■2016.06.30 morning
管理人
居間にどかっと座っていたオーディオラックを解体し断捨離ではないが廃棄した。
レコードプレヤーとテープデッキは納戸に埋葬、アンプとCDプレヤーのみリビングボードの上に据えた。
50年来の年代物のダイヤトーンスピーカー、こいつは図体が大きくリビングボードに並べると妙に威圧感がある。
長男坊の空き部屋にミニコンポスピーカーがあるのを思い出しそいつと入れ替えた。
ミニではあるがこいつも一様ダイヤトーンスピーカーだった。
この梅雨時はrock music を聴くのにベストシーズン、どの家も窓を閉めているし雨音が他人様には騒音でしかない音をかき消してくれる。
私は常々rock music はボリュウムが命だと思っている。
50年ほど前に通った吉祥寺 Be-Bop、壁にコーラル16cm径フルレンジスピーカーを何十発と埋め込み音圧で勝負していた、その時のトラウマが今にも続いている訳だ(笑。
兎に角、音がデカクなくては rock music ではないと決めている。
それで、周りの家の窓が閉まっているのを確認し久々にThe Allman Brothers Band の At Fillmore East
をセット、ボリュウムを思い切り上げてスタート。
ウム・・・・、何だこれは?
何もかもごった煮の音、ギターの音も前に出てこない。
今までボリュウム絞って聴いているぶんには別段違和感無かったスピーカーが、これは聴けたものではない。
困ったのだ、元のスピーカーは息子の押し入れ、さてどうしようか。
先日、期日前投票に行っていた。
当日選挙と違って書類に何故期日前なのかの理由を選ぶ必要が有った。
初めてなもので問うと、これは必須項目だとの返答。
私の投票理由「期日までに気が変わってはいけないから」は選択肢にはなかったので、取り敢えず適当なものに○を入れた。
選挙区は難なく書けたが比例区は・・・・、やけに緊張した。
既に先日意志決定した通り書こうと思ったが鉛筆が止まり難渋、これは意思がぐらついたのではない、
小学校で習ったはずの二文字目の「産」の字画がパッと浮かんでこない。
前に貼ってある名簿を改めて見直しやっとのことで書き終えた。
汗が出た、
きっと全共闘の亡霊が私の背中に取り憑き羽交い締めしていたのだろう。
皆、ごめん。
■2016.06.23 night
管理人
「選挙区は野党統一候補、比例は”共産党”だな」
今回の飲茶の会、長老が野党統一の実現に尽力したと言われる市民団体世話人を呼んでいた。
その世話人トークの題は「市民運動と選挙」、事前に知らされていた
長老や牧師様には「ウム、突っ込みどころ満載ですが・・・・」
それでも飲茶の会に来て頂けるのだから「突っ込みは我慢し、大人しく話を聞くようにしますので」
と、殊勝にも約束していた。
それで今日、その世話人さんの自己紹介。
生まれは私と同じS23年で地元国立大学卒。
学部はと聞くと、東北秘湯ツアーに一緒している地元国立大全共闘二人と同じ学部で同期生。
それで、「大学時代は何かしてました?」と聞くと、
「私、何もしてません」との返答、少なくとも全共闘でも民青でも無かったようだ。
ここで私の突っ込みと言うか戦闘意欲は一気に失せた。
私が同世代を分けるカテゴリーは全共闘か、民青か、一部右翼も含むノンポリか、三つの何れか。
特に、上に挙げる第三のカテゴリーに属する方とは余り話す気がしない。
別に第三の人を差別するつもりはない、そのカテゴリーには第一、第二の方より優秀な方が多いし、社会的に有益な方も一番多い。
でも、個別私にとっては一番”魅力に欠ける人”のカテゴリーになる・・・・・、
これってやっぱり偏見かも(笑。
世話人さん、
「今般の選挙はエポックメーキングな選挙になる特に重要なもの」
「是非野党共闘に尽力頂きたい・・・・」
要約すればトークはこの二つに尽きる。
もう・・・、私にとっては突っ込みどころ満載なトークなのだが、長老、牧師様との事前の約束もあり一言だけ。
「私はそれと同じことを50年ほど前に声高に訴えたから、今更それはもう言わない事にしている」
言われた「何」が何を意味するのか敢えて聞かなかったが、あの多感な時代に何もしなかったと言うので何もしなかったのだろう、
だから今般野党共闘に尽力した市民団体世話人さん、多分、私の言った意味は分からなかっただろう。
続けて世話人さんは無視し、飲茶の会の皆に私はこう話した。
