■2010.12.22 morning
管理人
朝、新聞を取りに出ると周り一面乳白色の世界。
そう言えば、新宿駅の西口がまだ一面の野っ原だった頃、もやで霞む中で映画撮影をした記憶が蘇ってきた。
記憶は虚ろって、今頃の季節だったか、それとも2〜3月の厳寒期だったか定かでないが。
桃井コンミューンで宮澤君、会長さん、ギイチくんと四人で共同生活していた頃。
いいバイト話が仲間から転がり込んできた。
芸術学部映画学科の真面目で裕福な四年生がバイトを探しているという。
監督の学生さんの希望のキャラは”フーテン”。
永嶋慎二さんの描く”青春残酷物語”の”黄色い涙”に出てくるような若者だと思えば良い。
私等四人がそれにピッタリだと仲間が推挙してくれたらしい。
バイト料は飯付きで日当1000円程だったと思うが、これも定かでない。
さすがに日芸の映画学科、車に撮影機器を一杯積みこんでいた。
撮影場所は転々としたが、記憶には新宿しか残っていない。
新宿駅東口、伊勢丹前、西口公園(といっても野っ原だが)、歌舞伎町界隈。
セリフは殆どなく、走ったり、じゃれあったり、ボケーっと突っ立ったり、演技以前の動きばかりだったように思う。
早朝の新宿西口の野っ原、朝もやの乳白色の中で四人が朝を迎えるシーンも有ったような気がする。
それから春を迎える頃、私は故郷に帰った。
雇い主の映画学科の学生、このフーテン映画が卒論作品として無事通ったと桃井から便りが届いたのもその頃。
溜まり場の喫茶店に映写機を持ち込み、皆で鑑賞会もしたそうだ。
「映画のBGMがとても良かったよ」
便りには確かこんな事が書いてあった。
演技でなくBGMがというのも当然と云えば当然だが。
上のプレヤーをOFFにしてから再生スタート
BGMはジュディ・コリンズの”青春の光と影”が流れたそうだ。
生涯唯一の出演作品、
それも主役(四人だが)、
BGMは今でも聞けるけど、主演作品、観てみたかった。
■2010.12.21 night 管理人
「グアテマラにはまって困っている貧乏おじさん」から、ブログを知らせてもらいました。
リンクページにも登録したのでお知らせします。
私と違って”真面目”なブログです。
昨年の12月25日の日記にこう書きましたが、
色々あって中座していたブログが再開されましたのでお知らせです。
グアテマラ・イシル通信
■2010.12.20 night
管理人
my favorite songs Judy
Collins Turtle_Dove
■2010.12.17 morning
管理人 「戻すと言われてもなぁ・・・・・」 「父さんは車要らないしなぁ・・・・」 ここ数年、すっかり車が無い生活に慣れたし、夏からは二輪のイタ車も所有しているし、
車は妻の一台と二輪のイタ車で十分で、突然戻すと言われて戸惑ったのだ。 次男坊の生活環境が変わり、来春から車が要らなくなると言う。
車だけが出戻ってくるのなら車庫も空いているし別段邪魔にもならないからいいのだが、 車の諸々の費用や税金、それに保険も我が財布に戻って来るもので・・・・。
「貴方、いいじゃないの引き取ってやりなさいよ」 「車検まで使って、それで廃車にすればいいじゃないの」 妻の一言で決まった訳だ。 この夏に、40年近くご奉公した職場を実質的に退職した。
役員定期改選で常勤役員から非常勤役員になり、籍だけはしっかり残しているが処遇は”無給”。 非常勤でも経営上の責務は僅かだが肩に掛っている、責任が有って”無給”というのは割に合わないのだが、私なりの仁義の通し方として40年近く食いぶちを頂いた組織への恩返しだと思って引き受けた。
年金満額受給の64歳までは、年金とわずかな蓄えの取り崩しでチープに暮らしていこうと決めていた。 そういう事情もあり、車は妻の一台だけで十分だと次男坊に譲った。
それが、またまた出戻って来るという。 この秋から、再就職したのも全くの予定外で、 そのため、懐が少しだけだが温かくなったのも嬉しい予定外で、
兄より弟の方が先に生活環境が変わるのも順番からいえば予定外で、 そのため、次男坊から車が戻って来るのも予定外で、 昨今、身辺は予定外ばかりになっている。
そうそう、 「死者よ来りて我が退路を断て」の中、芝工大のデモ隊列が鮮明に映っているのを見つけましたよ。
■2010.12.16 morning 管理人 出張から帰ってきて「もうひとつの全共闘」の残りを読み終えた。
もし私等が9.30大衆団交の結果を確かなものにし、日大闘争に戦術面で勝利していたら、 その後の状況はどうなっていたかを思い浮かばせるに足りるものを、芝工大全学闘の闘争は示しているのではと受け止めた。
その闘争の背景、端緒、大衆団交にいたるまでの経過は、私等日大の状況に極めて相似しているように思うし、何にも増して、今、こうして当時の事を記録にまとめ出版するそのエネルギーが今もって残っていることが、その闘争が、その組織が、そしてその人と人との繋がりが、私等日大全共闘と極めて相似している事を証明している。
人を見て、わが身をあらためて知るという事を痛感した一冊だった。 今なお生き残る、芝浦工業大学全学闘争委員会に最大の敬意とエールをおくります。
闘争勝利!
