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■2015.09.30  night  管理人

12年前の今日、HP立ち上げました。
ブロバイダーの10MB無料サービスを利用、テキスト中心の回顧録を一気に書き上げました。
其の頃はまだ頭もしっかりしていました。

現在、レンタルサーバー利用で容量は100GB、MBに直すと100000MBで開設当時の1万倍になりますが5GB程しか使っていません。
サーバーは大容量、利用できる各種アプリケーションも備わっており多様な使い方はあるのですが、如何せん頭の劣化は本人の自覚以上に進んでいるというか、新しい事にチャレンジしようという意欲が失せて久しくなります。

12年前、55歳の歳の割にはかなり頑張ってHTML憶えたのですが、その後のフェイスブックやツイッターはやる気が起こりません。
「イイネ!」なんて、このオッサンには胸糞悪くて、
天に向かって吐き続けるが私の基本で、とにかくSNSなんて真っ平御免です。

この12年間で世間では色んな事がありましたが、私にとって一番は家族が増えたこと、それ以上の事はありません。
来月から13年目に入ります。
蜘蛛の糸のように細くなった気力ですが、休み休みやっていこうと思っています。

それと、この日記よくブログと間違われるのですが、
既製品のパーツ組み合わすブログではなく、自前の手作りにこだわったホームページですので、
そこを ヨ・ロ・シ・ク 。



■2015.09.26  night  管理人

保育園に迎えに行って帰る途中、後ろの座席で、
「お父さんとお母さん、おじいちゃんにおばあちゃん・・・・」
「はなちゃんはね、お父さんとお母さんが一番好きなの!」

「ふ〜ん、そうなの」
「父さんと母さんが一番なのだ」
別に話しかけられた訳ではないが、ついそう返事した。

帰りついて妻に話すと、
頭を撫でいつもに増して抱きしめていた。
彼女の幸せが百年続きますように!



■2015.09.26  morning  管理人

「明るく、ポジティーブな若者たち」
朝刊で安保法制反対にその後も取り組む若者たちをそう評していたが、
それで言うと私はさしづめ、
「暗く、ネガティーブな老人」、ちゅうところだろう。

ところで朝刊にその若者たち、
組織にしない、特定のリーダーはいない、決まった役職もない、活動資金は持ち出しとカンパ。
それに活動に加わる理由も「法に違和感を感じた」「原発事故で価値観が変わった」等々。
「リーダーという誰かに期待して運動はしないし、誰も頑張らなくてはいい、そんな一人一人の集まり」

私等は学業を投げ捨て、結果として直接行動を辞さなかったし、
全共闘書記局とか組織部とか役回りはあった(らしい)が、私等一兵卒はそんな事知った事ではないし、
私は全く組織的拘束は受けず自分が納得した行動しかしなかったし、また自分が組織されているという自覚は微塵もなかった。
組織の形など幾つかの事を除けば、かつて私等が一揆した全共闘運動とその集団形に限りなく相似。

先の日記に「新しい運動」が登場する時、それは旧世代が理解しがたい形で登場するだろうと綴ったが、
私(等)はその今の若者の運動が、理屈ではなく”感性”で理解できるから、(大汗。

大袈裟だが、涙がチョチョ切れそうになった。
私等全共闘だった者は、この45年間、地下水の如く暗く深い処に伏せているが、
何〜んか、も一度陽の目を見たようで。
時代を先走りし過ぎたこの暗くネガティーブな老人は、久しぶりにポジティーブな気分なのだ。

ところで、この期に大学の自治会=ゼンガクレンってどうしてるの?




■2015.09.25  morning  管理人

目ん玉異様に大きく見せる化粧した今時の可愛いと言われる女の子、
それにイケメンと言われる野郎、
どれも私にはアホヅラに見えるのだが、
多分、私が老化したせいだろう。

BS、リモコンいじっていると意図せず韓流ドラマにチャンネル合う事がある。
観る気はないが、その度に気になる事がある。
出てる女優の鼻筋、みな綺麗にすっと通ってどの子も全く同じ。
かろうじて目が違うので見分けがつくが、その目もほぼ同じ。
それが悪いとは言わないが、もっと様々な顔立ちのキャラが出ないと、どのヒロインも皆同じ顔立ちで、ドラマ自体が面白くないと思うのだが。

