■2009.11.29 morning
管理人
私のオーダーは「キャラメルフラッペーノ」 とびっきり甘いキャラメルソースが草臥れた体に浸みこんでいく。 デモ行進後の公園での総括集会、総括集会後の近くの喫茶店での2回目の”総括集会” 何かを一緒にやった後の、心置きなく話せる”場”、 私はこれが楽しみでやっていると云っても過言ではない。
 
朝、JRで教会へ。 持参する旗ポールの感触がゲバ棒のように思えてくる(笑。 教会で音響機器を積み込み、牧師様の車で会場へ。 横断幕を張り、プラカードとゲバラ旗を周囲に括りつける。 BGMに作ったインターナショナルをカセットラジオで流す。 牧師様のアジ演説・・・・じゃない、 牧師様の説教・・・・じゅない、 牧師様の呼びかけ人”挨拶”は素晴らしかった。 私は何処かの”過激派”の挨拶と聞き間違うほど素晴らしかった。 これは、内容は別として、私の最大級の「褒め言葉」です。
しかし・・・・・、 頼むよ姉御、 次はもう少し・・・・・。
■2009.11.27 morning
管理人 沖縄に連帯する市民集会が間近に迫っている。 賛同団体ゼロ、協力団体もゼロ、 参加者の見込みは見当も付かない。
実にいい加減で、準備不足の泥縄集会となっているが、 姉御と牧師様のやる気だけは”本気”。 各自手分けして準備をしているが、私は会場の設えのお役を仰せつかっている。
「横断幕は両側から見える方が分かり易いわ」 要は、裏表両側から分かる横断幕を作れということ。 姉御の要望は絶対なので、指示には忠実に従うのだが、
単純に手間は倍となる。 「え〜、それどうするんですか?」 「お孫さんが居るんですか?」 昼休み、近くの文具屋でポスターカラーと絵筆、模造紙に両面テープ、ビニール紐、
それに市民集会だからカラフルなプラカードが良いと、クレヨンも買ってきた。 職場で、半世紀ぶりに手に取るクレヨンを眺めていたら、同僚がいぶかる。
プラカード、泥縄で「明日も晴れ]サイトからのパクリです
「貴方、それは何ですか?」 「そうですか・・・、捕まらないでね!」 そういう事で、連日、夜鍋をして「図画工作」に勤しんでいると、当然妻から査問を受ける。
若干の経過報告を行うと、労いではなくこう云われた。 ヘルメットも角材も無い、穏やかな市民集会なのだが、 私が「集会」と言うと、彼女にはそう映るらしい。
■2009.11.26 night 管理人 送られてきた月刊誌「情況12月号」の「特集・日大闘争とは何か」を読んだ。
その章以外は読んでいない。 失礼を自覚して云うが、長崎浩さんと聞いただけで頭が固まる。 だから、日大生のところだけ読んだ。 期待を違えず、そこは実に読みやすく分かり易かった(笑。
「さあ、管理人さんがどんだけ涙を流すかな?」 早速、JUNさんから冷やかしのメールが届いている。 でも悔しいがやっぱり、JUNさんの冷やかしどおり、「今」さんの記事の最後で目が潤んだ。
それも、朝の通勤列車の中で。 みっともない事この上ない。 実は、正直に云うが。 今さんは仲間の皆が知っているように全共闘の幹部、集会では何時も演壇にいた。
デモは隊列の中でなく、前の方で少し離れ、何時も難しい顔をしていたのが印象に残っている。 「この野郎、おいら達はセクトなんぞには引き回されやしねえぞ」
ゴリゴリの中核派だと知っていたので、余り好感は持っていなかったし、 朴訥な秋田さんと違って、老獪な策士のようなイメージだった。 その今さんの記事で涙したのは想定外だった。 今さんが綴った「日大全共闘の記憶」
「野球少年」の小見出しから始まり、附属高校の思い出が切々と語られている。 日大の附属高校がそれほど酷かったとは、今初めて知った。 そんな前史を引きずり、彼は”確信的”に日大闘争に突入していく。
今さんは”仕掛けた”側、私は”仕掛けられた”側。 しかし、そんな立場の違いを猛烈な嵐の如くごちゃ混ぜにしてしまったのが日大闘争の特殊性だろうと思う。
仕掛けたほうも、仕掛けられたほうも関係なく、一体化してしまったのが日大全共闘だった。 記事の最後に、 今さんにとって日大闘争とはなんであったのですかという問いかけに答えて三点挙げている。
ここには引用しないが何れも120パーセント異議なしなのだ。 そして、涙なのだ。
■2009.11.23 night 管理人
昨年の今日、午前中は一ツ橋に、午後は東大の駒場に居た。 「ビラ配りを止めろ」と、駒場祭実行委員のヘナチョコ学生に詰め寄られ、 「止めなければどうする」と、還暦オヤジ連が抵抗した。
