my favorite songs
 

■2011.03.30  morning  管理人

「目つきや表情が普通の女の子らしくなり、少しふっくらして帰ってきました」
お姉ちゃんが大学進学の準備の為、被災地へ帰郷してから四日目になります。
経由地の羽田で、孫を出迎えたお祖母ちゃん(義理の姉)から、そんな便りが届きました。
それは嬉しいのですが、お姉ちゃんが居なくなった後の我が家は大変です。
お兄ちゃんが一緒とは云え、何せ、五歳児は”絶対君主”ですから。

(大)おじちゃん、一緒にDVD観よう、遊園地行こうよ、お風呂出たよ〜」
週が明けると、昼から休みを頂き、妻と交代で五歳児のケアに励む毎日が続いています。
年度末、繁忙時期真っ最中の妻は、殆どダウン寸前。
昨夜は夕食が間に合わず、二人を連れてレストランへ。

当地では早咲き桜がほころび始めました

福島原発の状況は、当然のことですが差し迫った危機から距離を置いている海外の方が客観的に伝えているようです。
フランス、ドイツが特に詳細な情報をネット等で流しています。
辞書片手に英語が少し分かる程度の私ですが、プラウザの翻訳ページや、翻訳専用のホームページを使えば、仏語、独語でも大まかな内容は理解できます。
先日紹介したIRSN( フランス放射線防護原子力安全研究所)は、日本語PDFのレポートもアップされていますが、残念ながら3月22日現在の情報でストップしています。
大気中への放射能の拡散シュミレーションによると、西風の季節風に乗り、最初にアメリカ西海岸、そして大西洋を渡り、ヨーロッパまで到達している状況が見て取れます。

事態はインターナショナルで進んでいるという事です。
かつて、日本国は連合軍、その主役の米軍に放射能の洗礼を浴びせられました。
ビキニでは仏国の放射能を。
そのお返しと云えば、時局柄ひんしゅくを買いますが、
日本国に多大な災難を及ぼすのみならず、皮肉な事に季節風に乗って、極微量だと思いますがかつて頂いた諸国にまで届いている訳です。





■2011.03.29  morning  管理人

3月22日現在、福島原発から漏出した放射性物質の世界規模のシュミレーション
IRSN( フランス放射線防護原子力安全研究所)の日本語翻訳ページ

ネット上、至る所に出回っている奴だけど、
藪さんの仰るのはこれかな?






■2011.03.28  morning  管理人











■2011.03.27  morning  管理人



IRSN
フランス放射線防護原子力安全研究所







■2011.03.25  morning  管理人

昨日、お兄ちゃんが被災地から戻ってきた。
お昼から休みを頂き、お姉ちゃんと末弟を連れてお兄ちゃんを空港に迎えに出かけた。
途中、ハタと思いついた。
お姉ちゃん、11日からず〜っと、ひと時も離れず弟達の面倒を見ている。

「お姉ちゃん、買い物に一人で行っておいでよ」
「弟達は(大)おじさんが面倒みるから、大丈夫」
「買い物済ましたら、電車でゆっくり帰ってきたらいいから」
お姉ちゃん、嬉しそうに首をコクンと振った。
考えてみれば、お姉ちゃんはまだまだ大学生未満、高校生以上の18歳。
進学も決まり、買い物などしたい事は一杯有るはず。

お姉ちゃん、末弟の着替え、食事、入浴、トイレの世話、そして夜は納得するまでトランプに付き合い、一緒に寝る。
その一部始終を見ていて、昨夜、妻としみじみ話した。
「お姉ちゃん、今時のヤングママよりずっとずっとお母さんらしくて、いじらしい」
「お姉ちゃんの為に何かしてやりたいけどね」


「お姉ちゃん、お買い物に行くけどいいかな?」
「その代り、おじちゃんと動物園に行こうよ」
五歳児に”動物園”という提案は決定的だった。
お兄ちゃんの乗った飛行機が着く直前まで、彼は眼をランランと輝かさせて園内を走り回っていた。
私は疲労困憊したのだが。






