my favorite songs
 
■2011.06.28  night  管理人


Dance Franny Dance


暗い曲からノー天気な曲まで、ワタシャ〜分裂症かも、右上のプレヤーOFF    
してGO!








■2011.06.27  morning  管理人

出張初日、一番機だったもので9時前には羽田に着いていた。
会議は昼から、さてどうしたものかと思案。
かつて高円寺、阿佐が谷、荻窪と中央沿線で暮らしていた。
その界隈をブラブラしてコーヒーでもと、中央沿線に足を延ばした。

高円寺南口、当時たしかサンジェルマンというJAZZ喫茶があったなと散策。
ブラブラしていたら懐かしい看板を見付けた。
1970年の阿佐が谷、私の下宿から歩いて2〜3分のところに、この店の最初の店があった。
後に、フランチャイズを展開する創業者の山ノ内さんがカウンターに立ちコーヒーを点てていた。
カウンターには何時もパイプ煙草を燻らしているチューリップハットの漫画家永島慎二が座っていた。
そうそう、ウエイトレスに可愛い娘が居た。


住宅街の街角、店の作りも当時の店と雰囲気が似通っている。
「ジャーマンコーヒーを・・・」
当時を気取ってオーダーすると、
「ブレンドコーヒーですね?」
当時、そう注文すると中焙煎のブレンドコーヒーが出てきたので、店員さんのこの返答は正解なのだ。
私の地元は、こういう居心地の良い住宅街の街角珈琲店が全く姿を消して久しい。
世の中に余裕がなくなったのと、ローカルは過疎の進行で経営が成り立たないだろうと思う、寂しい限り。



一杯のコーヒーで体を冷やして、それから阿佐が谷に向かった。
1970年の春、僅かな期間だが住んでいた駅前のアパートを探してみた。
当時、アパートの有った路地の向かいに名曲喫茶がある、入ってみようと思ったがどうも休業中。
中央沿線徘徊も、蒸し上がるような暑さにメゲて、ここで切り上げた。






■2011.06.26  night  管理人

海峡を窓の外に見ながら地ビールを注文。
炎天下、埠頭を散策して入ったレストラン、世の中、節電、節電というご時世だが、そこは空調が十分に効いており心地よかった。
ビールとエアコン、この取り合わせが無ければ私はビールを飲まない、勿論、エアコンでなく自然の涼風でも良い。
それにカレーを注文。
私の世代では珍しいと思うが、私はカレーが好物ではない、しかしご当地名物だと勧められ、敢えて”焼きカレー”に挑戦。
ウ〜ン、まあ、まあだった。


東京経由、出張最終日の小倉での会議は昼前に終わった。
駅で時刻表をみると小倉から門司港までは僅か14分、これはと各駅停車で足を延ばした。
今回の出張はミニノートPCもデジイチも持たず、バッグの中は着替えと会議資料、それにコンパクトカメラのみで身軽。
関門海峡岸壁そばの海峡ミュージアムを見学。
旅行鞄のポケットにカメラを入れ、歩きながら何処でも適当に写しまわる。
「お客様、館内は撮影禁止です!」
調子に乗って館内でパシャパシャと写真を撮っていて注意を受けてしまった(汗。


門司港から博多までは在来線で90分程、帰路は快速電車を利用。
往路は博多から小倉まで新幹線のぞみを利用したから所要時間は僅か16分だったが、在来線はその5倍近くの所要時間、小旅行だと思い乗った。
乗客が変化に富み、丁度、下校時間帯の制服の高校生が次から次に入れ代わる、それに車窓の景色が新幹線のようにぶっ飛ばないので身近に感じられ飽きない。
博多で地下鉄に乗り換え出張最後のターミナル福岡空港へ、これだけは欠かせないノルマの妻への土産を買いこみ帰路についた。






■2011.06.21  morning  管理人

小学生の頃の記憶は、官舎の玄関に咲いていたクチナシの香りと勤評闘争。
取り合わせがなんとも奇妙だが、あの頃、当地の先生の労働組合・日教組は全国的にも最強の地だった。
先生が校門にピケを張って登校できなかった事が何度かある、
学級通信を読んだ父が、顔をしかめていた記憶もある。

