■2014.09.29 night 管理人
野っぱら、二年前と同じようにコスモスが風になびいていた。

南三陸町で
■2014.09.29 morning
管理人
60年安保・社学同委員長の篠原さん(NPO原発行動隊)
■2014.09.28 night 管理人

■2014.09.28 morning
管理人
今日は930の会同窓会でこれから上京、引き続き出張用務で東北へ。
帰着は来週半ば。
■2014.09.24 morning
管理人 同窓会の返事の受け取りがやっと200通を超えた。 全部で400通余り出しているのだから約半分程。 月末の締切りまで後一週間、今後、それなりにまとまって来るとは思うが、
返事(返信)を寄こさない方がかなりの数になるとは覚悟している。 今までは日に2〜5通の受け取りペース、日々それらを名簿ファイルに入力し、寄せてもらったメッセージもファイルするようにしている。
それをまとめてみた、文集とまではいかないが「お便り集」ができそう。 勤めており都合が付かなかった方、遠く離れておりUターンしたら出席するとの方、諸事情により次回は必ずとの方、中には病気療養中の方などなど、今回出席が叶わなかった方々のいろんな思いが綴られている。
個人情報で不都合がない範囲で「文集」にまとめ、同窓会当日参加者に配ろうと思う。 代表幹事としては、参加が叶わぬ方々も含めそれで新たな交流が生まれればと願っている。
話は飛ぶが2008年8月、私が60歳を迎えたとき子供たちが誕生日を祝ってくれた。 その時こんなやり取りをした。 「父さん、欲しいものがあったら言ってよ」
息子二人がそういう。 家もあるしな、 それにボロだけど車もある、 「カワイイお嫁さんと・・・・、それに孫だな」 そう応えたかったけど、息子達にプレッシャーになるので堪えた。
「ウ〜ン・・・、今欲しいものは別に無い、十分だ」 あれから6年が過ぎた、私は幸運にも「欲しいもの」を全部叶えた。 だから我が人生でもうこれ以上欲しいものは無い。
後は私、妻の順番でこの世から消えていくこと。 この順番さえ違えねば、もう何も云うことは無い・・・・・と言い切ろうと思ったが。 ここだけの秘密だが、
私の人生で”も一つ”だけ叶えてもらいたい「願い」がある。 これは言い訳だが、「欲しいもの」と「願い」は別事だ思っているから(笑。 それをこの同窓会に掛けているのだが、
その可否がどうなるか・・・・。 ここ一週間にそれが掛かっている。
■2014.09.22 night 管理人
「子供がこんなに可愛いとは思わなかった」 土曜日、昨年亡くなった義父の一回忌。 法事の間、孫娘は大好きな父さんの膝の上で騒がずじっとしていた。
娘の頭をなでながら長男がしみじみと言った。 「父さんもそうだったし、今だってそうだよ」 そう言って返そうと思ったが、言わなくても分かるだろうからウンウンとうなづいてやった。 不思議なものだ、 孫娘が生まれて以来、彼女がファミリーの中心になり、 このちっちゃな命を中心に全てが回るようになった。
■2014.09.21 night
管理人
季節の変わり目、この時期定番だが週半ばから喉が腫れ夜中に咳が止まらず寝れなくなった。 迷わず医者に、炎症止め、咳止め水薬、抗生物質、気管吸入薬、気管拡張シール、それに胃の粘膜保護剤と合計六種類の薬を五日分貰った。 これで初診料を入れ1800円ちょっとだったから、健康保険は有り難い。 しかしこの薬群、どの薬のせいかは分からないが猛烈に眠くなる。 少しじっとしているだけでストーンと眠りに落ちてしまう、お陰で週後半の勤務、仕事半分、うたた寝半分で過ごさせてもらった。 週末、この秋三回目の生垣の刈りこみ。 家の東西が生垣、これが厄介な奴で放っておくと伸び放題になる。 今回は脚立からぶちこけても薬のせいに出来るのだが、それでは人生が終わってしまうので気を付けて。 日の出と共に作業を始めお天道様が真上に来る頃、全体の1/3程のところで体力を考慮し作業を中断。 頼もしい助っ人の電動シュレッダーで細断、生ゴミで出せるよう袋詰まで。
