■2013.12.26
帰ると食卓に尾頭付きの煮魚が座っている。
「これもお返しですからね」
私は煮魚は余り好みではないが、この魚の煮付けだけは例外。
にんにくの葉も一緒に煮込まれている、これがとても旨いのだ。
年末押し詰まったのだが、仕事のほうは既にほぼ御用納め状態。
不急の新春早々の準備を少しずつこなしている。
仕事はそれでのんびりなのだが、プライベートがにわかに忙しくなった。
息子夫婦の子育てを傍から楽しくのんびり見守っていたのだが。
「父さん母さん、少しの間面倒見てもらえないかな」
先週半ば息子からそういって電話がかかってきた。
息子によると、子供がアデノウイルスという感冒に似たものに罹ったという。
登園すると園中にうつるので一週間の登園禁止措置を受けたそうだ。
息子たちは年末で繁忙、休むわけにはいかないそうで、
そういう訳で、連休明けから我が家で臨時保育園を開設している。
妻は日中は保育に勤め、夜は母の世話に実家に帰る。
こんな生活が今日で三日目。
勿論、妻だけが忙しいわけではない、
妻が保育と母の世話に専念できるよう、朝早くから夜遅くまで独りで家事全般を私がカバーしている。
■2013.12.24
夕方、妻から電話が。
「お母さんが風邪気味の様だから、今日は(実家に)泊まります」
「夕飯の用意したので、それにケーキも」
急遽予定を変更して今日は実家に泊まるそう。
この連休、妻は久し振りに我が家で連泊した。 二日掛けてケーキを12個焼き、それを色んなところに配った。 それで、ワインやクッキー、野菜、自家製のお漬物、トイレットペーパーまで色んな物をお返しに頂いた。 まあ、毎年恒例の年末物々交換だと思えば良い。
 仕事帰り、食堂に立ち寄った。 家で独りで食事するのが面倒なもので、妻の指示には背き夕食は外で済ませた。 帰ると、最後の1個のケーキがテーブルに。 私の好みの苺ケーキに仕上げてくれている、ケーキは苺でなければならない、これは私の”原則”なのだ。
市販のショートケーキの2個分ほど、1/4を切り分け独りで有り難く頂いた。
それと、妻の名誉の為に補足しておくが、
何時もはもっと綺麗に可愛らしくデコレートしてくれる。
実家に余程急いだのだろう、今年のはかなりというか適当と云うか、仕上げが実に雑なのだ。
■2013.12.20 U
書き難い事を書いたので、ついでにもう一つ既出だが、ヒンシュクを買うことを覚悟の上で詳しく書く。 東大安田講堂前の民青全国集会粉砕のゲバルト行動について先日書いた。
その騒動で撤収する際に東大正門前から本郷通りを地下鉄本郷三丁目駅まで隊列を組んで歩いた。 隊列は当然だが歩道を歩かず車道を。 無茶苦茶なゲバルトで消耗している上に、撤退の際に何名かの欠員を生じている。
欠員は民青側の捕虜となっていることは皆が理解していた、当然だが皆殺気立っている。 その殺気だっている隊列の向こう側から、歌声が聞こえてくる。
男女半々ほどだったと思うが、先頭に旗を立て歩道を歩いてくる集団が居た。 それも次から次に。 民青の全国集会に参加すべく全国から集まってくる色んな大学の隊列。 歩道に旗を掲げ歌声さわやかな民青の隊列、車道にゲバ棒を持ち血相を変え殺気だった赤ヘルの隊列。
当然、向こうは気が付いたようだが知らん振りをして通り過ぎようとする。 こちらは当然すんなりと行き違うわけには行かない。 先頭の旗やプラカードを取り上げ威嚇、中には勇敢にも抵抗しようとする学生がいたが完全”制圧”。
