■2013.05.31 night
管理人
今日は休みを貰っていた。 総会を終え、機関紙の原稿もほぼ校了した。 今日の天気予報は梅雨の合間の飛び石のような晴れ、かつ、来週は全国規模の催しを控えておりその準備と運営で休みなしの予定、 ギリギリ休める最後のチャンス。 職場に告げた休む理由は、「偶の晴れ日の様だから」 何時も真面目に仕事してるから、それでいいのだ。 朝から側溝のグレーティングを外し溜まった土を上げ掃除、日曜日は町内会の一斉清掃なもので自宅の前は何時も前もってやっつけておく。 でぇ、当日は児童公園の草むしりに出向く。 側溝の掃除が終わるとつる薔薇の剪定。 こいつは放っておくとジャングルのように四方八方に伸びて絡まる。 幾ら刈りこんでも直ぐに伸びるから、道路側の塀に伝わせていたのは安全の為思い切って撤去。 来季、花が終わったら”家族の事情”で残るつる薔薇も全て撤去しようと思っている。
2月にバリケードを出た。 それから入試阻止闘争。 入学式粉砕闘争。 ロックアウト粉砕闘争。 授業再開阻止闘争。 授業粉砕闘争。 バリケード奪還闘争。 兎に角色んな闘争が立て続いた。 政治闘争じゃなく短期間でこれだけやったのは後にも先も日大全共闘、私等だけだろう。 しかし、これは対大学当局だけでなく何時もの機動隊、それににプラス体育会右翼のお客様まで付いている。 他大学の様に民青にこそ負けなかったが、それ以外にはことごとく負けた。 負けて、負けて、負けて・・・・・、追い詰められた。 マドンナも居なくなり、 心がイジケタ。 イジケタ最頂点の時期として記憶に鮮明に残っているのがアポロ月面着陸の日、7月20日の新高円寺のアパートの部屋。 YouTube 暗い暗い1969年シリーズ、1969年7月5日発売とある。
■2013.05.30 morning
管理人
このホームページを開いたのが2003年9月だから、もうかれこれ10年になる。 今64才だから、開設当時は54才だった。 その頃はそれなりに頭は明瞭だったと思っているが、あれから10年と言えば一昔。 開設したのはもう「昔」になったということ。 それからいえば1968年は40年以上前の昔、「大昔」になる。 随分と記憶がぼやけてしまった。 そのぼやけた記憶で時折当時の徒然を書くのだが、 HPの前書きにも約束しているように「嘘や虚実」を書いてるつもりはないのだが、 ぼやけた記憶や勘違い、 そして一番いけないのが思い込みで、 かなり時系列と相違する事を書いてしまう事が多くなった。
時々、書く気力以前の問題で、昔の事を書くのはもう限界かなと思うようになった。
■2013.05.29 morning
管理人
銀ヘルさんからご指摘頂いたように確かに1969年4月12日ですね、私が間違っておりました。 多分あの頃の事だったと、そこいらへんの年表をつまみ上げてきたのですが。 でも、若干ショックな気持ちが有ります。 理工学部一号館バリケードの強制解除が2月9日。 銀ヘルさんにご指摘頂いたエピソードが4月12日、つまり薬学科のマドンナが姿を消した日がその日だとすると・・・・・。 バリケードを追い出され中大と明大の学館を転々としました、中大学館では少しの間寝泊まりさせてもらいましたが駿河台の明大学館で寝泊まりする事は有りませんでした。 明大は二部学生が多く、部室は夜遅くまでにぎわっており、 何にもつけ赤やモヒカンのヘルメットのお兄さんやお姉さんが大勢いて、結構恐ろしいところでしたから。 理闘委が借りてる部屋は大通りに面した中央角の部屋、階下は生協の書籍部だったと憶えています。 幾つか向こうの部屋には、伝説の赤ヘルお姉さんもいた事を憶えています。 つまり夜は新高円寺のアポートに帰っており、私のアポートは中央沿線の学科仲間のたまり場になっていました。 その中に薬学科のマドンナも居た訳で、 深夜に皆で近くのスナックに繰り出し、ギター弾いたり、ジュークボックス掛けたり、バリケードの緊張感も取れ普通の学生と同じようになっていました。 極短い期間だったとは憶えていますが、時系列から逆算するとそれが僅か1ケ月足らずの期間だったと云う事になります。 そんなほんわかとした楽しい思い出が、それがほんの一瞬の事だったとあらためて気付いた訳です。 その後、年表でも見るように集会やバリ奪還闘争と立て続きました。 