 作業を終え、ソファーで完全に意識が”落ちて”いると遠くでチャイムが聞こえる。 はっと我に返り玄関先に出ると見知らぬ方が。 かなり興奮しており、何やらまくしたてるので、最初は云っている事が分からなかったが、 よくよく聞くと、以下。 木が好きで町内会の了解を得て児童公園に自費で”しだれ桜”を植樹して三年になる。 今日見に行くとその桜が刈り込まれている。 その刈り込みか方が実に「乱暴」、しだれる枝も太い幹もバッサリと切り落としている。 誰の仕業か知らないが、こんな扱われ方をされると木が可哀想。 実は私が町内会長になったこの四月から、月一で児童公園の清掃を始めている。 町内にある児童公園の環境を自分達で保つため、町内会各班回り持ちの分担制にし、 それでもって町内の老若の交流に役立てればと私が提案し始めている。 子供達の為と唄えば誰も反対しない。 そう云えば前回、何方かが刈り込みばさみを持参していた。 私としてはそこまでは気が回らなかった。 早速、”顧客対応の原則”、 その場で一緒に現場まで赴き平身低頭平謝り。 『今後、桜の木の剪定は勝手にやらないよう町内会で徹底します』と約束し、何とか怒りの矛先を収めてもらった。 そう云えば、 「桜切る馬鹿、梅切らぬ馬鹿」 ということわざがあったのを思い出した。 色々とあるのだ。
■2014.09.16 night
管理人
To Know Him Is to Love Him 公立中学入って私(等)が習った英語はJack&Betty. いわゆる米語ではなく正統派の英国語。 その英語力をして直訳すれば、 「彼を知る事は、彼を愛すること」 これを普通の日本語に訳せば「一目惚れ」
上のプレーヤーをストップして再生スタート
一つの歌を色んなアーティストで並べると楽しい。 my
favorite songs は Isabelle Boulay 正直、私も知らない歌手。 ムービーはバックがローリング・ストーン。 これまた良い。
一目惚れ・・・・、 そんな言葉が懐かしい老いぼれになって久しい。
■2014.09.09 morning
管理人 朝、爽やかな風が吹き抜ける。 一転して、日中うだるような暑さ。 昼過ぎ、にわかに降りだす雨。 きまぐれな天候は既に秋。
日曜日、同窓会準備会を開いた。 11月予定だからまだまだ2ケ月以上あるが、準備会は既に数えて六回目になる。 日時、会場、会費など大枠は既に決まり、案内ハガキも出した。
当日、カミングホームならぬ校内ツアーも企画した。 
準備会の会場は郊外の同窓生のギャラリー兼喫茶店、開会直後激しい雨が。 出欠の集まりようはボツボツなのだが、出席の中で校内ツアー参加希望者が多いのは予想外だった。
因みに母校の開学は明治11年・1878年ということで創立136年目、1967年卒の私等は単純計算だと「86期生」になる。 偏差値は棚に上げておいて、古いということでは超一級。
そして校舎は戦前の1931年築、世界大戦の空襲では焼け野原にポツンと建っていたそうだが今年で築後83年になる。 今はない日大理工学部一号館は1929年築だったから、もし一号館が残っていれば我が母校の校舎とほぼ同い年になるのだが。 校内ツアー参加希望者の中では県外在住組みが多い。
かつての懐かしい友に再会し、かつての青春を思い起こしたい、これが同窓会最大のモチュベーションではないかと思っている。 その青春を振り返る際の一番のファクターはまず人だが、
それに負けず劣らずが”場所”ではないかと思う、あらためてその事を再認識した。 その”場所”にも色々有ると思うが、一番は”建物”。 私等同窓会は幸運にもその建物に恵まれていた。
83年間、そして卒業後47年間、営々と変らぬ場所で不動に建ち続ける校舎。 其処にはいれば魔法のようにかつての青春が蘇る、古い建物にはそんな不思議な力が宿っていると確信している。
我が母校の度を越した古さは、この力が半端ではないと思う。 そしてつくづく嘆かわしいのは、 日大理工学部一号館が味も素っ気もないガラス張りの近代ビルになったこと。
2001年に建替え取り壊しに、 1968年バリケードのトラウマもその一要因ではないかとうがって勘ぐっている(笑。
