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■2016.07.16  night  管理人

私は本来おとなしくシャイな性格だが、バリケード籠城を契機にそれまでとはすっかり変わった。
当然自分にもその自覚があったが、其の頃、在京の高校同窓生から言われた事をはっきりと憶えている。
「お前、この頃随分と目つきが変わって別人みたいになったなあ」
やっぱ、目つきが悪くなっていたのだろう(笑。
言われた前後、お上に御用になった頃から高校同窓生との付き合いが途絶え、再び付き合いが復活するのは60歳になった頃で40年かかっている。

今朝、同学科の「ドブチュウ」から電話が。
「同窓会の写真貼ってくれて有難う」
「こちらはもう写真失くしたから懐かしいよ」
何もしない生活で暇にまかせて貼った写真、一人でもそう言ってくれると正直嬉しい。

それで調子に乗って手持ちの学部同窓会の写真を何枚か。
理工学部同窓会、一回目の日時の記憶は無いが1980年頃、二回目は1991年の9月、三回目が1999年の3月とほぼ10年毎に持たれていたが三回を最後にこの二十年開かれてない。
後で紹介するサイカンから、「そろそろ次が無いと生きてる保証が無いのになあ〜」とボヤキの電話が時折はいる。
三枚は先日貼った1999年3月の第三回理工同窓会スナップ、幹事が撮って後日送ってくれたもの。

1999.3

一枚は近況挨拶をする私。
100人程の参加者だったから皆にマイクが回った訳ではない、何故私なのかは、多分遠路はるばる駆け付けたからとの配慮だろう。
会直前に息子二人を理工学部一号館に連れて行ったこと、
「ここが父さんが寝泊まりした校舎だ」と話していたら涙声になったことなど、
そんな話をしたら「何故、連れてこなかった!」と合いの手が入り、結構、皆に受けた憶えがある。
奥にはグラスを傾けている亡き広澤先輩(土木学科)が写っている。

もう一枚は二次会スナップ
向かって左端は「ヤー公」。
肩を怒らせ水割りをグイっとやる姿は皆が付けたあだ名のヤー公そのもの。
あだ名の意味するとおり風体、性格も任侠そのもの。
これでゲバ棒もって「テメエ、そりゃ〜おかしいだろう!」ってすごまれたら結構なもの。

右端は自信は無いが「サンマス」機械学科三闘(三年生)だと思う、建築学科四闘(四年生)にも同じ名前の先輩がいてそちらは「ヨンマス」。
桃井コンミューンに送り込んだお銀、2013年に会った時、機械学科の仲間に大層世話になったと話していたがこの時はそれを承知してなく礼を失した、人は何処で繋がるか分からないものだ。

下高井戸から駿河台校舎に移行し二年次の学期が始まるとヤー公がクラス幹事だった。
私は其の頃は真面目、欠かさず授業に出席していたが、学科で幹事選挙ちゅうものをした覚えは一切無い。
それで彼がどういう経緯でクラス幹事(他校では自治会クラス委員)になったのかさっぱり分からない。
憶測だが、彼の一年次の素行とか考え方(思想)を大学が見極め指名したのだと思う。
今度会う機会が有ったら私の憶測の真偽も含めそこん所を一度聞いてみたい。

大学が選ぶ基準は「体制に従順」で「右翼的素養」が備わっているかどうか。
それもあり彼は当初ストライキに徹底して反対していたが・・・・。
1968年7月8日以降の彼の事はここに繰り返し繰り返し何度も書いているとおり、名誉ある学科逮捕第一号でもある。
この私と対極的な彼、バリケードを追い出された以降は私の無二の親友となった。
それで今更だが、大学当局が見抜いた彼の素養は正しかった訳で、ヤー公は今でも「天皇陛下万歳」なのだ。

ヤー公の隣が「サイカン」
あだ名の由来は単に姓名を短縮しただけ、私と同様地方出身で九州男児、興奮してくると九州弁でまくし立てる。
私が阿佐ケ谷、彼が荻窪の頃、どちらか金が無くなると夜中に日大二高の通りをとぼとぼ歩いてお互いのアパートを急襲。
当然、来られた方も金が無いのでポケットのコインを出し合って即席ラーメンとモヤシを買って二人で分け合って食べた。
今は親の仕事を継ぎ大きな会社の社長さん、全国を走り回り東京なんぞで時折私と会っている。



