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■2011.05.30  morning  管理人

先日の講演会の講師の先生。
厳密に云えば”体制側”のお人。
反戦・平和を軸に集うサロンの講演会にしては、従前のそれとは少し趣が変わっていた事は確か。
それもあって、ローザ姉御の動員に対する焦りは尋常ではなかった。

先々週の金曜、牧師様の教会の信者で全国紙の記者さんがサロンに訪ねてきた。
正体不明、魑魅魍魎(ちみもうりょう)のサロンに興味を持ったようだ。
「昔なら分かるのですが、今時、サロンなんて珍しいですね?」
記者さんの質問も当然サロンの事。

「いや〜、私等のは囲いこまない集いですから、会則、会費、会員名簿もありません」
「取り敢えずはイラク戦争開戦時、反戦・平和で、有志でスタートしたのですが」
「今は、正体不明の方、映画マニアの方、尖閣諸島は日本の領土だからそこに(米軍)基地を移設したらいいと云って譲らぬ方、まあ色々と主義・主張では収集つかない集団ですわ」
決して記者さんの頭を掻き回すつもりはないだが、サロンの実態を少し説明した。



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その晩、姉御は少し遅れて来た。
「こちらが私等の(担いでいる)代表ですわ」
姉御、最初は穏便に話をしていたが、段々とボルテージが上がって来る。
某冤罪事件でギュウギュウに記者さんを詰めまくる、記者さん顔が引きつってくる。
「まあまあ姉御、記者さん今日はその話題で来ているのではないから」
見かねて、脇から助け船を出してあげた。
姉御の最後の捨てセリフ。
「まあ、他の事はどうでもいいですから」
「今度のサロンの講演会の”告知記事”だけはしっかり書いて下さい」
なら・・・、最初からやさしくそうお願いすればいいのにと思うのだが。

私はその全国紙を購読していないので、記者さん、姉御のお願いを聞いて下さったのかどうかは確認できていない。







■2011.05.29  night  管理人



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■2011.05.28  night  管理人

昨秋に再就職した職場の定期総会が済んだ。
事務局の責任者なので、活動・決算報告、新年度活動方針・予算(案)を提起するのは私の仕事。
正規雇用になって約半年、以前勤めていた業界とは異なるので、何もかにもが初めて。
決算書にしても勘定科目など微妙に違う。
事務員さんに何度かレクチャを受けて、何とか乗り切った(フッッッ・・・・。

それとかねてからのサロンの講演会。
何時もの通り、ローザ姉御が直前になって騒ぐ。
3.11で動員がうまくいかないの、会場がガラガラだったらどうしようか、等々。
今日は開場直前になって、椅子を減らすという。
参加者が少なくて空席が目立つと、講師の先生に申し訳ないという。
何時ものように独断専行、傍若無人な振る舞いの割に、往生際が悪い。

開演前、牧師様が椅子をどうしようかと困っている。
「いいから、姉御の云う事なんかほっといて」
「参加者が少なければ少ないでいいでしょ、この期に及んで姉御がうるさく云ったら私がドツいてやるから」
「何時ものドタバタはもういいから」
こう云う時は仲間と言えども毅然とした態度が必要なのだ。

結果、雨天のせいもあり何時もの講演会よりは若干参加者が少なかったが、
空席はポツリポツリ。
「いや〜、参加者が少ないと云われていましたが、盛況でしたよね」
講師の先生からは勿体ないお礼も頂けた。
姉御のいつものパターンに振り回されなかったのも、大きな成果だと思うだ。






■2011.05.27  night  管理人

そぼろ雨降る日。
非常勤役員で残っている前職場が所属する上部団体の役員会があった。
会場の案内を見たら、見覚えのある町名
JR、最寄りの駅で下車し、会場に直行せず少し寄り道した。

よく手入れの行き届いた芝生の庭。
玄関脇の花壇は花がほころんでいる。
車庫には車が二台。
白い枠の出窓には、カーテン越しに花が飾られていた。

何気ない素振りで表札を覗いた。
少し通り過ぎ振りかえり、あらためて眺めた、約30秒位だったと思う。
気持ちを整理し、少し遠回りに、否、かなり遠回りになったが本来の目的場所の会場に向かった。
背中に甘酸っぱい空気がついてきた。