オーデションやって最終選考、並ぶどの子も見分けがつかないほど同じ顔だったという話を聞いた事があるが、あながち嘘ではないと、韓流ドラマちょい見して思った。
そうそう、男優もどれもこれも鼻筋キリリと通っているのは同じ。
1ページから最後まで綺麗づくしのファッション雑誌見ているようで、いささか気味悪い。
でも、私は決して嫌韓ではないから、それは断っておく。

今だけしか撮れないショット、分かる方には分かるが、多分分からないだろ

以前、生活時間が人並より三時間ほど先行している生活を送っていると綴った。
午後10時から11時に就寝するのが最多数派だとすると、私のそれは7時から8時ごろ。
起床が午前6時か7時ごろだとすれば、私は3時か4時頃に起きる。
何処にもいる年寄りの早寝早起き。

それが最近は人より生活時間が四時間ほど先行し始めた。
昨夜はもう夜中かと目覚めたら午後九時半、起きようかなと思ったら午前二時半だった。
四時間と云うと一日を生活リズムで朝、午前、午後、夜と四等分すると、そのリズムが人より一つ先行しているようなもの。
人様の午前は私の午後だし、人様の午後は私にとっては既に夜。
我ながら少々異常ではないと思うが。

でぇ・・・今朝はといっても未明の午前三時からドライブに行っていた。
未明のお出掛けで都合が良いのは、車庫から車を出すさいEVモードにすると周りに迷惑をかけない無音で発車できる。
そんなで、”長老”から教えて頂いた「今だけしか撮れない」写真を撮りに出かけていた。
車を駐車禁止の道路に堂々と駐車、午前三時半、取り締まりは”絶対”にないというか・・・多分ない。

カメラぶら下げ歩いているいると、物陰で若い男女がくっついていたが無視。
危ないといえば真夜中の恋人より、午前三時半にカメラぶら下げ歩くおっさんの私の方だろう(笑。
何枚も撮ったが夜間、どうしても手ブレがでる、三脚持っても再度撮りなおそうと思っている。

それで、帰路は時速30〜40kmでのんびりトロトロ走行。
後ろからせっつかれる事もなく、BGMはピンク・フロイドのエコーズ。
金曜日の朝ちゅうか未明、昼間味わえないドライブフィールで帰り、エコメーター見るとリッター31kmを示めしていた。
ウ〜ン、エコな生活なのだ。




■2015.09.23  morning  管理人

連休明け職安に行く事にしている。
過日、退職した職場を久しぶりに訪ねていた。
「**さん、雇用保険の給付金貰いましたか?」
事務員さんにそう言われたが、何の事かチンプンカンプン。

帰ってネットで調べた。
雇用保険に高齢者求職給付金という制度がある事が分かった。
65歳を過ぎて退職すると、雇用保険に一年以上加入していると基準額の50日分の求職給付金が支給されると書いてある。
5年前の夏、前の職場を61歳の役員定年満了で退職した、その際失業保険を受ける事も出来たが、既に年金を一部受給していたので失業保険の手続きはしなかった。
年金と失業保険は合わせて受給できない。

その事が頭に残っていた事もあり、今回の退職で雇用保険は全く考えなかった。
しかし、この高齢者求職給付金は年金と合わせて受給できると書いてある。
よっしゃ〜、申請してみようと月始め職安を訪ねた。
私は雇用保険をかけて40数年、一度も制度を利用してないので雇用保険の申請は人生初めて。

しかし、忘れてならないのは給付金は言葉のとおり「求職」する者への制度。
働く、就労する、その気のない者は適用されない。
だから、以下は建前で綴る。

今の役所は予想以上に愛想が良かった、笑顔で求職票の作成を求められた。
希望職種は事務職、一日六時間、土日祭日は休日で週四日勤務を希望。
雇用形態はパートタイム、勤務地は地元で通勤はマイカー希望。
時給希望は800円、都市圏と違いローカルではかなり高望。
満67歳の老人がこの条件で職を求めるのは厳しいのではと十分理解しながら確信的に希望した。

真剣に真面目に記入し係に提出した、
待機期間は一週間ほど、自己都合や懲戒免職等の場合は3ケ月の待機になるそうだ。
その期間中オファーがなければ失業と認定され、給付金が速やかに給付される。
私は雇用契約満了の形をとった退職なもので、その認定日が連休明け。

「ところで、つかぬ事をお聞きしますが」
最後に監督官から質問が、
「6月末に仕事を辞められ、今まで申請にこなかったのはどうしてですか?」
仕事をする気があるかどうかの探りだろうと思う、この返答は事前にシュミレートしていた。
「いや〜、制度がある事知らなかったもので、知ったから慌ててきたのです」
「そうですか・・・・、分かりました」
監督官、意味深ににんまり笑った。

役所では決して本音で語ってはいけない、
全て建前で通す事が肝要、これ基本!