■2011.03.24  morning  管理人

「お兄ちゃん、スキップして明日戻って来るぞ!」
五歳児の弟にそう伝えたが、意味は分からないだろう。

昨日、被災地に一時帰郷したお兄ちゃんから嬉しい便りが届いた。
目出度く中学校の卒業式に出られた事と、
卒業式と同日の午後三時、遅れに遅れていた高校の合格発表に受験番号が載っていたと云う、
バンカラで名を馳せる第一志望の高校に目出度く合格した。
災いばかり続いたこの時期、大おじさんは人ごとではなく嬉しい。


お兄ちゃんが戻って来ると、入れ替わりにお姉ちゃんが大学進学で当地を離れる。
お姉ちゃんはお姉ちゃんで希望に満ちた新しい生活が待っているのだ。
そこまでの予定は確定しているが、それ以後は未定。
お兄ちゃんの高校の入学説明会が4月5日、
今のところ確定ではないが、入学式は4月21日に予定されている。
今後どうしようか、妻と頭を悩ましているが、今の結論は「一日一日最善を」。

ちょっと違うと思うのだが・・・・・、
闘争勝利!
なのだ。





■2011.03.23  morning  管理人

お兄ちゃんが中学の卒業式と高校への進学手続きのため、独りで被災地に一時帰郷した。
我が家に来て四日目の昨日、五歳児に聞いた。
「ボク、お兄ちゃんと一緒にお家に(一時)帰る?」
五歳児、首を横に振った。

お姉ちゃん、お兄ちゃんに手をつながれて空港に降り立った時、私の笑顔にも五歳児はフリーズしていた。
無理もない、一週間に及ぶ断続的に続く余震の中、暗く寒い自宅マンションで耐え忍び、
バス、鉄路、飛行機を乗り継ぎ、やっとの思いで当地に辿り着いている。
五歳児のメンタルには想定以上の負荷があって当然。

 私のデスクは占拠状態

注意深く観察している。
時々、異様な興奮状態になり、周りに反応しなくなる点が、妻は心配だと云う。
それに、お姉ちゃんお兄ちゃんと一緒に居るとは云え、お母さんの所に帰りたがらないリアクションにも妻はショックを受けたという。
既に、震災は其れほどまでに幼子の心深く影響を与えているのだろうか。

今後、憂うべき事情も待っている。
母親のようにぴったり弟に寄りそっているお姉ちゃんが、今月末には大学進学で当地を離れる。
医師である母親が、被災者の為に心置きなく仕事が出来るよう、当方として長期戦は覚悟の上だが、
保育所など、当地で公共のサービスを受ける検討も進めなければ。





■2011.03.22  morning  管理人

「おじちゃん(本当は大おじでお爺さんなのだが)、ここ地震こないの?」
五歳児のちっちゃな柔らかい手は愛らしい。
二三日も経てばすっかりなつき、私の手を引っ張るようになった。
可愛らしく、いとおしく、少し早目の孫のようだ。

自宅はマンションで倒壊を免れたが、多くの家具が壊れたという。
電気ガスは途絶え、薄暗い暖房のない部屋、震災直後は余震に怯えながら居間で親子四人で寝ていたという。
母親は医師、訳有って父親はおらず。
避難所に入っていないので食料の補給は無し、子供三人、生活は限界に近かったという。
そんな東北の被災地から、遥か彼方の我が家に、お姉ちゃんお兄ちゃんに手をひかれた五歳児の三人が避難してきて四日目にになる。
空港で三人の顔を見た時は涙が出てきた。

実は、姉の家にも二家族避難してきている。
昨日、訪ねると小学生四人、家の中は運動会状態だった、
義兄はグッタリ、無理もない。
被災地から遥か彼方の当地でも、親族どうし、支えあう生活が始まっている。





■2011.03.17  night  管理人

仕事の帰路、繁華街を通りかかった。
トーンの高い女性の声がアーケードに響いてくる。
ダンボール紙のプラカードをぶら下げたセーラー服の女子高生四人。
「カンパにご協力〜下さ〜い」
オジサン、少しウルウルして近寄った。