写真の撮影時刻が今日の午後3時頃だから、 下の写真は、駒場でのスッタモンダから丁度365日経過した時刻になる。 日替わりで変わる天気の合間を縫ってミカンの収穫に。 年に一度、我が親戚が集う一大イベント。 昨年はこのイベントを辞しての上京だった訳だ。 二年振りの山は、ミカンがたわわに実っていた。
 
夜も更け帰宅すると郵便受けに封筒が。 開けてみると畏れ多い(左翼)理論誌「月刊情況」が入っているではないか。 それも二冊。 こちらも、期せずして丁度365日前の午前の出来事だった、 確か・・・・・、そうだったよね。 だから、有難く頂戴する覚えがあるが、これが何とも気恥ずかしい。 バラバラに壊れかけた腰をさすり風呂に浸かる。 あちこちの棘の跡に湯が滲みる。
■2009.11.18 night 管理人
夕方、サロンの長老が職場に訪ねてきた。 「いいですよ、今日は私のおごりという事で」 私のもてなしは、地下食堂の一杯100円也のカップコーヒー。 二人で200円、しばしのコーヒータイム。「いつもながら、ローザ姉御は急だから」 「動員つぅたって、講演会がマックス300だから、集会だとその十分も一来てくれれば良い方だと思うんですが」 「デモは、もしかしたら両手に満たないかも」
カップコーヒーを啜りながら、そんな愚痴を長老にこぼした。 長老は笑いながら次のような内容の事を云って下さった。 「そういう風に考えないで」 「少なければ少ないで、いいんですよ」 「(これほど沖縄に苦痛を押し付けて)知らんぷりして、何も感じない人、何も行動にうつさない人ばかり」 「それがはっきりすれば、それはそれでいいのですよ」 「それはそれで社会に対するメッセージになるから」 「私等が寂しいのは、社会が寂しいと同じ、そう思えば」 「しょぼくて、寂しくて、少ない集会は、その現実をはっきりさせるのですから」
「それでいいんですよ」 歳の功なのか、 私はかなり”ひねた”発想だと思うのだが。 しかし、少なくとも肩の力はとれた。 なんだか気楽になった。 こう云うのを”開き直り”というのだろうか。
■2009.11.18 morning
管理人 ふぉんとにもう、 突然やるっていうもので、この数日バタバタもいいところ。 それに今度は牧師様まで乗ってしまって。
この私をさて置いて話がどんどん、どんどんエスカレートするもので、 1、ゲバラ旗立てて参じること 2、チラシを早急に手配すること 3、(短期間だが)可能な限り、団体、政党、労組などに参加のお願いに回ること
私の協力範囲は以上3点、と姉御にはきつく釘を刺した。 「ワタシャァ〜、独りでも沖縄に連帯する集会をする」 普天間、辺野古の最近の顛末に姉御がプッツン切れた。
確か、そう騒いだのは先週のサロン、週が明けたらもうバネが弾けて行動を起こしている。 「呼びかけ人(姉御と牧師様)二人の市民集会」 そういう事で、もう既に、お上にデモ申請に行ったとの事。
「いいか、分かってるな!」 「今回は規模の大小は問題ではない」 「どうのこうの云う前に、やるって事、それ一点!」 いや〜、何か昔のやくざ映画みたいなのだ。
昨晩は急遽こしらえたチラシを教会へ届けに。 過激(笑)な牧師様はまだ夕食をされていないというので、二人で食事にいこうという話に。
教会の近くに、妻とよく行くイタリアンレストランがある。 私は何時ものバジルと生トマトの手打ちパスタ、 牧師様は何やら難しい名前のパスタ、
それに二人で鶏肉の香草焼きを一品取った。 
帰ると郵便小包が届いていた。 差出人は、昨年の拡大同窓会で懇意になった産経新聞社の記者さん。 最近までWEB産経ニュースで特集が組まれていた「さらば革命的世代」を書き起こしていた記者さんだ。
開けてみると書籍が。 「総括せよ! さらば革命的世代」 「そうか・・・本になったのか」 帯封には、 40年前、ゲバ棒を振り上げていた学生達へ
そして今、何も振り上げない学生達へ 諸君に総括を求める! 一瞬、引いてしまったが、
河居貴司記者さん、献本ありがとう。
■2009.11.14 night 管理人
「うあ〜、兄さん、地中海の様な景色ね」 十年ぶりに帰省してきた都会に暮らす妹が、眼前に拡がる海と空に感激している。 お寺で23回忌法要を済ませた後、半島沿いのレストランで会食した。
姉夫婦、妹、我が家の四人。 妻は、長男の彼女が仕事で来れないのが不満だったようだが。 
「兄さんや姉さんに知らせると心配掛けるから、いい治療方法が有るし、直ってからと思って」と妹が話す。 この数年、妹が私や姉に知らせず難病を患っていた事をはじめて知った。