■2015.09.22  morningV  管理人

追記:勇ましくないエピソード3

先の日記に書いたが、複雑な事情でそれまでの乱暴狼藉にも関わらずちゅうかそのお陰で四年までは無事進級できた、卑怯者の謗りは甘んじて受けるが。
確か三年からだったと思うが研究室に入った。
その研究室も偶に顔を出すだけ。
授業に出ず、研究室にも殆ど顔を出さず二年が過ぎた。

何をしていたかと云うと、
仕送り止められた頃から週六日+掛け持ちのバイト通い、スケジュール闘争には皆勤賞、偶に気が向くと研究室へ。
研究室の面々、私は居ないものと思っているので気にしない。
そんなこんなで卒研も私を外し仕上げてくれた、理系なもので卒論ではなく卒業研究。
複雑な事情で四年まで進級し、卒論も他力で仕上げ卒業の一歩手前まで行ったが。
如何せん、必須科目を落としていた。

珍しく研究室の教授に厳しく言われた。
「落とすと言ってもなぁ・・・・」
「お前の落としている単位は、数学科で言えば数学、物理学科で物理落としているようなものだから」
さすがにどうしようもないと半ば突き放された。

確かこの時期、1971年の2〜3月。
経済的破綻もあって阿佐谷北の下宿アパートを引き払い、宮沢君達の桃井のアパートに居候で引っ越した。
引越しにはレンタカーのカローラを借りた。
引越しが済んだら、伊豆に花見に行くから車を貸せと言われ貸してあげた。

確かこの時期、1971年の2〜3月。
連合赤軍がM作戦とやらで銀行強盗を繰り返している。
この時期に、宮沢君らは私の貸してあげたカローラで途中の検問を突破している。
ワイルドな宮沢君レベルでは大それたことではなかったが、如何せん時期が悪かった。
検問突破した本人ではなくレンタカー借主の私が公安警察にマークされてしまった、勿論、事実はお門違いのとばっちりなのだが。

それで、
お上は私の研究室を訪問。
教授は「ああ**ですか、今はおとなしくしてますよ」と答えたらしい。
当然だがお上は、教授の「今は・・」の一言で活動歴有りと確証、おまけに私の赤ヘル趣味もバレたらしくそれ以降マークは一層厳しくなり、バイト先、兄の会社、実家と至る所被害にあった。
当事者の私と言えば、アパートに居ても、喫茶店や風呂、飯を食いに行ってもマンツーマンの張り付きが。

それで、
私の卒業保留、留年が決まったのも丁度この頃、
あくまで推測だがこの騒ぎが研究室教授を通じ学科・学部教授会の知るところとなったと思う。
必死のバイトで前期授業料を既に収めた5月のゴールデンウイーク明け、桃井に研究室から電話が入った。
話があるから出て来いとのこと。
出ていくと、落とした必須単位の教授の研究室に出向けと言われた。

研究室に出向くと教授が教科書を手渡してくれた。
今から質問するから答えよという、答えは当然教科書の中にある。
それだけ、帰ってよいと言われ一週間後に卒業証書が郵送で送られてきた。
このエピソードは前にも書いたが、
私の変則的な卒業は、タイムリーに赤軍派に間違われたお陰だと思っているし、元をたどれば亡き宮沢君のお陰だとも思っている、人の運命ってつくづく奇妙なものだと思う。

1969年以降は、一貫して勇ましくないのだ。



■2015.09.22  morningU  管理人

全共闘の回想、えてして勇ましいエピソードになりがちだが、決して勇ましくない経過もある。
1969年2月バリケードを追い出され、それから中央大学、明治大学の学館を転々とした。
他大学に居候しながら疎開授業や入試阻止闘争、入学式粉砕闘争、授業再開阻止闘争と一連の闘争を継続した。
継続したと言っても時勢の流れ、広範なシンパ層を失った全共闘にもはやその力は残っていなく、連戦連敗を続けた。
ここまで書くと人ごとのようだが、全共闘の個々それぞれにそれらの経過の中で色んな選択が付きつけられた。