そんな事を繰り返しながら駅に着いた。 駅のプラットホームに降り立つと、到着する車両にも民青がいる。 これまた、すんなりと車両から降ろすわけには行かない。
旗竿やゲバ棒で車両の入り口を塞ぎ、下車しようとする民青と、車両とプラットホームの間で乱闘を繰り広げた。 そんな騒動を繰り返しやっとこさお茶の水まで帰り着いた。
今更に共産党が誹謗する「トロツキスト暴力学生」を地で行った訳で、私等はその指摘の正しさを、暴力学生との経験が乏しい地方大学の民青諸君にも身をもって証明したことになる(笑。 エピソードでは、捕虜は「等価で物々交換」したと書いた。
等価とは「捕虜は捕虜」と交換するという事で、これは戦時下における一般的なセオリー。 それで、等価な”物”をこちら側も確保しなければいけない訳で、
それに、その確保が遅れると捕虜となった仲間が相当な”ダメージ”を受けるのは必須で確保を急いだ。 一兵卒で助っ人の私は御茶ノ水に帰った以後の事には関わらなかったので詳しくはないが、帰り着くとすぐさま特別チームが隣の大学キャンパスに出向いている。
それで等価の”物”を確保し、捕虜の交換交渉に入ったそうだ。 奪還した仲間の確認まではしてないが、仲間は少々のダメージの範囲だったと聞いている。
まあなんと言うか、私が言うのも何なのだが凄まじい時代だった。
■2013.12.20
2010年9月に書いたブント情況派のゲバルトのエピソード。 私はあくまで助っ人との立場、決してセクト加入はしていない。 それと関与したゲバルトは対機動隊と民青のみ。
当時、赤軍派が登場し熾烈を極めていたブント間の内ゲバには関与していない。 結果として関与はしなかったが、内ゲバへの誘いは二度に渡ってあった。 一度目は夜討ち。 関西から上京し活動しているブント某派アジトの都下郊外のアパートを襲うから手伝えと云うものだった。 立場を替えれば、親分を匿った私の阿佐が谷のアパートを襲うという空恐ろしい構図。 私はブンド内部の抗争にはなんの義理もないので、断った。 夜襲部隊はホロ付きのトラックの荷台に乗って未明に出掛けたそうだ。 アパート近くの電柱に登り電話線を切断し、ドアをハンマーでブチ壊し寝込みを襲ったと云う。 その時の決めセリフを後で教えてもらった。 「どうだ、関東ブントの恐ろしさ思い知ったか!」 二度目は、
「赤軍狩りに行くから手伝え」 明大生田校舎に駐留する赤軍派を襲うと云うものだったが、私は内ゲバには義理が無い、それにそれは私の心情とは大きく違っていた。
その時期、正直に言うと私は赤軍派にシンパシーを感じていた。 闘争の敗退期のあの時代、多くの者が運動の先詰まりを感じていた。 そんな状況下に登場した赤軍派には、思想の是非ではなくその行動のストレートさで多くの者がシンパシーを持っていたと思う。
だからこの時も断った。 これを最後に、情況派とは縁を切った。 日大全共闘はどんな理由でも、理由が無くても運動を離れたものを謗ったり追及したりしなかった。 来るもの拒まず、去る者追わず、これが日大全共闘の原則。 しかし、セクトは違った、 それまでとは違い何度か恫喝されたが、私は日大全共闘という帰る場所が有ったからめげなかった。
あの時、一緒に走り回った情況派の皆、どうしている・・・・、 私はここで元気でいるよ!