少し歩いたJR駅前、
タータンチェックのスカートのこちらも女子高生四人。
駅への進入を阻むかのように、急ごしらえのダンボールの箱を掲げ、立ちはだかっている。
「カンパにご協力〜下さ〜い」
おじさん、またまたウルウルして近寄った。

帰宅し、妻と相談した。
「これだと、行くところ、行くところ、いたるところで遭遇し、軟弱なオジサンは際限が無くなってしまう」
「取りあえず、計画経済で総量規制を掛けなければ」
そう云う事で、二人で冷静に検討した。

妻と私の想定する総額は奇しくも同じだった。
そういうことで、一点集中、一点豪華主義は排し、
善意で自発的に頑張っている方々の気持にも応えるため、
できるだけ多くの箇所で多発的に協力する戦術を取ることにした。

ところで、
今日の時点で見かけたのは元気な女子高校生ばかり
偶々かもしれないが、男子生徒は一人も見かけなかった。
その事が少し気にかかる。





■2011.03.16  night  管理人

今日、職場でふつ〜の事務員のおばさんに尋ねられた。
「ねえ**さん、観測された放射線量は、レントゲンで浴びる量の数分の一だからってテレビで云ってたけど」
「だから健康に影響ないって云ってたけど」
「でえもね、レントゲンってほんの数秒で終わるでしょう」
「だったら、レントゲンの数分の一の量を今後ず〜っと浴び続ければ、健康に影響あるんじゃないの?」
おばさんは普通にそう疑問を持ったそうだ。

都内で検出された放射線の値は”一時間量”らしい。
事態が奇跡的に納まるとしても数日は要するはずだし、
今までの経過を考えれば数週間、
悲観的観測で云えば数ケ月、
絶望的に云えば数年以上、
レントゲンの放射線よりはるかに微弱だろうけど、それを数十時間、数百時間、数千時間、全身で浴び続けることになると思う。

事務員さんにはそんな返答をした、
私の考えは科学的に間違っているだろうか、
間違っていて欲しいのだ。

ところで、
偉い学者先生達が、テレビで繰り返し述べているキーワードに気が付いた。
「今、急には健康に及ぼす事は無い」
さすがに学者先生だ、ちゃんと発言には保険を掛けている。





■2011.03.15  morning  管理人

テレビで流されるのは希望的観測のみ、
一方、事態は悲観的に推移。
最悪の場合、その影響は2〜300Km先まで及ぶという説もあるらしい。

今朝、奇しくも福島原発に勤務している同窓生とやっと連絡がついた。
定年後、原発に二年を期限で再雇用の彼は今月末で退職予定と聞いていた、
退職を控え、既に勤務シフトからは外され自宅に居たと云う。
表現は適切でないかもしれないが「良かった」と思った。
今現在、家族で遠隔地に移動中、途中でガソリンが切れ、止む無く立ち往生しているらしい。

事態はまさしくCrisis





■2011.03.13  morning  管理人

ウッ・・・、地震か!
タカをくくっていたら、グラグラがグラ〜〜〜グラ〜〜〜に。
隣の女性から悲鳴が上がる。
天井から吊るしたテレビが大きく揺れ始め、前面のガラスウインドがギシギシガタガタ鳴り始める。
思わずソファーから立ち上がった。

羽田空港、出発ゲートで地震に出くわした。
明日に親戚の結構式を控え、出張二日目の11日、午後からの会議を早めに切り上げお茶の水から羽田に向かった。
二時半過ぎ、検査場を通過し出発ゲートに居座った。
テレビを見ながらウトウトし始めた矢先だった。

突如、テレビの画面、
「緊急地震速報です、強い揺れに警戒してください」と繰り返しアナウンスし始めた。
それから十数秒後にグラグラと来た。
飛行機が乱気流に巻き込まれた揺れのような感覚。