共産党は党勢拡大の為これまでの選挙ではほぼ全ての選挙区に候補者を立ててきた、
勿論、共産党自身が選挙区で当選するとはほぼ思っていないだろうが、それはさて置いても党勢拡大と言う戦略戦術があっての事。
だから候補者を取り下げても当選という選挙の果実では損得ない。
それでも党の戦略戦術を曲げて候補を取り下げたのだから、その一点において他人様は知った事ではないが元ゴリな社会党員だった私には義理が生じたと思っている。
この義理を返すのが比例区での共産党への投票、共産党にとっても前回比例当選者より伸ばせれば”大勝利”なのだ、これ以上の義理返しはないし、多分、共産党もそれを目論んでいるのだと思う。
私は日頃、「共産党は嫌いだ、これは思想ではない感情だ」と憚らずに言っている。
これが思想だとすれば、今回の行為は”変節”だが、
事は義理と人情の感情な訳で、この歳になってやっとそれを抑制できるようになった。
その結果が冒頭の一言。
そうなのだ。
思想と違って気は変わるもの、気(感情)が変わらないうちに期日前投票に行こっと(笑。
■2016.06.21 morning
管理人
桃井コンミューンから故郷へ帰って2〜3年経った頃、会長さんがひょっこり我が家に立ち寄った。
車の後部スペースにフトンを敷いたトヨタマークUバンがねぐら、今日は北海道、明日は九州と全国を根無し草のように彷徨っていた。
それから会長さんは放浪の途中、北へ上がる際、南へ下る際、何度か我が家に立ち寄っている。
既に何時だったか忘れたが、二人で喫茶店に行き帰りにレコード店へ寄った、その時会長さんが選んでくれたLPを買い求めた、それが中島みゆきの「時代」
帰って二人で聴きこれはいいとえらく納得、デビュー間もないこの歌手は”売れる”と二人で太鼓判押した思い出が有る。
何時も我が家に数日間滞在し、それからまた何処へとも知れず流れて行った。
それから4〜50年後の現在、車はスバルサンバーに変わったが、後部座席のねぐらも、夏は涼しい北へ、冬は暖かい南へと、リタイヤ後の彼のライフスタイル、昔と変わっていない。
変わったのは10年ほど前に痛めた左足が義足になった事、それも平気で笑い飛ばし山にも登る、彼の放浪は今も続いている。
 
左)チェリークーペの前で妻と、中)会長さんと喫茶店、右)我家で妻と今は亡き宮澤君、写真は何れも1974年。
過日、その「時代」がTVから流れていた。
歌手は北海道出身、「時代」から今に至る彼女の歌は”痛い青春”のうらみ節が一本通っているように私には聞こえる。
その”痛い青春”の相手は北大の□○だと聞いた事が有る。
その時代、北大の黒ヘルと□○の仲がどうだったか知らないが、北大黒ヘル全共闘だった悪友とほぼ同時代で同世代、そんな昔話を今度一度聞いてみようと思っている。
■2016.06.18 morning
管理人
朝、新聞を見ると某大臣が、
「90過ぎて老後が心配なんぞと訳の分からぬ事をいっている・・・」云々と失言しているそうだ。
政治家として政治的には確かに失言だし、言葉尻を捕まえる”マスゴミ”には1ポイントだろうが、
このブルジョアの化身のような大臣嫌いだが、この発言一つに限っては、私は違和感を感じないどころか確かにそうだと思う。
以前、津波災害を避けるため海辺の老人施設を高台に移転する議論がされていた。
高額な移転費が必要で、それを負担する自治体が資金で難渋しているそう。
おかしいだろう、そんな金があったら移転は棚上げにし、幼稚園や小学校の耐震化や高台移転を優先したらよいと思っている。
優先するなら全てに於いて老人より次の世を託す子供たちだ、これまで永く生きてきた老人自身にその覚悟が備わっているべきだ。
多分、加齢のせいだろう、
私の発想が段々と保守反動のそれに近くなってきた。
■2016.06.16 morningU
管理人
私は930の仲間の資料見るまで「救対」の詳しい役割を知らなかった。
それに「救対」という名称、一般的に知られた名称ではないと思う。
字句からして私が推測するのは”行動隊”や”レポ隊”と相対して、「救援対策隊」又は「救急救援隊」の略称ではないかと思う。
1969年5月で一度区切ると逮捕者997名、重軽傷者7009名のまさに救援、或いは救急救援に対応する日大全共闘の重要な組織であったと言える。
その「救急」に関するエピソード。
HP本文に記する薬学科のマドンナがパクられた一件。