■2013.12.19
実は、下の二点の写真は公開の承諾を頂いていない方の写真なのだが(汗。 1968年11月22日、安田講堂前の全国総決起集会に駿河台の理工学部一号館前から出発する際の貴重なショット。
先日紹介した下左の写真の一群。 先頭の旗に日大の字が識別できるので、間違いなく日大全共闘の部隊。  
先日の日記に、「機動隊と一戦交える覚悟で出発した」と綴ったが、 よくよく記憶の糸を手繰ってみると、また別のかすかな記憶も蘇ってきた。
その別の記憶とは、 御茶ノ水橋を渡り本郷に向かったが、行く手に機動隊の姿は見えなかった。 後の話で事実関係は定かでないが、機動隊は路地に引っ込み隠れていたそうだ。 周りには暗闇が降りてきはじめた。
安田講堂前では全国から結集した万余の闘う仲間が待っている。 この集会は日大と東大が主役な訳で、機動隊と一戦交えて安田講堂への道半ばで引き返すわけには行かない。
私が言うのも何なのだが、その頃、日大全共闘は右も左も含めて絶大な大衆的人気があった。 日大全共闘が辿りつかなければ集会そのものが成立しない。 そこで日大全共闘は思案したと思う。
それまで果敢に街頭戦を戦い抜いてきた日大全共闘の行動隊が思いもせぬ行動にでた。 記憶が間違っていなければ確かこうだった思う。 「安田講堂に行き着くために”歩道”を歩く」 駿河台から本郷に至る間で機動隊と衝突があった記憶は私にはない。
その理由は、機動隊と全く遭遇しなかったのか、 それとも機動隊に規制されないように歩道を歩いたからなのか、 何れだったか私は未だに知らないが、いずれにしても日大全共闘の部隊が”無傷”で安田講堂に行き着いたのは事実なのだ。
しかし、 そもそも、あれだけの数の部隊全てが歩道を歩いていけたのか、 先頭に居た角材担いだゲバ部隊は何処でどうやって武装解除したのか、
物理的条件に関する疑問点も一部あるのだが・・・。
■2013.12.18 埋蔵文化財になりかけた「あの本」を職場で発見したのだが、
借りた日が思い出せない、多分、借りてから一年は過ぎていると思う。 付いている付箋の意味も思い出せないので、付箋の付いているページをしばし眺めて思い出した。
そもそもこの本の副題は「政治と医療で時代をかけ抜ける」 
付箋は長老が親切にも「亀」さんに関わるページをマーキングしてくれたものだとやっと思い出した。 亀さんといえばHPの本文にも綴っている共産同情況派のキャップで私を将来地区ソヴィエトの議長にしてくれると約束してくれた御仁。
何故、彼を一時阿佐ヶ谷のアポートに匿ったかも、これを読み進むとおぼろげに理解できる。 付箋の部分でも136Pの一節が如何にも亀さんらしい。
「亀は慈恵医大だけど、あそこは大衆運動できるところではないから、まさに医学連の活動家。しかもほんとにゲバゲバというか、単純行動主義です。医学連をバックに好き放題やってました。中大、明大、医科歯科のカルチェラタン三角地帯を根城にゲバ部隊を組織してて・・・・・」
HPに何度となく綴っている、如何に私がブント情況派のゲバルトに引き回されたかの事実関係をこの本は証明してくれているし、 この本は、私が面白おかしく何度も綴っているエピソードが、決してフィクションでないことの裏づけともなる。 一年以上も借りっ放しだったので今更の頼みになるが、
この本、真面目に最後まで読み終えたいので、もう少し貸していただけるよう長老にお願いせねば。 なにせ、私はこの本に登場するゲバ部隊の一員だったから。
50年近く経っていますが、当時私は何でゲバルトしてたのか知りたい訳ですので(笑。
■2013.12.17 「**さん、この本お貸ししましょう」
「それで、あの本返して下さい」 そういってサロンの長老から差し出された。 何れも回顧録本。 「あの本」といわれて少し困った。 確か半分ほどまで読み進みそのまま何処かに置いた。 家に帰って探したが見当たらない。 これは新冊買って戻さねばと、ネットで検索すると3000円近くもする トホホ・・・・・、困り果てた。 それが先日何気に職場のデスクを開けると、有り難くともそこに鎮座していた。