理工学部一号館奪還闘争では正面ブロンズ玄関を壊し突入し、目の前にあった光るものに角材を叩きつけました。 光る物はバラバラと音お立てて崩れました。 その時、私の頭はプッツン切れており、それが玄関正面の大鏡だと分かったのは壊した後の事でした。 それについて仲間の皆からはかなりの自己批判を迫られました(笑。 私にとっては坂を転がり落ちる様な敗退戦でした。 1969年7月20日、 新高円寺のアパート、 テレビからはアポロ11号の月面着陸のニュースが流れていました。 暗いアパートの部屋で、何の感動も無く一人ボーッとそのニュースを眺めていたのをまざまざと憶えています。
■2013.05.28 morningU 管理人
「涙のオルガン」この曲は1969年4月1日発売とある。
理工学部一号館バリケードに機動隊が入り、バリケードを追われたのが1969年2月9日未明(農闘委サイトの年表より)、1968年7月8日にバリケードを組んで216日目に当る。 それ以後無宿者になり、駿河台の中大や明大の学館を転々とする。 同年6月11日、「日大闘争バリスト一周年記念総決起集会」に2000名結集。46名逮捕される(農闘委サイト年表より) 集会後のデモ、当然、機動隊の規制に遭い騒然となった。
何方かは知らないが(大凡は想定できるが)大通りに面した当時の明大学館の上から派手に火炎瓶を投げた。 道路が炎に包まれ、お茶の水橋の方から機動隊が怒涛の如く走ってきた。 バラけたデモ隊の大筋は駿河台下向けて一目散に逃げた。 一部は明大の学館に逃げ込んだ。 学生会館は安全だと云う”神話”がまだかろうじて生きていた時代だった。しかし、火炎瓶はその学館から大通りに投げられた訳で、 機動隊は学館に雪崩こみ、しらみつぶしに各部屋、各部室を調べ、そこにいた者をことごとく逮捕した。 なぜ今更、何度も何度もしつこくそれを振り返るかといえば、薬学科のマドンナも学館に逃げ込み、そして逮捕された。 マドンナが私等の前から姿を消した最後の瞬間だった。 バリケードを追われた2月。 マドンナがパクられた6月。 この曲は1969年4月1日発売とある。 マドンナや理闘委の皆で行った新高円寺の深夜のスナック、ジュークボックスでよく掛けた曲。 一曲、何十円だったか憶えていないが、 この曲を聞くと、私の体の中であの時代が生きている。
■2013.05.28 morning
管理人
昨日は午後一時半から会員団体の総会。 議長を仰せつかっていた。 「議事進行中ひどく咳こむ事がありますが、決して流行性感冒ではありませんから」 議長挨拶冒頭、念の為お断りをして総会を進めたが、 何故か頭の上がスースーする、議長席の真上がエアコンの吹き出し口だった。 お約束通り、咳こむことしきり。 同会場で午後三時からは、引き続き自分の法人の第一回定期総会。 今度は事務局席だからエアコンの直撃は免れたが、それでも肝心なところでまたまたお約束通り咳こんでしまった。 思い出せば議長と言えば、昨年六月、利用している生協の合併第一回総会議長を仰せつかった。 結論的に云えばその時の私の役割はいわゆる”総会屋”。 それまでの合併を決議する総会、いわゆる”主婦”組合員が議長になり、好き勝手なエンドレスの質疑を収拾できず幾度となく流会の羽目になったと聞かされた。 合併第一回総会はそれを繰り返さないため、その”筋”の私に白羽の矢が当ったと云う訳。 『これはこれは誠に光栄』と議長を承り、何とかブチ切れずに不規則発言を制止し無事総会を強制終了までもっていった。 面白かったの一言、で・・・、も一度やりたいのだがあれだけやってしまえば一回限りの役回りだろうな。
 修理の上がったコンデジまじまじ触っているとワイドも撮れる、私のデスク周り180°、喉のためエアコンを我慢して扇風機
ところで、 修理に出していたコンデジ、日曜日に引き取りに行っていた。 少し・・・・・・、というかかなり期待していた。 修理カウンターに行くと、 「メーカーに送り調べましたが、ご指摘の不具合は確認出来ませんでした」 「基盤の交換と、露出、ピントの調整をさせていただいています」 「保障期間中ですので無料です」 少し・・・・・・、というかかなりガッカリした。 不具合はメーカーでは再現されない場合が多い、そのため開けない画像が記録されたSDカードもつけて修理に出していた。 1月に購入したものだから、もしかすると新品交換になるのではとかなり期待していた。 しかし、基盤交換といえばデジタルの中身がそっくり入れ替えられたと同じだから、まあ・・・・・納得か。 これまでになく使い勝手がいいコンデジなので、放り投げず大事に使っていこうと思っている。