農闘委の年表によれば「全共闘、法・経奪還闘争。明大学館前にて2000名結集。お茶の水周辺を解放区に。機動隊が明大学館に乱入し、128名を無差別逮捕。うち日大の学友は93名。この弾圧がきっかけとなって明治大学全学共闘会議の69/72明大闘争がはじまる」とあるが、マドンナも93名の内の一人。
マドンナは私の学科仲間と二人ペアで学館に逃げ込み捕まっている。
昼間のドンパチの喧騒が鎮まった夕刻。
二人の行方が知れずどうも捕まったのではとの情報が私等に流れてきた。
その情報を受けて最初にとった行動がガサ入れ「救急」対策だった。
資料によればこの対応は「救対」の任務とされているが、この時は私等が独自に判断し学科の「行動隊」がこの任務にあたった。
この時、私には同学科の仲間のアパートに急行するか、それともマドンナの方にするか二つの選択肢があった。
それは、私の学科行動隊の方が薬科のそれよりも圧倒的に多数だったから。
捕まったのがマドンナ一人だったら躊躇なく彼女のアパートに急行していたが、如何せん、パクられた学科仲間は同じ行動隊で旗持ちを務めた仲間、ガサ入れされるとまずいブツを大量に持っていると判断しそちらを選択した。
マドンナのアパートには薬学科の仲間が急行した。
学科仲間のアパートは川崎、未だ警察のガザ入れは来てなかった。
部屋にあるノートやビラ類、何でもかんでもダンボール箱に詰め込み持ち出した。
その時のダンボール箱二箱が何故か建替え前の私の自宅納屋から見つかった、何故、釈放後の仲間に返さなかったのかの経緯は今となっては忘却の彼方に。
HPビラ保管庫に載せる機関誌やセクトビラの殆どはそのダンボールの中身。
 はなちゃん「こっち向いて」というとヘン顔に
此処までは何度も書いている、殊更に私の言いたい事ではない。
私は、今も当時もマドンナのアパートの方へ急行したかった、この一語に尽きる。
急遽駆け付けるガサ入れ対応は火事場状態、何かの泥棒ではないが彼女の自筆ノート一冊、出来れば写真の一枚でも懐に入れたかった。
学科仲間の”ブツ”がダンボール二箱も私の手元に残ったのだから、それ位は良いのではと開き直る。
1969年2月9日、機動隊の手により理工学部一号館バリケード解除、
辛かったが、その頃から昼間は明大や中大の学館に居候、夜は仲間やマドンナ達が新高円寺梅里の私の下宿をバリケード代わりに溜まり、日によってはスナックに繰り出した。
バリケードは失ったがその緊張感から解き放たれ、時折のスケジュール闘争を除けば普通の学生に戻っていた。
そんな束の間の普通の学生の状況が、4月12日を境に私等の前からマドンナが消えピリオドが打たれ、二度目の喪失感に見舞われた。
それで彼女だが確か二泊三日で放免、迎えたのは私等や救対でもなく親、警察からそのまま信州の実家に連れ戻された。
それから少しして授業再開、逮捕され、留置され、はたまた実家で辛い思いをしたのだろう、以降彼女は私等を避けていたのだと思う、二度と私等の前には姿を現さなかった。
敢えて逆説的に言えば、このようなお嬢さんの彼女でもそれまでは一貫してバリケードストライキを支持し、ゲバルトも辞さない学科行動隊と共に集会やデモに参加していたのだから、日大全共闘はこの一点からも”強かった”とも言える。
重ねて言うが、
あの時、薬科の仲間や救対をさておき彼女のアパートに急行していたら、
人生はつまるところ未練の積み重ねなのだ。
■2016.06.16 morning
管理人
今朝、ゴミ出しに横丁まで出た。
改めて言うがゴミ出しは私の重要な任務、それに掃除、洗濯、台所の後片付けも。
その際、日頃見掛けぬ杖をついた高齢の男性とすれ違った。
私の方からおはようございますと挨拶。
何でもない事だが、町内会長をする前の私はやって軽く会釈する程度だったが、それが最近ははっきりした声で挨拶できるようになった、世間様では当たり前の事だが私にとっては随分な進歩なのだ。
その帰り、今度はゆっくり歩いているそのご老人を追い抜こうとしたら、「貴方はそこの家の方か?」と声掛けられた。
それから立ち止り、四方山話で10分程。
ご老人、脳梗塞を患い不自由な足だが毎日散歩しているという。
歩くのが健康には一番、頑張って歩いて下さいと声掛けし別れた。
何気ない日常、初対面の方とさりげない四方山話、これは私の態度や表情が以前と違い変化しているのだと自覚することしばし。
昨日は年金支給日。
何時もと違うのは今月より食費分担金が免責され妻に上納しなくて良くなったこと(喜。
それを嬉しく思っていた矢先、先日役場から私と妻の「市町村・県民税」納付書が届いた。
