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■2016.09.30  morning  管理人

「乗りかかった船とはいえ私等が雑事や汚れ作業をここまでやるのはやり過ぎとの思いも若干有りますが、乗りかかった以上私の性分もあり、最後まで付き合おうとも思っています、悪しからず。」

11日に事故で亡くなった故人の後始末、アパート明け渡しが難渋している。
バリ解除・・・じゃなくて撤去行動、別働隊を含め第五波まで攻め立てているが、敵は日大全共闘のバリケードに比して堅固。
昨日は二回目の可燃ゴミ出しに早朝赴いていた。
その際、清掃員の方に資源ゴミ(家具他の粗大ゴミ)の出し方を教えて頂いた、何せ私は別の自治体なもので当地のゴミ出しルールを知らない。

「毎月第一水曜日、指定の場所に六時から八時の間に持ち込んでください」
「時間厳守です」
「町内会の役員さんの差配に従って分別して出して下さい」
「リサイクル対象品は出せません」
今時の役所の人は親切、丁寧に教えて下さった。

来月第一水曜日は10月5日、
お茶会の仲間に軽四トラックを出してもらう事にした。
ブツはタンス、ソファー等々、軽く見積もってトラック二台分ほどある。
金属、ビン類は細かく分別するとの事。
撤去、それなりの物があり、丸ごと遺品整理・清掃業者に丸投げすれが簡単なのだが、致し方ない。

ご遺族が恐縮して嘆いたら、格好つけてこう言ってやろうと思っている。
「故人は生活事欠いていたのでそれなりの物は残す事が出来なかったけれど・・・・」」
「その代り世間様にはちゃんと貯金してたんですよ」
「だから、今、それを引き出しているだけですから」
「神様は、ちゃんと見てくれていますから」

朝六時、故人宅に集合することにし、昨日、冒頭のメールをお茶飲み会の仲間に発信した。






■2016.09.26  morning  管理人

牧師様、今日から用務で出張、帰ってくるのは月が明けてかなり経ってから。
「申し訳ない、こんな時に」という言葉を残し牧師様は南の島へ飛んで行かれたのだが、何が申し訳ないのかと言えば、故人が入居していたアパート明け渡しが来月半ば。
これがなかなかというか至難の事業、それが一兵卒ばかりで司令塔不在となり更に大変なのだ。

”飛ぶ鳥後を濁さず”の諺があるが、後輩の今般の一件は濁すどころか台風が去った後の如く。
幾つかから偲ぶ会をとの声が、葬儀を仕切った私等のところに届いている、また既にかつて原発誘致で騒動した故人ゆかりの地では”勝手”に予定が決まったとの噂も耳にしているが、私等、事後処理部隊はそれどころではない。
故人のアパートに通う事、別働隊も含め延べ10人程の労力をつぎ込んでいるが、明け渡しの目途が今もって定まっていない。

故人は扶助を受けてた身、色んな意味で後を濁さない為には”それなり”のものが必要なのだが・・・・。
見かねて主にお茶会の仲間+αの人海戦術で事の処理に当っている訳だ。
人一人見送り、そして最後の最後まで後始末すると言う事が如何に大変なのか今更に身に浸みているが、
でも、心配するなよ!、
私等が何とか”飛ぶ鳥後を濁さず”まで持っていくからな。

神様の御許で安らかに眠って下さい。
アーメン





■2016.09.25  morning  管理人

「じっちゃん、それな〜に?」
コンデジいじっているとはなちゃんが擦り寄ってきた。
「ダメダメ、触っちゃ、壊れちゃうよ」
そう言って取り上げると。

「はなちゃん怒ったから!」
「プ〜ンだ」
頬を膨らまし私を睨みつける。


「アッ、はなちゃん変顔だよ」
パチリ。
「いいも〜ん」
そういって離れて行った。

もう直ぐ四歳のお誕生日。





■2016.09.24  morning  管理人

全共闘はアジアを軸とする反米民族派=右翼、と言い切った急逝した友。
敗戦を引きずる反米民族派=右翼をして、いわゆる戦勝国・民主主義左派である欧米の「1968」後と、日本の広範な意味での全共闘の「1968」後が決定的に違てしまったのだろうと私は考えるに至っている。
亡くなってしまったので色々と制約が外れたので、私に考えるヒントをくれた彼の事を少し書く。

