■2013.06.30 morning
管理人
週末、職場に健診結果通知が届いた。 血圧、腎・肝機能やその他はこの数十年一貫して優等生。 問題はメタボリックに関わる血糖、脂質。 数値は相変わらず境界値前後をウロウロしているが、嬉しい事には昨年よりどれもが少し良くなっている。 宴会メタボ、間食メタボ阻止闘争が一定の効果を出している事と、妻が常に食事に気を使ってくれている事が一番だろう。 なにより嬉しいのは、サイズが合わなくなってインチアップしていたチノパンが緩くなった。 以前のチノパンがまた入るようになったのだ。土曜日は会員団体の講演会、当法人も共催しているもので受付の手伝い。 講演は昼からと云う事で食事を済ませ参加。 当然だが会場はエアコンが効き至極快適で・・・・、”その”条件は整っていた。 二時間程の講演の間に二度ほど”落”ちた。
 レモングラス、レモンの香りのこのハーブ茶は胃腸に良い ところで健診。 当日健診メニューが終了し、最後に内科医の先生の問診があった。 「特に問題は有りませんね」 胸のレントゲン写真をしげしげと眺めながら、先生ははっきりとそう云われた。 「血液のデータ等は後日通知します」 先生は最後にそう云われて健診は”無事”終している。 ところが、 健診通知書と一緒に二通の再検査案内が入っていた。 一通はメタボに関わるもの、境界値をこえているものが有るから今更でなく当然、 もう一通は胸部レントゲンの再検査の案内状。 しげしげと結果通知票を見る。 胸部X線「左肺底部病変の疑い」
身に憶えがある。 気管支が不調だった数ヶ月前、心臓の後ろ側に違和感というか痛みがあった。 前屈みの姿勢を続けると背中が凝って堪らなかった。 そんな自覚症状が一時続いていた。 「先生、問診では問題ないと云ったじゃないですか!」 そう云いたくて大いに不満なのだが。 再検査に来いと言われるなら、行ってやろうじゃないか(泣。
■2013.06.28 morning
管理人
Yahoo天気予報を見ると昨日はつかの間の晴れ。 六月に入いって土日休日以外は休暇を取っていない事に気付いた。 そういう訳で昨日は労働者の諸権利の一つ、有給休暇を取得。 ご存じだと思うが、有給休暇の取得に理由は不要、言い換えればいかなる理由でも休暇を届ける事が出来る。 「明日は偶の晴れ日のようだから、庭木の消毒したいので」 それでも我が職場は二人だけだから、原理原則はさて置いて断りを入れた。やっぱり歳。 休みになると未明に目覚める。 五時前起床、周りは淡っらもやがかかり既に明るい。 庭木は昨夜までの雨が掛り、揺すると雨だれが落ちてくる。 「こりゃ〜消毒は無理だわ」 庭木はある程度乾いてないと消毒液が希釈され効き目が出ない、 なのですっきり諦めた。 ヤマモモの実が熟し一面に落果している。 先週から樹のしたにビニールシートを敷いており、 ほうきで集めるとビニール袋一杯になった。 熟して落果し雨露に濡れた実はその日のうちに痛んでしまう、残念だが捨てるしかない。
 昼寝は先日のコンサートでも聴いたチャイコフスキーのピアノ協奏曲第一番、 マイCDはカラヤン指揮でキーシン演奏の何十年も前の物。 ついでにベートヴェン、ショパン、リスト、 ピアノ協奏曲第一番シリーズCDを続けて掛け、うたうたしていると休日の午後は終わった。 私はショパンの第Tが一番好き。
■2013.06.26 morning
管理人
「**さん、その顔じゃ入場断わられるよ」 「これ有るから使ってよ」 総会の懇親会、途中で中座しようと断りを入れたら、 口臭を消すスプレーを差し出された。総会は来賓挨拶を終え退席させて頂いた。 一旦職場に戻り午後五時から総会懇親会に再度出席した。 私は酒も酒席も嫌いではないのだが、基本的に下戸。 六時を過ぎる頃、既に顔は酒で真っ赤に。 随分前の事だが、コンサートホールに予約の前売り券を取りに行くように妻に”指示”された。 何でもコンサートホールの責任者が妻の友達、お付き合いで前売り券を買わされたらしい。 「済みません、予約していた**ですが」 窓口でそう告げると、 「チケット2枚で12,000円です」 「12,000円!!・・・・」 妻に見事にはめられた。 そのコンサートが昨夜午後六時半開場、七時開演。 クラッシクコンサートでは酔客は入場を断られると皆が云うのだ。 「この消臭スプレーで酒の匂いを消して」 「その顔じゃ入場は無理だな」 親切で云われているのかからかわれているのか、 多分、後者だろう。