■2016.07.16  morning  管理人

役所の福祉部門の方と少しお話しした。
地域が高齢化し色んな制度の担い手が居なくなっていると言う。
民生児童委員は地味で多忙、地域の多くの諸課題を担っているので、その中でも特に引き受け手が居ないと言う。

増え続ける高齢者の独居や貧困、
児童の貧困、
子育て世帯の窮乏、育児放棄や虐待、
生活保護世帯の増加。

地域を繋げる支え合いが亡くなり、子供からお年寄りまで世代を問わず課題山積と言う、
どれもこれも聞いてて心が痛む。
私が前職で五年程やってきたこととも少なからず繋がっている訳で、
心がぐっらとしたが。



駐車場の土が掘り起こされ何度元に戻しても直ぐにこうなる、犬かなと思っていたら雀さんが羽根をばたつかせ土浴びしていた


昨日は父さん母さん夏休みなのに急なパートタイム保育。
何故かは、月に一度のお誕生会があるのでどうしても保育園に行くと言い出したらしい。
その上、
「お迎えはジイジがいい」
と言い張ったらしい、光栄で顔が歪んだが。

折角貰ったジイジとバアバの一週間程の夏休み、一旦中断して三日ぶりに保育園に。
「バアバがスイカにメロン、苺にアイスクリーム構えて待ってるよ」
「バアバ、只今!」
はなちゃん、嬉しそうに家に飛び込んだ。





■2016.07.15  morning  管理人

「聞いたこと無いぞ!」
「違うだろう」
先月下旬、もう一月ほど前の事になるが、札幌の悪友が帰省していた。
同期同窓生の元学長先生宅で一杯やろと、奥さんの迷惑も考えずに宴席を持った。

その席で歌手の中島みゆきさんの元カレ、北大の□○だったという噂話の真偽を尋ねてみた。
「違うだろう」との返答だったが、
もしそうだったら同時代で同世代、黒ヘルと白(但し赤テープ付きだが)ヘルの違いはあっても同じ学内で知っているはず、
その彼が「違うだろう」と言うのでその通りだと思う。

7月20日に森田童子さんのCDが発売になるそう。
新曲ではなくこれまでのアルバムからのピックアップらしい、私としては買うかどうか迷っている。
それで、これまでのCDに収録されている森田童子さんのライブトーク、「教育大の学生」というセリフが頻繁に出てくる。
中島みゆきさんの恨み節と森田童子さんのそれはちょと違うが、森田童子さん、教育大学生と何かあったのでは勘ぐりたくなる(笑。
930の会が教育大全共闘と付き合いがあるので、こちらも何かの折に聞いてみよっと。

 お宅の軒下の燕さん、翌週訪問したら巣立っていた

元学長さん、三月にUターンしてきた時より体は一回り引き締まり日焼けし精悍そのもの、どうやら四反の畑で真面目に農業しているよう。

先日、やっと何もしない生活に一歩踏み入れた。
それで・・・・これまで順調に何も無い。
やっとそう思い始めた矢先、一昨日、役所の福祉部門から電話が。
「一度、お宅にお伺いしたのですが」
「ご用件は?」

担当さん、
「いや、お会いしてからお話しさせて頂きますので」と用件を明かさない。
それで昨日、会って聞いた用件、
「今の民生委員さんが今期限りで辞めたいと申しており、お願いできないでしょうか」
私はこれまで災害時要支援者調査、国勢調査、経済センサス調査と役所から頼まれる仕事は断らずに全て受けている、私は面と向かって頼めば何とかなる輩と思って訪問したのだろう。

ちょっと待ってよ思った。
一ケ月そこいらの単発の調査員仕事と違い民生委員の任期は三年。
二年任期の町内会長のお役目からやっと解放されたところ、
地域の為の仕事を疎む訳ではないが、今回は許してほしいと丁寧に固辞した。

