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■2012.03.29  morning  管理人

通勤はJRの駅から城山沿いに職場まで20分程歩く。
週初め、固い蕾だった桜が咲き始め、中には気の早い樹があってもう五分咲き状態。
この通勤路沿いには、私の人としての原初の記憶が残っている。



幼稚園に通う前だから多分四歳の頃の記憶だと思う、
官舎がこの城山のたもとにあり、五つ違いの兄とこの城山を駆け巡り遊んだ。
兄の自転車の後ろの荷台に乗せてもらって城山のスロープを掛け降りた、
止まらなくなり急ブレーキ、私の小さな体が荷台から空中高く回った記憶。

城山の茂みの中、その頃はまだ戦時中の防空壕が残っており、兄の探検の後ろについて入った記憶、
防空壕の探険から帰った夜、体中ノミとシラミにたかられ、家族中が大騒動した記憶。
何時も兄のズボンの裾を掴んでついて回った記憶、
父が居て、母が居て、姉が居て、そして兄が居た、そんな幸せでほんのりした記憶が頭の片隅にかすかに残っている。
歳のせいだろう、記憶は限りなく遡り、これらが私の原初の記憶でそれ以前は無い。

悪態つこうつこうと思いつつ、ハタと気が付くと前の日記からもう10日近く経過。
悪態も付かず感傷に浸る我が身の軟弱さと、
老いさらばえていく我が身が恨めしいが、
それはさて置き家族が息災な事が唯一の救い。

春爛漫、私の通勤路があの頃と同じように満開の桜で”桃色ロード”になるのももう直ぐ、
桜の中を、天国の父母、そして兄が走っていく幻覚を見そうになる。





■2012.03.20  night  管理人

悪態ばかりついているのと、仕事が立て込み少し落ち込み気味。
3月は年度末、然るべき監督官庁の監査が月末に。
相手は四角四面、糊しろ無しのお役人、しかも若造なのだ。
4月が明けると定期総会に向けての議案審議の理事会、そして5月に定期総会が。

零細法人な訳で、その議案、誰が作るちゅうたって私が独りで作るのだ。
それに並行して公益法人制度改革に伴う社団法人への移行作業。
それぞれに事務方ならではの苦労が・・・・、
レトロ親爺の仕事は、かくの如く立て込んでありんす(泣。

 久し振りに山間ドライブ、菜の花が

先週は出張の合間をぬい、今年から幹事県を引き受けたブロック協議会用の口座の開設に奔走した。
中央や各県から会費や旅費の振り込みを受けるのと、各県への費用の払い出しには専用口座が必要。
然るべき法人なら、法人の登記謄本と印鑑証明があれば、代表者名儀の口座がすんなり開設出来るのだが、
ブロック協議会は任意団体なのでそんな物は無い、口座開設を申し込んだらあっさり拒否された。

口座開設には団体を公的に証明する然るべきものが無いと駄目だと金融機関はのたまう。
その金融機関は私の法人の会員団体なのに慣れ合ってはくれない、コンプライアンスとかなんとかでつれないのだ。
仕方ないから、先月開いたブロック協議会総会の議事録を急遽作成した。
議長他に議事録署名をお願いし、身便証明書を添えて申し込み。
やはりこの国は、印鑑ベタベタの書類がなければ通らないのだ。

口座開設の一つがこれなのだから、
宮仕えの事務方は、目に見えぬ仕事が山盛りなのだ。
腹癒せに、これからも益々悪態つくのだ。


マイ・フェイヴァレイト・ソングスは「雲に乗りたい」。

明大学館でマドンナが逮捕され、彼女のアパートへ証拠隠滅に走った1969年4月12日の夜。
アポロ11号が月面着陸、1969年7月20日。
負けて負けて、負けて・・・・、
マドンナが私等の前から姿を消し、闘争も、そして自分の人生にも、
何にもかにもに展望が見えなくなったあの頃、
1969年夏、新高円寺のアパートで、
切なく、哀しく、スコーンとこの曲にはまり込んでいた。