 真っ赤な顔で、口を固く閉じ、無事入口を通過し妻と合流。 開演一番はピアノ協奏曲第一番、私の知ってるチャララァ・・・の旋律のあの曲。 週末、昼寝用によく聞くチャイコフスキーだった。 しかし次の交響曲では激しいシンバルの音で時折我に帰ったが、ほろ酔いの御蔭で夢見心地だった。 決して自発的でなく義理で出掛けたコンサートだったが、偶にはこういうのもいいものだ。
■2013.06.25 night
管理人
今日は某総会に来賓で出席していた。 某総会は私の前の職場が加盟している連合会の通常総会。 三年前、前の職場で役員定年を迎えた時、気力体力合わせて年貢の納め時と思った。 役員から職員身分に降り再雇用という制度としての選択肢はあったが、それまで役員として上から目線で物申していた事もあり、自分も職員もやり難いのは当然だし、完全リタイアを決めた。自慢になるかもしれないが、私の父親は他人の事には人事を尽くすが、自分の事は無頓着な人だった。 母が何時も「お父さんはねえ・・・もう少し・・・・」とグチるというか、しかしグチりながらも満足そうに話していたのを憶えている。 今の世はどうか分からないが、かつて、こういう昔堅気の父親はそこいら中に居た。 勿論、人間だから私もこうなって欲しいとか、こうなればとか思った事は多々あったが、 しかし、それに向かって意図的に働きかけるとか何かをしかけると云う事はしなかった。 父親はかなり右に振った思想の持ち主だったが、思想は別として、生き様はきっと父親の影響だろうと思う。 それで、前の職場は再雇用も辞退しすっきり退職した。 それから少し経ったある日電話が有った、 全く別の職場からの再就職のお誘いだった。 で・・・・もって、それから三年間今の職場で働かさせて頂いている、 それでもって、ワタシが古巣の連合会総会の来賓だから、 ホント人生って、日大闘争も含め不思議なものだとつくづく思う。
■2013.06.25 morning
管理人
打ち合わせで職場を出るのが遅くなった。 梅雨の合間、薄い雲がまばらにかかる夜空。 まだ月は顔を出していなかったが、昨夜はなんでもスーパームーンというお月様らしい、 その為だろうか、夜空は一面鮮やかで濃いブルーに染まっていた。
 午後八時前
日暮れ時の茜空が大好きだが、濃紺の夜空もいいものだ。
■2013.06.18 morning
管理人
この夏に行う催しの打ち合わせでかなり遅くなった。 殆ど定刻チン職場退出の私には珍しく時計は午後7時18分を指している。 JR便は午後8時過ぎまで無いので、バス最終便に乗ろうとバス停に頑張って走った。 7時23分にバス停着。定刻より3分遅れ、既に行ってしまったと思った。 思い直しJR駅までトボトボと歩き始めたが、遠くにバスのヘッドライトが見える。 もしかしてと思わず引き返すと、10分遅れで目的のバスがやって来る。 バスの時刻表なんて実にいい加減、お陰で間に合った。
我が家方面最終便、午後7時20分のバス。 お約束どおり途中から私一人の貸し切りバスとなった。 そういう意味ではいい加減も、はたまたローカルもいいものだ。
■2013.06.16 morning
管理人
金曜日の夜は宴会。 長年、45年労働組合運動を続けてきた方の慰労会。 その功をねぎらい新たな出発を祝う会。 20時30分頃、宴の途中で退席した。我が地はローカルで、公共交通の足は細るばかり。 以前は21時過ぎまであったバス便が、今は何と最終が19時20分。 真夏ならまだ明るさが残る午後7時20分だよ。 酒でなくても、少しコーヒー飲んで喋っていてもバス便は途絶える。 都会では知る由もない、これがローカルの実情。
でぇ・・・、バス便の倍ほど時間のかかる市内電車で帰宅。 動画のプロパティを見ると、撮影時刻は20時52分。 宵の口の時間帯にも関わらず途中から私一人の貸し切り電車になった、これでは公共交通が細るのも無理ないが、 これを不便と思うと、ローカルでは暮らしていけない。 土曜日の夜、またまた宴会。 妻の母方の「いとこ会」 妻の母方は戦争で亡くなった叔父さんを入れると9人兄妹。 1/3位が所用で参加できなかったそうだが、それでも相方をいれて21人集まった。
