my favorite songs
 
■2009.08.31  night  管理人

テーブルで固まって涙。
「貴方、女性にはめっぽう弱いのね」
新聞を前に落ち込んでいたら、帰ってきた妻に呆れられてしまった。

帰宅して夕刊の三面をみた。
支持者の肩に崩れて嗚咽する”あの子”の写真が。
ふがいない自分等に腹が立った。
クソッッオ・・・・・・、涙が。







■2009.08.31  morning  管理人

地元の事を思うと余り浮かれる気にもなりません。
私が”あの子”の事を語ると、今まで上手くいった験しがありません、
済みませんでした。

結果は全て私等のせいです。
貴女は十分過ぎるほど頑張り、よくやりました。
押し上げられなくて、御免なさい。







■2009.08.29  night  管理人

今まで何度となく選挙を手伝わせて頂いたが、こんな選挙は初めてだった。
平日は仕事が終えると近くの売店で牛乳とパンを買ってくる。
腹ごしらえが済むと電話に向かう。
毎日ほぼ二時間ぐらい、約50軒程にダイヤルする。
土日は四時間ほど100軒位、寄る年波ではこれが限界だ。
留守の場合は時間をおいて掛け直すので、ダイヤル回数は1.5倍ほどになる。
やってみれば分かると思うが、これが結構疲れる。

電話先の名簿は旧社会党系の県議の後援会から回ってくる、何時も親しくしているS県議さんだ。
一様マニュアルが付いてくるが、私はマニュアル通りにはやらない。
電話に出る相手、本人の場合、連れ合いの場合、御老人の場合、それに子供の場合、それぞれに合わせてアドリブでやる。
時に話し込む時もある。
名簿には相手によってお願いする比例の党の指示が書かれているが、それも無視する。
私は比例は社○党一本でお願いした、これが私の”筋”だから。

何が初めてだったかだが・・・・、
選挙も一兵卒だが、電話作戦はプロだと自負している。
相手の受け答えの感触で、一票と読めるかどうかほぼ分かる。
後援会名簿の精度にもよるが、ひどい時はその感触は半分に満たない時もある。
5〜6割もあれば良いほうだ。
でも今回は違う。

「エッッ・・・・・嘘だろう、この名簿おかしいよ?」
「これって、どういうこと?」
最初のうち、一緒にやっている仲間と何度か顔を見合せた。
10軒電話して、これはダメだなと思うのが1軒か2軒有るか無いかなのだ。
今回の選挙、何かが変わっている。
こんな選挙は初めてだった。

そういう事で、先週から土日を挟んだ10日間程、
私の選挙戦は、やっと、やっと、やっと終わりました。
後は、
「”あの子”が成りますように!」、
レトロ親爺は祈るだけです。





■2009.08.21  morning  管理人

''70年代初め生まれ故郷に還ってきた、自分で言うのもなんだがもうボロボロだった、
多分ラッパの大将もそうだったと思う。
私は、元々”左翼活動家”ではない、全共闘を走りきった先に何も見えなくなっていた。
苦楽を共にした仲間と別れ東京を引き上げるに一年程逡巡した。
ラッパさんは北海道への放浪の旅に出たそうだ。
多分、私と同じだと思うが、様々な思いを胸に仕舞いこんで故郷の地を踏んだと思う。

それから30年余り、思いは胸に仕舞いこんだままだった。
胸のわだかまりを吐き出す事が出来るようになったのはこの10年ほど。
2003年、このホームページを、
同じ年のイラク戦争開戦の日に、反戦平和の市民運動サロンに参加。
そしてほぼ同時期に日大全共闘の同窓会組織「930の会」に出会うことになる。

昨日ラッパの大将より、先の”長征”の記録が送られてきた。
封筒の宛名は達筆、書道の指南レベルの毛書体なのだ。
「これは間違ってもゲバ棒を持つ御仁の筆力ではない!」こう確信した。
中の礼状を見ると奥様、やはりだ(笑。