かつて東京に暮らしていてグラグラは日常茶半だったので、最初また地震かとタカをくくっていた。
途中からグラグラが長周期に変わる、これはさすがに焦りはじめる。
これは大変な事になるという動物的な感覚、条件反射からの行動が、
揺れてる最中に、携帯電話を取り出しての妻への電話。
まだ揺れが収まっていない、まさに地震の真っ最中のアクションだったのに、もう電話は不通だった。
かつての経験から、こういう火事場のアクションは誰よりも早いと自信を持っていたのだが、私より条件反射の早い方が数多くいた訳だ。

また揺れが残っているのに、眼前の駐機スポットに飛行機が入って来る。
昇降ゲートが左右に大きく揺れている。
隣の男性と「いかん!「(飛行機)止まらないとぶつかるヤバイ」と思わず叫んだ。
飛行機はかろうじてゲートの数メートル手前で止まった。
上空では多くの飛行機が旋回しはじめた。
直後にマニュアル通りだろうと思うが空港閉鎖、検査場もストップ、電車、モノレール、バスも全てストップしたらしい、
出発ゲートから一切身動きできなくなった。
因みに駐機した飛行機から乗客が降りてきたのは、余震が少し弱くなった、それから一時間以上も後だった。

 羽田の向こう、ビルが黒煙を上げていた

その後、妻にも、千葉の幕張に出張中の長男にも何度も何度も電話したが一切通じない。
ハタと思いつき、携帯メールを発信した。
妻と長男坊の返事メールは30分程して届いた。

運良く通じた電話の一番は次男坊へだった。
「大変だ、今、凄く揺れている」
次男坊、
「父さん、何、昼間から酔っ払っているの?」
「酔っ払っているんじゃない、地震だ、地震だよ」
次男坊、
「何、嘘でしょう」

因みに、妻の職場への地震の第一報は長男からの携帯メール、
次男坊の職場への地震の第一報は、運良くつながった私の電話が最速だったらしい。
二人ともテレビを見ている訳ではないので、
次男坊の職場への地震第一波情報は、発生後数分後の私の電話だったらしいから、何処よりも誰よりも早かった訳だ。

この後、
当然だが、
羽田の私、千葉幕張に出張中だった長男の二人とも、帰宅難民になる。
野郎一人どうでもなると覚悟を決めた。
空港で一番先に思いついたのは晩飯と飲料の確保、場所はトイレに近いところを選び陣取った。
帰り道1000Km以上、自宅までは遠く長かった。

長く厳しい避難生活を送らざるを得ない数多くの被災者の皆さまが居るので、
その後の私ごときの軽調な状況のレポートは差し控えます。
合わせて被災し亡くなられた多くの方々に哀悼の意を表します。







■2011.03.07  morning  管理人

バリケードを追い出された後、機械学科の宮澤君と会長さんが桃井のアパートに居着いた。
しばらくしてギイチくんがそれに合流した。
赤貧状態だった宮澤君と会長さんが、アパート代を折半する共同生活を始めたのは頷けるが、
お金持ちのボンボンだったギイチくんが合流した理由が未だに私には分からない。
その理由を聞けずにギイチくんは2008年に旅立っていた。

ギイチくんは、家が豊かでお金に困っているようには見えなかったが、
全共闘をやってしまった事で勘当でもされていたのだろうか。
とにかく、私が合流する前に、赤貧洗うがことく状態の桃井のアパートにギイチくんは先住していた。
桃井のアパートは最終的に五人になるから、私は最後から二番目の住人だった。

すし詰めの六畳にデンと座るギイチくんの大きな製図台。
六畳一間にフトンは4組敷けない、三組がやっと。
結局、寝遅れた誰かが製図台の下に体半分押し込んで寝る羽目に。
この異常な状態が春から半年ほど続き、やがて秋を迎える。

四人で協議した。
しまかに四人だけでひっそり生活しているのであればそれでも何とかしのげたが、
連日連夜、四人の友人知人が押しかけてくる。
最後は酒盛りになることも度々。
バイトに明け暮れていた私等は体が持たない。