 妻のお祖父さんは水産業と鮮魚店を営んでいた。 今は叔父さんが引き継いでいる。 ということで、一人に一本丸ごと、豪勢にカツオがふるまわれた、 ・・・・・というのは冗談。
■2013.06.14 morning
管理人
今日はウイークディーだが早朝から庭仕事。 泰山木の枯葉が庭一面に。 この枯葉、分厚く大きい。 落ちて来る時は「ガサッ」と武骨な音を立て風情がないが。 箒で掃いて集めるには大きすぎ、一味一枚手で集める。
 
ブルーベリーの実が熟して落ち始めていた。 完熟した奴を収穫。 お皿に一杯に。 クチナシの花、開いた蕾が4輪になった、もう直ぐ玄関先で甘い香りが漂い始める。 ヤマモモは収穫のカウントダウンに入った。
シャワーを浴びて出勤だ。
■2013.06.13 night
管理人
随分以前の日記にも書いたが、私の中学時代は二人掛けの机に男女が席を並べて座った。 先生に気に入られていた私は二学期からクラス委員、つまり級長になっていた。 学期毎の机の並び替えも先生が決めていた。 「**!、お前がこの転校生と並べ」だったと思う。 今考えてみれば、友達のいない転校生の面倒を級長のお前が面倒を見よとの事だったのだろう。 まあ、記憶はいい加減だが、私の隣にあの子が座った事は間違いない。転校生、当然だが友達が一人も居ない。 私が最初の友達になった訳。 学校の事など色々と教えてやった。 男女の”それ”と云うことではなく当然他の誰よりも仲良くなった。 先生に級長に指名されたのは、成績も良かったため。 人生の中で後にも先にも唯一この時期だけだが、この頃は勉強に自信があった。 数学や英語を頭を付き合わせて教えてやった。 毎日毎日、学校へ行くのが楽しくて楽しくて、日曜日は月曜日を待ちわびた。 そんな楽しくてしょうがない二学期、そして三学期は瞬く間に過ぎた。 高校受験は同じ公立進学校を受けようと二人で話した。 そして卒業式、 式を終えても仲良しグループはなかなか帰らず、私もあの子も教室に残っていた。 私等の時代は卒業記念にサイン帳に銘々がサインをし合った。 あの子もサイン帳にサインしてくれた。 彼女から戻されたサイン帳を開けると、 サインの後に私の事が好きだと告白する一文が添えられていた。 ここまでは50年たっても鮮明に憶えているのだが、その後の記憶はすっ飛んでいる(笑。 冷静に判断すれば、早熟な女子におぼこい男子が翻弄されたと云えば一番適切だろうが、私の方が舞い上がり意識過剰に陥った。 同じ高校に進学したが、話せない、近づけない、廊下で会うと避けてしまう、 好きなのに行動はまるで反対。 全く距離が縮まらず高校の三年が過ぎ、そして46年が過ぎてしまった。
人はそんな思いを何処かで整理するのだろうが、 私の場合、その後に整理しきれない日大闘争の経験がそれに覆いかぶさり、 思いは切ないというより、ほとんどトラウマに近い。
■2013.06.13 morning
管理人
もうすぐ60が来ます 46年間ずーと、ずっとあなたがすきでした。 私に勇気がないばっかりに本当にごめんなさい。 まだ言えませんあなたに会うと今でも緊張して何も言えません。YouTube坂本冬美さんの「ずっとあなたが好きでした」 オリジナルはビリーバンバンだそうだ。 昨日も書いたが、このYouTubeの6ケ月前のコメントには同類として泣いた。 多分文体から女性だろうと思われる、コメントをまじまじと眺めて思った。 「本当にごめんなさい」 相手には思いを伝えていないのだから、「ごめんなさい」ってのは誰に云っているのだろう? 胸の中で咀嚼すると、 文字通り、思いを伝えられなかった相手と受け取れるのと、 素直になれなく思いを裏切り続けてきた自分が、そのため切ない思いをしている自分に謝っている、 その両方だと思う。 深く考えると結構ややこしいのだ。 そういう意味では、 一行目と二行目は同類として異議なしなのだが、 三行目、「あなたにあうと今でも・・・」 これには大いに異議がある。 私が”あの子”に初めて会ったのは1963年9月1日、中三の二学期始業式の日に彼女は転校してきた、 丁度50年前、 他県の違う制服を着ておずおずと黒板の前に立って紹介され、そして私の隣の席に座った、それを今でもはっきりと憶えている。 そして彼女を最後に見たのは1967年3月1日、高校卒業式の日、それも遠くからちらっとだ。