彼が最後の授業料を意図的に払わず大学卒業を拒否した事は既に書いている。
ガチガチ保守反動の日大と違いリベラルを標榜する国立大、全共闘にシンパシーを持つ教授陣も居た事はいたが彼の教授はそうでもなかったらしい、それでも「私が授業料を立て替えてやるから卒業したら」と言ってくれたそう。
問題は授業料が払えないのでなく、彼は払わなかった訳で、彼の処遇は「卒業保留」。

この処遇、中退は履歴書に大学在籍の証は記入できるが、保留は彼が大学に在籍した証は履歴として書けないそうで、あくまで高校卒という事らしい。
彼は卒業保留で大学を去って、役所の現業部門に臨時職員で潜りこんで清掃員となっている。
その後、正式な採用試験を受けて事務職となる、あくまで高卒としてだが。
勤務していると、彼の大学時代のいきさつを知る労働組合幹部がしきりと組合勧誘に来たらしい。
組合に加入はしたが、彼は組合活動家としての道は歩まなかった。

話はそれから二十年程、お互いが四十歳くらいの頃、私は経営再建のため役員として同業同種の会社に送り込まれていた。
何とか再建の目途を見付けたく公的助成を受けるため、彼を頼って役所を尋ねた。
その時、彼が紹介してくれたのが業界を主管する課の責任者と、役所の労働組合の書記長だった。
その書記長、彼の後輩に当る。

「先輩には組合(活動)をやてもらいたいのですが、ガンとして応じてくれません」
「先輩みたいな方が組合役員になって組合を引っ張ってくれると一番有難いのに・・・」
其の書記長、私にボヤキともつかずそう言ったのを今でもはっきり覚えている。
書記長、友の学生時代の履歴を周知しており、それで何故組合、かつまた労働運動をしないのか理解しがい風情だった。

その理由がそれから数十年後のつい最近、私には分かったような気がする。
他の方は預かり知らないが、彼は組織に頼らずたった二人で全共闘を立ち上げ、卒業を拒否し、そしてその終焉も見届けている。
全共闘とは何ぞやと問う時、彼の生き様も全共闘を語る時欠かせない一つである。
彼の全共闘後、揶揄されがちな上昇志向とは縁遠く、かつまた革命左派ではない彼の視座に運動としての”サンディカリズム”は無かったのだろう、私にはそれが分かるような気がする。

因みにその時の彼の後輩書記長、今や当地労働運動の頂点に在している。








■2016.09.23  morning  管理人

既に亡くなった者の説を持って己の論とするのは卑怯だとも思うのだが。
まあ、大概にしてして学ぶというのは昔からそういうものだから誤解を恐れず述べる。
先月の山の日に急逝した友、彼は地元国立大全共闘を最初は二人で旗揚げしたと何度もここに書いてある。
キャンパスで民青のリンチを執拗に受け、長きにわたって自分の学部学科に立ち入れなかったらしい。
そんな彼が東北へ一緒に旅した夜、私にこう言った。

「あの頃の反日共系学生、思想というか、感情的レベルというか、基本的には右翼的体質だよ」
「訳のわからぬ親米右翼は論外とし、その情念は凡そインターナショナルとは言い難く誰よりも民族派であったとも言える」
「そういう意味では、あの頃から現在まで一貫して、まともな左翼は”共産党”だけ」

書いた一字一句まで同じ発言ではないが、そういう意味の事を私に言った。
友とは長い付き合い、私も最初の二行までは我が思いともシンクロする、今更に意外とは思わなかったが。
最後の一行を聞いた時、「ウッ・・・!」と思った。

今年二度目のクチナシの花が

最近、高校の同窓会を通じて関東在住の同期生とメール交換するようになった。
メルトモといってもお互い初老の身、数ケ月に一度くらいの年相応のレベル。
その彼、党員かどうかまでは定かでないが同期会では共産党の支持者として周知されている。
その属性としては意外なキャリア、定年まで日本I*M日本支社に勤務しており米国勤務も長かったと聞いている。