■2013.05.24 night
管理人
「お預かりしていた修理が完了しましたので」 カメラ店から連絡が入った。 今年1月5日に購入したデジカメが数週間前から具合が悪い。 撮った写真をパソコンで開こうとすると5枚に1枚くらい開けない。 画像処理ソフトで開こうとすると「ファイル形式が不明です」と表示され、これも開けない。 動画も途中でプツンと途切れる。 「うんなぁ〜、たった5ケ月でこれとは」 放り投げてやろうと思ったが、踏みとどまり購入店に持参していた。 それが19日の日曜日だから仕上がりが異常に早い、メーカー送りは普通1ケ月程かかるはず。 「もしかしたら新品交換かな!」 少し・・・いやかなり期待しているが、明日、引き取りに行く事にしている。  しかし、放り投げようと思ったのは事実。 近頃のデジタル製品、発売後まもなくすると価格が崩壊する。 実際は、価格の崩壊前に新製品が出回り、店頭から姿を消す。 取り敢えず、この憎くったらしいデジカメが現在幾らなのかググッてみた。 「エッッ・・・と、確か買った時は1万5千円程だったが・・・・」 「ナニ!、嘘だろう」 ネット販売ではもうほとんど出回っていないのだが、 それでもやっと探し当てた相場は、買った時の価格の倍ほど。 今日現在アマゾンでも3万円台に乗っている。 普通こういうことは無い。 「そうか、それほどこれは人気の商品なのか・・・・」 放り投げるのを思い止まり、しっかり販売店に修理を依頼していた。
■2013.05.24 morning
管理人
月末に移行した新法人の第一回総会を予定している。 同じ日に私の法人の会員団体の総会もあり、その議長も仰せつかっている。 返して私はというと、咳が続き会話もままならない状態が依然続いている。 これはヤバイと思いだした。 診療所で処方してもらった薬を飲むと咳は止まるのだが、かわりに猛烈に眠くなる。 そういう事でキチンと薬を飲もうと、週半ば一日休みを頂いた。 休みの前夜から朝昼晩、それに昨日、続けて7回服用。 休みの日はひたすら寝ていた、昨日はデスクに向かってただ座っているだけ、ほぼ終日意識朦朧。 今朝から服用を止めているが、かろうじて咳は止まっている。 季節の変わり目の気管支炎ならこれでほぼ治ると思うのだが、 診療所の先生の見立て、アレルギー性喘息だとそう簡単には治まらないと思う。 何の因果でアレルギー性の喘息の体質になったのか、 日頃の行いが悪かったのかもしれない、そう思うしかない。
JUNさん掲示からパクリです Netの後ろ側、メールやメーリングリスト、それに掲示板にも「経産省前テントひろば」の情報が頻繁に入って来る。 そもそも、このテントを設営したのは「九条改憲阻止の会」という事らしい。 この会は知る人は知る会で、ありていに言えば'60安保の世代のご老人達。 '60安保の世代は既に後期高齢者に足を踏み入れている訳で、そう呼ばして頂いても失礼ではないと思っている。 このご老人達、そんじょそこらのへなちょことは違い筋金入り、 頑張れと云わなくても頑張るから、遠くローカルから静かに熱く支持させて頂く。
ところでJUNさんが掲示板で紹介の朝日新聞記者・木村英昭さんの新刊。 この木村記者さんは面白い。 2009年11月22日の出来事、私等は招かれて東大駒場祭に出向いた。 その時、駒場キャンパスでひと悶着起きた。 この木村さんの駒場でのエピソードを2012年1月13日の日記に綴っているのでご参照を。 結構熱い方です。
■2013.05.23 morning
管理人