ずっと好きだったのは中三から数えて50年間だから、これには勝っているが、 卒業式の日を最後にあれから46年経つが未だに会えないでいる。 「今でも・・・」と書かれると、悔し〜い。
■2013.06.12 morning
管理人
「コレステロール値が少し高いようですが」 「まあ・・・、薬を飲む程でないですから今後食事に気をつけて下さい」 「その他、血圧、心電図、潜血検査等々、問題は有りませんね」 最後の問診で先生にそう言われた。 取り敢えず、メタボ阻止闘争、勝利なのだ。定期健診に行っていた。 私は前職時代から健診はず〜っと○共系列の医療生協。 それは”トロ”らしくないじゃないかと云われそうだが。 随分前、前職場で駆け出しの頃、医療生協の組織担当者と仲良くなり、今でも付き合いが続いている。 その彼に勧められ医療生協で健診を受けるようになった。 ところで、健診を受診できる医療機関は加入している健保組合で指定されている。 銘々自分で医療機関を選んで健診を受けるのだが、医療生協を選択したのは職場で私一人だった。 周りからはかなり白い目、ちゅうか、○共関連の医療機関を選択したのだから赤い目で見られた。 私の職場に強い影響力を持っていた当時の総評系労働組合には「**は○共だ」と噂を立てられた。 当時(今もだが)私は、んなぁ〜ことはどうでもよかった。
ヤマモモが赤く色づきました 昔、奥浩平の「青春の墓標」という本を読んだ。 彼と彼女が中核派と革マル派に別れ、苦悩し彼が自殺を選んだ顛末だが。 当時も今も、ワタクシはこの顛末に納得していない。 私は無党派の人間なもので、何で、人間関係より党派の方が優先されるのか、 人間関係の苦悩は受容するが、こと党派のそれは拒絶してきたし、 どのような関わりであろうと最後は”自分”だと思っている(かなり意味が違うかも)。
しかし・・・・、 昨日のYouTube、6月前のコメント
もうすぐ60が来ます 46年間ずーと、ずっとあなたがすきでした。 私に勇気がないばっかりに本当にごめんなさい。 まだ言えませんあなたに会うと今でも緊張して何も言えません。
居るのだ、私のような人間が他にも。 歌よりもこのコメントの方に泣けた!
■2013.06.11 night
管理人
■2013.06.10 morning
管理人
昨日も書いたが職場法人のホームページ。 根性で乗り切る団塊アナログ派なもので、XHTML仕様もものともせずレトロのHTMLタグで強引にアップロードを強行してみた。 そしたら少し要領も分かってきた。 ビジュアル画面は使わずテキスト画面のみでタグを綴りアップロードすると、タグが働いてくれる。 そんでもっても一度テキスト画面を開いてみると、一部のHTMLタグはXHTMLタグに書きかえられている。 どうも自動修復しているようだ。 さすがお利口だ。
これでも前職場ではある時期までホームページ管理者をしていた、最後は職務上渋々管理を若手に譲ったが。 今でもグチャグチャとページをいじる事は嫌いでない。 そんな私をして、期せずしていい玩具が出来た訳だ、それも職場でだ。 職場で時間を忘れて何かをするというのは実に久し振り。 先週で集会と宴会闘争も終わり、次の会議・出張まで一週間ほど空きがある、ここ2〜3日は心おきなくオタクに徹するのだ。 見てろよ、XHTML。
■2013.06.09 morning
管理人
昨年末から職場法人HPのリニュアール準備を進めていた。 5月に総会が終わり、新年度予算が承認されるのを待ってリニューアール版を公開。 基本的には制作会社に依頼し、ページのフレーム骨格は制作会社で作成し管理してもらう方式。 日々のトピックニュースや変化する法人データ更新はクライアント側で行う。なら、お手の物だとタカをくくっていた。 早速、月初めより管理画面にログインし、ページ更新にかかった。 新規作成・編集画面は「ビジュアル」と「テキスト」の何れかを選択できる。 「ビジュアル」画面は見た目通りでページが作成できるが、細かな指定がうまく反映されない。 それならタグが使える「テキスト」画面で作成。 基本的なタグなら何とか使いこなせる自信が有った。