そしたら今日、またまた電話が。
昨年まで五年程勤めさせて頂いた職場は労働組合業界、その関係もあって某金融機関の年金友の会の事務局長をしていた。
電話はその会の事務局から。
「今度幹事会をしますので案内です、主な案件は次期会長人事です」
「それで勇退する会長が後継で事務局長を指名していますのでよろしく」

だってさ!
「・・・・・・・・」なのだ。
労働組合業界なもので、人事は”闇”で決まるのだ(大笑。




■2016.07.13  morning  管理人

またまたコネコのタレメの写真を見てて気付いた。
置かれているヤカンに微かに字が見てとれる。
見ようによっては「救」の字の左側のようにも。
何故かというと全共闘救対も一時一号館バリケードに在し、角部屋に居を構えていた。

何故、学部長室かというと応接セット等が置かれている「居室」で、各科闘争委員会が寝泊まりする教室よりコンパクトかつ豪華で居心地良く、明らかに”格差”があった。
籠城初期は電話も使え、角部屋の三方が見渡せるという利点も。
全共闘救対が疎開してきてからは他学部の見掛けぬ女子がバリケード内を闊歩するようになった。
風体は決まって細身のパンツ(かなり薄汚れていた)、間違っても綺麗なスカートなんぞ穿いていなく中には米軍払い下げ戦闘服羽織っている子も居たと憶えている。

救対の主力の女子、私には如何にも生意気そうに映ったが、それ位でないと女子には日大全共闘は務まらなかっただろう。
この中にはその後のウーマンリブの闘士もいた。
そう言う事でこの部屋は全共闘書記局ではなく、後から来て偉そうに(笑)居心地良い角部屋を占拠していた全共闘救対で、あくまで憶測だが、猫達は他学部からこの心優しきお姉さま方が持ち込んだのかもしれない。
それでまたまた此処だけの話だが、全共闘救対のお姉さま方猫には優しかったかもしれないが、個別、私は怖かった!(大笑。

尚、正確な記憶をお持ちの方が居たら私のメルアド(プロフィールページに掲載)まで情報提供をお願いします。


梅雨の合間の厳しい日差し、急遽ジイジのキャップ被らせて

はなちゃん夏風邪で月曜からジジババが連続フルタイム保育。
昨日は熱もとれ退屈していたので近くの遊園地に三人で出掛けた。
メリーゴーランドや観覧車に、病み上がりを気遣ったが当の本人は何のその、元気に園内を走り回っていた。
「そろそろはなちゃんの夏休みを考えてやらないと・・・・・・」
妻とそう話しながら遊園地から帰ってきた。

夕刻、父さん母さん二人してお迎え。
「有難うございました・・・・」
「明日から二人して夏季休暇取りますので、今週の保育園お迎えはいいです」
週末連休も重なりパートタイム保育、ジジババ来週月曜日まで免責と相成る。
妻と二人、寂しいやらホットするやら、
父さん母さんからジジババへ短い夏休みのプレゼントだった。

夏だから洒落てシャンソン、はたまたカンツオーネでも聴いて過ごそう。

 


■2016.07.12  night  管理人

先日、思いつくまま学部同窓会の写真を何枚か掲載しエピソードを綴った。
それが、よくよく見返していて間違いに気付いた。
エピソード自体は多少ともデフォルメしているが写真を間違っては洒落にならない。
原文を訂正するのでなく正しい内容を改めて書き留める

1991年同窓会スナップで白い矢印で指す仲間、彼は宮澤君を最後まで看取ったゼロ闘(1969年入学)と書いたが人違いの間違い。
彼は同期の土木学科二闘(1967年入学、留年していなければだが)。
通称ケロヨン、昭和の時代、薬局店頭に立っていた奴、今更に写真を見比べ思い出すがよく似てる(笑。
彼、そのおとぼけキャラには似付かず勇猛果敢、小柄な体に大きなメットを被り何時も行動隊の先頭に立っていた。