全共闘と言ってもそのカバーは広く、ここでいう全共闘とは行動隊に属する私に言わせれば確信的部分だが。
もはや大学、学業、学歴に見切りをつけ政治闘争に、セクトに、そして一匹狼の黒ヘルグループで活動を続ける者を一極とし、
その対極は、頭を垂れ大学に戻っていく者。
そのどちらにも属さず、ドロップアウトしていく者も少なくなかった。
私は大学に戻った、対極の勇ましくない側である。

授業再開闘争で負け、まがいなりにも正常な授業が再開された、勿論、鉄格子で囲われた教室でだが。
私の学科の仲間は殆どが学園に、授業に戻った。
考えてみれば、1968年7月から翌年の学年末まで学園は封鎖されて(して)おり、授業は全くない。
私等の妨害を排除し授業が再開されたのは1969年の6月頃。
それで私等は二年を前期しか消化せず、三年の前期に一気に飛び越した訳で、無茶苦茶は日大の専売特許。

授業は詰め込み、端折り、飛び越し。
それに試験、試験の連続。
進級単位を授与するにはどうしても形式的にでも試験が必要な訳で。
その試験、勇ましくない話題だがエピソードが二つ。

再開された授業は詰め込み、端折り、飛び越しだから当然教授は出席は取らない。
代返(代わりに出席の返事をする事)を頼む必要もなく、当然私等は授業に出ない。
結果、私は履修した科目の教授の顔を殆ど知らない。
それで避けて通れない試験となる、さすがにこれの替え玉受験は無理。

エピソード1
試験の際には学生証を机の右隅上に置く。
私もそれに従い学生証を置いた。
試験官(助教か助手)が学生証をチェックしていく。
私の所に来て立ち止り、学生証と顔を見比べ、
「お前には試験を受けさせない!」

学生証をつかみ取り教壇に戻った。
「てめえ、何すんだよ〜」
試験官の振り返りざま、、教室の中で5〜6人がガバっと立ち上がり教壇に詰め寄る。
取られた学生証を取り返し、最後は吊るしあげ。
それで、それ以外は何事もなく試験は正常に終了した。

エピソード2
授業には全く出なかった。
大学は進級させるためには形式的でも試験を経て単位を与えなければならない。
そうしないと大量に留年が発生し、大学の”経営”に支障が生ずる。
だから試験はデキレースだった。

教授が試験に出す範囲を授業であからさまに教えてくれたらしい、教授によって程度の強弱は有ったらしいが私は授業に出てないので仔細はしらない。
だから学生はその部分だけを暗記しておけばよい。
私等もその部分を授業に出ている奴から教えてもらった。
しかし教えてもらったのはいいのだが、肝心の丸暗記の努力をしない、ちゅうか集会やデモでそっちのけ。
だから折角の配慮(笑)のデキレースの試験もおぼつかない。

対処策として行ったのがカンニング。
試験に出るところは殆ど分かっているので、その教科書を膝に置いて答案用紙に解答を書く。
普通ならこれでアウトだが、試験官は見て見ぬふり。
全共闘の面々が大量に留年されては困るのだ。
私等、学業はいい加減だったが、当の大学もそれ以上にいい加減だった訳で、さすが日大。
私等の運命は、学部の経営判断が決めたと言っても過言ではない。

もっとあからさまだったのは、
全共闘シンパの教官や院生が試験官の際の試験。
堂々と机の上に教科書を開き試験を受けた。
院生が困ったような顔をしていたのを未だに憶えている
学園に見切りをつけた仲間には恥ずかしい話だが、それで私も他の仲間も全員めでたく進級し三年生になった。

多分日大だけだろうと思うが、学園に戻っても、私等は決して孤立していなかった。




■2015.09.22  morning  管理人

「ダンケ シェーン!」
うっとおしい連休の朝、BSのヨーロッパ紀行番組を観てた。
この言葉だけは明確に理解できた(誰でも当たり前だが)、それで、ああそう言えば大学でドイツ語習ったんだな、なんて思い出した。
今では「グーテン モルゲン」と「アイン・ツヴァイ・ドライ」しか憶えていないけど。
そうそう、男性名詞、女性名詞てなのも有ったのと、ついぞ使う事無かったけど「イッヒ リーベ ジッヒ」だけはしっかり覚えている(笑。

