一緒した。
その時点で、彼女がかつての新宿フォークゲリラの中心メンバーだった事は全く知らなかった。
その後、リンクしている「明日も晴れ」で大木さんの履歴を知る事になる。

1968年秋の頃、上野高校の女学生のグループがバリケードを探検に来た事がある。
その頃一号館バリケードは、お茶の水という地の利もあって修学旅行の見学コースにもなっていた。
外から「フムフム!」と眺めていくグループは結構いたが、バリケードの中まで侵入してきたのは珍しかった。
ラッキーな事にその日丁度居合わせた我が学科が彼女達との対応を独占することとなった。
その後、そのグループの中の何人かが何回かバリケードに訪れた。
結局、学科の仲間の一人と女学生のカップルが密かに出来上がっていた。
断っておくが、私・で・は・な・い。

1969年の6月の頃、各学部闘争委員会は毎週競って土曜日の新宿西口”広場”に出かけた。
「日大闘争支援のカンパをお願いしま〜す」
フォークゲリラの集会の輪の周辺で、寄生虫的にカンパ活動を行うのが目的。
西口広場は若者であふれかえり、パクられる恐れも殆ど無く、それにカンパは結構集まり、私等には有難いイベントだった訳だ。
でも結局、そして当然だが、
機動隊が規制・排除に掛かってきた7月の最終局面では、
最前線でドンパチの主役の一端はちゃっかり担わしていただいたけどね。

広場の柱を背にしてお兄さん達がギターをかき鳴らしている。
カンパをしていたら、その中でギターを持たずに歌っていた少女が私の方に笑顔で駆け寄ってきた。
髪がストレートで長く、小柄な少女。
前年の秋、大胆にもバリケードに入ってきた上野高校のあの女学生だった。
40年前の雨の土曜日だった。
このエピソードはHPにも綴っている。





■2009.07.03  morning  管理人

マイTVは14インチのアナログ、長男に高校生の頃に買って与えたもののお下がりです。
だから17年オーバーですが、ノープレブレム。
国産のパナソニック、きっと当たりが良かったのだと思います。
だけど、そんなTVだから音はモノラルでペラペラ。

昨晩7時半からのNHK、
そんなTVですが、あまりの美しい音に、泣きながら観ていました。
カミさんは、居間のウン十インチの地デジ、豪華ハイファイ・ステレオで同じ様に泣いていたそうです。
スピーカーの良し悪しは関係なかったようです。

最近、本当に涙もろくなっています。
通勤途中でも、ついつい涙していますし、
メンタルな病かとも思うほどです。






■2009.07.01  night  管理人

身内ネタ、
七夕だそうだ。
取材を受けた仲間の所に連絡があったそうだ。
もう一週間か・・・・・、
待ち遠しいなあ。

当地では夕刊がないので、翌日の八日朝。
でも、政局次第では掲載が無期限で延期になるかもしれないとも。
悪いけど、麻生さん、
破れかぶれ、玉砕解散は七夕より後にしてくださいな。
そう云う事です。

 
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 The Brothers Four Try To Remember
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