ある日、父から「今日は学校へ行かなくてよい、家から出るな」と言われた。
小雨のなか、大勢の先生が我が家の門の前に集まり、何やら大声を出していた。
後で父から聞いた話だが、私の学級担任もその中に居たらしい。
記憶は定かでないが、1959年の頃、私が小五か小六の頃のことだったと思う。

私は小五から小六まで同じ学級担任で、その間ずっと続けて級長をしていた。
当時、私の小学校では、生徒の選挙ではなく、先生に指名された生徒が級長に成るのが習わしだった。
二年続けてその指名を受けた訳で、多分、私は先生のお気に入りの生徒だったと思う。
子供心にも、私は先生に気に入られているなと分かっていた。
その学級担任が私の家まで押し掛け、玄関先で(抗議の)大声(シュピレフコール)をあげていた。
子供心としては何とも整理がつかない状況だった。

 香りが絶えないようつぼみを追加

この勤評闘争で、教員だった私の伯父は県教委から処分された。
校長だった伯父は、教育委員会から命令された部下の先生の勤務評定票の提出を拒否したらしい。
処分は校長職から平の教員への降格だった。
この時も父は「兄貴は馬鹿だ」と顔をしかめていた記憶が残っている。
父と伯父は、兄弟が相違える立場だった訳で、
反権力の私のへそ曲がり根性は伯父から受け継いだものだろうか(笑。
多分、この直後だったと思う。
時代は60年安保になだれ込んでいった。

明日からまた出張、二泊三日だが日々移動、移動距離は日本列島を縦断できるほどやたらと長い。





■2011.06.20  morning  管理人

朝、食卓に着くとほのかな香りが。
クチナシの花が二輪、茶碗に活けられている。
昔、小学生だった頃、玄関先に背丈ほどのクチナシの木が植わっていた。
梅雨の今頃、その頃は庭中に甘い香りが充満していた。
花の香りは不思議なものだ、その頃が走馬灯のように思い出される。



JUNさんから回状が送られてきました。
コメントは
>悔しいですが今のところNHKの影響力は大きく、番組中で取り上げられるであろうアンケート・グラフをイタリア並みとまで行かなくても「No!」で埋め尽くしたいと思います。

↓ココをヨロ
どうする原発 NHKスペシャル 、
”フクシマ後”の世界〜私達は原発とどう向き合うのか〜 7/9(土)19:30〜
あなたは、今後、原子力発電所をどうすべきだと思いますか?
アンケート 





■2011.06.18  night  管理人

「貴方、何時もお土産沢山買ってきてくれるから嬉しいわ」
「でもね、何故、東京のお土産の一つが”讃岐うどん”なのですか?」

これを説明するには少し長くなった。
有体にいえば、決して私等は讃岐の出身ではないが、讃岐の地で立身出世した同期生がいて、関東の同期会にそれを毎回寄贈してくれるそうだ。
有難いことだが、私の場合はそれを羽田経由手荷物ではるばる持ち帰えらなければいけないので、強烈に重かったのだ。
さらに妻が云う。
「仕事のついでとはいえ、そんなに何度も何度も東京へ行って楽しいのですか?」

うん、それはいい質問だと、ここぞとばかり少し斜めに構えて、妻に答えた。
「私はね、東京にぜ〜んぶ残して帰って来た」
更に、斜め上を見ながら、満身に気合を入れて続けた。
「私の友、私の青春、二十歳の私、全部を、残らず東京に残して来たからね」
「東京に行けば、二十歳の私に戻るような気がしてね・・・」
この時、居間にLilyさんのBGMでもかけていれば少しは雰囲気も出たのだろうが、
妻の返事は、「アッ、そう」で終わりだった。

 出張の合間に渋谷で観た映画、おば様達で一杯でした

東京二泊目の夜、新宿ルノアールだったか、その後の居酒屋でだったか、明大全共闘さんと”あの子”の話題で盛り上がった。
明大全共闘さんも「あの頃の”あの子”に会いたい」そうで、その想いをホームページに埋め込んでいるという、私と同じだ、皆同じなんだと嬉しくなって瞬間的に気分が高揚した。
「あの子に電話貰ったのが去年の4月だった」
「あれからもう1年以上過ぎてしまった」
「そうだ、俺、今から”あの子”に電話してみようかな」