■2010.12.15 morning 管理人 多分、今年最後の出張。
高速バスで片道2時間余り、しっかり読書しようと「もうひとつの全共闘」を携えた。
トンネルが続く箇所では読みづらかったが、それでも2/3程読み終えた。 何時もの通り涙腺が緩む箇所が幾つか、 1968年7月、芝工大全学闘委員長が芸闘委バリケードに一時泊り込んで得難い”学習”をしたとの一節には感激。

会議の後の懇親会。 偶々、隣の隣に座った方と懇親。 つい最近まで某県の連合会長をされていた、業界ではいわゆるお偉い方。 かしこまって話をしていると労働運動で理闘委の後輩の友人ということが判明した。
さらに突っ込んで話していると、学生時代に青いヘルメットを被っていたという。 更に更に突っ込んで話すと、大学は五反田、入学は昭和44年といい、私より二学年下になる。
この後、社会的な”序列”関係は微妙に変化し、酒を注ぎ、注がれ、大いに盛り上がった。
更に奇遇だったのは、 隣に座った女性、元職は県庁所在地の市会議員さん。
先般の国政選挙に諸般の事情で市会議員を辞して担ぎ出されたそうだが、僅差で惜敗。 今は私と同じ某労働団体の事務局員をされているという。 連れ合いは私より二歳下といい、某国立大で○中さんだったらしい。 更に奇遇というのは旦那様の事でなく、その女性。
話していると「エ〜、私も日大ですよ」と言う。 「何、日大?」 「そうです日大、文理学部ですよ」 「何時の入学?」 「昭和47年です」
その後女性と話が弾みに弾んだのは当然だが、決めセリフもちゃんと残してきた。 「日大ちゅう大学は、先輩・後輩の序列がきびいしいところだというのは、分かってますよね!」 某県の元・連合会長に各種DVDを贈ると約束したら、
その筋(青ヘル?)のネットワークで回覧して観るから楽しみにしていると言ってくれた。 繋がる時は繋がるものだと一人感心。
■2010.12.13 morning 管理人 夏の間、鉢植えのクリスマスローズは大きな木の下に移動し避暑している。
クリスマスという名を冠するとおり、とても暑さに弱い花だから、 風通しのよい木陰が夏の強い日差しからクリスマスローズを守ってくれる。 例年、暑さが和らぐ10〜11月に鉢やポット苗を木の下から陽当たりのよい所に移動するのだが、今年は面倒だからそのままにしていた。
慣れない仕事に、出張と酒の席が頻繁に続きその余裕が無かった。 久し振りに週末は終日庭木の手入れ。 今年はクリスマスローズの移動を一部はしょった代わりに、陽を覆う庭木の方に手を入れた。
父の代からの常緑樹の庭木で、長年手入れを怠っているため枝が徒長し葉間がビッシリ詰まっている かなり強めに剪定し、葉の間からもお日様が射すようにした。
これで葉の間からも十分な日光を浴びることが出来そうだ。  2008年7月頃のポット苗、今年やっと花芽が付き始めた
「ハイ、貴方!」 誕生会も終わりかけた時、妻が手の平を表にして手を差し出す。 確かこの場は妻が持つという認識だったのだが話が違った(泣。
昨夜は次男坊の誕生会。 長男坊の彼女は風邪で欠席で、家族+次男坊の彼女の計五人で祝った。 先々月の長男坊の誕生会は焼肉屋さんで、ハイ始めましょう言ってから終わるまでものの一時間と掛らなかった。
次はもっとゆっくり食事をしたいねということで、今度は中華屋さんにしたのだが。 注文を入れ、来るものを次から次に平らげていると同じように一時間ほどで満腹。
次はイタリアンしかないなという事になった。 兄弟仲良く、それに次男坊の彼女や妻の笑顔・・・・・、 ささやかだが、楽しい時間だった。
■2010.12.09 morningU
管理人 
今朝届いた。 今夜からゆっくり読みます。 JUNさん、情報ありがとう。 昼休み、職場で少し読んだ。
プロローグの最後、オヤジは既に目が潤んでしまった。 <プロローグより抜粋> 今、”1968年”をめぐる歴史の掘り起こしが進んでいる。
だが、闘争当事者の声はあまりにも少ない。 それどころか、当時マスメディアの光にあたった「記録」や「資料」だけを積み重ね、全共闘運動のほんの一面を取り上げ「批判」するたぐいのもので満ちあふれているといわざるをえない。