しかし、何とか健康を取り戻していることが何よりも嬉しい。 それぞれの家族のこと。 それぞれの健康のこと。 それぞれこの十年、語りつくせぬほど色々あった。 帰り路、妻と妹の買い物に付き合う。
待ち時間、次男坊と店頭のベンチで四方山話。 次男坊が買ってきてくれた缶コーヒーと彼の近況報告が、 今日は一番旨くて楽しかった。
■2009.11.12 night 管理人 「もう其の頃は父さん母さん居ないから、お前達で頼むよ」
もう直ぐ父の命日、父母一緒の23回忌を行う。 長男が、その次の法要は何時になると聞くから、 50回忌は、私も妻も生きていないと彼に言い聞かせた。
私は40歳で父母の両方を見送った。 両親は仲良く、ほぼ同時に癌を患い、 二人とも数度の手術を経て。同じく仲良く三年後に再発、 再発1ケ月後に父が逝って、その9ケ月後に母が後を追うように逝った。 当時、病院は本人に癌を告知しないのが一般的だった。 先に発病した父の病は、私と母に告げられた。 後で発病した母の病は、私と父に告げられた。 二人は三年間、最後まで私に病の事は聞かなかった。 母は、父を看取った直後に再発。 父の四十九日も終わらぬ頃、私は母が余命六か月と医師から宣告された。 再発入院後、二度と家に帰ることなく病院で息を引き取った父を看ていた母は、家に帰りたいと私にうったえた。 もうこれ以上、体を切り刻み、苦痛に耐え、頑張れとは母に言えなかった。 先生に頼んで治療を止めてもらい、家に連れ帰った。 夜は、私と中学生だった長男が交替で傍に寝た。 冬を越し、柔らかな春から梅雨を終え、夏を迎えた頃、 仏壇に手を合わせていた母が、私に言った。 「父さんは向こうで待っててくれているかしら」 「家に置いてくれてありがとう」 母を寝かせてから、涙がボロボロ落ちて止まらなかった。
それから一週間ほどして、母は父のところへ旅立った。 添い寝している長男の横で、枯れるように。 あれから20数年になる。
■2009.11.10 night 管理人
このパースは中央階段を間に西から東を眺めたもの。 休み時間、この廊下に出てビートルズの話をしたりふざけたり。 「リボルバー」が発売された頃。 家では妹が武道館コンサートのチケットに当たり、行くの行かないので大モメしてた頃。

休み時間、この廊下によく出て立った。 目線はいっつもこの絵の奥の方。 運が良ければ、廊下に出ている”あの子”を見かけることもあった。
私のクラス−(マイナス)あの子のクラス=3 先日飲んだ女の子−(マイナス)彼女の好きだったNくんのクラス=3 そうなんだ、同じなんだ。 あの頃は、教室3つ分しか離れていなかったんだ。 それから一年も経たないうちに、 離れ離れになって二度と会えなくなるなんて、 その頃は思いもしなかった。 そうなんです、女の子と私は境遇が同じなんです。 なんて可哀そうなんだろう、オヨヨ・・・。
■2009.11.10 morning
管理人 全国的に天気は下り気味なのだが、ここ1〜2週、手前の忙しさは上がり続けている。 本来なら、今週末は関東同期会だったが、それも泣く泣く諦めた。
インフルなんか糞くらえだ、 行けるものならワクチンなし、マスクなし、スッピンで同期会に馳せ参じたかったのだが、つくづく悔しい。 そんな折に、辺野古・普天間ついでに嘉手納ツアーが降って沸いてきた。
「そうですか、丁度今週末から依頼とほぼ同じ様な内容・日程で12名のツアーが出発するのですよ」 「皆さんご希望のツアーとほぼ一緒ですよ」
昨日、昼休みに懇意な勤労者の旅行会に相談に行っていた。 凡その希望を出すと、旅行会の方は机の上から旅程表をとり出してきた。 「今、同じ様なツアーの希望がボチボチあるんですよ」
辺野古では海上監視活動に参加させてもらうそうだ。 現地の方々との交流会もセットされているという。 その伝手は当地の某平和団体だと教えてくださった。
某平和団体は、サロンの講演会に何時も協力いただいている懇意な仲だ。 因みに、『基地突入行動・オプション』の希望はなかったそうだ(笑。 このオプションには”救対”のフォローが必要なので結構手間なのだ。 取りあえず、餅は餅屋の旅行会に素案を出してもらい、姉御と長老、それに発起人の牧師様にメールした。
早速姉御から、 「伝手は、出来れば発起人の牧師様のネットワークをお願いしたい」 「牧師様から紹介のあったピースウォークも」 「老人主体になるので、行程には無理がないように」