ケロヨンと言えばもう一つ思い出が有る、
報道写真を掲載しているページ「コネコの方がタレメ、法学部のネコのマルクスと内ゲバをやったとは学生の説明(1968年12月理工学部で)」との写真。
私の記憶の範囲ではこの写真の場所はケロヨンの土木学科泊まり込み教室だと思う。
ただ、1969年12月といえば全共闘書記局(名称は定かでないが)が理工学部に疎開してきた時期、地の利がよく防御上理工学部一号館バリケードが一番強固と判断されたのだろと思う、一時期は東大全共闘議長も疎開してきていた。
もしかしたらその角部屋の学部長室かもしれない。
法学部のマルクスとの内ゲバ話は私等聞き及んで無いが、ケロヨンがこの猫達を可愛がり抱っこしていた姿を憶えている。

それでゼロ闘の方は1999年の写真、赤い矢印が指す彼。
こちらの写真を眺めていて間違いに気付いた訳、じゃあ1991年の写真は誰だっけと記憶を振りしぼった。
もう記憶は限界を超えている。



■2016.07.10  night  管理人


1999年同窓会の学科集合写真

学科名カードを持つのは佐久間学部委員長と秋田明大全共闘議長
カードには平成11年(1999年)3月11日と表記があるから前回1991年同窓会より八年経っている。
写真向かって左端は学科闘争委員長(三闘)、先輩は剣道部主将で学部体育会会長、普通、他大学ではこういう属性の学生は”絶対”全共闘には居ないと思う。
私と肩組むのは1969年4月12日、明大学館に薬科マドンナと逃げ込み一緒にパクられたにっくき奴(笑。

彼は入学年は一つ上だが1967年10月8日誰にも言わずにこっそり羽田弁天橋で大暴れしていたそう、そのせいあってか一年ダブリの同学年。
そういう意味では彼の全共闘は私とは決定的に違う、待ってましたの”確信犯”。
後列右から二番目、一人土木科の札を持ち紛れ込んでにこやかに笑うのは一つ先輩の土木科三闘。
先輩とは三理塚の野っぱらでテントに一緒に泊まり込み、翌朝未明、寝ているテントを機動隊に踏み倒された。

その時の先輩のボヤキ、
「オレ、いま捕まる訳ないはいかないんだよな・・・」
「どうして?」
「千葉県庁に就職決まっているからさ」
なら、わざわざ三理塚に泊まり込みしなければいいのにとその時私は思ったのだが。
それともう時効だから此処だけの話でバラしてしまうが、
先輩は土木学科なわけで、就職して最初に辞令貰った先が『成田土木事務所』、それで空港担当だったかどうかは怖くてこの同窓会では聞けませんでした(笑。

その左隣が学科御用幹事で何を間違ったか全共闘に”転向”後は最強のゲパリスタの通称ヤー公、こういうキャラも他大学には居なかったと思う。
さすが大学当局の御用クラス幹事を拝命してただけに、見掛けは「ヤー公」そのもので強面。
私、最初は怖くて近づけませんでしたが、最後は二人して阿佐が谷界隈の深夜徘徊族してました。
この同窓会の時彼が私に放った一言「お前、やけに老けたな!」
確かに写真をまざまざと見れば彼の言うとおり、八年前の写真と比べ私はえらく老けこんでいます。

何故かなと考えるに、この頃職場で職員から役員に、重責に押しつぶされそうになっていた時期。
如実に苦労が顔に出てます(笑。




■2016.07.10  morning  管理人

梅雨最中、今にも振りそうな雲が覆っているがそれでも何とか持ちこたえている午後五時半。
保育園の夏祭りが始まり一歳の孫娘の出し物は二番手。
二曲を踊ったが大半は突っ立ているだけ、二度ほど僅かな身振りで体を揺すったのでまあそれで良しとしよう。
「私はね、可愛い甚平姿が見られたからそれで十分」
出し物が一通り終わり夜店タイムに、時計を見ると丁度六時。

「ねえ・・、今からだとはなちゃんの夏祭りに間に合うかも」
妻は予定を変え急に夏祭りの”はしご”をしようと言いだした。
次男坊の保育園は我が街の東隣、長男坊の方は西隣で三つの市町村を移動、日中50分ほど掛るのだが夕刻で空いており30分ジャスト、相当ぶっ飛ばしたが。
お陰ではなちゃんの可愛い浴衣姿も見る事が出来たが、急な予定変更でかなり疲れた。