そうしている内に、幸いな事に隣の隣の部屋が空いた。
後から押し掛け組のギイチくんと私が移る事にした。
二人だと製図台の下で寝なくていいし、酒盛りの時は私等の部屋が寝間専用になる。
この時、初めてギイチくんの持ち物をまざまざと見た。
時計はロレックスだったし、
飛行機の免許も持っていた。
とにかく、私が持ち合わせていないような物ばかりだった。

私が帰郷する直前だった。
何処の誰のコネだったか未だに分からないが、多摩地区から出ている社会党の代議士が仕事を世話してくれる話が舞い込んだ。
当時の通産省の外郭団体で確か日本プラント協会という団体だったはずだ。
このコネの条件は「英語が話せる事」、
宮澤君と会長さんは除籍組だからパス、取り敢えず卒業組は私とギイチくん。

確か、”格子窓部屋”へ入居の前歴は問われなかったと思うが、私は示された条件をクリアできそうになかった。
そう云う事で、ギイチくんは目出度くその団体に就職したという話を帰郷してから聞いた。
最初の赴任地はバングラデッシュだったそうだ、
10年目の同窓会でギイチくんはこう言っていた
「俺はバングラデッシュへ行って、人生観変わってしまったよ」
「辞めて家業を継ぐことにした」

ギイチくんと最後に会ったのは1999年の同窓会。
何故、お金持ちで何不自由無いボンボンが桃井コンミューンに住み着いたか、
バングラデッシュで彼は何を見、感じたのか、
もう一度会ってゆっくり聞いてみたかった。






■2011.03.05  morning  管理人

芸闘委と共に日大闘争の映像の記録を撮り続けた写真家の佐々木美智子さんから手紙を頂いた。
3月19日から4月1日まで、川崎市アートセンターで上映会があるそうだ。
主催はグループびじょん。
あの「死者よ来たりて我が退路を断て」を制作した映画製作集団だ。

グループびじょんの作品、
グループびじょん解散後の、メンバーの作品、
このグループと親しかった一匹狼の映像作家の作品、
これらを含めて全20作品が2週間にわたって上映される。

 写真はグループびじょんホームページから無断で借用いたしました

当然だが、
「死者よ来たりて我が退路を断て」はトップバターの3月19日に上映され、
引き続いて、22日(火)、28日(月)、最終日の4月1日(金)の計4回の上映予定。
3月28日(月)14:15〜よりは、佐々木美智子さんも登壇するトークセッションもある。

注目したのは、
佐々木美智子さん演出・撮影の2作品も上映予定されている。
「いつか死ぬのね」
「アリバイ」
いつか死ぬのねの映画紹介には、以下の芸闘委のゲバルトシーンが使われている。
期待十分な作品。

 「いつか死ぬのね」

詳しくはグループびじょんホームページで。
闘争の時代を共にした映像作家たちとその後






■2011.03.04  night  管理人

七年振りに当ホームページの「日大医学部・高等看護学院運動史」を、寄贈頂いた編者の要請で一部追記しました。
記録を留めようという編者の強い意志に敬意を表するとともに、当サイトにご協力頂いている事に厚くお礼を申し上げます。
ところで・・・・、
作業は年表丸ごと書き換えの手法で実施したため、
実のところ、どの個所が追記になったかを、管理人は掌握していません(汗。
そして、事のついでにページデザインをリニュアールし、一部視覚的にバリアフリーを施しました。

年表を寄贈して頂いた編者は、現在「戦後医学生運動史」を編纂しています。
オールジャパンで俯瞰した医学生の運動史であるという事です。
公開になれば、リンクを貼らせて頂くようお願いするつもりです。





■2011.03.04  morning  管理人
'
1971年の何時頃だったか憶えていないが、通っていたバイト先に新しい学生アルバイトが入ってきた。
バイト先は、地下鉄赤坂見附駅を降り、区役所支所、虎屋本店前を通り、東宮御所を右手に見る先のウエラ化粧品ビル。
確か上智大の青ヘルさんが桃井アパートの私等に紹介してくれたバイト先で、私等はそこに勤め始めて半年ほど経った頃だと思う。
新入りバイトは恵泉女学園の学生、女子大だから当然女学生。
朝の朝礼で(正)社員さんから紹介され、その日からバイト仲間に加わった。