年金額は私を遙かに上回る妻の税額が私の1/10程、納得いかないと首をかしげる私に妻が解説してくれた。
「私の昨年の収入は年金だけ、それから基礎控除と医療費控除等を差し引くと課税対象額は限りなくゼロで税額はほぼ均等割り+α」
「返して貴方は昨年六月まで給与所得があり、それに国勢調査などその他報酬もあり、それに医療費控除は私が全部取り上げましたので」、という事らしい。
更に「貴方も今年年金収入のみだと来年は私と同じになりますよ」
妻は私にとって税理士であり行政書士、更に司法書士でもある、単ゲバの私には心強い。
今日の天気予報、沖縄を除き全て雨。
庭の緑が艶やか。
■2016.06.14 morning
管理人
経済センサス統計調査に”就労”し、ひょんな経過で調査依頼に伺ったお店で自転車買うはめになった。
その注文していた自転車が先日届いた。
次男坊に持っていかれて一台になっていた折りたたみ自転車、やっと夫婦分の二台に復帰した。
この自転車は主にマイカー旅行用、日常に使うつもりはなくそれでめでたく居間に飾っている、今後も当分乗る予定は無い。
私にとって自転車はほぼ”飾り物”なのだ(笑。
今度のは六段ギア、妻用に
今秋の温泉ツアー、
関東は群馬県、法師・草津、四万温泉で昨年まで銘打っていた”東北秘湯ツアー”とは言い難い。
東北・秘湯という二大コンセプトが外れ少々拍子抜けだが、そんな事を言っていると群馬県に失礼かも。
この二つのコンセプトには色々特徴が有った、その内の一つが山奥の温泉宿で割安だった事、二食付きで一万円を割る宿が多かった。
私にはこれが大層有難かった。
それが今秋のツアー、
首都圏に近く名湯だが秘湯とは言い難い開かれた保養地、これはこれで便利でいいのだが。
ツアーマスターから確保せよと指令を頂いた宿、この春から早々に手配を進めており先日予約完了。
マスターの第一条件はその地一番の名湯宿、高いか安いかの考慮は無い。
首都圏に隣接する利便性の良い群馬の名湯、その地理的条件もあってとにかく高い、マスターご指名の宿はいずれも軽く二万円オーバー。
三泊すると宿賃だけで一人七万円を軽くオーバー、航空旅費、レンタカー代をプラスするとかなりの額になる。
今後もこのツアーを継続してゆくためには経済的にも無理は避けなければと思っている。
せこい話のようで何度も言うが、メンバーは皆が不器用に生きてきた者ばかり、素早く転身し悠々と年金生活している方々とは違う。
今年は既に計画が進んでいるので致し方ないが、私個人としては来年からはも一度東北の秘湯に戻りたいと、寂しい懐をさすりながらそう願っている。
八幡平、栗駒高原、も一度行ってみたい!
■2016.06.13 morning
管理人
現役の頃、よくあった事、
スベリだしが順調なので「な〜にチョロイもんよ」と舐めてかかったら終盤で難渋する。
今般の経済センサス統計調査、旅行から帰り回収に取りかかり事は極めて順調に運んだ・・・・、
のだが、残りが一桁になった終盤、これがてこずっている。
飲み屋さん、受持ち10軒で8軒までは約束通り回収、残り2軒。
顧客(と言っていいのかどうかだが)の指定は土曜日の午後七時と仕事柄だろが融通が利かない。
私にとっては深夜勤務に等しいのに、回収に行くと「アッッ・・・・忘れてた!」
これを4日と11日の二週続けてやられた。
洞爺湖畔のジェラード店
さすがに2回目、”にわか公務員”の私でもむっときた、口元若干引きつりながら、それでも顔には出さず「次は何時お伺いしましょうか?」
何れの店も約束違えておきながらもご自分の都合だけはしっかり「次の土曜の18日午後七時」、三週続けて深夜業務になる(泣。
次に忘れていたら、「そうですか・・・、期日が迫っていますので役所には出して頂けなかったと報告しておきます」と、きっぱり突き放す。
実はこの”役所に報告”というセンテンスがみそ、何れの店も役所の直ぐ傍で、役所帰りに立ち寄る客が大勢いる。
まあ・・・、私にできる意趣返しはこの程度なのだが。
後は、電話をしても出ない、何時行っても不在、でもご近所に聞くと店はやっている。
たかだか統計調査で私は夜討ち朝駆けまではしたくないので、これ以上だと奥の手を。
回収困難な場合、合理的理由を添えてその旨役所に報告すれば調査員使命はそれで終わり、後は役所が始末する。
事半ばで放棄はしたくないが仕方ない、そんなこんなで調査員の仕事も今週末まで。