しかし無謀な思いつきは、すんでのところで明大全共闘さんに止められ思いとどまった。
「時間が時間だし、止めといた方がいいのでは?」
お陰で、十五で出会い抱き続けた私の青春の残骸は、未だ”崩壊”せずに残った。
東京に二十歳の青春、
当地に十代の青春、
映画のようにうまくいくはずがないと、
そう云う事で、日和見的に未だ電話はしていない。






■2011.06.16  morning  管理人

「ヘエッ〜、経済学者はそう考えるのだ」
結構、ネットでは有名な経済学者と称するサイトを以前から定期的に見ている。
私と対極の発想ではあるが、経済学見地で物事を論ずるから、それなりに興味があった。
例えば、農業は日本にとって不要な産業とか。
そんな発想は全くもって持ったことがなかったので、そんな発想をする学者が居ること自体が私にはある意味新鮮だった。
当然、TPP、原発は推進論者。

3.11が起きて以降も、興味深くそのサイトを見続けている。
最初の頃、色んなデータを出し原子力エネルギー政策の継続の必要性を執拗に説いていた。
それが日に日に、論ずる事が荒っぽくなってくる。
恣意的なデータの引用、詭弁とも思える論法。
最近に至っては所謂「ヘイトスピーチ」に近い論法。
思うに、学者としての冷静な論法から完全に逸脱している。
劇画ではないが、「お前は既に死んでいる(破綻している)」

2011年6月某日、昭和42年卒県立***高校・関東同期会+α

マスコミの報道にも目に余るものがある。
ここに至って「原発が無いと雇用に不安が残る」とキャンペーンの残骸を張り続けている。
住み続けることさえ不可能な地域で、それでも原発依存の雇用に一途の望みを掛ける者がいると報道している。
垂れ流し、捨電する程の発電量を背景に、増長する経済発展が無ければ維持できない巨大化したマスコミ、原発に依存しなければ今後の生業の目途が経たない己の姿を、マスコミ業界はその失業者に重ね合わせているのだろう。
現政権からすれば”逆噴射”になると思うが、エネルギー政策の見直し、浜岡原発の再開停止を言い放った直後からの、マスコミの一斉の菅降ろしキャンペーン、
馬鹿な私にでも、マスコミの本性が見えてしまうのだ。

こうなれば、大嫌いだが、
粘れ、居座れ!
アキカン。






■2011.06.13  morningV 管理人

「オウッ・・・**、お前、よく生きてたな!」
二十歳直後から会っていないので42年振りになる。
今回、上京中、高校の関東同期会に参加した。
三泊四日の出張だったもので、仕事の懇親会、6・11前夜集会、同期会と今回は三夜をフルに活用した訳だ。

1967年の春、42年振りに再会した彼は就職で、私は日大への進学で東京に出てきた。
彼は家庭が複雑で進学をあきらめ就職を選んだ、進学校だった私等の高校では極少数派の選択肢だったはずだ。
私は桜上水に下宿、彼は桜上水から幾つか先の駅の社員寮に入っている。
同じ沿線でもあり、彼は頻繁に私の下宿に来た。
何をしに来たかというと、私に借金を頼みに来るのだ。
彼の会社は今では一部上場の大手の電気メーカーだが、その頃は寮費を払うと手元に殆どお金が残らなかったらしい。
だから、信じられないだろうが仕送り1万5千円だった貧乏学生の私の所へ勤労青年が借金に来たのだ。
それでも数少ない同窓、同郷の仲、貸して、戻して貰って、又、貸して、そんな関係が続いていた。

「お前な、学生運動に入ってから、人が変わったんだよな」
「特に、捕まった頃から急に変わってしまって」
「覚えているか?、お前、俺に、もう訪ねてくるなって云ったのを」
私にはそんな経緯は、記憶の片隅にも残っていない、
だから、彼はそれ以降私の所へ来るのは止めたと云う、1968年の夏で付き合いが終わっていた。
「ヘェ〜、俺はそんなひどい事を言ったのか?」