高校は学年を上がるほどに勉強しなくなった、その理由はあらためて此処には書かない(笑。
当然、成績は下がる一方で入学直後はこれでも学年トップクラスだったのに、卒業間際は後ろから数えた方が早かった。
尻上がりに成績良くなる奴が必ずいる、それで並行してその反対も必ずいるわけで、これは合理的法則で私のせいではない(笑。

志望校は国立工業大学の一期校から二期校へランクダウン。
東京、名古屋、北九州と受験ラインを下げたが、最後は何処の合格ラインも遠のいてしまった
それで最後は私大、それも東京ならどこでもいいに落ち着いた。
それでも三年間”あの子”の事以外は楽しく決して心残りはない。

在京の私大理系四校受験、第一志望は東京理科大、理工学部は千葉の田舎だから最難関の理学部を受験、当然受けるわけない、でぇ・・・受かったのは日大と中大、それでも今更ながらあの成績でよくぞ受かったものだと我ながら思うが、
それで担任(後で分かったが日大理工卒)の勧めで日大を選択。
入学決めたら一気に緊張感は飛び、願書を出していた国立二期校を受ける意欲は失せた。
費用の安い国立を受験放棄したのに親は何も言わなかった、
前年、出来の良かった兄が卒業し丁度大学が入れ替わりだったのも幸いし、どこでもいいから入ってくれればと親も諦めていたのだろうと思う。

そんな頃の思い出を振り返りながら、何気にmyHPのアクセス解析見てたら「cst.nihon-u.ac」のサーバーから一定のアクセスが継続的に有っている。
このサーバーは日大理工学部オフィシャルサーバー。
教職員が仕事の合間に見てるのか、それとも学生が見ているのか定かではないが、そこからのアクセス。
それで「ふーむ、どれどれ」と返礼に、珍しく理工学部HPを眺めた。

今まで気が付かなかったが、学科に同窓会組織が有るのを見つけた。
サイトを開くと、ここ十年程の会報誌や寄付や会費を払った会員名簿も載っている。
私は五月卒業と変則的ながら昭和46年卒、その年を見ると十数人の名前が。
学年学科は200人だが、この年の前後数年は私みたいな外れ者も少なからず居るのでこの人数が多いか少ないかは分からないが、その中に憶えのある名を二人ほど見つけた。
憶えがあると言うのは学科闘争員会で付き合いのあった証拠。

「ふ〜ん、全共闘シンパでも同窓会に会費払っているんだ?」
そんな風に思ったのだが、
仮に私が寄付なり会費なり払うと、
「こいつらだけからは絶対受け取るな!」なんて事になるのだろうか、
そんな風に思ったりもした。



■2015.09.18  night  管理人

下ネタですが、幼児の話ですのでお許しを。
「はなちゃん、うんこ!」
今回も極めて鮮明に意思表示があった。
「いい子だね、トイレに行こう!」

背中を押してトイレまで誘導したのはいいのだが、ドアに前で止まりどうしても入らない。
今回の決めセリフは、
「止めて、はなちゃん隠れてしたいの!」
一端のレディーちゅうか立派な宣言だったが、
結局、居間に舞い戻ってきて衆目(ちゅうても妻と二人だけだが)の下で事に及んだ。

それで事後は、周りに妙なる香りをふりまきトイレに誘導。
水玉模様のパンツを脱がし、お尻の”物”をぬぐい、お風呂に直行。
ばあちゃんはせっせとパンツ洗い、
じいちゃんはお尻洗い、からだ洗い、ついでにシャンプー。
結局、前回通りピッカピッカのはなちゃんになった。

隠れてしたいはとは随分の進歩だが、
「言う事とする事が違うのは、大人に一歩近づいてきたのか・・・・」
くだんの主が帰った後、妻と二人そう総括した。



■2015.09.17  night  管理人

「帰るの嫌!」
「はなちゃん、もっと砂のお遊びしたいの!」
一週間ぶりに保育園のお迎えに、帰ろうと誘うが砂場にしゃがみこみぐずってなかなか言う事を聞いてくれない。
「済みませんね、反抗期なもので」
最後は保母さんにそういって謝まられた、本当はこちらが謝る事なのに恐縮。

