■2014.01.24 night
管理人
好きだったけど、何も言えなかった。 デートしたこともないし、手を握った事もない。 勿論、キスなんて論外。 思い続けるだけだったと。日本酒をなみなみと注いだワイングラスを三つ前に並べ、 そういって泣き事を並べた女子。 2009年11月3日の日記に綴っている、 その彼女、私と同様に会いたかった片思いの相手には結局会えなかった。 もう4年以上も前の出来ごと。
 今日、同窓会の幹事から電話が有った。 昨年末に逝ってしまった同窓会発起人代表を偲ぶ会を今月末にすると云う。 偲ぶ会と云っても赤提灯でやるのだが。 正直言うと、逝った同窓生とは全く付き合いが無かったのだが・・・。 発起人代表を継いだ私にも出てこいとの事。
更に幹事が電話でこう続けた。 「サッカー部だったN君が最近地元に帰っていて、是非、その偲ぶ会に参加したいと言って来た」 「N君?」 「進学クラスで、サッカー部だったN君なのか?」 「確かそうだが・・・、それが?」 幹事にはそれ以上の説明は敢えてしなかった。 その言われたN君とは、 上に書いた、飲兵衛の彼女が会いたかった片思いの当人、N君なのだ。 さ〜て大変な事になった、これから如何したものか・・・・。
その彼女、今でも結構キュートな昔の面影が残っているから悔しいのだ、
自虐的に言えば、「人の幸せは私の不幸せ」だから、私はキューピットの安売りは嫌なのだ(笑。
■2014.01.24 morning
管理人 久々、真面目に。 非妥協的に、筋を通してそれを絶対曲げない。 私等のかつての闘いのスタイルがそうであったので、今更に言えた立場ではないのだが。
政治力学的には既に十分すぎるほど結果が見えている、 その結果を敢えて承知の上で突っ込んでいく姿は、”自己満足的”に美しいと思うのだが。
○共さん、ここのところ党勢は確かに伸張している。 しかし、それは党の確信的中核部分が増えたわけでは決してない。 反原発運動や政治の右傾化の余波を受け、それに危惧する部分が○共さんの周辺部にフッワッと吸い寄せられている、私等がシンパ(共感者)と呼んだ層。
それが昨今の○共さんの選挙結果にも繋がっているわけで、 かくいう、他人目線で嘯く私も、○共さん以外に選択肢がない状況では同調もしている。 しかし、今般の”事”の是非は別として、今の動向は、これまでの党勢伸張の流れに間違いなく逆行するだろう。
今まで○共さんの周辺にフッワッと吸い寄せられていた層、そのかなりの部分が今後離反していくと思う。 確信的な中核部分(パルタイ)がしっかりしていれば、何時でもその部分は取り返せると当事者は思っているのかも知れないが、
'60〜'70年代の大衆蜂起的運動を経験している私等に言わせると、その部分を取り返すのはそうは甘くない。 3.11以前から一貫して反原発運動を進めてきた部分には、3.11まで○共さんが主張してきた原子力エネルギー政策に関して言いたいことは山ほどある、
しかし、3.11を受け運動を共に進めるというスタンスで、その方々からの一方的な○共さんへの批判的批判は余り聞き及ばない。 そういう方々も含め、○共さんは周りに引き付けていた訳で、
しかしながら今般の選挙は、その結果の如何に関わらず、今後、運動が二分されるのは必須だと私は思っている、 それはかつて両者が正論を譲らず、核兵器廃絶運動が二分したこと、又してもそれと相通ずる。
■2014.01.20 morning 管理人 土曜日、陽気が良いので花壇の手入れ。
庭隅のホトトギスがはびこり過ぎている、思い切って半分ほど引っこ抜く。 昼間は好物のピザ、家を空けがちの妻が珠にはと焼いてくれた。 夜は何時も通り独りの夕食。
日曜日、注文していた「疫病と世界史」の下巻が届いた。
この本、上巻を読んでいるがなかなか手ごわく未だに読み終えていない。 文脈が入り組んでいて、さっと読み流すと私の頭では何を言っているのかさっぱり理解できない、
それで逐一文脈を頭の中で整理しながら読み進む、なのでやたらと時間を要する。 しかし、それだけに読み応えがあり面白い。 以前読んだ「銃・病原菌・鉄」の病原菌のカテゴリーを更に掘り下げた内容。 下巻が届いた事に煽られ、昼からは環境を変えて更に読み進もうと喫茶店へ。
私は集中力に欠ける。 物事に乗りやすく、行動から入る自分の性格は嫌いではないのだが、 物事一点に集中するのは苦手。 読書も、車中とか喫茶店、旅先の宿舎とか、それしか出来ないという状況でないと集中できないのだ。

夜、選挙の結果が気になり珍しくテレビ。 8時過ぎ、民放・新聞社が早々と当確を出す中、何時もは一番乗りの国営放送が9時になっても10時になってもシカトを続ける。
挙句に、さすがにマズイと思ったのだろう、 「出口調査では優勢との状況ですが、期日前投票が30%以上有りますので」 ちゅうて言い訳を言う、じゃ・・、今までの選挙の当確報道は何だったのと言いたい。