何れもバアバと母さんで選んだ物、パトロンは私だが

前回飲茶の会、
前々回初めて来て頂いた今般選挙の野党共闘に尽力した市民団体事務局長、私は彼に相当失礼な物言いをしたのだが懲りずに続けて来ていた。
彼の市民団体は基本が女性パワー、私もよく知っている女傑と言われる面々が、だからこの男性事務局長の苦労はおのずと理解できる。
女傑集団の課題は構成員間の調整の一語に尽きる、一にも調整、二にも調整、その努力は運動パワーの大半を食い尽すほど、反対に私等初老♂集団は運動体ではないから特徴は”内部調整”がいらない。
そうだから、初老♂集団のこの会が気に行ったのか、それとも居心地が良く日頃の骨休めになるからなのか?
「いいですよ事務局長、疲れたら何時でもおいでなさい」次回も来たら牧師様に代わってそう慰めてやろうと思っている(笑。

それで前々回に続いてまたまた彼に言いたい事を。
「選挙結果はマスコミが予測している通りだと私は思う」
「マスコミ間で予測に若干の差異があるも大勢はほぼ同じ」
「過去どの選挙を見てみてもマスコミのほぼ予測通りに推移している、これは動かしがたい統計的事実」
「だから今回もそういう事!」

私は選挙に奔走するこの彼を揶揄し突き放すつもりで言ったのではない、客観情勢はもうほぼ確定。
最後の努力と言うが国政選挙で最後の努力は大勢に影響ない、バタバタしても仕方ないと。
それに続いて不遜な発言。
「日本が右傾化の道を進もうとしている、面白いではないですか!」
「改憲勢力が2/3を越し憲法改正が行わる、面白いではないですか、やってもらいましょう!」
「リベラルや民主勢力が抜き差しならぬ状況になる、面白いじゃないですか!」
「混乱、歓迎ですね、そんときょは体どう張るか皆で考えましょう、面白いじゃないですか!」

こういう発想・考え方、多分、リベラルな方や所謂民主勢力の方々は決してしないだろう。
私と彼等を分けるは思想やイデオロギーではなく”性分”だと思う。
火事場が好きで、混沌混乱、大歓迎、やっぱ私の性根はあの頃と変わっていない。



■2016.07.09  morning  管理人

「踊るといってもな・・・・・・」
「未だ一歳ちょっとなのに」
次男坊から今週末の保育園夏祭りに招待があった、孫娘は踊りを披露するそうだ。
この案件は最優先事項、喜んで行きたいのだが今般は少し問題が。

もう直ぐ四歳になるはなちゃんも確か今週末が夏祭りと聞いていた。
これまで運動会を含め保育園の行事は妻と二人して一度も欠かさず出掛けている。
時間を詳しく聞いてみるとどちらも同日同時刻。
妻と二手に分かれるかそれとも・・・・、しばし思案した。

理闘委同窓会、1991年9月1日

左)写真には91.9.1と印字、左端が会長さん、隣がサイカンとドブチュウ、私と話しているのが二年後輩のゼロ闘、彼は最後まで宮澤君を看てくれた。
右)集合写真、私はずうずうしくも最前列中央に、後ろに亡き広澤先輩と拳を上げる宮澤君、それにヤー公、タッペ、オスギも皆居る(涙。最後列端で万歳は佐久間学部闘争委員長(建築学科)、写真精度が悪いため敢えて目線は外した。

妻が、
「次男坊の方、バアバは私一人だけ」
「私等が行かないと誰も来ない事になり可哀そう」
「はなちゃんにはバアバは二人、だから今回は御免して次男坊の方に出かけましょう」
私もそう思った。

ジジババ究極の選択で大変なのだ(笑。



■2016.07.08  night  管理人

朝、日記を書いて
から携帯電話を見ると着信記録が有る。
着信番号は未登録。
着信時間は22:44。
さて、こんな時間帯に誰だろうと。

日中の着信ならまず無視するのだが、着信時間が何故か気になり返信をいれてみた。
会長さんだった。
「酒飲んでいたら話したくなってさ・・・・」
今は草津温泉にいるそうだ。
「いいぞこちらは涼しくて」
相変わらずフワリフワリと漂っている。