「次、来た時には又飲もうよ」
終電間際まであの頃の話に花が咲いた。
1968年の夏に途絶えた友情が、42年経って再び蘇っていた。
全〜部、もとはと云えばミヨちゃんの御蔭だ、有難う。





■2011.06.13  morningU 管理人

サロンの長老からだったか、誰から聞いたのだったのか定かではないが、
反原発原理お姉さんがつい最近、言葉の端にこう言ったそうだ。
「私は革命家ですから」又は、「私は革命家に成りますから」
何れの言葉でもいいのだが、
状況は、極一部の人をしてここまで云わせるほどなっている。


 仲良しの議員さんHPから無断借用しました(汗。

何処かのネットで著名な精神科医が、
「起きてしまった事を(対処のしようが無いので)無かった事にしようとしている」と書いているのを見たことが有る。
数日間、東京に滞在して、この精神科医が云っている事がよく分かった。

かつて、俺たちゃ、
世の中、ひっくり返す事も、
世の中、1ミリも動かすこと出来なかったので負け惜しみだが。
み〜んな、何事も無かったかのように、
そして、これからも何事も変わらず、何事も起こらず、
彼の地は特別で、自分等は未来永劫、変わらず暮らしていけるかのようにふるまっていた。





■2011.06.13  morning  管理人

「管理人さんの”あの子”のエピソード、楽しみに読んでいるのですよ」
「それで、その後は?」

6月10日夕刻、新宿ルノアールで久し振りに会った明大全共闘さんにそういう風な事を言われた。
私のホームページは「あの辺の時代(ウララさんがそう言っているので)」と「あの子」の二つがテーマになっているから、そう言われると嬉しいやら恥ずかしいやら、汗が吹き出しました。
しかし明大全共闘さんの二の句は、
「実はね、私も少しだけ”あの子”をホームページに埋め込んでいるのですよ」




さあ、その下りが何処にあるかは、皆さん探してみて下さい。
明大全共闘さん真面目だから、私のHPのように、インデックスは付いていませんから(笑。
どうしても探し当てられない方は、直接聞いてみて下さい。

ア〜ア・・・・・、
云っちゃった。





■2011.06.12  night  管理人


会場で写真を撮りながらふと後ろを振り返った。



眼に沁みるように赤の一点が映った。
タオルの間から演壇を見つめる眼差しは、40数年前のそれと変わらない。
奇をてらうパフォーマンスの域を完全に超え、私は揺るぐことの無い”決意”と受け取れた。


皆さん、お疲れさまでした。
やっと我が家に帰ってきました。
取り合えず、フォトレポート。






■2011.06.09  night  管理人

出張先です。



たかし・Yさん、
明日ですね






■2011.06.07  morning  管理人

土地との相性が良かったのか大きく成長し、二階の屋根を超える高さになっている。
高い木の上、下から見上げてもなかなか見えないが、バレーボール程の大きな花をつける。
我が家のランドマークはこの泰山木。
この時期、その花がポツリポツリと咲き始めた。



三脚を持ちだし、露光5秒ほど。
遠くからズーム一杯のオートフォーカス。
夜の庭、大きな白い花だから写るだろう試してみた。
AFだからやはりピントはイマイチ。
でもさすがデジイチ、街路灯の僅かな光だけで、フラッシュ無しで撮れた。





■2011.06.06  morning  管理人

早々と梅雨入りした割には、それほど雨振りが続かない。
週末、一時パラパラときただけで、後は薄曇りか晴天。
日曜の早朝、庭には涼しい朝の冷気が漂っている、
朽ちかけたベンチで草木をボ・・・・・ッと眺めゆっくり珈琲を飲む、
私にとっては、こういうのを贅沢という。

「**さん、水曜日、休み取ったらどうですか?」
先日、事務員さんからそう声を掛けられた。
そういえば、今の職場からお声が掛った時、幾つか条件を出した。
「出来れば週4日の勤務で・・・・」
「給料はそんなに要りませんから・・・」