彼は数十年に渡る在職中、徹底してその属性を伏せアンダーグラウンドに徹したというが、新人教育の時受けた反共教育、中堅の管理部門の時受けた、組織からその勢力を排除する管理システムなどから、かの国がこの日本で最も恐れているのが日本共産党だと。
まぁ・・、共産党特有の自画自賛も含めてだが、彼の気まじめな性格からしても根拠のない吹聴とは思えない。
そんな同期生とのやり取りと、かつて共産党・民青と骨肉の争いを演じ、先月急逝した友の物言い「まともな・・・」を合わせ考え、今、複雑な思いに至っている。






■2016.09.22  morning  管理人

「はなちゃんはね、や・さ・し・い・心だよ」

先日悪天候の日、保育園が休園になり終日保育を仰せつかった。
はなちゃんはおままごとが大好き。
これへの付き合いは、私にとって我慢の要る修練の様なものだが。
徹頭徹尾、成り切って付き合う事にしている。


そんなおままごとをしていると、何の脈絡もなく冒頭の言葉がはなちゃんの口から出てきた。
「はなちゃん、やさしい心って、如何したの?」
そう問うと、
「先生がね、や・さ・し・い・心って言ったの」
「そうか・・・やさしい心って大切だよ」

邪気の無い幼子の何気ない言葉、落ち込みがちな心が救われる思い。






■2016.09.21  morning  管理人

昨日まで、色々あって家事がおろそかになっていた。
朝から洗濯機を三回。
物干しを終わった頃妻が起きてきた。
珈琲を入れ、私は地元紙から、妻は全国紙から目を通す、毎朝のルーチンで新聞の住み分けは出来ている。
私は一番に訃報欄を、妻は文化面から。

「貴方、それ讃美歌ですよね」
洗濯物をやっつけ少し気が軽やかに、何気に無意識に口笛を吹きながら新聞に目を通しているとそう言われた。
「そうだな、前夜式のミサと葬儀で何度も、、耳に付いたのかな」
先日貼りつけたYouTube、透き通るような歌声、
パブロの犬ではないが、聴くと条件反射で何故か目が潤むようになった。

写真はお茶会仲間の元プロルポライターから拝借

葬儀・告別式、
故人と二十年近い親交があった地元紙記者の弔辞に続いて、茶飲み会仲間の奥さんが弔辞を述べた。
彼女、教会の熱心な信者さんで東京のミッション系大学を出ている、学生時代が同じ東京ということで何度かお話しした事が有る。
「私は教会で二年前に初めて故人とお会いしましたが、その時、開口一番『私はこの教会で葬式を出して貰うんだ』と笑顔で言われ、不思議な方だなと思いました」、と初めての出会いのエピソードを披露してくれた。

先日の回顧録表紙の彼のメッセージも予めの彼の”遺言”。
牧師様に託したLPも彼の”遺言”。
お茶会仲間の元プロルポライターがいみじくもこう綴っている、
以下、引用。
**さんは、自らの予言通り、***教会で、自らの最期を飾ることに成功した。彼の人生は、およそシナリオ通りにはいかなかったが、最後には、シナリオ通りにいったのである。

私はここで故人の事を、良く言えば自由奔放、云いかえればハチャメチャと評したが、
実は用心深く、繊細な心の持ち主ではなかったのかと今は疑っている。
そして、これまでの一連の事は、
愛してやまなかった愛娘に迷惑をかけまいとの一途で、人生の最初で最後に掛けた戦略戦術だったのだろ。

アーメン







■2016.09.19  night  管理人



讃美歌312番

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■2016.09.19  morning  管理人

疲れが・・・・。
8月11日の友の急逝に続き、人一人送るのに如何ほどの体力気力が必要か身にしみている。
私をしてこれほどだから牧師様や教会にはどれほどの負担が掛かったか。
葬儀告別式は16日の金曜日、牧師様はそれから一週間で一番忙しいはずの週末から日曜礼拝が。

でも素直に思うんです。
確かに亡くなった故人には、人並外れたその個性、
一途に続けてきた自主上映、それに拘った原発があり多くの人を引き付けてきたのは確かだけど、
一方では病気の為生活は困窮し公的扶助を受けていた身、日頃の義理祝儀は事欠いていたはず。