■2012.03.19  night  管理人

降ったり止んだり、出張中は定まらない天気だったが、帰ってきた途端に真っ青な青空、恨めしや。
今般の一連の出張のトリは大阪、ここは私には何とも勝手が悪い。
東京ならそれなりに土地勘もある、移動や電車の乗り継ぎも次が読める。
それが大阪では皆目分からない、自分が何処に居て何処を通って行けばよいと云う事が分からないと云うことはホントに疲れる。
週末、疲れ果てて帰着。

出張中、ある種の方々には教祖様ともいえる方が亡くなっている。
数々の功績というか文学的・思想的偉業を遂げたと言われているらしいが、このじい様がどんなご利益や値打ちがあったのか、私の頭のレベルでは理解が出来てない。
まあ、私の程度の頭で理解出来たと言えば、教義を会得した方々や教祖様自身の値打ちが下がるだろうから、
そういう意味では私も含めて”理”に乏しい無知なる大衆の存在は、世の中、上から目線で見るハイクラスなインテリの方々には値打ちが有るのだろう。

教祖の偉業は、あの時代の運動に多大な影響を与えたと、死していく人への礼儀も含め盛んに書きたてられている。
あの時代の一部ではあるが当事者である私(等)は別に影響を受けたという自覚は無い。
個別、日大闘争は書を通して、思想を通して、煽られた覚えは無い。
私(等)が煽られ”異議申し立て”に突き進んだのは、組んだ友の腕の温かさ、血に染まった友の顔、振り下ろされるジュラルミン楯や鉄亜鈴入の拳だった訳で、
別に、書に書かれたご高説な思想であった訳ではない。

このじい様、私の頭では理解できぬ負い目(笑)もあって、今までは能書きの多い○共と同じレベルで単に嫌いなだけだったが。
死ぬ間際、抜かしやがった。
原子力は科学的進歩の一つ、そのエネルギーは人類にとって必要不可欠だと。
私は、教祖の思想的営為がどれほどの偉業か理解できぬ馬鹿だから、死者にムチ打ち云うが、
「アンタ、ホントにそう思ってるの?」
「とっとと墓場に入って二度と出てくるな!」

まあ、こう書くと、
「この低能、無知野郎め!」と、
信者は逆上するだろうけど、
どう責められようが、
分からない者ほど強い者はないのだが・・・・。

ア〜ア、今日も・・・・・、又、悪態ついてしまった。
そう云えば、知り合いにもこのじい様の”信者”が居たっけ、
ヤバァァ!






■2012.03.12  night  管理人

「**くん、誰かお家借りてくれる人いないかしら?」

先日の金曜日、東京行の飛行機に乗り込み、携帯電話の電源を切ろうとした瞬間に着信。
スチュワーデスに・・・じゃないか、今はキャビンアテンダントちゅうのかに、
こっそり隠れて携帯電話を取った。
「御免、ミヨちゃん、今、飛行機に乗ったところ、羽田に着いたら電話する」
そう返事して、電話を切った。

羽田に着陸する間際、滑走路にランディングする最中にミヨちゃんからメールが入った。
帰省したから、お昼を一緒しないかというお誘いだった。
ミヨちゃんは首都圏から帰省したところ、私は東京に着いたところ。
見事な行き違いだった。
帰ったらお茶しようと約束した。

今日、仕事を終えてデート(笑。
この茶飲み友達との付き合いは妻にも逐一報告しているから良いのだ。
会って開口一が冒頭のセリフなのだ。
ミヨちゃんは此方に生家と貸家を所有している。
その不動産管理に時折帰省しているのだが、その貸家が空き家になって久しいと云う、誰か借り手を探しているらしい。
彼女、私のような無産階級と違い、資産家なのだ。
ほぼ一時間、ブルジョアとプロレタリアート双方の情報交換に花が咲いた。