色々と指示が飛んでくる。 サロンは老人共闘、資金的にはそれほど支障は無いが、如何せん体力が。 旅行会素案を高齢者向けにカスタマイズする必要がありそう。
出来れば突入が体力的に無理でも、『基地ゲート前シュピレフコール・オプション』はセットしたい。 ラッパの大将夫妻に紹介すると、早速反応もあった。
今時で、 月並みな企画だが、 ・・・・・・・・、何処が悪い。
■2009.11.09 morning
管理人 ウ〜ン・・・・ 私が書かなかった(書けなかった)事を、 教祖様が書いてしまっています。 オロオロ状態です。
(昼から続き) 42年経っても元に戻らぬものがある。 見えぬ眼、動かぬ手足、還らぬ命、
それに心。 敵味方区別無く、日常生活に支障をきたす深い傷を負った方々が少なくない。 これは偽らざる事実だ。 日大闘争はそういう側面も持っている。
ある程度語っていくと、あるところでどうしてもそういう話題にいってしまう。 そこを私は巧みに避けてきた。 トップページのアメージンググレイスはそういう意味で貼ってある。
ほんの一部だが、 それをいとも簡単に先輩が語ってしまった。 ダメだよ先輩!
■2009.11.08 night 管理人 「じゃ〜、**さんのおごりということで、これよろしくね」
長老の一声で、皆が異議なしと反応。 週末のサロン、ある話題をきっかけに私の前に皆の飲み物伝票が一気に積みあがった。 伝票の山を見上げて、冷汗がタラ〜リ。
「ところで**さん、あの子のことはそれ以後どうなっていますか?」 学芸部長のNさんと話しているとき、長老が”あの子”の話題で突っ込んできた。 長老はここを時折チェックに来ているらしい。 「いや〜、やっぱり同じ、所在不明のままです」 私が”あの子”を殊更に思い出したのは、何も最近ではない。 ボロボロになって東京を引き上げてきた頃も、気にはなっていた。 気にはなっていたが、当時は精神状態が尋常ではなかった。 あの子に会いたいというより、社会全体と付き合いたくなかったのが本当のところだった。 しかし、ドアの前で躊躇してから3〜4年しか経っていない、その後のあの子の事は風のたよりで伝わってきていた。
階段、分かる人しか分からない絵です
学芸部長のNさんと話をしていて、突然思いついた。 「Nさん、確か**銀行にお勤めですよね」 「そうですが、それが何か?」 「そうなんですよ、そうなんだ、何で今まで気が付かなかったのだろう?」 確か、あの子はNさんと同じ銀行に就職したと聞いていた、 「結婚して退職しているはずなんですけど、40年前に入った女子行員の事調べることできますよね」 「旧姓でなく今の姓が分からないのですか?」 「それなら調べやすいのですが」 「済みません、それが分からないのですが」 「そこのところを、何とか、どうぞ、どうぞよろしく願います」 名刺の裏に旧姓を書き、Nさんに手渡すと同時に、皆の伝票が私の前に集まってきた訳だ。 興信所に頼むと1件の調査で手付金がウン十万と掛かると云う。 そう考えれば伝票の5枚や10枚安いものだと思わなければいけないのだが、 皆の伝票とそれとは少し筋が違うと思うのだ。 しかし勢いとは恐ろしいものだ、 押しに押されて、 「それは・・・、何と云いますか、そこのところは”成功報酬”と云うところで」 しどろもどろの対応となってしまった。 この焦りが、 その後の「普天間基地突入ツアー」の跳ね上がり発言つ続くのだ。
■2009.11.08 morning
管理人 二週間空けていたので、サロンは三週間ぶり。 何時もの店に入ると既に牧師様とNさんが。 「もうね、年休全部取ってしまったからなかなか休めないんですよ」
牧師様はとてもお忙しいとの事、前回の講演会以来だから2ケ月振りになる。 しかし・・・、牧師様が年次休暇制度のある職業だったとは初耳だった。
宗教は年中無休、言い返せば年中休暇のような職業だと思っていたのです。 牧師様と一緒に居たNさん、真面目で実直な現役銀行マン。 職業柄、私等のような胡散臭い(笑)グループに交じっていいのかと此方が心配するのだが。
私らの会話にじっと耳を傾けていて時折一言二言意見を述べるだけ。 政治的な発言は殆どしない。 でも、講演会の折には真っ先に来て、会場整備や受付、後片付けと作業をこなす。 吼えない、でしゃばらない、だけど黙々と仕事はこなす。
かつて日大全共闘でもこの”種族”は多かった。 黙って議論を聞いている、殆ど発言しない、 しかし「やるぞ!」というと必ず現場に居る、そしてゲバルトの位置は必ず先頭。