 8.14 芸闘委とサロンの政治集会(笑

「**さんはいいですね、近くに心置きなく話し合える仲間がいて・・・・・」
礼状には「8.14政治集会」の映るCDロムも同封されており
最後に、「是非一度こちらにも来てください」と括られていた。
何度も同じことを言うが、
心置きなく話せるのは間違っていないが、
肝心のローザ姉御は猫を被っていた、決して普段はあのように優しくない(笑。
だから、鉄の女性という意味で私はローザ姉御と勝手に呼んでいる。


 my favorite songs The Aquatones Without You




■2009.08.19  night  管理人

週末にラッパの大将ご夫妻を見送った後、親戚の葬儀で奔走していました。
昨夜夕刻、やっと家に帰り着きました。
食事もせずにそのまま寝てしまい、起きたらほぼ12時間ほど経っていました。
久し振りの職場です。

「直接に云ってくれれば私の在庫分を2200円ほどでお分けしますよ」
著者本人がそう云ってくださいましたが、後の祭りでした(泣。
職場宛の住所でネットで注文していましたので、出勤するとデスクに鎮座。
勿論、危ない装丁表紙は隠されプライバシー保護の封筒入りでホットと一安心。
府川充男著「ザ・1968」
2940円也の納品書もしっかり同封されていました。


折角、ご縁が出来たので真面目に、正式ルートで(著者値引きなしで)購入。
それに、70年代後半さんに「いい本ですよ」というようなお勧めも頂きましたし。
それに、府川氏、当時の風体が私と似た「レゲエ親爺」風ですし、
それと・・・・・・・、
今現在、私と同じ様にハゲてると最高なんですけど。

まあ、そういう事で、
闘争勝利です。





■2009.08.15  morning  管理人

「でぇ・・・、バリケードの中はフリーセックスだったの?」
開口一番がこの質問。
昨夜はサロン終了後、近くの居酒屋に二次会で移動した。
二次会には、サロンに間に合わなかった牧師様の奥様も途中から合流。
牧師様の奥様、大学の先生をしていらっしゃるが、開口一番の質問がこれだった訳だ(汗。

昨日はラッパの大将夫妻がはるばる当地へ来ていた。
大将の長征目的は三つ、
1、奥さんへのサービスの旅行(だと思う)、
2、私が懇意にしている県内最大単産の書記長との交流、書記長には以前からラッパの大将と会いたいと頼まれていた。
3、私のサロン仲間との交流、特にラッパの大将はローザ姉御と会うのを楽しみにしていた。

サロンはラッパの大将を歓迎するかのように何時になく盛況、
自己紹介を続けている間にも何人か来たので、昨夜のサロンの話題はほとんど自己紹介で終わった。
珍しく余りの盛り上がり様に、居酒屋に席を移して二次会という流れになった。
そこへ、サロンに間に合わなかった牧師様の奥様も駆けつけてきた。

この奥様、私と初対面のときの開口一番が、
「何を泣き言いっているの**さん、今までは序章で本番これからですよ」
「ワハッハッハッ・・・・・・・」
強烈なパンチを食らい、初対面で負けてしまった。
そう云うことで、ラッパの大将には事前にこういう風なアドバイスをしていた、
「強烈なパンチがくるからな、負けるなよ!」
「私が負けて、貴方が負けると、日大全共闘はもう立つ瀬がないからな!」

しかし、フリーセックスという話題のパンチは想定外だった。
大学の先生で牧師の奥様からその手の質問が飛んでくるとは考え付かなかった。
牧師の奥様、さらに間髪入れず、
「日本のフェニミズム(リブ)の運動は日大全共闘のバリケードの中から生まれたのでは?」
ラッパの大将、私の顔を見ながら
「いや〜、その〜、・・・・・・・・」
「芸闘委では女性だけが食対(食事班)はおかしいと、バリケードの中にバリケード作られたのは確かだけど・・・・・・・」
「フェニミズムの運動と云われても・・・・・・」
たじたじで、結果は、
ラッパの大将をしても負けである。