 おニューな旗を片手に、ややふて腐れて立つ姉御、とにかく寒かったのだ

出張の狭間の日曜日、
集会の主旨には勿論異論は無いが、(私には)評判の悪い当地の「原発いらない3.11集会」
「歩道を二列」には空いた口が塞がらなかったが、それでも、それでも参加した。
集会は一言で言うと、”共産党”が満身の力を込めて動員していた。
旧社系もそれなりにだったが。
普段はショボイ集会が、その甲斐あってか当地では前代未聞の参加者四ケタまで達した。
でも私なりに心配事も増えた、
アタシャ〜了見狭いから、今後、原発いらない**集会が、乗っ取られた「9条の会」のようにならないかと。

だからそうなのだ、
四ケタのデモ隊・・・じゃない、パレードが歩道を二列で歩くと、
当然、限りなくダラダラと長い、
限りなく間延びしている、
傍目で何のデモ・・・じゃないパレードか分からぬ代物に。
デモが終点につくと、「立ち止まらないでくださ〜い、早く解散してくださ〜い」と主催者がワメいている。
お前ら、警察の手先かぁ・・・・。

唯一の救いは、先頭で騒ぎまわる音楽隊の若者。
パレードが終わっても主催者の警告を無視して、サークルを組みしつこくどんちゃんカーニバルをやっていた。
かつての代々木のデモのようではない、
ここだけは統制がとれてないアナーキーさが唯一の救い。

今夜は久し振りに悪態つきましたわぁぁ〜。






■2012.03.08  morning  管理人

久し振りに平日に休みを頂き、これもチョー久し振りにプールに行っていた。
昨年の夏は一度も泳がなかったからほぼ一年振りか。
冬場なので温水の室内25mプール。
何時もは25m×40のメニューで1Km泳ぐが、一年振りだから500mに短縮。
それでも今朝は腰が重い、体が重い。
もう直ぐ64歳だから、若いつもりで無理をするとリカバリーが大変になる。

明日から出張、昨年の3.11は羽田空港で遭遇した。
今年も同じ時期に東京行き、
とんぼ返りで帰ってきて、週が明けると大阪へ、週末は広島。
新幹線沿線住民であれば鉄路で一気なのだが、最短便は空路しかない。
出張ついでに、仲間の皆と福島まで足を延ばしたかったが、微妙に予定が合わず。
予定もさる事ながら、出張に梯子での福島行きは体力にも自信が無く諦めた、残念。
若いつもりで無理をすると、そもそもリカバリー自体が困難になる。

庭の真ん中、エリカの木

出張の狭間の当地の3.11集会。
とある案内を見てプッツン切れそうになった。
当日のデモ、
「2列で歩道を歩く」と書いてある。
2列で歩道・・・・?、
2列で歩道・・・・??、
2列で歩道・・・・???。

総勢四人のデモなら理解できる。
2列×2列で四人だから、
でも確か、主催者は四ケタの参加者を集めると言っているはず。
にゃろう・・・・アホか!
デモは最低でも5列、それに”車道”だろう!





■2012.03.05  morning  管理人

しつこく昨夜に続く、
入院し、適切とされる治療を施せば、余命6ケ月とされた母はもっと長く生きたかもしれない。
否、今の医療をすれば、もっと長く生きただろうと思う。
それでも私も家族も悔いは残っていない。
確かめようがないが、母もそうだと信じている。

以前、日記にも書いた記憶があるが、息を引き取る一週間ほど前の事。
やっとの思いで父の仏壇の前に坐していた母が、振り返り私に云った。
「家に置いてくれてありがとう」
「お父さんが向こうで待っていてくれるから」
私は返事のしようが無く、下を向いて涙を隠した。
既に死期を悟っていたのだろう。
それから一週間後、母は枯れるように逝った。