桃井コンミューンで一緒に暮らした”会長さん”はその典型的なタイプだった。
テーブルの上でで椎の実を炒る
そんなNさんがこの夏から中心になってサロンの中で始めたことがある。 環境や福祉、地域を元気にする様々な活動をしているキィーマン(ウーマン)を呼んで話を聞き座談するサロン。
「Nさんはサロンの学芸部長ですね!」 長老連が妙なる云い当てをしたサロンの”学芸部”がこの夏から発足している。 ウ〜ン、 サロン”政治部”はここのところ遅れをとっているのだ。
そんなところに牧師様が助け舟を出してくれた、自身の宗派が行った”沖縄・辺野古”ツアー。 サロンでそれを取り組んでみたらどうかとの提案。 ”学芸部”のNさんも乗り気。
しかし・・・・、 この手の企画は初めてで如何せんノウハウが無い(泣、 政治部と学芸部の合同企画として上手くいったらいいのだが。 最後に、私は、定番どおり、学芸部が”引く”ことも考えずに一言余計な事を言ってしまった。
「このツアー企画、銘じるとすれば・・・」 「沖縄ピースツアー、別名、『普天間”突入”遠征ツアー』がいい!」 この提案に姉御は、 「横文字はアタシャ〜嫌い」の一言。
「では、普天間、嘉手納でもいいから、”突入作戦旅行”だな」 やっぱ、余計な一言だった。
■2009.11.06 morning
管理人 しかるべき先輩筋から、未確認だが情報が。 月刊誌「情況」12月号、日大特集号だそうだが、 私等の「雑談会」記事の他に、某闘争委員会の某委員長のインタビュー記事が載るようだ。
詳しい事を書くと、仲間内から「口が軽い」と査問されるので、今云えるのはこの範囲だが。 とにかく、この範囲ではモノホンの日大全共闘が語る日大闘争が語られる事になる。
日大全共闘について他人様が語るものは色々と読んだ事がある。 涙チョチョ切れのものが多いが、概して云えば「持ち上げ過ぎ」だと思う。 普通の学生が、
普通にやった事が、 普通でなかった事は、 私ら自身も理解しているが。 それが普通でなかったこと、 「特段の事件」であったとの評価が、
普通でないのだと感じている。 私は普通の事だと理解しているので「持ち上げ過ぎ」だと思うわけだ。 だから、 私(等)の発言や考え方を聞いてくださった方々の受け止めは、
「何だ、唯の普通の人間ではないか」 「何だ、普通のことしか言ってないじゃないか」 私としては、 「貴方等のように私は肩肘張って”革命”なんぞ論じた訳じゃないから」
「私等に何か期待して貰っては困るのだ!」 そうなってしまうのだ。 それを私は何度も経験している。 名だたる(左翼)理論誌に私等の雑談が載るとどうなるのか。
「よくも、この理論誌でこんな当たり前のことが臆面もなく云えるな」 ちゅうことになる、と思うのだ。 雑談会した仲間の非難轟々を覚悟して言えば、
そういうことなのだ。
■2009.11.05 night 管理人
ところで、 ”あの子”でない女の子ことはさておいて。 折角、情報の交差点、同窓会学年幹事をお招きしたのだから、私の”あの子”の事にさりげなく探りを入れた。
しかし根が軟弱・日和見、 胸を張って「俺が好きだったあの子」と云えないのが情けない限り。 男の子はナイーブで、女の子はドライなのだ。
「エ〜ト、**さんね」 持ってきた名簿を見ながら、 「前にも君から問い合わせが有った通り、行方不明扱いだよ」 「去年の同窓会は、病気で出席できないとの話を伝え聞いているけど」 「それ以上は分からない」 「・・・・・・・・・・・・・・」 「彼女は何処に住んでいるか分かる?」 「県外、此方には住んでいないと思うよ」 さりげなくを装っているのでそれ以上は聞けなかった、 幹事もそれ以上の情報は持ち合わせていないようだった。 「アッッ・・・、N君が写っている」 幹事は平成2年に開かれた同窓会の記念写真を持ってきてくれていた。 ”告白”してくれた女の子が食い入るように見ている。 100人近くが写っていた。 私も食い入るように探したが、”あの子”は写っていなかった。 悔しいのだ。 それにしても写真に写っているサッカー部のN、男の私が見ても格好良い。 ガタイはいいし、顔つきも精悍だ。 これなら40数年前、告白していたとしても女の子は競争相手が多かったはずだ。 やっぱ、思いは果たせず持ち続ける方が幸せだ。 その方がいいのだ。 そう思っておこう。
■2009.11.05 morning
管理人 元・BUND情況派の後輩から早速一報が入りました。 月刊誌「情況」12月号は日大闘争特集号だそうです。 特集????