 左が「この本」、右が「あの本」 昼間、妻からメールが入った。 総菜をつくったから、それで夕食を済まして下さいとの業務連絡だった。 このところ妻は親の世話で週の半分以上家を空け実家に泊まる事が多くなった。 つまり、私は週の半分以上独りで夕食をとっている。 この歳になれば、気楽な感覚が7割、わびしい感覚が3割、 この7/3のバランスが微妙なところ(笑。 そう云う事で殊更に帰宅を急ぐ必要もないもので、 私の場合、そんな時ちょっと一杯という選択肢は端からないもので、 喫茶店によってしばしの間「この本」の読書に耽った。 真面目に読んでおかないと、またまた「あの本」と同様に途中で返さなければならなくなるので。
ウ〜ン、でも、「この本」結構面白いのだ。
■2013.12.16 U
yajiumaさんの「野次馬雑記」12月13日(金)の記事、ある「元中核派活動家」の回想1967−1969その1。
1967年明大入学のAさんの聞き取り記事、 その1は1967年10月8日、第一次羽田闘争のところまで。 同じ時代、同じ空気を吸った者同士なので、興味深く読んでいる。
そうは言ったが、時代は同じでも私とAさんでは1967年に吸った空気はかなり違う。 私は超反動の日大、方やAさんの明大は自治会活動が盛んで三派全学連が闊歩する大学。
Aさんは活動家の常の”王道”的な履歴を経ているが、 私(等)は百姓一揆的にある日を境に突出した大衆分子。 個人的な性格をさて置いても、環境の違いには大きなものがある。 yajiumaさんの聞き取り証言は、抑制が効いていて読み易い。
目線が変に斜になっていないし、党派や政治の難しい言辞も弄しない。 一番肝要なのは余計な「訴えかけ」が無いこと、 生身の人間を、淡々と綴っていると思う。
言葉の隔たりを乗り越え、隔絶した後の世代に”時代の記録”を伝えていくには、 かような記録でなければと、私は思う。
話は少し脱線して・・・・、 面白かったのは1967年7月、Aさんは夏のセミナーでド・イデと経哲草稿を勉強し終えたら、マル学同盟加入を薦められた書いてある。
それまでの自治会活動、マルクス学習とバランスが取れたのを見計らい同盟加入となっている。 私の場合、バリケードを追い出され1969年の2月から一時期中大学館に居候した。
学館で寝泊りしていたら中大ブンドのお兄さんに声を掛けられた。 Aさんとは違い、私は「国家と革命」「何を為すべきか」の文庫本二冊を是非読めと手渡された。
何れもレーニンの著書だった思う。 それから少しして中大ブンドのお兄さんに再び声を掛けられた。 「あの二冊の本は読み終えたか?」ちゅう問いだったと思う。
真面目に読んだかどうかは忘れたが、取り敢えず見栄で読み終えたと返事したと思う。 すると中大ブンドのお兄さんが私にこう言った。 「そうか」
「これでお前はブンド(社学同)の立派な一員だ!」 私の場合、本籍・日大全共闘、現住所・中大学館在住の特殊な事情もあり”身元保証”はバッチリ、
それで一次の”実技と面接”試験は免除で、学科試験だけだったよう。 二冊の本で、唯一憶えているのは「地獄への道は善意で敷き詰められている」って一節のみ。
でぇ・・・、リクルートに応じ目出度く一員になったかって? とんでもないのだ(笑。
■2013.12.16 Win7機のXPモードについて。
先日、職場で新規購入したWin7機にXPモードをインストールした。 それでもってWin98のOSが標準仕様のmyアプリをインストールしてみた。
職場のPCにmyアプリをインストールして、勤務中に内職をしようという意図ではない。 Win7機のXPモードでmyアプリが動くかどうかを試してみるだけ。
XPモードを展開し、myアプリのインストールは問題なく終わった。 myアプリを起動してみた。 XP環境下と同じように問題なく動く。
最後にFTP接続を試みた。 「サ−バーを見つけました、接続しています」 画面に表示が出るのだが、一向にサーバーに繋がらない。 その内、タイムアウトに。 この試みの前に嫌な予兆があった。
XPアプリはWin7の画面上にXPと同じウインドが開く。 そのXP画面下には同じようにセキュリティーなどのアイコンが並ぶ。 そしてウイルス対策が出来ていないと警告してくる。
インターネットは問題なく繋がるが、プリンターとかのネットワーク接続が成立しない。 要はXPモードは”大海に浮かぶ孤島”のような状態、外との関係がインターネット以外は断ち切られている。