出口調査での統計的確率は期日前投票にも適応できるわけで、素人にも分かる見え透いた言い訳。 時の政権に国営放送がここまで媚を売るのを初めて見た。
上層幹部の判断なのだろう。 奴ら、特定秘密法案は大騒ぎでスタンドプレーしてくれたが、原発と基地は政権と利害が一体化している一つの証左だろうと思った訳。
これでは次の選挙が気にかかるのと、 余りの見え見えに胸糞が悪くなった。
■2014.01.12 night 管理人
此処のところ、徒然に書き綴ったブント情況派の「亀」さんと、それにまつわる私の幾つかの経験。 私の経験は別として、「亀」さんに関わる記述について。
「聞書きブント一代」を貸してくれた長老から先日メールが届いていた。 言うには、私が綴ったものは事実と違うところが有ると云う。 1968年6月15日、安田講堂第一次占拠。 『安田一時占拠では外部の逮捕者は亀だったが、部隊は医科歯科大を中心にした関東私学などの医学連部隊で跳ね上がりというものではない。』 長老は長く医学連に関与していたので、まさに当事者の証言と云う事になる。 そう云う事で、私の日記はあくまで「聞書きブント一代」の記述の範囲を書いたと云う事で、お許し頂きたい。
 それと、 私の「亀」軍団への一時期の助っ人は、 時系列がデタラメな事、 時間の経過で、状況がかなりデフォルメされているかもしれないが、私の実体験だから”事実”だけしか書いていないのでその点はご理解いただきたい。 かつて労働組合の”最頂点”を勤めた方の講演を聞く機会が有った。 三井三池争議から始まる日本の労働運動の歴史を紐とき、現在の労働組合の有り方を述べるものだったと憶えている。 その中で、60年代、70年代の学生運動にも話題は及んだ。 話は'60年安保から始まった その中で、東大闘争と日大闘争にも話題が及んだ。 東大闘争については、かなりいい加減だが、あんなものだろう。 しかし、日大闘争については全くデタラメ、事実誤認以前のまったく的外れの解説だった。 かつて930の仲間が指摘したように、全学連と全共闘の区別もグチャグチャ。 あまりに酷いので質問し指摘してやろうと思ったが、目立ってしまうし、 経験してない者に全共闘を分かれと云っても無駄だとも思ったから止めた。 かの大戦が終わって68年 '60年安保から54年、、 '68年日大闘争から46年が経過、 何れも、もう埋蔵文化財なのだ。
■2014.01.10 morning
管理人 何か違うな・・・っと思ったのは、 同窓会の役員・幹事なんてのは、今や会社の社長とかお偉い役職の経験者が勤めるのが普通。
つまり・・・、自虐的に言えば私のような道を逸れたはぐれ者が勤めつるべき”役”ではないとの思い。 私等は高校を卒業して50年近く、正確に言えば47年経っている。
この間に、健康や病気はいた仕方ないにしても社会的立場や経済的な条件はそれぞれに大きな格差を生じている。 個別、私の場合、健康にこそ問題はないが、社会的には一貫して”アンチ”の立場を歩いてきている。
同窓生の平均的な”その後”の立ち位置から言えば、其処からは大きく外れてる。 普通なら、世間一般でいう同窓会にのこのこ出て行く人種ではないと思うのだ。
5年前、還暦の同窓会の招きを受けた時、私の中で何かが変わった。 40年以上、一切付き合いを絶っていた高校の同窓生にもう一度会いたくなった。
それと同じく、卒業から40数年一度も会っていない”あの子”に、も一度会いたくなった。 40数年の時間のクッションが効いたのか、そんなモチュベーションが強く沸いてきた。 私の「あの時代の経験」は同時代の中でも運に恵まれた。
私は「あの時代の経験」を当時から現在まで一切後悔していない。 後悔しないと共に、あの時代の経験は40年近く胸に仕舞ってきた。 だから、あの時代の経験を他人に鼓舞したり、後悔から世の中を斜に見ることもしなかった。 何かが吹っ切れた2008年から、私は自分から積極的にかつての同窓生の輪に入った。
特にミヨちゃんのお陰で関東在住の女子連とは太いパイプを持つようになった。 彼女らが帰省してくる度に地元を巻き込み歓待し、また私が上京するとそのお返しがあった。
そんな5年間の実績評価が今回の件に繋がったのだろうと思う。 「なら、しゃないなあ」 役責への同意のショートメールを送るとすぐさま返事が返ってきた。
「君なら人がついてくるから・・・」 身に余る返事を見て、もろい涙腺が緩んだ。 やっぱ、私は乗せられ易い性分のようだ。
■2014.01.09 night 管理人 『そこで後任の代表として**にお願いすることに幹事一同で一致しました。突然のお願いですがどうか引き受けて下さい。お願いします。(2/2)』
夕食を終え、パソコンの前に座ると携帯に着信サインが出ている (1/2)と(2/2)の二通に分かれたショートメールが入っていた。 元旦に貰った、高校の大同窓会発起人代表へのオファーには返答を保留していた。 今度のショートメールはその件の「欠席裁判」の結果を知らせるものだった。 この不当な「欠席裁判」に異議申立てするか同意するかハタと思案した。