私は人生に後悔はないと言ってはばからないが、実は一つだけ後悔がある。 ここにクドクドと書き連ねている”あの子”の事だろうと言われるかもしれないが、あれは”未練”というカテゴリーでまた別の話なのだ(笑。 1968年春、世田谷の文理キャンパスからお茶の水キャンパス移行した。 HP本文の■ストライキの項にも書いてあるが、私は迷わず教職課程を選択した。 その当時デモシカ先生という言葉が有り、「教師にデモもなるか、教師シカないな」という意味なのだが、 私は漫然とその”デモシカ”先生になろうと思った訳ではなく、”成る”という意志を持って教職課程の履修を決めていた。 私は子供が好き。 幼い子供も、態度のでかいおっさん子供も、分け隔てなく。 極めて単純な動機だが、だから教師になろうと決めていた。 教職資格は工学部だと工業高校の教職しかとれないが、理学を含む理工学部は普通高校の理数系の取得が可能。 だから、母校に教育実習に赴き、帰郷して物理か化学の教師になろうと決めていた。 教職必須の日本国憲法の講義を初めて一号館で受けている時、窓の外を日大のデモ隊列が中大の方から上がってきた。 それからクラス会や学部集会が次々と開かれ、時代の波に飲み込まれていく。 いつの間にか教師になる夢は頭の中から遠ざかっていた。 放り出される形で何とか卒業できたのだが、教職課程は履修出来ていなく、教育実習もしていない、 おまけに”犯歴”という自分では消せない立派な経歴も身に着けていた。 日大闘争がなく希望通り教師になった自分の人生って、どんなだったのだろうと思うと少し後悔の念が湧いてくる。 そんな事を想う歳になった。
■2013.05.21 morning
管理人
今月上旬、咳が止まらなくなり診療所で薬を処方してもらった。 抑炎症剤、抗生剤、咳止、胃を保護する薬、胸に貼る気管支拡張の咳止めテープ、それにアレルギーの薬、合計6種類。 飲むと見事に咳は止まった。 副作用として猛烈な眠気と、胃がもたつき胸やけのような症状。 結局二日ばかりで服用を止めた。 それ以後、微妙な咳が続いている。 主に日中ゴホンゴホンと咳こむ、見ようによっては胸を患った文学青年のようだと・・・・・言えないか(笑。 ところが数日前より、背中が痛む、丁度心臓の裏側当りに鈍痛が溜っている。 背中が痛むのは色々な内臓疾患の恐れがあると聞いている。 正直心配になった。 妻に話すと、 「貴方、早く病院に」 そう云われたが、どこの病院に行ったらいいのか皆目分からない。 骨とかだったら整形外科だし、 内臓だったら内科だし、 悩んでいたらまたまた激しく咳こんだ。 そんなこんなだが、朝、起きがけにふと思った。 昨年、咳が長引いた際、余りの咳こみに腹筋が痛くて痛くて・・・・・診療所に出掛けた、 今年は、咳こむ度に背中に響いている、 咳こんで背中に響いている・・・・・・、 そうか!、これは背筋の筋肉痛なのだ、 そう思う事にした。
■2013.05.20 morning
管理人
先週末、山陰で研修会。 主催は中央団体だからオールジャパンで毎年順繰りで開催地が変わる。 実はこの二月もとある会議で同じ山陰、ホテルまで同じだった。 そういう事で写真は無し。 朝五時起き、特急を二本乗り継いでやっと目的地に。 主催者には申し訳ないが午後1時からの研修、プロジェクターのために消燈し薄暗くなった会場。 途中二回ぐらいハット我に返ったが、室温コントロールといい照明といい最高の環境だった。 余りに気持ち良かったため、出張報告書を仕上げるのに記憶に無い記憶をどうしようかと苦労している。
ローカル特急はとにかく体力が要る ところで、先日アップロードした「戦後医学生運動史」 出張中に編纂者から要望が届いていた。 HPの表題を簡素な「医学生史」に変更し、内容の若干の手直しの依頼もあっている。 それに「徒然医学生史」も更に増殖していると云う、出張から帰り取り敢えず表題だけ変更。 出張先の山陰、知り合いからこう言われた。 「医学生史をMLで紹介したら、それは私だと返答が有りました」 1978年3月26日 岡大・三理塚空港開港阻止総力決戦を闘い成田2105号(医学部卒)逮捕される。 この成田2105号は私だという内容。 日大闘争でも、全国学園闘争でも、三理塚闘争でも人間が闘っている訳で、 年表に登場する方、生きている限り何処かにいる訳で、 それが私だと名乗り出れる事自体、全く不思議な事ではないのだが、 こうもドンピシャリで本人と照合されると、不思議な気持ちになる。 最後にこの成田2105号さんが知人に宛てたメールの一部を勝手に掲載させてもらいます。 以下、転載 「おかげさまで、三食付きの別荘の中で、教科書を隅から隅まで2回ほど読む時間を与えられ、勿論マルクス『経済学批判要項』等も副食しましたが、(中略) ようやく合格・・・・」