堕落した新左翼諸派による「内ゲバ」、あるいは「革命」なき「革命幻想」におちいった「連合赤軍」や無差別テロを実行した「反日武装戦線」が、あたかも全共闘運動の必然的な結末であるかのような前提に立って、「負の遺産」からのみ全共闘運動を判定する「歴史」が闊歩している。
ましてや、敗北しなかった大学闘争の記録は皆無であり、存在すらしなかったように扱われている。 私たちには語らなければならない義務がある。 芝浦工業大学全学闘争委員会の運動は、1968年1月から1972年まで実に五年近く続いた。
本書は理不尽な現状にひたすら闘い挑んだ激闘を綴ったドキュメントである。 それとともに、今なお多くを語らない闘争当事者たちに、芝工大の「元全共闘」自身が「私たちの全共闘」を語りかけ、さらには、貧困と収奪に苦しめられ、「生きさせろ!」と叫ぶ今の若者たちに少しでも勇気を伝えたいと願う、ささやかなメッセージでもある。
■2010.12.09 morning
管理人 寒い寒い! 薄いウインドブレーカーしか羽織ってなかったもので、鼻水が垂れてきた。 しかし、吹きつける北風にゲバラがよくなびく。
集会の後はデモに。 デモちゅうたって、かつての緊張感あふれるようなものではない。 途中まで歩道を二列、 私は納得いかないが、しゃあないから後ろをついて行く。 緊張感は無いが、寒風の中で体はバリバリに凍りついた。

集会では朝鮮の有事を懸念する声明も読まれた訳で、 小さいながら市民の声を上げていこうとの要請も出された。 デモの途中、長老や姉御と話したが異議はないとのこと、 だから今後の共同行動にサロンも参加することにした。 共同行動ちゅうたって大それた事ではない。 皆でチラシを作り、街頭で配る。 スピーカーは、○共系のオジさん方に任せておけば、やりたい方は大勢いるはず。 たったそれだけだが、いかんせん年の瀬の街頭は寒いのだ。
■2010.12.08 night 管理人 日記の更新が滞っています。
新しい仕事に不慣れと、公私の”私”も色々とあって、これでも結構忙しいのです。 先日、前の職場から機関誌正月号への記事投稿の依頼が有った。
恥ずかしながら、今年の正月号に新年記事を投稿していた。 これが意外に好評というか、機関誌の記事らしからぬ内容で珍しく読者の反応が有ったらしい。
会員の中でもオジサンオバサンの年齢層に受けたそうなのだ。 広報部所にリクエストで「昨年の記事の続編を是非!」と入ったらしい。 そういう訳で今年も新年号への記事依頼が届いた訳だ。 私はパクリの名人、そのパクリが行き着くところまで行き着いた。
昨年の投稿記事は当HPの”あの子との自虐史”からの盗作、自分からの盗作なのだ。 当然、投稿は実名だから、内容には可能な限りオブラートを掛ける修正を加えた。
更に当然だが、”闘争勝利”のボキャは削除した。 更に更に当然だが、ネタは私でなく札幌の悪友の一件。 昨日、機関誌の広報担当から電話が入った。
「記事読ませていただきました、昨年のネタの続編なのはいいのですけど、何時になった先輩(私)のネタを書いてくれるんでしょうか?」 「先輩自身のネタ、来年(2012年)は楽しみにしてますからね」
ウーン、それまで自虐史継続のモチュベーションを持ち続けられるだろうか? 汗、汗、汗なのだ。 今から12.8の集会に行きます。 勿論、ゲバラ旗担いで。
■2010.12.01 night
管理人 上のプレヤーをOFFにしてから再生スタート、でぇ・・ないと両方鳴ります
あの頃、あの子と twist
踊りたかったのだ。 悔しいけど、僕(等)には無かった60sカルチャー。
aaghさん、貴方にはきっと有ったよね(悔。
60s(年代)ではなく、60s(歳代)だと駄目かな・・・・・、
闘争勝利! my
favorite songs Little miss lonely
Helen Shapiro
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