強がりだが、それでいいのだと自分に言い聞かせた。
”あの子”が幸せな62歳をおくっている事だけは分かった。






■2011.05.26  night  管理人

「できるだけ若者を前に出して」
「私等(年配者)は前に出ないようにして」
「個人参加で組織とか団体とは組まずに」
「それぞれの創意と工夫で」

反原発原理お姉さん、我が意を得たりとフルパワーで頑張っているのだが、
反原発、脱原発の市民運動を進めるにあたっての指針だそうだ。
後段はまあ良しとして、
前段の若者と年寄りのくだりにはプチンと切れそうになった。
何で年寄りが若者に媚びへつらう必要があるのだ。

かつて私等は若者だった。
世の中に異議申し立てするのに、何物にも媚びへつらうことはしなかったはずだ。
分別のある大人にも、社会の仕組みを熟知した年配者にも耳を傾けなかった。
ただただ、己の未熟な感性だけで突っ走った。
その結果が、止めも無い敗退だったが、それでいいと思っている。

年寄りがウザかったら、若者は勝手に自分らだけでやればいい。
基本的に若者と年寄りが分かり合うことは無理だと思っている。
お互い遠慮せずにやればいいし。
「オイ、若いの、もう少し根性だせ」

反原発原理お姉さんのもとで動いている若者、これが又軟弱なのだ。
聞くところによると**同盟員だという。
かつて、私等は年寄りの背中を突き飛ばして走り抜けたが、
今は、年寄りが若者の尻を蹴飛ばすご時世だと思う。
若いの、生徒会じゃないぞ、文句あるか!

レトロ親爺は極端なのだ。





■2011.05.20  morning  管理人

「6.11」は私達にとって特別な日なんです。(農闘委HP闘争年表にリンク

「9.30」は、当時の両国日大講堂で開いた”大衆団交”の日。
「9.4」は、法経両学部に機動隊が導入された日。
「11.8」は、江古田の芸術学部バリケードが400人の右翼・体育会系学生に襲われた日。
極私的には「9.7」なのだ、
その心は、始めてパクられた日、誕生日の直後だったので私の”二十歳の記念日”にもなっている(笑。
日大闘争にはこんな風に幾つも特別な日が有り、挙げればきりがない。

そんな特別な日で「6.11」は、大学、そしてその傭兵の体育会の陰湿な弾圧が、あからさまに表に出た日。
壮絶な暴力が、多くの一般学生の目の前に晒された日。
従順で、性格温和な私や多くの一般学生に”火”が付くきっかけとなった日。
「6.11」はそういう意味で、日大全共闘の誰にも、特別な日。
個別、私等にとってこの特別な「6.11」の日に、あれから正確に云うと43年後に再び新たな「6.11」が訪れるとは、歴史の偶然ってのも不思議なものだ。

   に続く事を願って、当日は明大全共闘の旗も並ぶということです。

仕事の出張も運よく重なり参加するのだから、偉そうに云えないのだが、
万難を排し、「6.11」は(我らず〜っと)日大全共闘の旗のもとに参加しようと思っている。
脱原発、反原発の思いと、かつての思いを重ねて参加しようと思っている。
日大、そして全ての大学の四十数年前の学友諸君、
「6.11」は(我らず〜っと)日大全共闘の旗、芝工大全学闘の旗、そして明大全共闘の旗のもとに集まりましょう!

当日の詳細は、JUNさんがインフォしてくれるはずです。







■2011.05.15  morning  管理人

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たかしYさん、
お久しぶりです、お元気でしたか(喜。
以前お会いしてもう7年程になりますね、その節はお世話になりました。
この間、私の頭頂はすっかり寂しくなりました。

YouTube、いいですね。
拡散用にmp3とwmaのファイル貼っときますので、
各位、集会とかにご活用を(この際、著作権は無視です)

東電に入ろう
mp3
wma






■2011.05.14  morning  管理人

桃井の仲間、亡きギイチ君が好きだったアル・クーパーとマイク・ブルームフィールド


my favorite songs
Al Kooper Mike Bloomfield Alberts Shuffle








■2011.05.13  morning  管理人

育子が良い。
”あの子”の事ではない。

再就職した職場は、以前の通勤便より一便遅く、朝に余裕がある。
朝7時半、ふとしたことからNHK-BSの連ドラを観るようになった。
優等生タイプの主役より、しゃにむに自分の夢を追いかける脇役の育子の方がオジさんの琴線に触れるのだ。
個人的には、完全に主役を食っていると思う。
昨日は、夜中にバッグ両手に駈け出し家出するエンディングシーンに涙した。