我が家でのお遊びのメインはお人形遊び。
「じっちゃん遊ぼうよ〜!」
お声が掛ると手を抜かずに役柄になり切ってやる、
すると、はなちゃんもトコトン役柄になり切る。

段々に何の脈絡もなくストーリーは展開していく。
要は展開の筋の整合性ではなく、次々と変化する役柄に如何に徹するか、
彼女は主役になり切り最高に盛り上がっていく。
今まで仕事でもこれほど真面目にした事は無い、とにかく手を抜かないという事は疲れるのだ(笑。
彼女が帰った後は疲れて寝込みそう。


やっと髪が結べるようになりました、母さんに結んでもらって神妙です

悪いが、多分、連戦連敗の一里塚を築くだろう。
'60年安保は「壮大なゼロ」と言われ、
'70年安保は自爆空中分解。
'80年も'90年も、そして'00年も後に続くものはなくあれから45年、'15年安保が今後どういわれるかはまだ知らないが。

”決戦”はまだまだ先だと思う、
もしかしたら私等の生きてるうちには無いかしれない、
否、未来永劫に無いかもしれない。

それでも時代は続いていく。
闘うって、そういう事だと思うようになった。



■2015.09.16  morning  管理人

この一週間体調不良、首が回らない。
無理に曲げると疝痛が走る。
6月末から雨の日も晴れの日も隔日でプール通いを続けていた。
分かっていた事だが、またまたやってしまった。

泳ぐほどに気持がちいい、徐々に距離が伸びた。
泳ぎ始めて三カ月ほど、己の筋骨の能力以上に泳ぎ込んでいた。
ブレスト(平泳ぎ)は腰と首への負担が大きく距離を泳ぐのには向かない、
通っているプール、10人泳いでいても殆どがクロール、ブレストは一人か二人ほどしかいない。
結局、私の身体が悲鳴を上げてしまった。

それで、向かないのは分かっていたのだが。
水底でキラキラ光る陽光、雨だれの波紋が広がる水面、夏場のブレストはそれを楽しめる。
でもその屋外プールは今月一杯で来夏まで閉鎖、屋内の25m温水プールに切り替わる。
も少し休んで首を直し10月からはクロールに変えようと思う。

そんな回らぬ首で町内をグルグル回って一週間。
厄介なのはアパートやマンション。
夜討ち朝駆けではないが、何度も何度も訪問するがそれでもどうしても会えない。
結局ポストに投函するが、ポストのないアパートはドアに挟むわけにもいかずどうしようもない。

歴代町内会長のお役目だそうで、半強制的に国勢調査のお役目が回ってきた。
受持ちは二区画で百数十世帯。
足で稼ぐどぶ板選挙のプロフェッショナルを自任しているので、な〜にチョロイもんよ見くびっていたが。
それは留守だと飛ばしていけばいいのだが、こちとらはそうはいかない。

昼間何度も訪問するがそれでも不在が半分ほど、勤め人世帯はこれは当然。
でぇ・・・私にとって八時以降は深夜なのだが、眠い目こすって痛い首さすりながら訪問するが八時程度ではまだまだ帰っていない。
灯の付いていない家はそれでも仕方ないが、電灯は煌々と付き電気メーターはブンブン回っているのに反応のない家はお手上げ。
糞ったれと思うがどうしようもない。

そんなこんなで、配布不能の世帯も含めインターネット調査の案内配布がやっと完了。
26日からは手書き調査票の配布で1日からは回収、配布は月末までに完了せよとの役所のシビアな指示。
月末は運動会もあるし・・・・・。
やっている事はお上の手先な訳で若い頃と真逆なのだが、そもそも町内会長を引き受けたことから起因しているわけで、
やるからには最後までなのだ。



■2015.09.15  morningU 管理人

昔、お茶の水駅前だったか新宿だったか、街頭カンパをした思い出。
ベニヤ板を画用紙大に切り、紐を通した手板を作り、それに茶封筒のカンパ袋をぶら下げた。
サラリーマン風の方、主婦の方、老人、年齢を問わず結構な方々がカンパに応じてくれ、直ぐにカンパ袋が一杯になった憶えがある。
まだ世間が日大の騒動に好意的だった頃。

そんな記憶の中で妙に鮮明に覚えている場面がある。
その方は40〜50歳代だと思う、学校の先生のような真面目そうな風貌の男性。
珍しく千円札をカンパしてくれた。
今でこそ千円はそれほどの額ではないが、当時の相場は今の一万円程になると思う。