でぇ・・・フリーセックス?
「んなもの、ある訳ねえだろう!」

でぇ・・・ローザ姉御とラッパの大将の初対面は?
「姉御、完璧に”爪”を隠し、猫をかぶっていたのだ(卑怯者だ)」





■2009.08.12  morning  管理人

1900年代も終わりの世紀末の頃、今は亡き宮澤君から電話が掛かってきた。
屋久島に移り住んでいるという。
色々と話をしたあと、こう質問した。
「オイ、それで・・・・・生活の目途は立っているのか?」
即座に返ってきた返答は、
「ヤカマシイ・・、俺はナ、今まで一度だって生活の目処なんか立った事ネエや!」

先日、社会保険庁から来た年金特別便、しっかりと給付の見込額が明記されていた。
この情報公開は不治の病の告知に等しいと思うのは私だけだろうか。
そういう事で、亡き宮澤君には申し訳ないが、
この年金だけで今後の生活の目途が立つかどうかシュミレーションしてみた。

仕事で習得したノウハウが、自分の将来を明らかにするというのも皮肉なものだ。
そういうことで、シュミレーションの正確さは素人の域を超えているとの自信がある。
結果、
私の年金だけの老後は、幸いにも家が有るので「家に居て食って寝るだけ」なら何とか成る。
まあ、住むところが有って、餓死しないというだけの生活レベルである。

若者から、
「俺達の脛かじっていて当然だ、贅沢いうんじゃねえ!」
「そもそも、この状況は無責任極まるテメエラ団塊が作ったのだろうが!」って聞こえてきそうだが、
私の世代でこれだから、若い諸君、君らの老後は、
「食えるが住むところがない」、或いは「住むところは有るが食えない」
と成らないとは言い切れないのだ。
さあ、どうすんべ・・・・。

「やかましい、老後より差し迫る今が問題だわい!」
若者諸君、仰るとおりでこざんす。





■2009.08.11  morning  管理人

小熊本「1968」の吸引効果で、
神保町三省堂の四階、歴史書コーナーのトップエンドに、「新版・叛逆のバリケード」が登場したと書きました。
しかし、影響はそれだけではないのです。

一昨年、昨年、そして今年の年始め、全共闘関連のテレビ番組が放映されたとき、
当サイトへのアクセスは急激に増加し、また急激に元に戻るという挙動を示しました。
結論として、
テレビ放映の当サイトへの影響はあくまで一過性でした。
(ご免ね、某国営放送のKディレクター)
しかしです・・・・・・、
先月頃から、当サイトへのアクセスが徐々に徐々に、かつ確実に増加しているのです。
この事についてテレビなど、思い当たる節がなかったのです。

アクセス解析

しかし、アクセス解析を眺めていてその原因を理解しました。
当サイトに着つくために入力した検索キィーワードの二位に「1968」が入っているのです。
勿論第一位は「全共闘」ですが。
悔しいですが、小熊本「1968」からの誘引です(キッパリ。

徐々に徐々に、そして確実に、アクセスが増加するという現象は、
安直なテレビなどの電波によるのマスメディアの情報と違い、
安直に入手できない旧来の活字、紙の印刷物の情報の影響だった訳で、
尚且つ、それは大枚叩いて買わねば成らぬ”有料”の情報であった訳で。
この取り合えず、安直と面倒、無料と有料、速いと遅い、二つの情報間の決定的な違いにあった訳であります。

他は与り知りませんが、個別当サイトの場合、
WEBというもっとも現代的でかつ無料というデジタルコンテンツへの影響が、
有料で、面倒で、情報の足が遅く、
そして主体的意図が無い限り入手しない(出来ない)、極めてアナログであった訳で。