昔、闘争末期。
久し振りに帰省した折、父親と衝突した。
間に入った母親は泣きながら私に言った。
「私の育て方が悪かった、お父さんに迷惑掛けて申し訳ない」
私の場合、父親ではなく母親に言われた、
「(これ以上続けるなら)もう親でも子でもない、出ていきなさい!」 

当時、私等の仲間は多かれ少なかれ親との衝突を経験している。
私の場合、成行きだったが、一昔流に云えば「勘当」までいってしまった。
正直、その時私にはその覚悟も準備も無かったが、言われたので仕方なく東京に引返した。
それから少しして仕送りがストップした。
そう云う意味では”覚悟”と”決意”の育子とは随分違ったが、家出するシーン、私の記憶とダブってしまうのだ。





■2011.05.10  night  管理人

四月から日記を殆ど更新していない、
思考停止状態に陥ると、キィボードを叩く気力が失せてくる。
そんな昨今だが、四月は仕事ではそれなりに動き回っていた。
3.11以来、首都圏や中四国へも幾度か。
元気であれば、その都度都度、旅の思い出を日記に書き留めるのだが。
少し気力が戻ってきたので、忘れない内に、東京と萩市を訪れた思い出を書き留めておく。

東京は福島に近い。
首都圏の仲間の皆からは叱られるかも知れないが、正直なところ、3.11以降のそこへの出張には少しためらいが有った。
震災当日、帰宅難民を覚悟した羽田は、何時もと変わらぬ賑わい。
品川駅でスイカをチャージし、駅そばを食らう。
一泊二日の宿は、少し贅沢してお茶の水の「山の上ホテル」を予約していた。

朝早く、界隈を散歩し、ホテルの隣の理工学部2号館に無断で入った。
守衛室は無人、館内も無人、照明は明るく点灯している。
よく訪れた研究室に入ってみようと思ったが、決して誇れる卒業生ではない、家宅侵入罪で咎められそうで、さすがにそれは止めた。
地下から屋上まで館内をゆっくり一周。
お茶の水トライアングルの”火薬庫”だった薬品倉庫は固く鍵が掛っていた。
反動と謗った教授の研究室、水を入れたコーラの瓶の口にタオルをねじ込み、警告サインでドアの前に置いた事を思い出した。
バリケードを追い出され敗退戦の真っ只中だったが、要は強権的な教授に直接”脅し”をかけた訳で、そういう意味では他大学とはかなり事情が違う。
あの頃は”後退”しつつも、まだまだ意気盛んだった。
そのドアも40年前の昔のままだった。

四月下旬、山口市で仕事が有った。
新山口駅から特急おきに乗り換え、湯田温泉駅で下車して駅から散策。
途中、「中原中也記念館」が目にとまり入館。
ダダイズムが妙に胸に沁みた。

汚れちまった悲しみに
今日も小雪の降りかかる
汚れちまった悲しみに
今日も風さえ吹きすぎる


出張二日目は萩往還を通り萩市へ。
松陰神社を散策。
尊王攘夷、勤皇といえば聞こえはよいが、今で云えばチョ・・・・右派。
輩出した人材も、私等流に云えばチョー・・・・「帝国主義者」
此の地は今でも学校教育で「教育勅語」を読むというお国柄、出てくる人材は今も昔も変わらない。
松陰塾門下生の末席に、日大開学の山田某が並んでいたのは今まで知らなかった。
津和野まで足を延ばそうと思ったが、疲れ果てて帰路についた。






■2011.05.07  night  管理人

3.11以後、とにかく、こちらの側は洪水のような情報過多で、
返して、あちら側は一滴の雨水ほどの情報過疎で。

センシティーブなくたびれオジさんは・・・・、
ただただ、思考停止状態が続いています。





■2011.05.04  night  管理人

東電の人殺し!
菅直人の人殺し!
オバマの人殺し!






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