最初はちょろいもんよと嘯いたが、最終盤に結構てこずっている。
■2016.06.12 morning
管理人
団塊世代の全共闘は1968年を軸とする学園闘争(一部では紛争と言うらしいが)の美味しいところを全部持って行った世代と言われている。
私の経験から言えばまさにその通り。
営々と積み上げてきた地下の運動の苦労も知らず突然目の前に現れた状況に我を忘れて飛び込んだ。
楽しかった。
北大の悪友がぼそりと「あれは壮大なサークル運動だった」と言ったことがある。
自他とも大きな犠牲を払った日大全共闘はその思いに全面的に賛成は出来ないが、そうだったなと共感するところもある。
しかし一瞬にして花火のように燃え上がり一気に下降した運動の落差に、最後は言いしれぬ”虚無感”に襲われた。
過日の地元国公立大全共闘最後の同窓会で、
「皆さんが全国の運動に呼応して立ちあがった頃、既に私は終わっていました」と挨拶の中で述べた。
学園闘争が全国に燎原の火のように燃え広がったのは東大安田講堂籠城戦の1969年から70年安保の1970年にかけて、重ねて言うが既に私は終わっていた。

右)フランス印象派の絵に出てきそうな風景だがれっきとした北大キャンパス
今、首都圏では日大930の会の仲間で「日大闘争の記録Vol.7」の作成編集が進んでいる。
Vol.7の企画は「救対」。
救対といえば私流に一番簡単に言えばパクられた仲間の後方支援。
留置されたり拘留されている仲間を弁護活動も含め物心両面で支えた。
闘争で傷ついた仲間を継続的に救援していたとも聞いている。
私は留置された時、バナナ一本と歯ブラシを差しいれて貰った、
一本のバナナは同房の任侠のおじさん、置引きの学生さんの三人で三等分した。
捕まった仲間が余りに多かったのだろう、私の居た警察署に弁護士が来てくれた記憶は無い。
放免された時、真っ先に出所報告に行ったのは、その頃明治大学学館に居を構えていた救対。
私のような軽微な経験者はその程度だが、拘置所に長くとどめられた仲間、起訴され裁判闘争を闘った仲間、はたまた闘争で大怪我を負った仲間には”救対”への思いは特別だろう。
そんな救対の企画が進捗するなかで1968年より後の日大闘争、つまり私が”終わった”後の闘争について色んな記憶が呼び戻されている。
やり取りされる930MLを見ていると、申し訳ないが殆ど私の知らない事ばかり。
1969年から1972年で時期的に言えば私が桃井コンミューンに暮らし、バイトに精出し、そして毎夜酒盛りを繰り返していた時期とも重なる、
あの最強の行動隊長で後日屈強なセクト闘士として蘇る亡き宮澤君にしてもその頃は同じだった。
私も930MLに感想を書きたいと思う事もあるが・・・・書き込むと、
「この脱落者!」「軟弱者!」と美味しいところを先取された後輩達に袋だたきに合いそうで(笑。
記録本が今後発刊を重ねていくほどに私の知らない日大闘争が目の前に現れてくる。
■2016.06.11 morning
管理人
私は基本的にかつ継続的に共産党、それも日本共産党が嫌いだ。
殊更に”日本”とこだわったのは、他国の共産党は知らないから、返して日本共産党は肌身で接しているから。
HPに「これは思想ではない、感情だ」と記しているのは今も同じ。
その揺るぎない”感情”に反するように、ここの日記に時折「仲の良い共産党の方」と書くことが有る。
何故かというと、彼は共産党機関紙赤旗に書いてある事に平気で反論する、それも公に。
そんなことをすると査問や、へたすると除名されるのではと気をもむが本人は平気。
党中央は絶対誤謬が無く私等の言ってる事が一番正しいと、常に上から目線の平均的な共産党員のイメージからはかけ離れている。
こんな共産党員に会ったのは後にも先にも彼のみ。
それで牧師様を共産党員と並列で評するのは失礼で適切でないかもしれないが、牧師様に出会ったのは以前に活動していた金曜日のサロン。
反戦平和サロンにキリスト教の牧師様がいらっしゃること自体が驚きだったが、それよりも鮮烈だったのは牧師様がキリスト教を語る姿勢。
宗教とは有る意味”絶対”であり、信者にとってその信仰、かつその教義は絶対だと私は思っている。
牧師に至ってはなにおかいわんやと思うのがさにあらん、この牧師様はキリスト教を”相対”として淡々と語る。
私の様な不信心な者に、初めて宗教と教会の敷居が一段と低く感じられた。

函館の修道院とカソリック総本山のローマのサンピエトロ大聖堂