そもそも葬儀というのは習わし的に相互扶助で営まれてきており、理由があっても日頃の義理祝儀を欠いている人間は相互扶助の関係性から外れている訳で。
私等が一番心配したのは引き裂かれた母娘がどうのこうのでなく、この葬儀費用がペイ出来るかどうかだった。
口に出してこそ言わなかったが、この葬儀で大きく赤字が出たらどうしようか、という懸念を茶飲み会の誰もが持っていた。
そこのところで牧師様は「何とかなるでしょう」とでんと腰を据えていらっしゃった。
皆はその牧師様の様を見て、何とかなるだろうと協力して葬儀をしつらえた。

回りくどい言い様になったが結論から言えば、
この葬儀は牧師様がいたからしつらえが出来、結果、多くの方のご厚情とお見送りを頂く事が出来た。
ひとえに牧師様、教会の尽力に依るものだと私は言い切る。
でも牧師様は多分こう言うだろう、
「これもひとえに神様の御心、お導きですから・・・」




写真はお茶会仲間の元プロルポライターから拝借、昨日、写真を彼に提供しているのでこれは云わば義理返しなのだ(笑

今日、ご遺族と葬儀費用の清算作業を行う。
過分なご厚情について、ご遺族は予め故人が世話になった平和団体、自主上映の場を提供してくれたNPO団体等に寄付することでご厚情への返礼とすること決めている。
返して、教会はこれほどの経過でも、故人が教会の信者であっても、ご遺族に一円の負担も今持って求めていない。
地獄の沙汰も金次第の世に、一筋の光が射したよう、
私はご遺族に、教会への献金をお願いしようと思っている。







■2016.09.18  morning  管理人

母は、うずくまり嗚咽する娘の背中を優しく摩り続け、式の間ずっと傍らの孫の頭を愛おしくなで続けた。

式が終わって牧師様に、
「牧師様の説教素晴らしかったと思いますが・・・・・」
「失礼ですが私はお説教聞きどころではなかったです」
「最前列に座る母娘、そしてお孫さんを見ているともうもう感極まってしまって」

牧師様、
「実はね、私も・・・・」
「眼前の光景、目に入ってしまうともう説教どころではなくなりそうで」
「私は見ないように、見ないように努めるのに必死でした」
高座に立つ牧師様も人の子だったのを私は再確認した訳だ。

斎場で骨上げを待つ時間、飲茶の会の仲間でテーブルを囲んだ。
「いや〜、想定範囲だったけど、想定外だったなぁ・・・」
「何とか収まって良かったが、草場の故人はどう思っているのだろうか・・・・・・」

今朝の地元紙、読者の欄の投稿

長老、難しい顔をして、
「そうですね・・・、原発に関わるセクト間の対立の関係性は今持って変わっていないだろうし」
「葬儀の場という特殊なシュティエーションも伴なってという状況設定下でもあるし」
「この後に問題、多々残っている訳で・・・・・」
そういう意味の事を誰に言う訳でもなさそうにボソリボソリ。

長老、自身がこの原発誘致反対の運動に深く関わっており、この元夫妻の経緯もよく知っている、そういう意味では情に流されず有る意味冷静。
それが、単ゲバ・義理人情至上主義者の私と違いなのだ。


尚、飲茶の会仲間の元プロのルポラーターが彼のサイトに実名で詳細を報告しています、当サイトは匿名の為ご案内出来ませんが、お分かりの方はそちらを、但し微にして妙なる話題は当サイトの方が匿名性のゆえに深〜いです(笑。
元プロルポライターのそれとは、実名、匿名の大台の違いはありますが、私としてはインテリと単ゲバ・義理人情至上主義者の切り口の”違い”も味わって頂きたいのです(対抗意識丸出しです)。







■2016.09.17  morningT  管理人

ミサが明け、葬儀・告別式の朝。
まだ準備の整わぬ受付に早々と一人の女性が立った。
駐車場の準備に取り掛かっていた私は慌てて受付に。
参列者名簿に記帳されるその名は、牧師様や茶飲み会の仲間と葬儀の打ち合わせをする際に色々と話及んだ女性のお名前だった。