これは、
皮肉というか、
意外というか、
日本的と申しましょうか、
そういう事でありんす。





■2009.08.10  morning  管理人

確かに、昨日の朝一番のコーヒーは美味だった。
だが、其処までだった。
前々夜は殆ど寝てない、それに慣れない都会の雑踏、帰路の行程。
食欲はなく、体はだるく、集中力はゼロ、
年寄りの旅の疲れはワンテンポずれて襲うというから、この数日この状態だろう。

8日土曜の昼、シネマを観た後新宿に向かった。
途中、品川京浜ホテル前、
6月に上京した時と同じ様にカンパをしていた。
6月に上京した時と同じ様にカンパをした。
労組の方のお礼の声が、信号途中まで進んだ私の背中に届く。
雑踏の中、何時もながら思い込みの激しいオヤジは泣きそうになった。

昨日の日曜日は、宣言した手前もあるので、私の比例区の詳細をJanJanのザ・選挙で調べた。
私は旧社の残党・素浪人だったから、当然社民党を調べた。
私の選挙地域には今のところ比例区予定者がいない。
何たる体たらく、
一番の左のつっかい棒になると思うのに。

そうなると、消去法で残るは”あそこ”しかない。
初めての経験になる。
永い人生、国政選挙で旧社系以外に投票した事がない私がだ。
暴力学生、破壊分子と決め付けられ、左翼の憶えのないのにトロッツキストと揶揄されたあそこにだ。
胸がざわつく。





■2009.08.09  morning  管理人


空港に降りたら雨だった。
家までマイカーで飛ばせば40分程のなのだが、バス、JRを乗り継ぎ1時間40分を要した。
傘を持ち合わせていなかったので、駅からはそぼろ降る雨にはげ頭をバーコードにして帰宅。
私は今春マイカーを手放しているが、ヘッドトップのカバーはもっともっと以前に手放しているのだ(泣。

昨日は、起きると意識朦朧。
帰りの便まで時間がタップリあるので、ホテルに備わっている映画館に入った。
映画館は今はシネマと云うそうだが、シニア割引で1600円が1000円になる、昼迄の仮眠には最適。
その後新宿へ向かい、「1968」で連絡を取り合っていた全共闘仲間と落ち合う。

「70年代後半さんがね、府川さん著の『ザ・1968』をバイブルのようにして読んでいたと云ってましたよ」
「小熊本1968は、”その手に乗るか”でひたすら本屋で立ち読みしているそうで、やっと9章の手前まで読み進んだと云ってましたよ」
「私(管理人)も70年代後半さんのその話を聞いて、先日e-本で府川さんの『ザ・1968』を注文したところです」
「府川さんとは明日会うのでしょう、是非その事伝えてくださいね」
全共闘仲間は明日(今日)、とある会合で府川さんと会う事になっているそうだ。


「俺は代々木は徹底して嫌いだし、支持は基本的に旧社だが・・・・」
「今回は、小選挙区は民主、比例は社民か共産党に入れようと思っている」
「人生61年、もしかしたら生まれて初めて共産党に投票することになるかもしれない」
仲間たちと久しぶりの四方山話。
心置きなく話せる仲間との雑談は楽しい。

「今回の選挙、放っておいても無責任な浮動票は民主党に流れる」
「でもな政権交代はいいが、この後に民主党がどっちへふらつくか分かったものじゃない」
「日共でも社民でも何でもいい、左のつっかい棒が絶対に必要だと思っている」
ついつい、普段云えない本音が出た。

変節とそしられようが、今回はそういうことだ。
かつての時代の鬼っ子の”浮動票”は、
だから・・・・・、今回はそういうことだ。
ゆっくり寝た後の、朝のコーヒーは美味だ。

 




■2009.08.08  morning  管理人

「そんな事いったら、引かれちゃうよ」
「だからさ、俺はそれは話さないことにしてる」
昨夜痛飲した学科の友は民主党の熱心なサポーターしている。
またまたしっかり入会書に記名させられ、酒の席で会費を徴収された。
これで、友の首都圏の民主党筋の会には二つ義理で付き合ったことになる。