■2013.05.15 night
管理人
昼間、携帯電話が鳴った。 先日、女子大同窓会を相談に来ていた女史。 「**さんお願い、お銀ちゃんが・・・・」 「高所恐怖症って云って、帰って来るの渋ってるの」 「お願いだから・・・・」 この女史、お銀には私が何時も上から目線なのを知っている。 同窓会に帰って来るように説得してくれという事。 早々に電話を入れた。 「おい、今頃、飛行機が怖いって?」 「冗談も休み休み言えよ」 「同窓会には帰ってきたいのだろう、だったら、早く生年月日云えよ、じゃないとチケット予約できないから」 そういうことで、本人の迷いは無視してチケットを予約した。 それで再度電話。 「それでさ、日が近づいたらチケット送るから、羽田まで来れば後は乗るだけ」 「二泊、ホテルは一番いいところを予約した」 「ほんでもって、帰りは連れて帰ってやるから」 「ちょうどオイラもその時、東京へ出掛ける予定だったから」 「テメエ、逃げるんじゃねんぞ!」 それで女史に報告。 「全部済んだ」 「最後に、逃げるんじゃないぞって脅し入れてあるから大丈夫」 「それから、成り行きで金の心配はしなくていいと云ってしまった」
かなりと云うか、メッチャ強引だったが一件落着。 しかし・・・・、 女史、費用の件は了承してくれたが、成り行きで私もカンパするハメに、 この際いいのだ、云った以上何なら全部ドーンと出してやるのだ。 それと帰りの日曜日、私は朝一番便で上京しようと段取りしていたのが成り行きで二番便に。 私の上京、年一度の会に間に合うかどうか。
■2013.05.14 morning
管理人
昨日の少し差し障りのある話の反省 いくら約束していたとはいえ、勝手に女性の下宿に上がり込んで(勿論、大家さん了解を得てだが)、 布団剥ぎ取り「テメエッッ・・・、パンツ丸見えじゃないか!」 これって今なら完全な(性)犯罪で、 よくもまあ、そんなことしたと云うか、それが許されたと云うか。 あの頃、時代が時代だったと云う事もあるし・・・。
しかし、あれはお銀だったから許された事で、 むくっと起き上がりずり下がったパジャマを上げながら一言、 「うるさいわね、分かったから起きるわ」 これで一件落着だった。 因みに、このお銀を介して今のカミさんと知り合う事になった。 実は、このお銀とは2007年に東京で再会している。 其の話を以下の日記に綴っている。 ・2007年9月14日の日記 ・2007年10月4日の日記 ・2007年10月6日の日記 其の時も、落ち合う段取りの電話でこう言ってやった、 「懐かしいって、人前で抱きつくのだけは、頼むからよしてくれよナ!」 お銀とは一貫してカミさんも知るところの男と男の関係なのだ。
■2013.05.13 night
管理人
少し差し障りのある思い出話。
40年前、地元女子大の新聞部に呼ばれたと朝綴った。 部室で女子大生に囲まれ質問攻めにあった。 帰卿直後で失語症気味になっていて、殆どまともな返答が出来なかった。 私が云うのも何だが、それでも地方の女子大生にとっては日大全共闘は興味の的だった筈。 それがきっかけで、何度か新聞部の部室に出入りした。 事更に言い訳しておくが、誰かをハントするつもりではなかった、事が全て「男と女」の話題に成りがちなのはこの日記の特徴なのだが、この場合は違った。 自分に興味を持ってもらう事に悪い気がしなかった事と、あらためて他に行くところがなかった為。 その中で、部室以外で二人の女子大生から”個別”にアクションがあった。 一人の女子大生には喫茶店に呼び出され、もっと詳しく日大闘争について聞きたいと言われた。 詳しくと言われても、当時の私は日大闘争を相対として冷静に語るほどの気持ちの余裕はなかった。 喫茶店で黙りこくる状態が何度か続いた。 その頃、帰郷して少しすると親が軽四自動車を買ってくれた。 1972年、当時としては軽四自動車とは言えマイカーを持っている若者は珍しかったはず。 一度は「親でも子でもない出ていけ」と放り出した馬鹿息子なのに、黙って帰ってきてじっと家に引き籠っている私を心配したのだろう。 女子大生の方から誘われ、何度かドライブに出掛けた。 まあデートの様なものだが、私の方は魂が抜けた腑抜け状態、ハンドル握っている時もレストラン入っても何時もぼぉーっと無言。 