勿論、母を家に置くには、それなりの苦労が有った。
遠く離れている私の兄妹も定期的に帰省し、母の面倒を見てくれた。
その中でも、一緒に暮らす妻や息子達には大きな負担を掛けた。
二人の息子は中一と小三だった、学校が明けると二人交代で祖母に付きっ切りで居てくれた。
尾籠な話だが、夏も近づいた末期、既にトイレに立てずフトンの傍の便器で用を足すようになった祖母の肩を抱え、二人の息子は介助してくれた。
用が済んだ便器を洗い流す事も、二人は厭わずやってくれた。

気丈夫な母だったが、時折、無理な事も云ったりした。
一生懸命作った食事に箸を付けず、その時期には手に入らない好物を食べたいと妻を困らせた事もある。
でも、それも余命6ケ月と限られていたから、
果てしない看病だったら、そうはいかなかっただろう。

転移癌で癒着した腸のバイパス手術を最後に、一切の治療を止めた。
それ以後、化学療法などの抗癌治療も断り、管の一本、針の一本も母の体には通さなかった。
本に書いてあるように、母の命は植物が枯れるように細っていった。
でも、最後まで寝たきりにならず、帰省してくる兄や姉、妹や孫たちと会うのを楽しみにし、母の周りは家族が絶えなかった。

病が病だからきっと痛みもあったと思うが私等には訴えなかった、
自分が選んだ選択だから堪えていたのか、それとも気丈夫だったのかは分からない。
時折、通院診察で処方された鎮痛剤を使う事も有った。
「ガンで余命を区切られ死ねるのは幸せだ」そう本に書いてある、
少なくとも家族はその通りだと思った。

私もそうだが、二人の息子達も両極端の死を看取った。
どちらが正しく、どちらが間違っているかという対比でなく、
本人、そして看取る家族に、それが出来る出来ないは別として、どちらが幸せかを息子達も学習したはずだと思う。






■2012.03.04  night  管理人

偉そうに、帰り際にポイと置いて行った。
「大往生したけりゃ医療と関わるな」中村仁一著
親の介護で帰省していた札幌の悪友が「読めよ」だって。
私は日頃読書に親しまない。
まして、「読めよ」と命令されると尚更読まない。
それが・・・・・、
朝夕のJR通勤、暇なものでついつい読んでしまった。
当該書籍、悔しいが私の実体験からお勧めする。

私は40歳を前後して両親を両極端で見送った。
人並外れて心臓が強かった父。
既にとうに頭は向こうに行っていた父の心電図がピー・・・・と止まった。
直ぐに医師が蘇生を施し、心電図はピッピッピッとまた繰り返し始めた。
それから植物人間状態で一週間程生きた。

蘇生すると、既にチューブ人間になっていた父に、更に鼻からチューブが差し込まれた。
痰を吸引するため、頻繁に口にもチューブが差し込まれた。
吸引するたびに苦しいのだろう、胸をかきむしる。
既に頭は天国に行っているのに。
その時は、それでも父はまだ生きてるのだという思いで、それが父にとって最善の処置だと信じて疑わなかった。
書籍には痰の吸引が、体に無理やりブリ込まれる点滴が原因だと書いてある、至極納得した。

二度目、心電図が止まり医師が再び蘇生を試みようとした時。
「先生、もう十分です、これ以上苦しめないで、お父さんが可哀想」
母の涙声だった
結局、そこが臨終だった。

それから半年も経たないうちに、母が余命6ケ月と私は医師から言い渡された。
「母さん、家へ帰ろう」
治療を止め、母を家に連れ帰った。
それから8ケ月間、母は自分の家で孫と一緒に食事し、仏壇に父を拝み、孫と一緒にフトンを並べて寝起きした。

母を家へ連れた帰ったのは別に特段の信念が有った訳ではない。
母はそれまでに開腹手術を二度、検査ではカテーテルも入れている。
「もう手術は嫌だ、あんな辛い痛い検査も嫌だ」
母は泣いて私に訴えた。
それ以上頑張ろうとは言えなかった。