アルバムには昭和49年3月19日の日付

「足、ぶった切って丁度十年になるよ」
「そうか・・・それで、今何処に泊まってるの?」
「オイラは何時も車中泊だよ」
「そうか、そうだったんだよね」
桃井コンミューンの時代と寸分変わらぬ会長さんだった。

6月21日の日記に会長さんのエピソードを綴った。
私はネットで会長さんをコールし、
会長さんは電話で応えてくれた、
二人の間には間違いなくテレパシーが有るのだ。

空の上の宮澤君は何で応えてくれるのかな。
「こっちへおいでよ」って誘われたらどうしよう(笑。



■2016.07.08  morning  管理人

何時も通り午前四時起床、ここのところ空梅雨が続いていたが柔らかな雨が久しぶりに降っている。
昨年、年金事務所からの通知に掛月数は516ケ月と記されていた、年数に直すと丁度43年、67から43引く単純計算だと24歳から厚生年金に加入していた事になる。
途中、移籍先でのトラブルで少々と再就職の間に1ケ月の空白が有り単純計算通りにはいかないが、少なくとも23歳でめでたく労働者になった事になる。

昨年夏、仕事を辞め丁度丸一年が過ぎた。
辞める際に今後は「何もしない生活」をしようと心に決めた。
家族の事とか旅行など別として、寝起きを含め生活で決め事を作ったり、はたまた予定を立てたりすることは止め、出来る限り気持ちの赴くまま時間が流れるようにしたいと思った。

明日の事は考えない、
予定しない、
人との約束はしない、
朝、珈琲を飲みながらその日思いついた事をする。

辞めた時そんな風に思ったが、暫くは色んな義理や予定が残滓の如く生活にこびりついていた。
過日、町内会のお役目から解放され、まんまと騙された経済統計調査員の仕事も六月末まで。
同窓会幹事も再来年までは何もしない。
退職から丸一年経った今「何もしない生活」に一歩踏み入れたところ、キザになるがやっと I'm Free の気分。



監視員さんと話していたらプールの水温は23℃だと、天気続きの前日は30℃まで上がったそう、も〜うぬるい温泉と一緒

前々回の教会での飲茶の会、
この会 Stress-Free なもので、私の I'm Free の生活と齟齬しない、話題は選挙だった。
3月18日の日記にも綴っている同世代の元大学の先生と口角泡飛ばす寸前の口論となった。
「今回選挙はとても重要、日本が戦争へ進む岐路になる」と元先生は大仰に仰る。
元先生の専門に口挟む知識も教養も持ち合わせてないが、ことこの話題については互角、それに私は所謂リベラルな先生方の仰るこの手の話にはついつい歯向かいたくなる曲がった性分、しなければ良いの言葉尻を取りついつい反論。

「今回はと言いますが、それでは今まではどうなんだったのですか?」
「かつてベトナム戦争に日本が加担していた時、あの時私等は日本が戦争へ進む岐路だと訴えました」
「殊更に”今”だとは思いませんが」
「そもそも人生で一番多感な時期に時代をスルーして、初老になった今、ご自分の取られるリスクが無くなった今、目覚めた訳ですか」

かなり反省している・・・・。
言わなければいい事を言ってしまった。
でもね、私は自分を安全圏に置いといて物言うインテリやリベラルと言われる方々が生理的に嫌いなのだ。
それなのに先日の前回の飲茶の会。
前々回の一件に反省した事をコロリと忘れまたまた問題発言を。

「日本が右傾化の道を進もうとしている、面白いではないですか!」
「改憲勢力が2/3を越し憲法改正が行わる、面白いではないですか、やってもらいましょう!」
「リベラルや民主勢力が抜き差しならぬ状況になる、面白いじゃないですか!」
「混乱、歓迎ですね、そんときょは体どう張るか皆で考えましょう、面白いじゃないですか!」
跳ね上がり根性丸出しで言いたい事言ってしまった。

飲茶の会、そのうち出入り禁止になるかも。
牧師様、会掻き回して御免なさい。






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