それなりに入れ替わる学生アルバイトのなかで、桃井の私等は既に古株に属していた。
当然、仕事の手順とか要領を教える美味しい立場を獲得した。
このアルバイトには後から桃井コンミューン四人組の宮澤君と会長さんも加わるが、その頃はギイチくんと私の二人だけだった。
女学生は二人、こちらもギイチくんと二人、競う野郎どもは数多かったが、そこはそれ、バリケード上がりの私等二人に強引さで敵う者は居なかった訳だ。

ギイチくんと二人して女学生をデイトに誘った。
誘ったまではよいが、お互いがどちらを選ぶかとという深刻な問題が生じた。
お互いに女性の好みはあるが、殆ど面識のない相手の場合、取り敢えず外見が優先される。
この熾烈な闘争に、私は敗れた。
ギイチくんにはそういう意味で古い古い恨みがある(笑。


昨夜、JUNさんからメールが届いた。
忘れざる日々の振り込用紙の通信欄に、住所と電話番号と共に「故**ギイチ」と、奥さんらしき名前とが記され、振り込みがあったという。
同じ理工学部だから、私に知らないかとの問い合わせだった。
知るも知らないも、桃井コンミューンの四人組の一人だ。
早速、電話した。

2008年8月4日逝去、半年足らずの闘病。
電話に出られたのは奥様だった。
宮澤君が2008年1月27日に旅立っている。
「宮澤くんの訃報を聞き、主人は嘆いていたのに、」
「でもそのたった半年後に、主人も宮澤君と同じ病で逝ってしまいました」
奥様はあらためて嘆いていました。

ギイチ、
お前さんには、いつかあの時の古い古い恨みを言いたかったのに、
宮澤くんの後追いやがって、
馬鹿野郎!
桃井の四人組が二人になってしまいました。
辛い。





■2011.03.02  night  管理人

今の職場、前職場と違うのはやたらと出張が多い事。
各団体を横断的につなぐ連携機関だから、必然的に”でばる”仕事が多くなる。
もう一点、前職場と違うのは、総務、特に法務全体の責任者であること。
前職場、法務は総務部所が担ってくれていたので、幸いな事に私はその分野に殆ど関与することなく退職を迎えた。
元行動隊の単ゲバのキャラで、体を動かすことは厭わず、得意は企画や営業畑だった。

今の職場はそういう訳に行かないのだ。
やれコンプライアンスだとかガバナンスとか、とにかく聞き慣れないボキャが覆いかぶさってくる。
定款や規約・既定の見直し、法人登記・・・云々。
今まで付き合った事のない司法書士や税理士先生との付き合いも頻繁にある。
近々、団体の大幅な変更が予定されており、主務官庁への出入りも頻繁。
このポジション(仕事)は、基本的に私のキャラではないのだ。

今日は終日、書類に目を通していた。
「*****の申請に当たって**の変更の案を作成するに際し特に留意すべき事項について」
内閣府***委員会が発行したもので、監督主務官庁から「目を通しておきなさい」と回付されてきたもの。
人生60年をとっくに過ぎているが、このような役所の文書に真面目に目を通すのは初めての経験。
これまで、この手の文書は適当にページを飛ばし斜め読みしていた。
最後は尻を拭いてくれる総務があったので、それでも良かったのだが、今はそういう訳にはいかない。

しかし、一行一句、真面目に読んでいて気がついた事がある。
確かにクソ面白くない文書だが、
とにかく、読み手によって違う解釈を許さない文体。
当たり前だが文章に余韻もないし、文字のうしろに風景も見えてこないが、言いたいことは正確に伝わってくる。
役所の文書を始めて味わったが、
文体が乾燥していて小気味よく、
自虐的に癖になりそうな気がし始めた(笑。