しかし、初めての仕事、勤め始めると不慣れもありそれなりに忙しい。
それに頻繁に泊りの出張が入って来る。
勤め始めて約10ケ月程になるが、所用で休みを頂いたのはほんの数日。
しかし、以前の職場のように経営責任を負う立場でなく、仕事にストレスと云うものが殆ど無い。
だから、休暇が無くてもそれほど苦になっていない。

今週は週後半に出張が入っている。
「水曜日に休み頂くと、殆ど(今週は)休む事になるけど、いいですか?」
そういって事務員さんの顔色を伺ったが、それでもいいという表情。
毎週毎週、週4日勤務はそれこそ贅沢すぎるが、珠にはいいだろうと休みを頂くことにした。
10日は、たかし・Yさん、'70年代後半さん、明大全共闘さん、930の仲間、それに参加を公開していないかつての学友諸君、多くの皆さんとお会いできる。
11日は集会前半までだけれども、芝公園の6.11集会にも参加するつもり。


☆くり返すな! 原発震災/つくろう! 脱原発社会 6.11集会&デモ
 日時:6月11日(土)集合13:00 集会13:30 デモ出発14:30
 場所:東京・芝公園23号地(東京タワー下・地下鉄三田線「御成門駅」5分)
 デモコース(予定):芝公園→新橋→東電本社前→日比谷公園流れ解散
 ※雨天決行 参加費無料
 呼びかけ団体:原水爆禁止日本国民会議 /プルトニウムなんていらないよ!東京 /原子力資料情報室 /
 日本消費者連盟 /ふぇみん婦人民主クラブ 、など



 my favorite songs The Zombies Tell He No






■2011.06.04  night  管理人


  Bonnie Raitt "Pride And Joy"





■2011.06.03  night  管理人


Janis Joplin Summertime








■2011.06.03  morning  管理人

3.11を契機に再稼働を始めた反原発原理お姉さん。
ここでは尊敬の念を込めてお姉さんと呼んでいるけど、本当は私の高校の後輩に当たる。
お姉さんとは6年前の2005年春、映画「東京原発」の自主上映会で出会った。
出会ったと云っても偶然ではなく、何方か忘れたが紹介された。

「電力会社や、電力会社が雇った輩に、自主上映を妨害されるかもしれないから、助けていただけませんか?」
彼女らの反原発運動に100パーセントの理解を示して手伝った訳ではない。
要は、単純な理由だが彼女が私の高校の後輩に当たるから、それと妨害を排除する「防衛隊長に」と要請を受けたから。
彼女のグループの中には、体を張って上映を守る面子は居なかった訳だ。
当日は、のぼり旗のポールを握りしめ、会場入り口付近をウロウロしていただけだが。

私には、彼女の周りに集まっている方々は苦手だった。
エコ、自然食、インテリジェンス、非暴力、云々・・・・・、
議論は百回でも重ねるけど、多分、直接行動は・・・最後までしないだろうと思う。
私は単ゲバ派だったから、こういうグループは昔から苦手。
でもそのループを破って、彼女は妨害の恐れのある自主上映会を決行するという、
自主上映会の決行と、妨害の実力排除という明快な構図は、単ゲバ至上主義とも相性がよいから協力した。

その反原発原理お姉さん、ここ数年はプライベートな事情もあって余り活発な活動はしていないようだった。
それが3.11だ。
まず、反原発のメーリングリストを立ちあげるから入れと云う。
次は、反原発のネットワークを立ちあげるから参加してと云う。
メーリングリストは登録した。
メーリングリストに飛び交う情報を見る限り、インテリジェンス溢れる啓蒙に満ちており、やはり私の単ゲバ至上主義にはなじまないようで、
ネットワーク参加は・・・・、躊躇している。

注釈 
単ゲバ派 : 単純ゲバルト主義者の略で、議論よりも先に(実力)行動を起してしまう者、要はお利口さんには成れないお馬鹿さんの事
、決して特定某セクトの方々を指しての表現ではないので、念の為。





■2011.06.01  night  管理人


But It's All Right

リリィが好きだなんて、
私だけだと思っていたのに、
意外。
そっか、テーマソングなんだ。

そう云えば、
今は自称”革命家”の反原発原理お姉さんも、確か、「Lilyさん」だった。
・・・・・・・?、
分からない人は分からなくてもいいのだ。







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