何度目かのドライブから帰った際に云われた、 「もうこれで終わりにします」 終わりにしますと云われても、私は何も始まっていなかったし、 女子と付き合い、それを心身とも発展さす気力も無かったし、 そう云われ別段、心に波風が立ったわけでもなく、 「はい、そうですか」で終わった。 新聞部で元気バリバリで日大全共闘に興味満々の女子には、私の腑抜け振りが心外だったのだろう。 彼女が思っていた日大全共闘のイメージと私はかけ離れていたのだと思う。 もう一人の女子大生は、周りから”お銀”と呼ばれていた。 姉御肌で、なり格好には頓着なく、はっきり言えばファッション以前の恰好。 要は、どのように接しても女性を感じさせず、男と接しているようなキャラの持ち主だった。 きたない成り格好だが、自称文学少女で周りの女子大生からもかなりふっ飛んでいた。 当時のエピソード、 お茶を飲みに行こうと呼び出しされ、約束した時間に彼女の下宿を訪ねる。 呼んでも出てこないので勝手に部屋に上がり込むと、昼過ぎなのに未だ寝ている。 布団を剥ぎとり、一喝する、 「テメエ、何時まで寝てやんの、起きろよ」 「テメエ、パンツ丸見えじゃないか、サテンに行くからさっさと着換えろよ」 しかし、彼女の凄いところはどんな男に対しても、臆するところ無く一歩も引かないところ。 私のボロボロハートの癒しになった事は事実。 9月予定の**女子大(全共闘)同窓会、 前者の彼女が来るかどうかは確認できていないが(汗、 後者の”お銀”が帰って来る事は確認済み。
さあ、昔のお礼をどうやって返そうかと思案している。
■2013.05.13 morning
管理人
40年前、桃井を引き払い帰郷した。 数カ月は自宅から殆ど出なかった。 夏が近づいた頃、地元の大学の同窓生から声が掛った。 何でも公立女子大の新聞部が私に話を聞きたいとのことだった。 女子大のキャンパスに出向いた。 女子大の構内、新聞部室は5〜6人程だったと記憶している、皆は当然私より年下。 日大闘争に興味が有るようで色々と聞かれた。 殆どまともに応えられなかった。 考える気力を失っていて、応えようとしても頭の中で言葉がまとまらず、その時期は失語症のような状態だった。 それでも新聞部の女子大生達とはその後友達になった。 話は突然40年過ぎ、咳き込んでいた先週の事。 つい最近まで議員をしていた女史が突然事務所に現れた。 「**さん、同窓会をやるから協力して」 「思い立った今やらなきゃ、何時まで経っても出来ないから」 要するに今流行りの「今でしょう!」なのだ。 この女史、前述の40年前に出会った女子大生。 新聞部かどうかは定かではないが、当時の**女子大全共闘の闘士の一人。 同窓会とは**女子大全共闘の同窓会のようだ。 何故、地元女子大の同窓会に私が関与しなければいけないか、話せば長くなるから省く(笑。
「それで、同窓会は何時なの?」
「今のところ9月の28日の土曜日にしようかと」
「全国から集まるから土曜日が良いと思って」
「エッッ・・、9月の28日!」
「**さん、その日、都合が悪いの?」
多分、一日差で大丈夫とは思うが・・・・・。
■2013.05.12 night
管理人
季節が春から夏に変わろうとするこの季節、ここ数年必ず咳込むようになった。 昨年は夜通し咳込み寝られない状態が続いた。 熱は無く食欲も有るのだが、とにかく咳が続く。 医者に行くと、抑炎症剤、抗生剤、咳止、胃を保護する薬、それに胸に貼る咳止めテープ5日分を処方してくれた。 2日程服用すると咳は止まった。 一週間程前、今年も同じ様に咳が出始めた。 残っていた薬を服用した。 2日程服用したが咳は止まらないし、頭がボーッとし水鼻が出始めた。 これではと今年も同じ医者に行った。 「去年とほぼ同時期に症状が出ていますね」 「これは風邪ではないですね、この時期の何かの(花粉)アレルギーでしょうね」 と云う事で、昨年処方のラインアップに今年はアレルギーの薬が加わった。 「この薬は眠気を催しますので、気をつけて下さい」 朝、昼、晩と三回服用したら、咳も水鼻も症状が軽くなった。 しかし医者の言うとおり猛烈に眠気が襲う。 これでは仕事にならないので、翌日は一日だけ休みを貰った。 と云う事で、ここ10日間だけに区切ると中三日しか働いていない事になる(汗。 お陰で、ほぼ二日で症状は止まった。