例年8月初め、私の街では花火大会がある。
庭にソファーを出し、母を囲んで夜空に咲く花火を家族皆で見上げた。
その翌日、母は風呂に入りたいとせがんだ。
風呂はとても無理だから、浴室にマットを敷き、柔らかいシャワーで体を洗ってあげた。

「父さん、お祖母ちゃんが息してないよ」
風呂からあがり、母は気持ち良さそうに寝付いた。
10時過ぎ、祖母の横で添い寝をしていた長男坊がそう云って飛んできた。
誰も気付かぬうちに、静かに息を引き取っていた。
8ケ月ほど、偶の通院診察で貰う鎮痛剤を除き、管も針も、そしてメスとも関わらなかった母の静かな往生だった。

別に医療を批判するつもりはない、個として医療にどう関わるかだ。
私の言う両極端というのはそういう事だ。
そして、
医療と距離を置いた母の往生は、刑法的には立派な”不審死”であり、
私も何度か刑法的にその筋と関わったが、
母も往生して立派にその筋の”検死”を受けた事も記しておく。

私はかなり早かったけど、
送るも、送られるも、これからは、皆さんの番だよ!






■2012.03.03  night  管理人

腰が・・・・・・、
痛い。

久し振りの晴れ間、午前中にタイヤ交換。
軽四は簡単に済んだが、妻のは手間取った。
妻のは納車時にディラーで付けてもらっている、トルクレンチで目一杯締め付けてある。
全体重をかけてナットを緩め、フウフウ云いながら交換。
タイヤとホイルを洗浄し、乾かし、ビニールカバーを掛けて次の冬まで仕舞った。
これにほぼ半日費す。

去年の3月11日、山の上ホテルロビー

ところで、wikiで臨床心理士なるものを調べてみた。
かように難しい資格とはついぞ知らなかった。
大学へ四年行くだけでも大変なのに、指定大学院に二年、それに資格審査受験年度一年で最低でも七年掛るという。
優等生だった同窓生女子、期待を違えていなかった。
おちょくって御免なさいなのだ。

またまたところで、偶然なのだが。
この秋に東北旅行を同窓生と計画している。
夫婦でのグループ旅行なのだが、その中にソーシャルワーカーをしている同窓生がいる。
彼のカミさんが、これまた臨床心理士だという。
それも、当県の臨床心理士会の会長も務めているという。

ここは思案のしどころだ、
カウンセリングしてもらうの、どちらにしよう。
勿論、あのことでだ。






■2012.03.02  morning  管理人

今度の講演会のテーマは、
「亡国のTPPと消費税増税」
だ、そうだ。

目下、緊急かつ深刻な国難的課題が数ある中で、
我が姉御はこれだそうだ。
まあ、テーマはいいとしても、これから不規則的な檄が飛び回るだろうし、
動員がママならぬと愚痴も聞かねばならないし、
それを考えると、憂鬱になりそうだが、仕方あるまい。

臨床心理士からまた便りが届いた。
「今度会ったら、私の話を聞いて下さい」と書いてある。
妙齢のご婦人から、このような事を言われたら、只事でないのだが、
お互い、60歳台も半ばに差しかかろうという者同士。
茶飲み友達が一人増えたと思っている。

人は誰でも、心の片隅に切り刻んだ記憶を持っている。
ある時、それが関を切ったように心に大きく湧き出てくる。
私の場合、
第一波が2003年、55歳の夏、
第二波、”あの子”との心の傷は2008年の還暦同窓会だった。
彼女の場合は、それが今なのだろう。

しかし、
同窓生女子は臨床心理士、横文字で云えばカウンセラー。
カウンセラーと言えば、人の話を拝聴するのが仕事。
私の拙い理解では、
「そうですね・・・・」とか、
「そうですか・・・・」とか、
相手の気持ちに添い、話に同意することによって傷き病んだ”心”を癒すお仕事だと思うのだ。