試しにPC会社のサービスに問い合わせたが、問い合わせ事項は”サービス対象外”だそうだ。
先日、JUNさんを通じてお二人の方から写真を頂いた。 JUNさんのご足労で、その内の一人の方から公開の許可を頂きました。 年末までに公開用のページを作るつもりをしていますが、
取り敢えずその内の一点を。 写真の日時は定かではないが、頂いた写真の前後から1968年11月22日ではないかと思われる。 ヘルメットに「京」と言う字、見ようによっては「京大」とも見れる。
1968年11月22日はそれこそ”全国動員”だったので、関西遠征組みも日大バリケードに”宿泊”している。 写真は経済学部前、その宿泊組みも交えた一団ではないかと思う。
写真のキャプションの真偽も含め正確な情報があればよろしく。
■2013.12.13 JUNさんからお二人の方の写真を送っていただいた。
懐かしい写真ばかり。 全部お見せしたいのだが、いずれも公開の承諾を頂いていない。 そういう事で何時ものとおり、お二人の方の一点ずつ二枚、勝手にここでお披露目します。
一つは1968年11月8日の直後の理工学部一号館のバリケード風景。 立看板から日付の推測が出来る。 理工学部闘争委員会は一号館バリケードに各学科の闘争委員会を設けたが、
それが二階の教室だったか、それとも三階の教室だったか記憶が飛んでいた。 写真のセンベイ布団を干しているのは二階の教室の窓。 そういう事で学科闘争委員会は二階だったことが判明。
 もう一点の写真はJUNさんの説明によると1968年11月22日のもの。
東大安田講堂前に全国の全共闘が集結したあの日。 写真からの見立ては、その安田講堂に向かって出発しようとしている様と思われる。 この部隊が日大全共闘の部隊なのか、それとも違うのかは定かでないが、
場所が日大理工学部と歯学部に挟まれたところ、 写真右は理工学部一号館、左は歯学部本館、そして今は無き中大校舎、写真奥には中大学館が見える。
単純に言って、これ程の数を集められるのは日大全共闘をおいて他にないから日大全共闘だろう。 11月22日といえば午後も5時を過ぎると回りは薄暗くなる。
写真では未だお日様は十分上のほうにある。 遅くとも午後3時から4時頃だと思う。 この写真の状況は私の薄れた記憶とも合っている。 安田講堂に向かって出発すべく部隊を整えてからかなりの長時間そこに滞められた記憶がある。
御茶ノ水橋の向こうに機動隊の阻止線が張られてるとのことで、部隊はなかなか出発できなかった。 周りが薄暗くなった頃、「本郷に向かって機動隊の阻止線を実力で突破し、全国の仲間と合流する」との激で部隊は出発した。
皆、一戦交える覚悟を決めた。 そんな記憶が蘇って来た。 JUNさん、有難う。
■2013.12.11 「**の為、**から先が不通になっております」
昨日の朝、出張に赴くためホームで特急列車を待っているとアナウンスが有った。 不通の原因は自然災害。 「ウヌッッ・・・・」 周りに居た人が一斉に近くの駅員さんににじり寄った。
「今のところ運行再開の時間の目途が立っていません」 「お待ちの特急は**駅まで運行し、そこで運転再開を待って頂くことになります」 営業マンらしき人が、かなり興奮気味に駅員さんに問いただす、 「目途が立たないって事はどういう事だ!」 どうしてなのだと突きあげられても、駅員さんは返答に窮している。 詰め寄る人も困っているのだが、自然災害だから、詰め寄られる駅員さんも可哀想だと思ったが、 そう云う私も午後1時ごろまでには出張先に着かなければいけない。 途中で立ち往生する時間的余裕は1時間程しかない。 目途は立たないのは分かっていてもつい私も聞いてしまった。 「運転再開、1時間程で出来るでしょうかね?」 返答は予想した通り、 「再開の目途は今のところ立っていませんので・・・・」 これは短時間の復旧に掛けるのはヤバイと判断し高速バスに乗り換え何とか出張先に間に合った。 話は変わって年金の話し。 私等の世代は60歳から厚生年金や共済年金の報酬比例部分の年金支給があっている。 この年金、65歳までは月額総報酬28万円を超す金額、65歳からは46万円を超す金額が減額になる。 正確にはもっとややこしい計算式なのだが、 つまり年金収入以外に一定の収入が有る場合、減額なる。 私は今年めでたく満65歳と相なった。 