    週末、体調も何とか復帰したので妻とかねてから計画していた一泊旅行に出掛けていた。 妻が以前から是非行ってみたいと云っていた温泉。 無臭透明の温泉、私は硫黄臭が漂う濁った温泉が好きなので少し物足りなかったが、宿は風情が有りなかなかだった。 帰路、スカイライン沿いの喫茶店に、 店名が私の好きな黄昏と同意語の「薄暮」。 人気のない木立の中にボツンと、さりけなく置かれたBOSEのスピーカーからオールディーズのBGM。 店の佇まい、音楽の趣味、如何にも同世代の定年リタイアした方が店主と云う感じの店だった。
■2013.05.08 morning
管理人
もう一年留年すると覚悟を決めて、桃井のアパートからせっせとバイトに通っていた1971年の春。 研究室から呼び出しがあってお茶の水の校舎に出向いた。 落とした単位の教授の所へ顔を出せと研究室の教授に云われた。 私は必須の基礎科目を落としていた。 出向いた教授は私に教科書を渡し簡単な質問をした。 質問の答えは渡された教科書にあった、それを見て答えた。 それから一週間後、郵送で円筒形の小包が送られてきた。 円筒形の筒を開封すると、中には卒業証書が入っていた。 私の名前の上にはご丁寧に「工学士」と肩書が付いていた。 要は”のし”を付けて放り出された。 季節は少し汗ばむ丁度今頃の季節。 内定していた就職先は留年したので辞退していた。 取り敢えず行き先がなかったので、続けていたバイトに通った。 季節が変わる都度、桃井は哀しく楽しく、そしてだんだんと煮詰まってきた。 「もう息子でも何でもない出ていけ」と言われた故郷、年が明けた頃、それでも帰ろうと決心した。 郵送で卒業証書を貰ってからほぼ一年、両手を上げて帰った実家、出迎えた父母は何も言わなかった。 もう40年も前、丁度今頃の季節。
■2013.05.06 night
管理人
表も裏も庭がブンブン畑になっている。 蜜柑の花が五分咲き、それを目掛けて蜂さんが集まり、賑やかに羽音を立てている。 子供の頃、学校のお花畑に色んな花が咲き、蜜蜂を手のひらに乗せ遊んだ記憶がある。 だから蜜蜂やクマンバチは友達のようなもの。 夕方、水やりしたらまたまたギボウシノに水玉が、夕陽が光っていた。 近くに寄ったら表面に周りの緑が映り込んでいる。
  私のサイトに「医学部闘争年表」がある。 これはサイトを開設した時、’60〜’70年代に日医大に在籍し闘争に関わった方から寄贈して頂いたもの。 その方から「戦後医学生運動史」を編纂したので、インターネット上に公開したい、手助けを願うとの相談が寄せられていた。 便利な時代になったもので、離れていても作業のやり取りはインターネット上で出来る。 原稿を頂いてからもう随分と日時が経過し待たせたが、この連休でやっとWEBの編集作成が終わり公開にこぎつけた。 運動史は日大闘争の前史も飲み込む終戦(敗戦)直後から始まる学生運動を”医学生”と云う切り口で詳細に記述している。 失礼とは思ったが私の方から、 「時系列の年表だけではいかにも面白みに欠けるから、エッセーも添えては」と提案した。 快く提案を受けてくださり途中から「徒然医学生史」を追加して下さった。 色んな切り口で綴る徒然は、私の「単ゲバ」と「あの子」ぐらいの乏しい徒然ネタと比べると、人生の深みが違う。 個人情報についても大らかで「実名表記」している。 リンクページにも載せたのでご覧あれ。
■2013.05.04 morning
管理人
早朝、水やりを済ませた。 花壇を眺めていると朝日がキラリ。 何だろうと覗くと、ギボウシに大きな水玉が出来ている。 落ちないようにそろりとパチリ。
 四連休の前夜の木曜日、職場の方の結婚式に出席した。 お祝いの二人は再婚同士、 そうかと云って普段着ジャケットでは、幾らなんでも失礼だろうと前の日に夏物スーツをクローゼットから。 夏物は数年振りに羽織る、嫌な予感を振り切ってズボンのチャックを上げたが、一番上まで上がらない。 当然、フックは止まらない・・・・、 フックは止めずにベルトで隠し、上着のボタンは”防衛上”常に留めおく事にした。 宴席は丸テーブル、私等の前のテーブルは県・市トップから各層議員さん、その隣のテーブルは日頃顔見知りの近県の労働界トップのお歴々。 しかし先日も書いたように、この手の威圧にはもう慣れた。 だてに宴会メタボでウエストを膨らませてはいない。 労働界トップのお歴々はもとより誰彼れなく臆せず、お祝いの席を楽しく飲んで騒いで終わった。 この業界に足を入れた頃は隅で縮こまっていたのに、 染まって早三年、何度も云うがもうボチボチ潮時だと自戒。