私等の座談会(雑談会)ページは多くても10ページ程度。 特集といえば日大関連にそれなりのページ数を割くと思われるのですが、 何を特集するのでしょう?
ところで、 神津先生や荒先生たちが”全共闘”を語っている立派な本も出ているらしいですが、 私はいずれも読んだ事がありませんし、今後も読むつもりはありません。
どうせ、私らノンセクトを指導し切れなったとか、 大衆運動を領導出来なかったとか、 歴史の中での運動の位置づけとか、 上から目線で語っているに違いありませんから。
ワタシャ〜ひがみ根性が強いのです。 団塊ジュニアさんからBBSに書き込みが ジュニアさんは新顔の様です。 >、「じゃあ、全共闘のみなさんは今、何をしているのですか」
定番レギュラーなご批判も頂いて、嬉しい限りです。 取りあえず、私のBBSのルールを再確認しておきます。 反論も含めて、応酬は2ラウンドルールです。
ゴングを鳴らしますので、これ以後は2ラウンドまでです。 それ以上は管理者権限でレフリーストップです。 そういう事でよろしく。
■2009.11.04 nightV 管理人 「もう〜、**くん、私のこと書かないでね」
「旦那様や友達に、冷やかされるじゃないの・・・本当にもう!」 昼休み、もう直ぐ東京に帰るミヨちゃんが訪ねてきていた。 飲み会で約束したジブリの”あのアニメ”をあげると約束していた。
 「残念、もう書いたよ!」 「でも、今回はミヨちゃん主人公じゃないから、気にしないで」 「気にしないって言ったて、ホント私からかわれるんだから」 職場の隣の喫茶室、抗議もものともせずコーヒーしながら開き直ってやった。 でも、ミヨちゃん、目は笑っていたから、大丈夫なのだ。 しかし・・・・、私のこの日記 東京の「女の子※」の間で何処まで拡がっているのだろう。 これは少し ヤ・バ・イ、、、、、、(汗。 ※注釈 還暦+1歳
■2009.11.04 morningU 管理人
月刊誌「情況12月号」に日大全共闘の座談会記事が載る予定です。
座談したのは昨年の事で、此処のBBSに登場する面々。 記事は、あくまで載る「予定」ですので、結果、載らなくても責任は取りませんが。 実は、この座談会記事、
少なくとも私は、”没”になっていたと思っていましたので、掲載については直ぐには信用できませんでした。 ”没”だと確信していた理由は、
この理論誌は長崎浩さん、最首さん、荒さん、立花さんなど、その他大勢のそうそうたる論客が常連の理論誌。 (済みません、私は勉強が足らなくて上記のお名前の御方しか知らないですの、お許しを)
私なんぞは1ページも読むと頭痛に悩まされます。 そんな(左翼)理論誌に、読んで直ぐ分かる日大全共闘の”大衆的”な座談記事など載るわけ無いと思っていましたから。
私ら凡人から言わせて貰うと、分かりにくいことが「理論誌」の欠かせざる要件。 何度も云いますが、分かり易い日大全共闘の座談など載せるわけ無いと思っていましたから。 でも、しかるべき信用できる先輩から、
『各自、己のプロフィールなどキッチリと点検しておけ』、 『プライバシーはどこまで出していいか点検しておけ』、 そのような内容の指示を頂いたもので、もしかしたら、ひょっとしたら、これは載るかもしれないと思うようになりました。 そう思い始めると、後悔が後出しでドンドンと出てきます。
もっとかっこいい云い回ししておけばよかったのに。 あんな事云ったので、アイツから抗議が来るかもしれないし、 論がないのは自覚していて今更なのですが、履歴はもうちょっとデコレーションしておけばよかったと思うし、
後悔が山のように出てくる今日なのです。 そういうことです。 my favorite
songs は、正直に告白した”女の子”に贈ります
■2009.11.04 morning 管理人 火曜日の休日、近畿の同窓生に関東同期会の件を電話した。
昨年6月の学年同窓会の折、其の彼から頼まれていた。 「今度同窓会がある折には、地元でも東京でもいいから連絡してよ」 「東京なら新幹線で一飛び、日帰りだって可能だから」
