my favorite songs
 
■2011.10.26  night  管理人



写真のプロパティ
NIKON COOLPIX F/2.7 1/12秒 ISO-400 2011/03/10 21:14

PCの写真フォルダーを見ていたらレモンの写真を見付けた。
確かお茶の水で会議があった夜のこと、
山の上ホテルに泊り、お茶ノ水駅から少し坂を下がったガード下の中華屋さんに行った。
そこは餃子が旨いと聞いて繰り出した。
画材屋レモンは既に閉まっておりシャッターをパチリ。

それにしても3.11の前夜だった訳で、
翌日の夜、まさか羽田で帰宅難民になるとは予想だにしなかった。





■2011.10.25  night  管理人

ぼんぼおやじさん
>閑話休題
最近、年のせいか思い出すことが多い。

思い出話の中に、懐かしい画材屋”レモン”の名が。
確か4〜5階に喫茶店を併設していました。
名物はその名の通りレモンジュース。
レモンリキュールで味付けした名ばかりの昨今の偽物と違い、正真正銘のレモンの生汁。
酸っぱさは半端でなかった。

その昔、アルバイト先で知り合った女子大生とデイトで映画を観に行きました。
有楽町の丸の内ピカデリーは満員で立ち見。
ラヴ・ストーリー「ある愛の詩」
館内はアベックで一杯。
その後、レモンに立ち寄りました。

二十歳をとうにすぎた私でしたが、田舎出の身、デイトの中身はうぶな高校生レベル、
彼女の瞳と、ゴーっと通り過ぎるレモン色の電車を交互に見つめ、それで終わりましたが、
それでも時間の経つのを忘れる楽しい時間でした。
後にも先にも唯一度の貴重な酸っぱい体験。

この稀な体験は繰り返し繰り返し思い出します。
HP内をgoogle検索してみると、この思い出を日記に書くのは三度目になります(笑。
それほど、我ながら貧しい青春だった訳です。
2006.11.12の日記を見に行く
2008.5.6の日記を見に行く

ぼんぼおやじさんの御蔭で、落ち込んでいるときに楽しい、かつ切ない思い出をまたまた思い出しました。
少し心に潤いが、
ありがとう。





■2011.10.24  morning  管理人

沖縄が棄てられ、
フクシマが棄てられ、
そして、皆が棄てられ、
この国は、もう何もかも棄ててしまうつもりなのだろうかと、
そんな妄想にとりつかれています。



そんなで、
ここのところ”ほうけ”気味です。

反復する度にそのわずらいが重くなっているようで、
人並みに、もの思う季節のせいなのか、
それとも初老性**かなとも思うこの頃ですが、
すんません。





■2011.10.13  night  管理人

「ところでミヨちゃん達は何時帰るの?」
昨日、もう直ぐ昼時という時間帯に携帯メールが着信した。
我が職場の近くのレストランへランチにお出ましになっているという、なので出て来いとのご命令。
当方は既に昼弁当を確保済み、なので速攻で早飯、コーヒーで付き合おうと正午チンにノコノコ出掛けた。


ミヨちゃん、先週から帰省していて明日には帰ると云う。
昨日の明日と言えば今日なのだ。
「ヘエ〜、明日なの」
「偶然だね、オイラも明日上京だよ」
「それで便は?」
残念と言うかラッキーというか、彼女とは一便違っていた(笑。

そういうことで今日は、横浜です。






■2011.10.07  night  管理人

トホホ・・・・なのだ。
家を建て替えた時に、勢いで主要な電気製品を買い替えた。
丁度10年一回りして、どいつもこいつもガタが来始めた。
一番最初が洗濯機、
今のはやたら電子制御部品が組み込まれている、調子悪くなると素人には手が出せない。