■2011.03.02  morning  管理人

昨夜、全農林(農水省系の労働組合)が事務局をつかさどる某団体の講演会に参加していた。
演題は「TPP参加問題と日本農業・日本経済」
講師は東洋大名誉教授の服部信司さん。
TVや新聞では断片的に伝わってくるTPP問題だが、学者先生のまとまった話を聴くのは今回が初めての機会。


色々とお話をされたが、日本農業に壊滅的打撃を与えるという話や、TPP参加が「平成の開国」とは真っ赤なウソという話は他でも何度も聴いている。
今回、初めて耳にした話は、
1、アメリカは第一段階の参加国に日本を想定していない。
何故なら、これまでの日本のWTO交渉等で、日本は斬新的自由化路線をとり、重要品目(コメ他)の配慮が必要との立場を一貫して基本としている。
2、今般のTPP交渉への参加提起は、専ら菅内閣の判断。
これを聴いて、私は唖然とした。
私は当然、交渉参加への契機は、アメリカからの外圧だろうと受け止めていたからだ。

先々週のNHKの朝の番組「日曜討論」で、元経済産業省大臣の太田(♀)さんがこう言ったのを聴いた。
「菅内閣のTPP交渉参加の提起は、逆転満塁ホームランですよ」
かつて、政策で真っ向から対立した、新自由主義、経済成長最優先が持論の相手にこう評された訳だ。
今度、内閣に迎えた経済閣僚も、かつて真っ向から対立した相手だし。
抑止力としての沖縄、そして日米同盟。
立場のケジメがもっとも大切と思うレトロ親爺としては、「ハッッァ?・・・・」なのだ。

菅直人が登りつめた時、私はサロンの仲間にこう喚いた。
「アイツはスト破り野郎」
「事の道理ではなく、目先の利害でどうにでも動く野郎」
「絶対、信用じて足る野郎ではない」

この発言の根拠は、かつての僅かな記憶と、難しい事は抜きにした今の私の感情の二点のみだけど。
しかし、ここまで自らアメリカに尻尾を振り、追随するとは、
奴は紛れもない、超一級の売国奴だと思う。
かつても今も、人はそう簡単に変わらないのだ。

ラッパさん、
俺は、もう倒幕・攘夷しかないと思うのだけれど。






■2011.03.01  morning  管理人

出張先の写真がホテルの窓からのみというのも寂しいものだが。
出先で写真を多数撮り、そのコメントをあれこれと書いているブログなどをよく見かける。
何しようと人様の勝手なのだが、
あれはあれで大変な時間と労力を要すると思うのだ。
私の場合、無精でなく、出張先で真面目に仕事をしているという事を言い訳にしておこう。


先日、中村君の墓参会が執り行われた。
遠くから参加した仲間もいたらしい、農闘委のホームページで若干の報告がされている。
私は諸般の事情があって今年も参列できなく残念。
早速、墓参会の晩に仲間から電話が入った。

「**さん、灘高全共闘の前田さんが参列してくれたよ」
「以前も(墓参会に)来た事あるらしいけど、(日大全共闘が)恐れ多くて声を掛けられなかったと言っていたよ」
前田さんは最後まで居てくれたという。
芝工大全学闘との縁と、中村君の墓参会を通じて、違う世代(高校生)と繋がった訳です。


ほぼ一年前の2月6日、「明大2月6日に集う会」がお茶の水の明大学生会館でひらかれている。
そのレポートを明大全共闘さんが野次馬雑記2010年2月に詳しく書かれている。
明大全共闘さんが語る、集う会のキーワードは「和解とネットワーク」
私には相反対立したセクト経験が無いもので、和解というボキャには縁が薄いが、
赤、青、白、それに黒ヘル入り乱れた明大の状況からすれば、40数年たった再会は”和解”といキィーワードが必要不可欠だったのだろうと思う。

日大、明大、そして芝工大のように、同じキャンパスで「ともにたたっかった友達が再び繋がり、
時代を、ともにたたかった大学と大学が繋がり、
世代を超えて、ともにたたかった大学と高校が繋がり、
少しずつだが、ネットワークが拡がっている。



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