■2013.05.02 morning
管理人
朝、新聞を取りに出ると庭にほのかな香りが。 蜜柑の花が咲き始めている。 この甘さを抑えたほのかな香り、何故か亡くなった母を思い出す。 蜜柑の花の香りと母に何の因果関連も無いのだが、この香り不思議と白髪の母の笑顔が浮かんでくる。 「みかんの花が
咲いている 思い出の道 丘の道 はるかに見える 青い海・・・・」、歌詞にも有るように、この香りはある種の郷愁を誘うのだろうか。 少し前だとフリージア、 日大全共闘理闘委中央沿線派のたまり場だった荻窪教会通りの喫茶店シルクロード、 バイトの音大生がフリージアが好きで、春先、店に入ると何時もカウンターに活けられ香りが漂っていた。 この香りをかぐと哀しく切なく楽しかった桃井コンミューンの時代を思い出す。 裏庭に回ると、ミツバチが盛んにブンブンと羽音を立てている。 ハチが大好きなアカシアの白い花が咲き始めている。 この花はそれほど香らないが、近くによるとほのかに甘い香り。 ミツバチだけならいいのだが、大きなクマンバチもちらほらで、この時期不用意に近寄らないように妻に云ってある。
 今年の写真ではありません 梅雨が近づいてくるとクチナシの花が咲き出す。 何とも切なくなるような甘い香りを周囲に漂わす。 開きかけた蕾を2〜3輪、花瓶に挿しておくと部屋中が切なくなってくる(笑。 しかし油断すると一夜にして花芽が芋虫に食われてしまうので、それなりに世話が大変。 残念なのがキンモクセイ。 その昔、秋になると父が植えた大きなキンモクセイがご近所や通りの向こうまで香りを撒き散らしていた。 我が家の匂いのランドマークでもあった。 建て替え整地の際、そのまま残す樹木にビニールテープを巻き付け印を付けた。 勿論、キンモクセイも残す段取りだったが、うっかりキンモクセイだけ印を付け忘れてしまった。 整地が済んでみると、重機でひっこ抜かれきれいさっぱり無くなっていた。
■2013.05.01 morning
管理人 私のリンクページで、リンク切れや更新が止まったままのページが幾つかある。 ユニークなというか個性的なページほど消滅したり更新が途絶えたりしている傾向が見れる。 そんな消滅サイトのリンクを敢えて外さないのは、かつてそれが存在した”証明”というか、”墓標”という意味合いの私なりのこだわりがある。 そんなかつて存在した愛すべきページの記憶をたどっていて思った事がある。 表現という行為は、それがお金になるならないは別として、相当な個のパワーを要する。 それを継続していく営為は、それに生活が掛っていれば別の面でモチュベーションを保つ事が出来るかもしれないが、何れにしても他人には分からぬ強力な負荷が”個”にかかり続けている。 だから、営利を伴わない個人のWEBページの寿命は5年から長くてもせいぜい10年ほどというのが私のWEBウオッチング。 個人としてのWEBツールはそれが常識的な限界なのだろう。 自然体で徒然を綴るブログツールを使ったWEBページもその寿命はせいぜい4〜5年で途絶、継続10年オーバーは希な存在。 私のここの管理人日記はブログツールではないが、似たような範疇で最古参に近い希な存在になった。 ”単純”でややこしい理屈を書かないから何とか続けていられるのだが、この徒然というカテゴリーが曲者なのだ。 気持ちが乗っている時は幾らでもキーボードを叩けるのだが、 一旦、気持ちが逸れてしまうと中断状態が延々と続いてしまう、要は気分次第。 生業としての物書業が、才能の有無も含めて如何に大変な職業か、素人の私でも分かるような気がする。 そういうことで、 ここの日記も、一般論的には感性の耐用年数をすでに遥かにオーバーして書いているが、 それでも何とかキーボードを叩くのは日大闘争のスピリッツ。 日大全共闘ってのはしつこいのだ、という一点。 私の存在の「冷温停止」が当サイトの「冷温停止」まで、続けられたらと思っている。 フッッッ・・・・・・。
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