「俺は関西在住、同窓会の案内が来た事がないから」 「俺は転校生だったから、皆から忘れられているから」 昨年の同窓会、彼との再会は42年ぶりだった、かつては運動会の夜に酒を酌み交わし、下級生へのストーカーに付き合った悪友だ。
彼は2年の新学期に転校してきた。 担任から彼の紹介があった折り、クラスがどよめいた。 転校元の高校は、その県では名実ともNo1の進学校だったから。
秀才だが、ひょうきんな性格、誰ともすぐ仲良しになった。 昨年交換した電話番号に電話を入れた。 奥さんが電話に出た。 「もしもし、高校の同窓生の**と申しますが、**さんはいらっしゃいますか?」
一瞬間を置いて、 「ああ・・・、**さんですか、暫くお待ち下さい」 電話向うで呼んでいる声が受話器に入ってくる。 「俺は知っているよ、中頃にあるんだろう、お前さんの日記読んでいるから」
「今回は丁度、都合が合わずに行けないが、知らせてくれて有難う」 「次の機会には必ず行くから」 関東同期会の詳細を伝えると、こう返事が返ってきた。
確か建築学科に進んだはず、建築士で未だ現役バリバリなのだろう。 それにしてもひとつ引っかかる事がある。 私は彼の奥さんとは一面識もない。
かつて彼が下級生の女の子を追っかけまわした時は付き合ってあげたが、 今の奥さんのことは全く知らない。 その奥さんが「ああ・・・、**さん」と応対してくれた。
私の事を知っている様だった。 やっぱ、彼に教えたこの日記かな?、と思う今日なのだ。
■2009.11.03 night
管理人 好きだったけど、何も言えなかった。 デートしたこともないし、手を握った事もない。 勿論、キスなんて論外。
思い続けるだけだったと、切々という。 「じゃ・・・・、今の旦那さんは?」 「どうそ一緒になって下さいって頭下げられたから、可哀そうだから」、一緒になったんだって。
前にはワイングラスが三個並んだ。 彼女は相当の飲んべえとミヨちゃんから聞いていたが、 地酒を三種類、ワイングラスに並々と注ぎ、それぞれ美味しいといって交互にグイグイやっている。 一次会、私がビールジョッキ2杯目に掛かった時、彼女は既にビール卒業してグラスワイン・・・・じゃなくてグラス地酒。 グラス地酒の彼女に、「聞きたい事が有るんですけど」と質問。
時計台で、昭和41年10月1日の日付、命かけて屋上の手すりに立っています(笑。
酒宴が始まると同時に、関東組の彼女がハッキリと宣言した。 「私はサッカー部のN君が好きだった!」 グラスを持って、キリッとした目つきで、 「N君に会いたい!」 その言葉を聞いて、私まで胸が痛くなった。 「やっぱ、その子の事思うと今でも胸が痛みますか」 「私も、切なくなって胸が痛むのですが」 「男でも女でも、それは同じですよね」 「よかった、私と同じ人がいて」 結局、二次会お開きになったのは25時、 ミヨちゃんタクシーで送って、帰り着いたら26時近くだった。 片思いだった彼女と、片思いじゃないけど片思いだった私。 40数年たっても薄まらない思いは私だけでない。 男でも女でも、そう云う事なのだ。
■2009.11.03 morning
管理人 宴もたけなわの最中、札幌の悪友から携帯が。 飛んで火に入る夏の虫、早速小母様連から集中攻撃を受けている。 「**くん、**くんは来れないと云っているけど貴方はどうなの?」
「遣り残した”宿題”が有るんでしょう」 「ダメだよ、出てこなくちゃ」 悪友の昨夏の顛末は私が周り中に吹聴している。 友の40年前の恋路なんぞは、酒のつまみに最適なのだ。
悪いが小母様連の追及は私の比ではない、しばらく悪様に攻め続けられていた。 私に携帯が帰ってきたころには、向こうはゼイゼイ言っている。
(ミヨちゃん除く)関東組二人と
「ところで何の用だ?」
悪友は私が”決起集会”をしてると知らずに電話してきている、用事が有るはずだ。 友、 「オイ、俺は”あの子”どころではないのだ」 「今、昔の同志が集まって謀議している・・・・・」
私、 「謀議・・・・・?」 「ついに蜂起か?」 友の話によると、 今年か来年か、何時かは確かめなかったが、11月22日に昔の仲間が再び結集しようということらしい。