そんなというのは、友が日大全共闘だったという履歴のことである。
友は苦楽を共にし、最後まで共に戦った同志である。
その事を、今の民主党のサポーター組織では一切話さないのだそうだ。
思いは棺おけまで、の一人だ。
それはそれでいい。

しかし、引っかかって友に最後まで食い下がった事が一つある。
「そんな事・・・・・、引かれちゃう・・・」
私らがしたことは決して「そんな事」ととは思わないし、
仮にも左から右までいる民主党でも、
友のそんな履歴で引くような相手、組織であれば辞めてしまえばいい。

仲間それぞれに日大闘争の背負い方は違う。
私のように数十年たって喋り出す者もいれば、
社会運動に熱心に関わりながらも、決して喋らない者もいる。
でも、言いたい。
喋って引くような相手なら、こちらから御免被ってやればいいのだ。

結局、眠れなかった品川の夜が明けてきた、
今日も、闘争勝利なのだ。




■2009.08.07  night  管理人

出張の用件まで時間があったので、神保町の三省堂まで寄ってみた。
軟弱銀ヘルさんが言っていた、書棚のトップエンドをチェック。
見当たらない。
4階の歴史書のコーナーに上がってみた。

レジの真ん前、目立つところに確かに叛バリが展示されていた。
1968の内容については、かなりムカついた事を色々と書いたが。
思わぬ効果があったのも確かだ。
書棚に埋もれていた叛バリが、1968に引っ張られてエンドトップまで出てきたのだから(笑。


「お前さんはな・・・・・・・」
何か言うと、私があたかもそうだったかのように皆が決め付ける。
私のことを猪突猛進の単ゲバだったかのように皆が決め付ける。
夜は学科闘争委員会の仲間と新宿で痛飲した。
終わって、声は枯れてほとんど目が回りながらキィーボードを叩いている。

「エッ・・・・、お前さんもそうだったの」
「頼むよ、あの時の事を証言してよ」
「今度、」ゆっくり記憶を辿ろうよ」
その中に、
1968年11月8日、始発便で一緒に江古田に行った仲間がいたのだ。

イカン!、本当に目が回ってきた。





■2009.08.06  morningU 管理人

「何の事?」
「それって、どんな本なの?」
仲間が直接本人に尋ねたら、そのような返答が帰ってきたそうだ。
件の本の出版についても全く知らないそうだ。
その事の報告を昨晩電話で仲間から頂いた。

小熊英二著「1968」、第9章の日大闘争の後半部分で頻繁に出てくる記述がある。
「橋本克彦の回想によると・・・・・・・」
あたかも筆者が、或いは出版に関わった関係者が、橋本さん本人から聞いたような書き出しだ。
当然、私は橋本さんに取材して記述されたものと信じて疑わなかった。
そういう事で、そういう前提で7月31日の日記は綴った。

「俺わな、橋本さんに取材しているかどうかも疑わしいと思うのだが・・・」
仲間が電話でそう云ってきたのは、私が日記をアップした直後だった。
「一度、本人に会って確かめてみるわ」
昨夜かかってきた電話はその報告だった訳だ。

それじゃ文法的に云って、「**の回想によると・・・・」という言い回しの根拠は何なのだと首をかしげた。
取材でもなく、引用でもない属人名の発言は、
書かれている内容は、
橋本さんの頭をよぎった回想でなく、筆者の頭の創造物なのか?
理系の私にはどうなっているのか理解が付かない。

私は読み終わって違和感を感じたと日記にも綴ったが、
違和感でなく、はっきりと事実と違うと気が付いた内容が一点ある。
橋本克彦さんの引用とルビが振られた記述だが、641ページ8行目から11行目。
11月8日の午前1時半には、芸術学部のバリケードに、「関東軍」と俗称された日大・拓大・東海大などの体育会学生200人が、右翼団体員に率いられ、日本刀やナイフ、チェーンなどを備えて攻撃してきた。芸術学部のバリケード内にいたのは40人ほどだったが、必死の防戦で攻撃を食いとめ、翌朝午前六時に全共闘の応援部隊400人がかけつけて、「関東軍」を撃退した。