アメリカンブルーに一輪が 私のWeb作成技術は2002年に修得した物。 今は「スタイルシート」を使った作成が主流になっていると云うか、それがスタンダードな方式だそうだ。 しかし、HTMLを愚直に綴っていけば何とかなるだろうと思っていた。 リストのタグ、フォント指定、改行、テーブル、背景色指定のタグ等々、HTMLの手順に沿って綴った。 アップロードしプラウザで仕上がりを見た。 「何と云う事でしょう!」 TVのセリフではないが、指定がことごとく反映していない。 リスト表示、改行もグチャグチャ。 改めて編集画面を開くと書き込んだタグが無くなっている。 管理会社に問い合わせを掛けた。 「事務局長さん、ひょっとしてタグはHTMLじゃないですか」 「当たり前だ、ちゃんとルールに沿って正しく書いているはずだ」 「当社がご提供させて頂いた製品(HP)はXHTMLの仕様になっています」 「XHTML・・・・?」 ググってみて納得した。 ドリームウイーバー4も、HTMLもすでにレトロになっているという事だ。 改行やフォント指定の範囲は早分かりで何とか修得したが、 スタイルシートとXHTLを学習しなけれな前進できないって事だ。 しかし、私の脳味噌の襞にはそれを刻む余裕はもう残っていない。
■2013.06.08 morning
管理人
週後半は今年度前半最大の山場、三日連続「宴会」闘争に突入、 それでもって三日連続23時頃の帰宅。
今朝、まじまじと庭を眺めると、 やまももの実が熟し始めた。 ブルーベリーの実も熟し始めていた。 クチナシの最初の一輪が開いていた。 ランタナの花が咲きほころんでいる。 がく紫陽花が赤く色づいた。 裏庭ではドクダミの花も咲きほろこんでいた、これは単に庭の手入れ不足なのだが。
  
宴会一日目、 料理に添えられた生ニンニクを食べ過ぎて、夜中に喉が渇くのと己の口臭で目が醒めた、ノンアルコールは貫徹。 宴会二日目、 講演会後のレセプション、何かの間違いで来賓テーブルに私の名札が、そういう極めてヤバイ位置関係上、結局、アルコールが入る。 ここで、気管支の不具合で続けていた断酒は約一月で挫折。 宴会三日目、 つまり昨夜だが、前夜に続いて止むをえぬ諸般の事情でノンアルコール闘争は挫折、決して意志が弱いからではない。 しかし料理には殆ど手をつけずメタボ阻止闘争は一定の成果。
  
今朝は梅雨の合間を縫って殺虫剤散布。 それで、疲れているのだ。
■2013.06.05 morning
管理人
掲示板とのやりとりを此方に書くのは失礼かとは思いますが、これが私のスタイルなのでお許し下さい。新宿西口広場でのカンパ活動、理闘委はかなり早い時期から出向いています。 面白いようにカンパ袋が一杯になった記憶がありますが、 カンパがヘルメット被ったゲバスタイルだったか、ノンヘルだったかは記憶が定かでありません。 多分、ヘルメットは被らずに、署名の手板とカンパ袋というスタイルだったのではないかと思います。 夏を過ぎた頃からバリケードは、頻繁に訪問者がありました。 その一つは、全国動員の集会参加者の一時宿泊所としての利用。 私の学科の部屋は、1968年の10.21国際反戦ディーで上京した同志社の赤ヘルさん達が泊りこんでいました。 どのような伝手だったかは分かりませんが。 その赤ヘルさん達は、翌日市ヶ谷の防衛庁ゲートに丸太で突入したそうです。 それと多分10月頃からだと記憶していますが 9月の激動期と、9.30大衆団交で全国にその名が知れ渡った影響だと思いますが、地方の修学旅行の高校生の見学が多かった事。 まさか修学旅行の見学コースには入っていなかったのでしょうが、自由時間に訪ねてきたのでしょう。 出入りの警戒がふと緩んだすきに、よく高校生がバリケード内に入っていた事を憶えています。