そのプロフェッショナルに話を聴いて下さいと頼まれた。
先の返信メールで、少し冗談も込めて、私の方がカウンセリングして下さいと頼んだのに。
これでは役割がまるで反対。
はたと考えた。
どういう事だ。

聴くだけなら出来るが、
人の心を癒すような心理学を私は学んだことがないのだ。


 my favorite songs Romeo and Juliet






■2012.03.01  morning  管理人

奇なる偶然だった。

仲良しになった関東同期会の女子に人探しを頼まれていた。
周辺の同窓生に声掛けしていたら、大阪の方に居るらしい、分かったら知らせると昨年末に連絡があっていた。
先日、探している当の本人から電話が入った、親の面倒見で帰省している最中との事。
早速、その子をお茶に呼び出した。

その子は高二が同じクラス、高三は隣クラスで、お勉強がとても出来る優等生だった。
大阪の大学と企業で臨床心理士をしていると云う。
またまた、私の分からぬ職業なのだ。
まあ、お勉強が出来た子だから、きっと難しい職業だと思う。

昔話が進むにつれて、若い頃なら話せない話題に入った。
「私ね、K君から一度手紙貰った事があるけど、返事を出さなかったの」
「その事が、ずーっと心の隅に引っかかって」
「K君に一度会いたいと思うけど、所在知りませんか?」

「アイツなら、少し前に死んじゃったよ!」
K君は私も高二で同じクラス、仲良しでは無かったが人伝に彼の消息は知っていた。
「エッ・・・・・・・」
彼女、一瞬絶句して黙り込んだ。
しばらくして、
「そうなの、一度会って謝りたかった・・・・」

大阪に帰った彼女からお礼のメールが来た。
K君が死んでいた事は凄い衝撃だった事、
あの後苦しくなって、私にK君は結婚していたのか、子供はいたのか、どうしたら分かるのか聞きたかった、
分かれば気が楽になるのではないかと思った事。
大阪に戻ってあわただしい毎日の中で一人になると苦しい思いをしている。
そんな内容が切々と綴られていた。

「ヘェ・・・、お勉強が出来た優等生でもそうなんだ」
彼女には悪いが何故か私は嬉しくなった。
立場は入れ違えているが、私も”あの子”と同じ様な経験をしたと返信した。
あの子に手紙を書いた状況も詳細に書いた。
人は違えど、相対する関係は限りなく同じだと書いた。
”未練と悔い”を人生の味付けに生きているとも書いた。

そしたら、昨夜、返信の返信が来た。
K君は同志社大学に進み、学生運動に頭を突っ込んだらしい。
民青かトロかまでは書いてなかった。
彼の手紙は社会に対する考え方、人生に対する考え方が書いてあったと云う。
好きとかどうかという、そんな事は全く書いていなかったそうだ。
返信を読んでいくうちにグッサっと胸に刺さるものがあった。

彼女、返事は出さなかった、出せなかったらしい。
民青かトロかは別として一方通行の勝手な手紙を出した経過は私と一緒。
彼女は返事を出さなかった事で、K君を苦しめたのではないかという痛みをずーっと持ち続けていたと云う。
羨ましいと云うか、”あの子”もそうあって欲しいと云う願望はあるが、
これは・・・・・私の場合、定かでない。

好きなのに素直に好きだと言えず、
社会が・・・、
闘争が・・・、
そんなことしか書けなかった同類のアホな野郎であることは間違いない。
あの”時代”と云う特殊性なのか、
それとも青春に共通したアホなのか。

K君とは少しの時間差で生死は別れたが、
やっぱ、私もK君もアホだと思うのだ。
妻に聞いたら、臨床心理士とはカウンセラーというお仕事らしい。
「今度帰省したら、私のカウンセリングをお願いしますので一緒に飲みましょう」
そう返信メールの最後に記した。




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