この事に付いて、私がHP本文に貼り付けている全国紙記事には
・体育会学生200名
・芸闘委の学生80名
・応援の全共闘学生350名
・捕虜となった体育会50名

新聞社も現地でカウントしたわけでないからその正誤についてとやかく言うつもりはないが、
私ら当事者の認識とは大きくズレている。
いわんや40数年経った今は、その正誤を二次三次資料で精査する術はない。
一番の方法は、体育会でも全共闘でもいいその当事者に聞き取りすることと思う。

当該記述は橋本克彦さんの「バリケードを吹き抜けた風」よりの引用としているが、
橋本さん自身も、その当時は闘争から抜けており、現場に居合わせた訳ではない。
芸闘委の仲間から後日聞き取り、「作品」としてまとめている。
その事を一番正確に語たれるのは、そこに居合わせた全共闘200名の当事者だけと思っている。
私もその一人だ。

検めて云うが、全共闘書記局が置かれていた理工学部一号館から、始発の国電に乗り込んだ時点では50人に足らなかった。
新宿で他学部と合流したが、それでも手勢が一挙に8倍になった記憶は無い。
江古田の駅を降りたとき、横五人で隊列を組んだ。
仮に400人であれば80列の隊列となったはず、80列といえば後は見えない。
以下の写真は何れも40〜50列程度の挺団だ、見れば具体的なイメージが分かるはずだ、
私等は80列の竜の尾のような隊列を引っ張った憶えはない。
80列なんてとんでもない。


前から2〜3列目にいた私はビビリまわっていた、校門前に着いた時は後列に下がっていた。
それでも40列も50列も下がった憶えはない、そんな事をすれば隊列からはじき出される。
それに朝の4時、事前の準備も何もなく400人というゲバルト部隊をかき集めるのは不可能だ。
陽が差し勝敗の決した頃、後から続々と参じた部隊を加えれば新聞報道ほどかそれ以上になると思うが、
何度も云うが、
薄闇の中、芸術学部バリケードに最初に突っ込んだのは、始発電車で駆けつけた一番部隊の私等200人だ。

返して、右翼体育会。
江古田の駅前に、私等とほぼ同規模の集団が暗闇に見えた。
全員、白いヘルメットを着けていた。
中核派の応援と、皆沸き立ったが、
近づくと、蜘蛛の子を散らすように逃げていった。
その後、私らがバリケードの内外でぶつかった右翼体育会学生は200人ほど。
マスコミも橋本克彦さんも、激突以前に遁走した白ヘル集団約200人を無視しているだけだ。

自嘲的に書けば、これは派手なチャンバラ劇画だった。
多勢に無勢がなりふり構わず突っ込んでいく一点に劇画のキィーがある。
多勢であった方を無勢と語り、無勢であった方を多勢と語るのは悪意に満ちている。
叛逆というのは、無勢の劣者が、多勢の優者に挑む事によって初めてその意味をもつのである(言い切るのだ)
劇画は、趨勢を逆転さすことによって、その意味は全く別のもになってくる。
これは、悪意以外の何物でもない。


  my favorite songs Il Cuore E Uno Zingaro




■2009.08.06  morning  管理人

昨夜、帰宅すると社会保険庁から大きな封筒が届いていた。
年金の記録確認らしい。
記録の確認は昨年来ていて間違いなかったはずだが。
途中、半年ほど系列の組織へ移籍してるが、その期間もしっかり記録されていたし。
何だろうなとと思って開封してみると、年金記録と共に年金の「見込み額」がしっかりと記されている。

最近は難病を患うと、医師は本人に告知するそうだ。
私の姉もしっかり告知を受けた。
幸いにも早期であり、今はすっかり完治しているが。
最近は身近な親戚が告知を受け、余命まで言い渡されている。