つまり年金が減額なしに全額支給される、その根拠は月額総報酬がもちろん46万円以下だから。 それでもって10月4日付けで「厚生労働大臣」から今後の満65歳からの支給額の通知書が届いていた。 60歳になった時、65歳になった時の支給見込額通知書を受けていたが、それよりそれなりに増えていた。 この5年間働きせっせと厚生年金の掛け金を払った見返り分。 そして先日、12月4日付けで再度「厚生労働大臣」から支給年金額の通知が届いた。 「・・・・・・・・・・・・??」 間違っているのではと、再度マジマジと通知書の金額を見直した。 更に10月4日付けで届いていた通知書と見比べた。 「・・・・・・・・・・・・??」 2ケ月前の通知書の額と違うのだ。 「何なのだ、これは?」 妻が横でしら〜っと言った。 「貴方、年金の減額改正が有ったの知らないの?」 「・・・・・・・・」 知らないのだ。 この5年間、せっせと働いて厚生年金掛け金払ったのに、それに相応する部分がパァ〜なのだ。
■2013.12.10
多分・・・・、 今日は今年最後の出張。 JRで3時間程、県境を幾つか越える。 往復5時間を超えるので、今から車中で読む本を探さねば。出張が終えると、後は機関紙の新年号の発行。 今回のページ構成は会員団体の新春挨拶、 だから私に原稿を書く手間は殆どないが、 依頼原稿の期日を守ってもらうのが一苦労。
 アメジストセージと今年最後の色づきのランタナ 思いだしてみれば、 前職の歳末は凄かった。 年の瀬が近づくにつれて忙しくなる。 毎年毎年、御用納めを過ぎても仕事が山ほど残り大晦日まで働いたことが幾度となくあった。 それと比べれば、主な仕事は原稿の督促と紙面編集、それに年明けの準備のみだから、 忙しい年末はこれまで十分過ぎるほど味わったので、 忙しくしている方々にはご苦労さまとねぎらい、 悪いが、私は今年もゆったりした年末を味わさせて頂くのだ。
■2013.12.08
色づき始めた蜜柑に朝の柔らかい日差しが当たり輝いている。 亡き父が植えてもう40年ほどになる老木。 剪定をしてやればもっと実をつけるのだが、 緑の葉は夏のきつい日差しを遮ってくれるので剪定は極力避けている。「貴方、昨夜宅急便が届きましたよ」 夜も更けてといっても午後8時半頃の配達だったそうだが、私は既に夢の世界。 年に二回、夏と冬のこの時期に関東の義姉から届く。 2011年3月、東北に住む義姉の孫たちを一時当地で預かった事がある。 それ以来、感謝の意味も含まっているのだろう、季節の贈り物がググッとボリームアップしている(笑。 義姉は生活クラブ生協の役員をしているそう。 夏は無農薬のオレンジ類が定番、 いずれもいびつでデコボコしており大きさも不揃い、それにシミだらけ。 みかけは如何にも不味そうだったが、濃厚な甘さと酸っぱさ。 妥協のない完全無農薬と有機栽培だそうだ。 頂いた当初はかなり抵抗があったが今は慣れた(笑。
  冬のこの時期はコーヒー、 開けると森のコーヒーとゼリーチョコレートが入っていた。 コーヒーは200gが5袋だから1kgになる、私がコーヒー好きだと知ってから増量された。 いずれも生活クラブ生協の品だそうだ。 添えられた手紙。 2011年3月、当地に避難した兄弟3人。 お姉ちゃんは今「就活」の真っ最中だそうだ。 お兄ちゃんは高校最後の年、叔父さん達(私の甥っ子)と同じ「東京の大学」を目指して猛勉強中だそうだ。 ちびっ子は小学2年生になった。 そのちびっ子からは時より季節の便りを貰っている。 この前貰った便りには、つたない字でこう書いてあった 「もう直ぐサンタさんがきます」 「楽しみです」
■2013.12.06
わたくしはへそ曲がりなもので。 ほぼ全ての新聞社、テレビ、マスコミがまるで談合したかのように揃い踏みで法案に反対している。
この流れは選挙に惨敗・完勝したときから決まっている訳で、 今更、何言うか・・・・、 なのだ。 先の選挙の趨勢の流れに、巧みに手を貸したのは手前らだろうに、
広告収入やスポンサー収入、 いずれも危惧して、 本音は原発容認、経済最優先。 ねじれ解消が、さも正しい選択のように世論を巧みに誘導しておいて、
いい子ぶって今更、マスコミが何言うか。 私(等)は、かつて手の平返した奴らを知っているもので、 くそったれ!