結局、ノリの軽い性格と、 事に利害が噛んでいれば別だが、 そうでじゃなく、「どうか引き受けて下さい」と頼まれれば断れない性格な訳で、
結局、「しゃないな」と返事した。 更に正直に書くと、 前回2008年の還暦同窓会から五年余り。 この間色んな事が有り、”あの子”に会える可能性が1%もない事を少しずつ理解した。 最近そんな辛い理解が、40年近く引きずっていた未練を少しずつ薄めてきた。 そんな未練の最後の最後に、一肌抜いてもいいかなと思ったから。
しかしだ・・・・・、 此処の所、人を担いだ悪だくみはさんざんして来たのだが、 たかが同窓会といえども、担がれるの、私は初めての経験なのだ。 な〜んか、調子狂うなぁぁ。
■2014.01.07 night
管理人
年末年始の九連休、入って二日目の日曜日、一度だけ外出していた。 今年11月に予定している高校の大同窓会の打ち合わせ。 10余名ほどの有志が集合。 日時、会場等々、それぞれの任務分担を打ち合わせした。「早くやらないと、次に生きてる保証は無いから」 昨年の初冬の飲み会で、そう云って今般の大同窓会をやろうとの言いだしっぺが欠席していた。 経過報告のレジメでは彼が発起人代表と云う事になっている。 その彼が一回目の打ち合わせから欠席しているのである。 如何したのかと尋ねた。 仲の良い奴が言うには、なんでも具合が悪くて伏せていると云う。 電話をするが家族が詳しい容態を話してくれないらしい。 何事が有ったのかと皆心配しながら小一時間程の打ち合わせを終え散会した。 その二日後、つまり大晦日の日、携帯にショートメールが届いた。 発起人代表の訃報を知らせるものだった。 「早くやらないと、次に生きてる保証は無いから」 そう云ってた当人が大同窓会、そして新年を迎えることなく逝ってしまった。 人の命には何にも保証が無い事を思い知って、2014年の正月を迎えた。 人生・・・・・・、 そう云う事なのだ。
ところで、 訃報の翌日、つまり元旦にだが、 その彼の後釜の発起人代表をしてくれないかとのオファーが来た。 決して縁起を担いでいる訳ではないが、 さて、如何したものか。
■2014.01.07 morning
管理人 私の年末年始のキィーワード三つ、申し訳ないが政治的なものは何もない。 「引き篭もり」、殆ど家から出なかった。 「日向ぼっこ」、年末年始の定位置は窓際のソファーだった。
「読書」、歳のせいだろうが我が人生でこれほど読書したことはないのだ(笑。 それで、拝借している二冊も年末年始に読み終えた。 特に「聞書きブント一代」には時間を割いて1.5回読んだ(笑。
話は'60年安保前から始まるが、私が注目したのは'68年以降の事。 何せ同時代的に私の知っている事件が次から次にでてくるのだ。 医学連をベースにブントの推移が詳しく綴られており、其処此処に慈恵医大の「亀」さんが登場する。
東大闘争に火をつけた1968年6月15日安田講堂第一次占拠、これは医学連の「亀」さん軍団の”跳ね上がり”行動だったという。 この本で初めて知ったのだが、そういう意味では「亀」さんはあの時代のキィーマンだったのだ(笑。
お陰でグチャグチャだった私の「赤ヘル」助っ人時代の時系列がおぼろげに分かってきた。 HPに綴った「亀」親分を匿った時期としては、次の二つの可能性が考えられる。 一つは、1969年の「七・六事件」後。
1969年7月6日にブント政治局を襲った赤軍派を「逮捕」し、「監禁」した実行部隊は「亀」軍団だそうだ。 その後7月29日、監禁されていた赤軍派は逃亡する際に転落事故で一人死亡している。
このヤバイ一件から一時身を隠した可能性? もう一つは、 ブント中央委員会は「亀」一派を除名とある1970年6月1日以後。 これでブントは中央派と松本礼二・亀一派(後の情況派)、それに味岡・薬師(神津、後の叛旗派)に分裂、三派は熾烈な抗争に入る。
この抗争から一時身を隠した可能性? 私は「亀」さんを匿った後に、「赤軍狩り」「都下の関西ブントアジトへの夜襲」を誘われている。 この二つの誘いは断ったが、上の二つの事件の後にこの二つの誘いを位置づけると、二つとも時代の流れにピタッと収まるので何れとも特定できない。
もう一つの特定材料は、亀さんを匿ったのは阿佐ヶ谷北のアパートだった。 1969年7月20日、高円寺南の梅里のアパートでアポロ一号月面着陸のニュースを虚脱状態で見ていた鮮明な記憶が残っているので、1969年7月から8月頃は梅里のアパートに住んでいた時代。
そういう事で、1970年6月1日以後ではないかと推測した。 それはそうと、 本に公表されているから、ここに書いてもいいだろう、
亀さん、この本によると今は我孫子市の病院の院長先生だそうだ。
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