■2014.09.06 night 管理人
午前中、久し振りにお天道様が顔を覗かせた。 ここぞとばかり、玄関先のタイルやセメント床の苔落しを。 何せ所狭しと鉢物を並べている、水やりで滴り落ちる液肥の養分をたっぷり吸い込み苔がしっかり定着している。
それにこの雨続き、庭木のジャングル状態と共に緑の絨毯に覆われ苔屋敷と化している。 長雨の湿気で柔らかいうちにと棒ズリ持ち出しゴシゴシ。 空には久々なお天道様。 見る間に汗が吹き出し、バケツで水被ったかのごとく全身ぐっしょり、 堰き止めるものが無い禿げ頭から直下に落ちる汗、目に染み目を開けていられない。 体中にホースで水を被りながらのお仕事、意識朦朧、熱中症になる寸前でやっとこさ任務完了。
 明日は同窓会準備会、前月悪天候で流会したので2ケ月振り。 その間、8月1日に案内ハガキを発送。 発送総数は409通、 宛名不明で14通で返却されてきた、発送後1ケ月を経過したのでこの先これはもう無いだろう、 残りの395通は転送も含め間違いなく相手に届いているはず、 それで、今日までに返信されたハガキはその宛名不明返却も含め140通。 ここは思案のしどころなのだ。 準備会当初は同窓生のデータベース整理に労力を注いだ。 だから、まだ戻ってこない269通(名)のデータベースはリアルタイムで把握している。 リアルタイムで把握しているということは、今後、いまだ返事を寄こさぬこの269名に即座にかつ事務的に催促も含め何らかの働きかけが出来ると云う事。 その準備は何時でも整っている。 しかし、出来ると、たかだか高校の同窓会でそこまでしていいかという事は別事。 「手間暇、お金もかけてやっているのだから、出なくても、出欠の返事ぐらい寄こせよ!」 ちゅう、イラッとする思いもあるが、 その事は”かつての私”に向けられたものでもある訳で、 そう思えばシカトする権利も担保しなければいけないし、 だから思案のしどころなのだ。 何が何でも突き進むのは得意技、 そのせいで、仕事では何度もやり過ぎ冷や汗かいた事が。 しかし今回は”たかだか”同窓会、 やり過ぎは禁物で、この塩梅が一番難しい。
■2014.09.05 night
管理人
昨日今日と首都圏に出張、やっとこさ帰り着いた。 相変わらず、つ・か・れ・た!会議は二時からだったが着いたのはお昼前、仕方ないから散歩した。 駅から海岸ふちまで15分くらい歩くと見晴らしのいい食堂があったので食事。 それから海岸カフェちゅうところでコーヒーを、 一時は少し過ぎていたがカフェは私を入れて三人、こんな都会で珈琲一杯180円。 この歳になると別にお洒落でなくていい、気取らず、静かに珈琲を味わえる店がいい、 私なりの穴場だと思った。
  どうも最近、集中力ちゅうか記憶力ちゅうか、ホントに当てにならなくなった。 やらなければならない事をしっかりと忘れている。 元々、まめにメモとる性格ではないし、 何とか憶えている範囲で行き当たりばったりやってきたやり方が通用しなくなった。 前職の時は、如何にも計画的を装い上から目線で偉そうに指示も飛ばしたのだが、 内実は記憶の範囲の行き当たりばったり。 でも今はもう駄目、やらねばいけない事を思い出しても、もう殆どが時すでに遅し。 焦ったり落ち込むこともしばしだった。 でも、それでも何も困らない。 別に不都合もなく日々は淡々と過ぎていくし、 よくよく考えてみたら、やらねばと息巻いているのは私だけの様で、 余り力まないようにと思うようになった。 別に世の中すねて斜に見ている訳ではない。 この歳になって、忘却も含めてだがやっと背負っていた荷物をいくつか降ろさせてもらった、 降ろした荷物、それが何なのかはなかなか説明しにくいが。 そして生理現象の”老人力”がパワーアップしたので、 人よりかなり遅れてだが、肩の力を抜いた生き方が身についてきたのだろうと思う。
忘れたくて忘れる訳ではない、 ”かつての記憶”は少しずつ少しずつ時の流れの中で自然と消え去っていく訳で、結果、今ではここに綴ったものの殆どが私とは別物のようになっている。 随分以前、「未練は人生の味付け」だとうそぶいたが、 「忘却も人生の味付け」だと思う。