その牧師様が6月9日朝の日記にコメントを寄こして下さった。
あくまで私との私信なのだが、大半が基本の”一般論”なのでここに転載させて頂く、また牧師様に一部訂正頂いた内容も日記を訂正するのでなく牧師様のコメント自体を持って訂正とします。
以下、転載。
「間違っていたらお許し」下さいと書いて下さっていますが、基本的には、記載下さった通りです。
私も、カトリックの聖堂(プロテスタントでは会堂とか礼拝堂と言いますが、カトリックでは他に「お御堂<ミドウ>といいます)の“厳かさ”などから形式的な印象をもっていましたが、そんなに単純な話ではないですね。
教会に限らずどんなことでもそうなのでしょうが、従前の在り方に否を唱えるグループの方が、肩に力を入れ自分を律しようとするからでしょうが、逆にその考えに囚われてしまい、結果として逆に保守的(型通り)の在り方を追求しようとするようです。
中世ヨーロッパの教会が政治等の権力と癒着して腐敗していたのは事実であり、それを改革しようとしたのが宗教改革であり、そこから起こったのがプロテスタントです。
ですから、それまでの在り方を否定するあまり、その改革運動の中には行き過ぎの行動があったのも確かなことです。
「迎合」というと言い過ぎになるかとも思いますが、伝播されたそれぞれの土地の文化しきたり等を取り入れようとする風潮はカトリックの方が強いと思います。
しかし、私はそれを否定的には捉えてはいません。
キリスト教が発展したのは欧米においてですが、元々のパレスチナ地方はアジアの一角であり、欧米において定着したスタイルだけがキリスト教なのではありません。
また、その土地の文化等を取り入れようとすることは、聖書の教えに反するものではないと私は確信しています。
また、上記の理由により、プロテスタントの改革運動ががんじがらめになって窮屈になっているとも思います。
人類の歴史という広い(長い)スパンで見ると、プロテスタントは誕生してからまだたかだか600年ですが、カトリックはその3倍以上の歴史がありますから、その分様々な局面を経てきたでしょうし、そこには多くの経験則も生きていると思います。
確かに、私たちプロテスタントの眼から見れば、どうかな?と思える点が多々あるのも事実ですが、はっきり言ってプロテスタントはまだ“若い”のです。
ただ一点だけ・・・(細かなことですみません)
「偶像崇拝を排したプロテスタントはカソリックの建築物を破壊したり」は「廃した」だと思います。「排した」だと“拝む”になってしまいます。
それと、これはわざわざ述べなくともよいでしょうが、プロテスタントは、教派によって“さまざま”で、カトリックと違う意味で多くの違いがあります。バプテスト派は、そのプロテスタントの中では、かなり過激な一派でありますし、また私の考えがバプテストを代表するものでもないことはご理解下さい。
まあ、**さんもいつも「過激な牧師さん」と書いて下さっていますから、私を見て、牧師とはこんなものとはおもわれないでしょうがね。
長くなってしまいました。でも、あの席でお尋ね下さったこと、またそれを受けて記事を書いて下さったこととてもうれしかったので、書かせてもらいました。
久米さんのコンサートは、市内の神父牧師会の主催の「2017年市民クリスマス」です。
久米さんとお会いできるのが、私も今から楽しみです。
■2016.06.10 morning
管理人
一週間ほどの旅行から帰り泰山木に吊るしてある蜂獲りトラップを久しぶりにチェックした。
蜂がびっしり二層に重なり獲れている。
逃げ出そうと必死にもがいているのも何匹か。
危ないので揺すって二層の下に押し込んだ。
昨日、トラップの液を変えるため取りだした。
数えてみると40数匹、平均的な大きさの倍以上のも、もしかしたら女王蜂かも。
もう六月も半ば近い、この時期以降は女王蜂は卵を生むのに専念し巣からは出ないそうで、
そろそろ働き蜂が旺盛に飛び回る時期でトラップは蜂を集めてしまい危ないそうだとネットに書いてあった。
どうしようかと悩んだが、樹の高い所へ吊るせば大丈夫だろうとあらためて仕掛けた。
経済センサス統計調査票の回収に回っている。
先日記した無愛想極まりないスポーツショップの主人、約束の日時に回収に訪問した。
予想通り、放置したまま書いていない。
それでも私は”にわか公務員”、
「も一度お伺いしますが何時がよろしいでしょうか?」
ぶっすっとして返事が無いもので陳列している商品を眺めながら、