「これが36年間働き続けてきた結果かぁ〜」
「これだけ(の年金額)では、趣味も、旅行もまずダメだな」
予想通り、想定の範囲で、その額を見てガックリ来た。
ため息が続き、その後が続かない。
難病の告知と一緒くたにするのは極めて不謹慎だが、年金見込み額の通知はそれと通じるところがある、
夢も希望もなくなるのだ。

「貴方、幾らと書いてあります?」
落ち込みしょげ込む背中に、容赦のない妻の追い討ちが掛かる。
「幾らといっても・・・・・・・」
「私も数日前に受け取りましたよ、貴方のは幾らなの?」
妻の見込み額を聞いて、更に落ち込む。
官民の差が歴然なのだ、勿論私が民なのだが。

結論、
妻に先立たれたら、私は年金だけではやってゆけなくなる。
「逝く時は私が先だからね」
そういうことだ。




■2009.08.05  morning  管理人

実は、
「1968」をメタボ本と酷評して止まない「府川充男」さんとは、少し前からコミュニュケーションがあります。
府川さんは、知ってる方は知っている”その筋”では有名な方。
ググッてみると氏の情報には事欠きませんでした(笑。
この度、”その筋”とはとんと縁のなかった私は、全共闘仲間を通じてのご縁となりました。

私は、自分(達)のやった事、自分(達)が居た時代について適切に解説するほどの能力を有していません。
知力、能力に応じて、人にはそれぞれ役割分担があり、
私が出来ることは、事実を事実として伝えることの範囲だと思っています。
そのことの解説や評価は、時代・歴史や政治・経済、さては社会問題まで幅広く研究し、その知識を有した方々にお任せするしかありません。
「1968」はそうした方の解説や評価の一つとして出てきたものだと理解しています。

府川さんの仰る一点は、
この「1968」が、幅広い研究と取材を経てまとめられた歴史書ではなく、二次三次情報を切り貼りし、安直にまとめられたメタボ本だという事です。
9章を読んだ限りでは、確かに当時の二次三次情報の多さには舌を巻きました。
私の知らない当時の事象が数多く有ったことは確かです。
二次三次情報を掘り起しまとめた点は評価できます。

しかし、闘争後半からの日大闘争の解説と評価に及ぶ点については”違和感”が残ります。
違和感について、上手に説明できませんし、
その評価とまとめが、事実に基づいているものであれば、反論は出来ないのですが、
私の違和感は、著者の”史観”のみで強引にまとめようとしているのではないかという点です。

今後多くの方が、他の章も含め読まれると思いますので、
別個に、そして共に闘い、あの時代を共有した多くの方々がこの著作について言い及んでくれると思っています。





■2009.08.04  morning  管理人

8月に入って、あれよあれよいう間にもう4日も経ってしまいました。
梅雨も明けたようで日差しも一段と強烈になってきました。
このガタのきた体でこれからの猛暑を越せるかどうか、
去年の今頃は
「来年の今頃は、せめて一週間でも贅沢に何処かの避暑地で過ごしたい」と願っていましたが、
現実は、デスクに向かって一日中パソコンをにらみつけています。
お寂しいかぎりです。

今週末は首都圏へ、
9月初っ端は薩摩の国へ、
全て仕事、せわしい日程です。
でもまあ、仕事を続けているから、せわしくても色々と出歩ける訳で、
これが自腹なら、そうそうで歩くこともママならないので
そう思って、自分に言い聞かせています。


2005年に買ったモバイル・バイオが7月末に事切れました。
セーフティモードでしか立ち上がらなくなりました、ハードディスクの障害のようです。
薄情なようですが、入院・治療は端から諦めました。
20と数万円要したモバイル・バイオですが、成仏していただく事にしました。

そういう事で、
バイオに替わり、昨日から私のモバイルはデルと相成りました。
バイオの512MBの増設メモリー代とほぼ同額、バイオの値段の1/5以下でした。
薄情なようですが、これがハイテクの定めです。

 
my favorite songs The Kingston Trio Where Have All the Flowers Gone




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