時期は忘れましたが、三階か四階の角部屋(学部長室?)には全共闘の指導部が鎮座し、秋田議長が居た事も憶えていますし、山本義隆東大全共闘議長もバリケード内で時々見かけました。 11月の芸術学部スト破りの騒動の時、その日は三上治さんが泊っていました。 バリケード観光はお茶の水という地の利からでしょうし、 指導部や両議長、一宿一飯の御仁が寝泊まりしたのは地の利と、建物の構造が堅牢でバリケードに向いており、守りが強固だったからでしょう。 >何よりもよりややこしくなるその後 が、知りたいです。 問題のその後ですが、 決して私ではありません(キッパリ)が、仲間のK君が成り行き上その子と”仲良し”になりました。 その後は色々とあったようです。 ”自虐史”では結構赤裸々に自分の事を綴っていますが、仲間の”その当り”の事はプライバシーもありますし、そこはケジメということでお許しを(笑。
■2013.06.04 morning
管理人
そうですね銀ヘルさん、新宿西口広場ってのもありましたね。 各学部の闘争委員会が競うようにカンパ袋もって馳せ参じました、 理闘委も沢山稼がせてもらいました。 しかし私にとっては唯歌を歌っているだけだし、心もいじけていたし、広場は斜に眺めていました。 ただ、一つだけエピソードがあります。 いつもの ♀ネタですが(笑。HP本文にも書いており、、詳しい期日は既に記憶から飛んでいますが、1968年の秋に一号館バリケード内でバリ祭りを行いました。 少々毛色は違っていますが一様変則的な学園祭、 芸闘委や文闘委バリ祭では羨ましい”ゴーゴーパーティー”もあったようですが、それでも今の学園祭と比べるとチョーがつく真面目さ。 戦艦ポチョムキンの自主上映や、内容は忘れたましたが色々と自主講座も開設しました。 それと合わせてこの期間だけバリケード内も条件付きで解放、見学者を受け入れました。 見学する方にはゲバ棒片手の行動隊が付き添いを。 一般と称して紛れ込む公安筋や右翼ににらみを利かすためです。 私はその見学者付き添いの任務と、模擬店の食堂のコックと二役をこなしました。
暗い1969年シリーズ、1969年6月発売とある
交代のバリ入口の警戒任務に当っていると女子高校生の一群が。 彼女等はバリケード内を見学したいとの事、当然ニンマリです。 女子高校生達は上野高校生と名乗りました。 私は他を押しのけて断固見学付き添い役を確保、バリケード内をグルリと一回り案内しました。 その後、その女子高校生達の中の何人かが何回かバリケードを訪ねてきています。 年が明けて約半年後、1969年の5月だったか6月だったか記憶に有りませんが、 カンパ袋を持って新宿西口”広場”にカンパに出掛けた時、 広場中央の柱を背にしてフォークゲリラが大群衆を前に歌っていました。 カンパ袋をぶら下げ何気に眺めていると、その中で歌っている小柄な女の子と目が会いました。 すると、その女の子が群衆をかき分けて駆け寄ってきました。 バリケード内を案内してやり、その後何回かバリケードを訪ねてきた上野高校の女の子でした。 その後の記憶は定かでありませんし、何よりややこしくなるのでその後は書きません(笑。
■2013.06.02 morning
管理人
昨日土曜日午後、某団体の設立総会に出席、片道2時間半だったので1時間の総会出席に土曜日半日費やした。 我が法人の長の都合が合わず、私が法人代表で来賓席に座わる派目に。 某団体との相関関係は複雑だ。 団体結成の主役は我が法人の地方組織、つまり”我が子”に当たる。 その我が子が主役になって幾つかの友誼団体と共に新たな某団体を結成。
暗い1969年シリーズ、1969年7月5日発売とある
その某団体は総会後に我が法人の正式会員となり、我が法人は某団体より理事を迎え入れる。 糸の絡んだ男女関係のような様相を呈している。 下品な表現をすれば”近親相姦”のようなもの(笑。 法人と団体との相関ではよくある事例だが、 組織・事業への助成や援助など人やお金の流れは、建前的には横よりも縦の関係で決まる。
  道路側のつる薔薇撤去完了。 泰山木の花が咲き始め、 裏庭のヤマモモの木の実が膨らんできた。 熟すのはもう一月ほど。
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