「妻が時々お世話になっているそうで、それにそうそう知り合いの**さんも・・・・」
そう言いながらチラリご主人を振り返ると、
「そうですか・・・、今、書きますから」と棚の調査票を取り出し書き出した。
正規公務員ではやらないだろう”からみ手”を使った、私も随分と成長したものだ(笑。
もう一軒、
古民家を改装した喫茶店、私のダイヤトーンスピーカーと同じ位古いパイオニアのスピーカーを2トラ3パチのオープンリール、自作の管球アンプでJAZZを鳴らしていた。
オーディオに目を細め色々と話をしたせいか、調査依頼を快諾していただいていた。
回収に訪問し時間が有ったもので、
「ご主人、珈琲を頂けますでしょうか」とお客さんに変身。
四方山話をしていると35歳まで東京に住んでいて、大学は神田だったという。
神田というと、日、中、明、それに電気、ご主人は♂だから共立ではない。
私は”日”だというとご主人は”中”だと。
生まれはと言うとご主人”昭和23年”、私は”1948年”だから表記は違っても同い年。
以前も書いたが、私は地元では大学の話はしない。
私の世代の進学率は全国平均で15%程と聞いたことがある、ローカルな地元では多分それ以下。
だから気楽に大学時代の話題を振ると私も相手も気まずい思いをすることが多々。
それで初対面の方との四方山話でもこちらからはその話題に触れる事は無い。
今回は喫茶店のご主人から”神田”のキーワードを頂きもしやと探りを入れた。
生年、神田、それに学校もお隣同士、
”響”に”コンボ”、明大学館近くの"NARU”など神田界隈のJAZZ喫茶の話題に花が咲き楽しい時間だった。
それで「”あの”話題に触れたか?」ちゅうて言われると。
それは多分・・・・否、今後も触れるつもりはない。
進学率15%の中の更にその0.5%、それに当地は過疎のローカル、その確率はもう天文学的な訳で。
■2016.06.09 night 管理人
老化で以前書いたと同じ事をまたまた何度も書いているのかも知れないが。
今朝日記した読者コラムに書かれた母校のフォークダンスの話題。
運動会後のファイヤーストームを囲んでのフォークダンス、”あの子”と踊りたかったのは当然だが諸般の理由でそれは叶わなかった。
高校最後三年のフォークダンス、何時だったか既に忘れたが休み時間だと思う、見たこともない下級生の女の子が二人連れで私のところにやってきた。
メガネをかけていたことだけははっきり憶えているか、可愛かったかそうでないかも既に記憶は無いが・・・、ここは一つ可愛かったとしておこう。
結構ストレートに、「私とフォークダンス踊ってください」と申し込まれた。
コラムに書いてあるように下級生から”告られ”た訳である。
その時、
「既にフォークダンスの相手は決まっている」とつれなく返事した事を憶えている。
何故、そう言ったかも忘れたが、でも実際は相手は決まっていなかったから下級生には可哀想なことをした。
それで困った。
相手が居ると言った以上、運動会までに相手を捜さなければいけないわけで。
母校は普通高校だったが、私の学年が最後だったが1クラスだけ職業科が併設されていた。
職業科は家庭科クラスで女子ばかり、このクラスなら何とかなるだろうと、私が見て一番可愛いいと思われる女子にめぼしを付けダメ元で申し込んだ。
返事はOKだった。
追い込まれれば何とか辻褄つけてしまうのは今も昔も同じ。
それで、下級生にも家庭科の女子にも不誠実なことをしてしまったし、本当は”あの子”と踊りたかったのに、そんないい加減で切ない思い出が蘇った。
■2016.06.09 morning
管理人
「プロテスタントは皆さんのイメージとは違うと思うけど、結構保守的なんですよ」
「宗教改革で偶像崇拝を排し、それ以後徹底してそれを守っている訳で」
「荘厳で堂々とし、有る意味威圧的な建物は偶像に近いものがあり」
「そうしたものは排したプロテスタントの教会は簡素にならざるを得なかったとも言えます」
更に、
「二千年も続くカソリックは、それなりに時代に迎合し」
「権力を上手く操り、大衆に迎合し、続いてきてます」
「そういう意味ではカソリックは革新的であり」
「プロテスタントは保守的であるとも言えます」
更に、
「偶像崇拝を排したプロテスタントはカソリックの建築物を破壊したり」
「宗教遺物を壊したり」
「プロテスタントは今の**と同じような事もしてきています」
「宗教とはそんなものです」