■2014.09.03 morning
管理人 本文にも書いているが、'68年7月8日にスト権を決議しバリケードストライキに突入した直後、後で知ったことだが、昼間のバリケード内には一般学生も含め、普通はバリケードの向こう側にいるはずの民青諸君が多く居た。
理工学部バリケードストライキを仕掛けた確信部分は別として、その実働部隊は私等のようなノンポリ無党派が主力であり、後に言われるいわゆるセクトは極少数というか殆ど居なかったのではないか。
そしてスト権集会で民青集団が賛否で組織だってどう動いたかの情報は持ち合わせていないが、スト権確立後のストライキに民青諸君が少なからず参加したのは確かだ。
確かだという根拠は、ストライキ突入直後知り合った薬学科の先輩。 その薬学科の先輩がバリケード内で毎夜開かれていた全体会議に参加しバリケード撤去を主張した。
その先輩の端正な顔立ちと共にこの事実ははっきりと憶えている。 先輩とはストライキ突入を同じくし、少なからずの連帯意識と信頼感を持っていた。
それがストライキ突入わずか2週間ほどで、「ストライキを止めよう」と主張したのには驚いた。 そしてその数日後から、二度とその先輩の顔をバリケード内で見ることはなかった。 勢いで短期間に一気加勢でバリケードストライキまで至ったもので、共産党中央、素早い指示が遅れたのだろうと思う。。
極短期間とはいえ民青が、実力行使、はたまたゲバルトも辞さないバリケードストライキに公然と参加していた経過は後にも先にも日大が唯一だろう。 政治や党派にうぶだった私がその経過を理解したのは随分と後のこと。
  当時の民青の主なる闘争課題は「諸要求闘争」
女子トイレを充実せよとか、 そのトイレにトイレットペーパーーを備えよとか、 生協を設立しようとか、 学生生活全般の改善闘争がメインであり、バリケード闘争なんで滅相もないことだったのだろう。
だから、主旨が違うから「オイラ一抜け〜た」だった訳で、こと日大闘争ではそれ以後民青が敵対勢力で登場することはなかったはずだし、少なくとも理工学部ではなかった。
これも全国の大学のなかでは唯一の事例だろうと思う。 ところで我が町内の街路灯、議員さんと共に汗かこうと思っているが、 かつて大上段に世の中に見得を切った落とし前としてはいささかとは思うが、
大上段の反戦平和も、かつての民青の諸要求闘争レベルの、町内に灯をともすに汗かくのも区別なく出来るようになった。 単純ゲバルト至上主義から随分の進歩なのだと一人納得している。
■2014.09.01 morning 管理人 ピンポーン そろそろ寝ようかという矢先、玄関のチャイムが。
出ると、ご町内の高齢のご夫妻が玄関に立っている。 何事かといぶかった。 「夜、周辺が真っ暗で困っています」 「街路灯をつけて下さい」
はて、町内にはそれなりに街路灯は付いているのだが、如何したことかと尋ねた。 最近、町内にあった公共施設が統廃合で居抜けになり、それまで点いていた施設構内の常夜灯が消灯し周辺が真っ暗闇になったという。 街路灯の新設はそれなりの費用が。
頼めば役所が公費で付けてくれるものか、町内会経費で付けなくてはいけないものか、それとも一定の助成金なりの制度があるものなのか、新米町内会長にはさっぱり分からない。
「分かりました、現状を確認して対応しますので」 取り敢えず要望を預かり、後日連絡することにした。 
さて如何したものかと思案した。 前任者に聞いてみるか、役所と掛け合ってみるか、色々考えたがハタと思いついた。 こういう時に使わなければ損なものがある。
昨日の防災訓練の際に、懇意な”議員”さんに相談した。 議員さん、開口一番。 「確か助成金があるはずです」 「直ぐに調べて、私が何とかしますので・・・・」
今日的に反戦平和も大切な課題だが、 議員さん、こういう課題・案件にはめっぽう役立ってくれるのだ。
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