「テメエこの野郎、こうなったら徹底的にやってやろうじゃないか」
諦めが悪かったのは人生でだた一度だけ、バリケードを追い出された時はそう決意した。
しかしその時以外は性格的に極めて従順、簡単に諦め合理化するのが私の常。
そう云う事で不具合イクオール即買い替えに。
それ以後、電子レンジ、ガスコンロ、掃除機云々と続き、
戦後日本社会で美徳とされている買い替え消費に走り回った訳。
経団連からは表彰状を頂きたい思いだ。

一連の買い替えで最難関は冷蔵庫だった。
調子が悪かったわけではないが、今のが小型で使い勝手が悪く、大型にと珍しく妻と意見が一致した。
加齢すると買い物の回数を減し、買い置きを増やす生活に、家族が少ないと小型でいいとは限らないのだし、それに大型になるほど使用電気料が少なくなる、冷蔵庫に限っては一般的法則と逆なのだ。
そう云う事で、今より電気代が半分ほどになる一番デカイい奴をチョイスした。

設置スペースと玄関ドアをきちんとメジャーで測り、収まる事は確認し電気店へ。
機種とサイズを決め家に帰り、玄関を通り途中のドアを開けた途端、頭が凍りついた。
玄関ドアも通過できる、
設置場所も収まるのだが、
途中のドアが・・・・・・。
どう測っても、ドア板を一時撤去しても、通らない。

「貴方はね、もう妥協ってのを知らないの!」
仕方ないから、もう一回り小型のに変更したらという妻の提案を頑と退けた。
人生二度目の”非妥協”。
ここまで来て妥協できるかというのが私の思い。
結局、ベランダからクレーン車での搬入と相成った。

「ねえ貴方、録画ができないのよ?」
昨晩、妻が困ったように訴える、
今度はDVDレコーダーの番のようだ。
トホホなのだ。






■2011.10.06  morning  管理人

>さて、米田さんは「明大全共闘議長」ではありません。「明大学生会中執委員長」です。
米田さんは全共闘結成時は獄中に居ました。
獄中でなければ間違いなく「明大全共闘」代表になっていたでしょう。
明大は議長制ではなく代表です。
ML派と中核派が69年9月に「全明全共闘」を立ち上げましたが、全学的に認知されたものではありませんでした。それは議長でした。

明大全共闘さん wrote 1968BBS 2011.10.5

高校、大学を通して在学中、いわゆるポツダム自治会(学生自治会)には一切ご縁が無かったもので、
学生運動で一番偉い人は”議長”と信じて疑わず、そう思い込んでいたもので、
米田さん、てっきり議長とばかり思い込んでおりまして、
相済みませんでした。

MLと中核が69年9月に全明全共闘を立ち上げたと書かれていますが、それは同時期の9月5日に全国全共闘が結成されているので、それに向けて無理やり結成した全共闘だと思います。
先日の930の会同窓会で、「語ろう始まりのとき」という集いを持ちましたが、
日大全共闘の結成と全明全共闘の結成は全く異質なものだと思います。






■2011.10.05  morning  管理人

同窓会会場で、芸闘委委員長の発言を遮って、次のような突っ込み質問が出された。
レコーダーを回し忘れていたので、発言の正確な記述ではなく、私のオリジナルな要約だが、
「それで・・・、6.11以前、芸術学部には(闘争の火付けになるような)アカは居たのか?」
「普通、闘争が勃発するには必ずそれを画策していたアカが居るはずだろう」

この質問から見ても、
日大全共闘のもっとも際立った特徴の一つは、他大学の学生運動には絶対存在しない人種が居た事。
そして、この質問の主に云わせると、秋田議長も、矢崎副議長も、田村書記長も闘争を画策した”アカ”なのだ。
理闘委の私の学科のクラス幹事も、まさしくこの人種であり、
全共闘の中でもこの手のタイプは、心優しい、愛すべき野郎が多く、最高で、最強だった。