当地の新聞に載った読者コラム、読んでいて”時計台”とあった、この言葉一つで同窓の女性と分かる、この方も私と同じように60歳の何度目かの青春をしているのだろう。
このフォークダンス、私にも切ない思い出がある。
一昨日、教会での飲茶の会に出かけていた。
長崎の天主堂に行った時もその荘厳さに圧倒され、また今般、函館の修道院に行った時も同じだった。
牧師様の教会とは余りに違うその理由が知りたくて牧師様に話題を振った。
牧師様、にこりと笑い歴史を含め詳しく話をして下さった、そのまとめが上記だが、私の思い込みも多少入っているのでその点は間違っていたらお許しいただきたい。
カソリック教会での飲茶の会をイメージしてみたが、私のような不信心な者はとてもではない。
そういう意味ではプロテスタント教会は敷居が低く、私のような者でも分け隔てなく迎えてくれ有難い。
それに美味しい珈琲まで入れて下さる。
牧師様に感謝。
そうそう、
久米小百合さんのコンサートが正式決定したそうで、
私がその期日限定でバブテスト信者になることも確定した訳だ(笑。
■2016.06.06 morning
管理人
正門入ると直ぐ右手に改装中の大学本部がある。
「でぇ・・・何処なの、バリストで立て籠ったところは?」
友、此処だよと指差した。
「えぇ・・・、此処って外から一番目に付くとろじゃないの」
  
後で分かったのだが、民青拠点の理学部とはかなり離れている。
単に”外部”に目立つだけでなく対抗勢力との距離感もあったのではと思う。
友は、機動隊でなく民青との攻防戦を繰り返したと言っていた。
それで昼食は理学部食堂でなくクラーク食堂、えらんだのが”ひやしピリカ”
キムチ味のピリカラだったのでピリカと言うのかと聞いたら、「違う、ピリカは”可愛い女の子”という意味」だそうだ。
キャンパスは広大な緑に包まれている。
これが奥の農学部に行くと更に延々と緑が続くそう、有名なポプラ並木で引き返すことに。
 
正門近くの木立の中を流れる小川、昔は鮭が遡上してきたそうだ。
昼食を挟み三時間程、旅程から云えばたっぷり半日コースの観光。
■2016.06.05 morning
管理人
晴れていると羊蹄山のパノラマが宿の前に広がるのだが残念雲の中、山の向こう側のルスツには随分前だが何度か来ているがこちら側のニセコは初めて、
朝、散歩に出ると宿のすぐ隣がニセコアンヌプリ国際スキー場のリフト乗り場だった。
大枚はたいて雪の無いスキー場に来るなんて歳とった証拠。
 
馴染みのスポーツショップで聞くと、ニセコの各スキー場、今や欧米系のスキーヤーがゲレンデを席巻しているそう。
 
有珠山と昭和新山、函館空港近くのトラピスチヌ修道院、日頃なじんでいるバブテスト教会とカソリック施設はかなり雰囲気が違う。
往路は千歳だったが復路は函館から、函館・羽田間の787機に初めて乗る、ジェットエンジンも静かで何時離陸したか分からない程、振動も少なく快適。
土曜日、
「貴方大変、これ動いているわ?!」
「確かお店の人には茹でて送って下さいと頼んだはずなのに」
函館朝市で買い求めたカニ、何らかの間違いで釜ゆでの刑を免れ未だ活、妻は急いで長男坊に調理救援を要請。
私は朝一から経済センサス統計調査票回収のお勤め。
「貴方、今夜の夕食、皆を呼んでますからね」
「エッ、そうなの・・・・」
「今日は夜も七時から飲み屋さんの調査票回収に回る予定なのに・・・・・」
結局、予定早めて六時半頃から回収に回り七時半には何とか夕食に合流。
今日、日曜日は死んでます。
■2016.06.01 morning
管理人
三日目からはレンタカー。
毎年恒例の東北秘湯ツアーは10人乗りワゴンだが今回は妻と二人だから小型車。
春が終わり夏を迎える前、道も観光地も空いているし耳障りな外国語の喧騒もなく快適。
これから後の日程は温泉巡りだから意図的にこの時期を選んだのだが、
ライラックは終わりラベンダーの開花は少し先、観光的には端境期なので花々も少なく道路渕のさくらんぼ店も閉まっていた。
 
試飲は今も昔も飲めない竹鶴ピュアモルト、お試ししたかったのだがドライバーなもので(泣。
これぞ北海道を期待する方には不向きな時期だが、私のメインは北大キャンパスと温泉巡りだから十分。
最初の温泉宿、晩も朝も風呂は貸切状態。
ニセコの温泉、何時ものようにコンデジを持ち込み記念写真。
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