それでその方とどんなやり取りをしたかの正確な記憶がないが、
やり取りの最後に
「私は貴方達の考え方ややり方がどうしても分からない」
そんな事を言われたのを覚えている。

考え方ややり方は理解できないといわれたが、
今の金額で一万円程をカンパしてくれたので、
私等の大学に対する、そして社会に対する異議申し立てに共感してくれたのは間違いない。
そんなかすかな記憶を思い出した。

想うに、
私(等)は戦後民主主義に最初に違和感を覚えた世代と云うか集団だと思う。
いわゆる平和と民主主義に懐疑的で、
いわゆる議会制民主主義に対しても同じだった。
けど、結局それに対する何も生み出せなかったけれど・・・・・。

何が言いたいのかと云うと、
60年安保から10年、
他大学の事は知らないが、日大生だった私等の前には戦後から続いてきたそれまでの自治会民主主義は存在せず、
その流れの中から何かを始めたのではなく、別のポケットからひょっこり登場したのが日大全共闘であり、
自治会民主主義の基盤である大学自体を否定しそれをぶっ壊そうとし、さらに既成の体制に対しNoを突き付けた。
それで負けは承知で突き進み完膚なきまでに負けたが、この流れが私等に続く全共闘運動のメインストリームになった。

そんなことを想うと、
今の若者から、学生から、何かのムーブメントが起こるとしたら、
私等全共闘が登場した時と同じように、
それまでの何かの流れの延長ではなく、
旧世代が理解しがたいポケットからひょっこりと登場するのではないかと思う。

あれから40年以上経った今、SEALDsがそれかどうかは分からないが。



■2015.09.15  morning  管理人

簡単な自己紹介で宴は始まった。
女性10人、男性4人の計14人。
何時もここに綴る高校のミニ同窓会ではない。
その前日、仲良しの生協理事長T女史から電話が、
宴席に誘われた。
私は彼女の生協の組合員であるし、今まで総代2回、総会議長を2回勤めている
一回目2010年6月、二回目2012年6月)。

退職以降、プール通い、保育園のお迎え、町内会長の雑務以外、日常生活は引き籠りに徹している。
お誘いをいただいて若干躊躇したが出向くことにした。
宴席は2府5県(だと思う)の生協理事長でそれぞれ皆女史ばかり、それにそれらの生協連合会の会長一行。
まあ・・・・その業界の重責が一同に会した訳だ。

「**さん、偶然の設定でいいから来てくださらないかしら」
「そうだな、連合会会長にタメ口でモノ言えるのは俺位だろうから・・・」
「会長、きっと喜びますから」
よくよく考えると、総会屋ごときのヒールな役回りの総会議長といい、
今回の接待役のお誘いといい、つまりは「困った時のなんとやら」なのだが、
引き籠り生活を続けている身、躊躇したのだが頼まれれば断れない柔な性格な訳で止む無く参加。

お偉い会長にタメ口でモノ言える訳は、
彼は元某大青ヘル。
930の仲間を通じその履歴も判明している。
そのよしみかどうか、北海道で酪農営む元農闘委委員長と取引もしてくれたと聞いている。
まあ、昔の戦友みたいなものだし、私等の戦列には学年の序列以外”階級”がないから、口ききは自然とタメ口になる。

「オイ、国際学連の歌憶えているか?」
宴も半ば、向こうもタメ口でそう言う。
途中、歌詞を何ケ所も失念していたがほぼ50年振りに二人で合唱。
学生の歌声に  若き友よ手をのべよ
 かがやく太陽青空を  ふたたび戦火で乱すな
 われらの友情は  原爆あるも断たれず
 闘志は火と燃え  平和のために戦わん
 団結固く  わが行く手を守れ

周りの女史面々、それなりの歳なのだが知っていたのは二人だけ、あとは初めて聞くという素ぶり(泣。
まあ、二人してご時勢はとりあえず置いといて、お決まりの昔ネタ全開で周りに関係なく盛り上がったのだが、
そんな歓談の中、5〜6才下の某県理事長、”大手前高校”卒だと云う。
「山崎プロジェクト、ご存じ?」と話題を振ると、便利なもので彼女その場でスマホ検索、
「賛同人に知ってる先輩がいます!」との事、繋がり見つけやっと盛り上がった(笑。