北大全共闘再結集を目論む謀議だそうだ。 友、 「俺はな、今更で余り気乗りがしないのだが」 「でも、皆の熱気はすごいぞ」 私、
「そりゃ〜、絶対やんなきゃ、絶対な!」 「そうだ、お街の日大全共闘が田舎の北大全共闘に連帯の挨拶を贈るから、皆に言っておいてよ」 友、
「ヤカマシイ、田舎の全共闘で悪かったな」 私、 「**くん、其処に居るの?」 「居るなら話をしたいのだけれど」 **くんとは、大菩薩峠でドジを踏んだ元・北大医学生。
今は開業医の院長先生と聞いている。 「ああ、**なら居るけど、今はそれどころじゃないから、またな」 友には、札幌”蜂起”の話題で逃げ切られてしまった。 ところで、三人の小母さんに共通した発言があった。
今は還暦+1の小父さんの事を彼女らは「男の子」と表現するのだ。 「だからさ、サッカー部のあの男の子はね・・・・・」って具合だ。 私が「女の子」と呼んで今更と顰蹙を買った表現に、彼女らは全く躊躇が無い。 だから、
同世代の小父さん、小母さん達。 お互いが昔探しをする時には、 僕たち「男の子」、君たち「女の子」 それでいいのだ。
■2009.11.02 U 真面目に勤務していると、ミヨちゃんから連発で携帯メールが着信する。 私は職場では何時も生真面目、私用の着信音が鳴る事は滅多にない。
シンプルな着信音なのだが、立て続けに鳴るので隣の若い女性職員が笑っている。 「これ、高校時代の仲良し♀、でもカミさん公認だよ」 「ヘェ〜、そんなの有りなんですか?」
少しいぶかっている様だったので簡単な説明を加えた。 この連休、ミヨちゃんの他に二名、関東同期組が現在帰省中との事、勿論♀。 ミヨちゃん提唱で今夜一席盛り上がろうという事になり、会場の手配やらで次々と指示が飛んでくる。
メール三信目、二人の内の一人から私に要望が下りて来た。 「**君、知っていますか?」 「**君に会いたいので調べてください」 ちょっと待ってください!
昔のガールフレンド探しは私の専売特許のはず。 その私が、昔のボーイフレンド(と思う)を探してくださいとの要望を賜った訳だ。 「ウ〜ン、小母さんも負けてないな!」
「ここは、一肌脱がねば」 早速、情報通の同窓会学年幹事に電話を入れ、 その彼にも今晩の席に出てきてもらうことにした。 これで小父さん二人、小母さん三人の計五名となった。
だから今夜は、メインテーマが何時もの「孫や嫁」の話から逸れ、昔の♂♀フレンドの方に振れる可能性に期待が持てるのだ。 今夜は間違っても「闘争勝利」の話題には触れず、19の春より昔の事で一貫する(決意。
「昔探し」は私等世代の機微なる”文化”。 若い奴等には分かるまい。
■2009.11.02 往路はSAを一つ飛ばしで快調に、休憩は2時間に一回の割。
復路はSA毎に休憩、1時間おきにペースダウン、やっと帰り着いた。 実は先週末から腰が「くの字」状態になっていた。 椅子に座っていて立ち上がっても、直ぐに腰が伸びずに曲がったまま、無理に延ばすと痛みが走る。
軽いギックリ腰状態、ギックッとやった憶えはないのだが。 SAで運転席から降りてレストランへ行くのが一仕事、腰が伸びずに曲がったままでお爺さん状態。
「大丈夫ですか、貴方?」 「こんな状態なら云ってくれれば、遠出は控えたのに」 傍に添って歩きながら、始終背中を摩ってくれる。 不思議なものだ、摩られると痛みが軽くなったような気がする。
カミさんの手は「カミの手」だと思った。 
二日目、長男の”誠意”に応えねばと、土産物選び。 酒飲みだから地酒がいいだろうと、これは妻と意見が一致した。 「ダメですよ、それは」
一升瓶を手に取ると、妻からダメ出しが。 「あの子は、有れば幾らでも飲みますから、こちらの小さい方が」 その夜、妻と長男は土産の地酒で酒盛り。
私は下戸、勿論地酒は親しまないから一滴も飲まない、 しらふで二人の話を聞いているだけで十分楽しい。 ものの30分で酒瓶は空に、結局、買い置きの酒になっていた。
だから・・・・・、一升瓶のほうがいいのにと云ったのだ。 |