この種の人間のシンプルな価値観は”正義”。
とは云っても世の正義は相対的なもので、正義に絶対的なものは無いのだが、
日大闘争が他の大学紛争と違ったのは、白昼、目の前で、極めて分かりやすい”劇場”を多くのものが見てしまった事。
それは、アカと呼ばれる者、そしてアカと呼び捨てにしていた当人達、またそのどちらにも属さない私の様な多くの者が、極めて分かり易い”不正義”を見てしまった事に有る。
その結果、当然の事として左派も、中間派も、そして一部の右派も全共闘になだれ込んできた。

しかしな・・・・・、
40年経っても、仲間のアカ呼ばわりが聞けるとは、
生きてて良かった(笑。






■2011.10.04  night  管理人

「なんだ、行ったら爺さんばかりじゃねえじゃないか・・・・」
9.19の反原発集会に参加していたら、会場に日大全共闘ののぼり旗を見付けたそうだ。
彼はてっきり現役日大生が今なお頑張っているのだと勝手に思い込み、嬉しくてその旗の下に参じたそうだ。
当然、旗の袂は圧倒的な爺さん連で埋め尽くされていた訳だ。
結局、三大学共闘の先頭で、青色のぼり旗を持つハメになった腹の出たオッサンがその当人。

明大はそれまで「明大土曜会」という旗を掲げて参加していた。
日大が名乗る「日大全共闘」一代限りと違い、明大は永い永い闘争の歴史があり、その歴史ゆえに単純に「全共闘」と銘打つ事には難があり、諸先輩方に配慮し、そうなっているという説明を受けた。
しかしながら、私も含め「土曜会」では大衆性や一般性にも欠け、かつ認知度はほぼゼロ、部外者には訳が分からない。
そこで悩んだかどうかは知らないが、一念発起し9.19で初めて「明大全共闘」の旗印が登場している。



写真は何れも芝工大全学闘ブログより拝借

それ見ろと言いたいのだが、その効果は早くも表れている。
明大全共闘さんが言うには、旗に若者が近づいてきて写真を撮らせてくれと言ったらしい。
「この旗が、父さんが話していた(やっていた?)全共闘の旗なんだ」
のぼり旗と当時の旗では随分と違うと思うのだが、
若者はそう云う風な事を行って、感慨深げに写真を撮って行った云う。

当然だが、
私等の子供世代には、全共闘や全共闘運動は幻な存在な訳で、
例え、老いぼれた爺さんが旗を担いでいたとしても、実物を見るのは初めてなのだろう。
父さんが話していた全共闘が、
普通に暮らしていたら、その痕跡さえ見ることは無いだろう全共闘が、
老いぼれたとはいえ、そこに旗を立てて立っていたと云う事なのだろう。






■2011.10.04  morning  管理人

「(日大は)熱いなあ・・・・」
隣の隣に座った米田さん(明大全共闘議長)が感心している。
10月2日の日大930の会同窓会は、集合写真の看板通り、「(日大闘争)始まりのとき」を語り合う集いからはじめられた。
話が1968年の6.11の日大で初めての200mデモについて及んだ時、諸説相乱れて議論が集中し始めた。

私は6.11の頃はまだ無関心派、当然に当日は参加してないので事実は知らない。
それぞれの証言によると、6.11の経済学部前の騒乱の後、幾つかのデモが行われた事実があるようだ。
水道橋まで行ったデモ、
錦華公園まで行ったデモ、
あれだけの騒動だったから自然発生的に幾つかのデモが有ったと思う。

問題は、証言者それぞれが当事者であること。
伝聞とか二次情報でなく、体験者として当日の事を証言している。
日大闘争の正史としての200mデモは錦華公園へ行ったデモだとされているが、
証言を聞いていると、水道橋へ行ったデモもそれと殆ど同時だと聞きとれる。
皆々、今更に熱かったのだ。

先日、太田龍氏が残した書籍を学術研究を目的に希望される方へ無料で貸し出しを行うWEBサイトの管理者からリンクの要請がありました。
930の会同窓会で上京していたためリンクが遅くなりましたが、リンクページに追加します。
太田文庫北海道



管理人日記トップに戻るトップページに戻る