因みに某連合会会長、
安田講堂の際、背中に鉄パイプ結わえ走り回っていたとわめいていた、
多分・・・、いやきっとこの青ヘル集団の写真の中に居る(大笑。




■2015.09.04  morning  管理人

「止めて!」
「はなちゃん怒るよ!」
真剣な目つきでこちらを睨みつける。
思わず妻と顔を見合わせ
、はなちゃんには悪いが吹き出してしまった。

紙オムツが取れて随分になる。
「はなちゃん、おしっこ!」
もよおすと、ちゃんと言えるようになった。
外出先で興奮し偶に失敗することはあるが、それはそれで仕方ない。

それで、現在的な懸案は”大”のほう。
昨日、オママゴトで遊んでいる最中突然立ち上がり真剣な眼差しで、
「はなちゃん、うんこ!」
しっかりと意思表示してくれたまでは良かったが、トイレにいざなうと首を横に振る。

何度か督促するが、目が一点を凝視し固まってそこを動かない。
それで、最終回答が冒頭のセリフだった。
仕方ないから、
「はなちゃん、頑張れ!」
妻と二人エールおくった。

結局、”事後”は浴室へ直行。
お尻洗い、ついでに身体洗い、ついでにしっかりシャンプーもし、
ピッカピッカのはなちゃんに。
老若を問わず”事”は集中力のいる作業だという事を再確認した(笑。

日々の成長に添える事、神様に感謝。






■2015.09.01  morning  管理人

「やあぁ!、久しぶり」
更衣室でバッタリ。
月曜日、昼過ぎまで雨脚が強く様子見しプールへ行ったのはやっと小雨になった午後四時頃。
更衣室へ入るとヨット仲間が水着に着替えている。

悪い予感がした。
この知人、ヨット(現セーリング)連盟の役員で、ヨットの他にトライアスロンをしている。
歳並みで少したるみがきているがそれでも立派な筋肉質の身体。
それで成り行きで一緒にプールに入った。

一往復2回目のターンをすると彼はもう3回目のターンをしている、距離にすると100m対150mだから私の1.5倍のスピード。
私が10回目のターンをする頃にはゆうに私の2倍のスピードで泳いでいる。
それで彼はインターバルを取らず延々と泳ぐものだから、つられて私も。
結局、10往復千mを初めて休まず泳いでしまった。
最後は右足指が攣りそうになってしまったが、思ったほどの疲れは無かった。
だが、今後この時間帯は極力避けようと思った次第(笑。

晴天の日のプール

「たったあれだけ」
「日本の有権者数は一億人、国会前のデモはそのうち、ほぼ数字にならないくらいだろう」
さらに皮肉って
「サザンのコンサートで意思決定する方がよっぽど民主的」
大阪市長のツイッターでの発言だと朝刊に掲載されていた。

この発言をどうとるかは人様々だが、
彼特有の政治センスだとも思うが、多分、保守勢力全般の認識だとも思う。
一億人を分母にしないでも首都圏一都三県の人口は3千4百万人、選挙権を持つ成人人口はそれの80%とし、主催者発表12万人と警察発表の3万5千は開きがありすぎるから多めに10万人を分子に置くと、それでも単純計算で人口比0.37%ほど。

皮肉で比較されたサザンの直近コンサート動員数は三日間で15万人。
集会に参加した当事者は大いに心外と思うが、大衆運動の究極が集会でありその動員数だとすれば、あくまで冷静にこの数字を捉えると、
現時点でこれが一定の政治的圧力となるにはかなりの無理があり、概して大阪市長や保守勢力の現状認識となるのは、私としては当然だと思う。

日大闘争は、1968年9月30日の大衆団交に概数だが一夜で3万5千人もの学友が参加している。
日大10万人と言われていたのでそれを分母に置くと35%の参加となる。
政治的な意味合いは異なるが先日の集会参加と比べると率として100倍近い差がある。
どれほどの大衆運動が一定の政治的力となる目安は分からないが、この差が大阪市長の発言をして論外と排除できない私の根拠となっている。

ここまでグタグタ書いていると、
「そういうお前さんは何なんだよ!」
「グダグダ言う前にテメエが動けよ、どうすんだよ!」
ちゅうて、
結果として私(等)より大したことしてなかった中大学館ブンド兄さんに”主体論”として詰め上げられた過去のトラウマが蘇がえってきそう。

あれから50年近く、この国は何にも変わっちゃいない。




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