■2013.12.04 「貴方、そろそろ探し出しておいてくださいよ」
家の建替えの際、ほとんどの書籍類はダンボールに入れ納戸に埋蔵した。 目当ての本は必要なくなってから四半世紀、前の家から今の家の納戸へ、そこで静かに眠っていた。
世代は約30年で更新していくと言われているが、ことこの件に関してはその通りのようだ。 妻ご指名のめいちゃん。 購入の際、クリスマスのギフト包装の指定も選択できたのだが、ハタと考えた。
ラッピングしてプレゼントで手渡すと、当然持って帰られてしまう。 買ってあげたのだが、妻は出来れば我が家に置いて欲しいはず。 そう考えギフトのラッピングは指定しなかった。
子供たちが独立し家を出て10年近く、 初老の夫婦二人、無彩色がベースだった家の中に色んな色が溢れはじめた。 この賑わい30年振り。
世代は、そして家族はセオリー通り30年程を1サイクルに繰り返す。
何百万年続いてきた人類の進化(退化)は、 このサイクルが1回から2回、そして現代、寿命としては3回りが当たり前になっている。 しかし寿命は寿命として、社会的役割は2回りのサイクルが限度だと私は思う。
この百年ほどで人間が社会的動物として、それほど”高耐性”に進化したとは私は思わない。
■2013.12.03 貴重なXPのノートPC一台お釈迦にした事は此処に綴ったが、それ以後はもっぱらWin7デスクトップを使っていた。
「不便そうですね、ノートPCを購入しましょうか」 優しく涙チョチョ切れるお声が掛かった。 気持ちは嬉しいがWin7やWin8は欲しくない、折角の提案にうやむやな返事をしていた。
先月下旬、出張の合間に事務員さんがこういった。 「DELLの新聞広告見てたら、”XPモード”対応機種というのがありましたよ」 耳寄りな情報なので、以前の職場のPCオタクに問い合わせた。
「確かプロフェッショナル仕様にそんなのがあると聞いていますが、調べてみましょう」 その日のうちに返答が帰ってきた。
出張先のSAで Win7のプロフェッショナル仕様に限ってだが、Win7上でXP対応のアプリを動かすアプリだとの事。
かなりややこしそうだが・・・・、 これは一度掛けてみる価値が有ると思い、事務員さんにその仕様の機種をお願いした。 そのノートPC、先月末に届いていたのだが、やっと昨日セットアップし更にXPモードのアプリもダウンロードした。
うんでもってXPモード上でマイ・アプリをインストールした。 やっぱりややこしい。 ところが・・・、まともに動く。 土台の7の上に乗掛かったアプリの更に上で動くのでサクサクとは行かないが、それなりに動いてくれる。
難は、7のデスクからデータの直のやり取りが出来ないこと。 一度USBなどのディバイスに移し、XPからディバイスを参照すると言うややこしさ。
多分、7とXPアプリ間で直にデータを参照できる方法があるはずで、少し研究の必要あり。 その昔、 PC98機に出たばかりのWin95を強引にインストールした。
そのままではウインドウズの画面はハガキ程の大きさ、 アクセレーターという拡大機で小さな画面を無理やり大きくして使った。 サクサク動くなんてのはどだい無理な話、そんなウインドウズの時代もあった事を思い出した。
■2013.12.01 昔のトラウマで、 ここに今渦中の法案や原発の事を書かないと”反革命分子”のような気持ちになりますが、
日々の徒然を綴り、 声高に叫ぶ”テロ”行為は、此処(日記)ではしないと決めているので。 ご容赦を。 多分、妻のほうが喜ぶと思います
東京では努力の甲斐なくめいちゃんに出会えませんでした。 代わりに予期せぬ営業に出くわし動揺したことは先月(先日)書きましたが、”無事”に帰着し週末にめいちゃん探しをしていました。
そういう事で努力の甲斐あり、今日、某所から手に入りました。 じゃじゃ〜ん、 この時期、非常に貴重なめいちゃんが手に入ったのです。
きっと喜んでくれると思います。 |