金曜日のサロンを催していた頃、色々あって飲食代をカンパしていた故人、彼はそのお返しと毎回帰路を車で送ってくれた。
役所から生活費を支給されていた後輩だが、その頃はまだ壊れかけた車を持っており、自主上映の16ミリ映写機の運搬などに使っていた。
ハンドル握る後輩の傍ら、助手席で私は彼に昔話をし、彼はその数奇な身の上話をしてくれた。

「先輩、私は娘の親権を争って敗訴していまして・・・・」
「それでも娘を手放さず、その代償として娘が成人するまで母親側に一日五万円の罰金を払うよう裁判所から命令されています」
「だからその債務はもう数億円になっています」
そういって後輩は笑いとばした。

葬儀・告別式の喪主を務めたのは故人の愛して止まなかった娘。
その彼女が生まれた時、原発誘致で地域は反対派と賛成派に大きく二分されており、温かざるべき彼女の家庭もそのあおりで崩壊していった。
運動の確執から激しく対立する両親、彼女の親権は司法の場で争われ裁判所は母の方に親権を認めた。
それでも父は頑として娘を手放さなかった。
その結果が娘が成人になるまで一日当り五万円を母親側に支払う裁判所の罰金命令だった。



ミサ、葬儀・告別式で参列者に配った故人の回顧録、表紙は故人の自筆、原発は体を蝕むだけでなく地域を壊し、家庭が崩壊していく様を綴る彼の個人史でもあるが、某教団との壮絶なやり取りは教会の配慮判断で割愛されている。
彼は日大法学部卒の後輩だが、第一志望は親に内緒で受験した芸術の映画学科だったと話してくれた、残念だが夢はかなわなかったとも。
右は今朝の当県地元紙一面のコラム版、掲載された追悼文は匿名でのサイト運営の為特定の地名等はマスクさせて頂いている。

「ハハハッッ・・・もう数億円では足りないでしょう」
後輩はケセラセラと笑い飛ばした。
「それ程の債務を負うのに如何して・・・・・?」
と問う私に、
「途中から原発誘致側に寝返った**教団側幹部の妻に娘は絶対渡したくなかった、その信念で幾ら罰金を背負うことになろうとも譲らず生きてきた」

娘が成人してから、そして彼女に子供が生まれてからも、何度か母親から会いたいと故人に手紙が来たらしい。
幾らの事情が伴うとも、娘に、そして可愛い孫に会いたいと願うのは人の情として当たり前だと私は思うが・・・・、
彼は娘にその手紙を見せたが、娘は会いたくない子供も見せない拒絶していると、
教会も私等も娘さんに直接その真偽を確認した事は無く、あくまで生前聞いた故人の述懐の範囲だが。
参列者名簿に記帳されたその名は、その母親の名前だった。

慌てて私は牧師の元へ。
牧師様、
「そっと見守るしかないですね・・・・」
私もこれから繰り広げられるであろ、表現は不謹慎だがドラマの脚本のような展開に思いをはせながら、礼拝堂へ進む母親の後に付いた。

続く。



■2016.09.15  morning  管理人

2010年7月6日の日記に、理工学部一号館バリケードに泊まり込んでいた1968年9月3日の夜、機動隊の封鎖解除に対し籠城徹底抗戦で腹を括ったと書いている。
こう書くと、その後の1969年1月18〜19日安田講堂籠城組に伍して勇ましいと自己主張しているとも受け止められる。
根性のない私はとてもそんなものではない。

安田講堂封鎖解除は事前に期限付きで予告されており、籠城するか否かの決断には十分な余裕が有った。
その決断は、即決の猛者もいるが、多くの者は考えに考え抜いた上での決断だったと私は思う。
返して私の場合、機動隊が翌朝未明に封鎖解除にくると聞かされたのは9月3日も夜も更けた時間帯。
偶々泊り込んでいた皆はその場で決断する事が迫られた。
勿論誰からも籠城の強制はなく、あくまで個々の判断だった。

既にもう、記憶は殆ど無いが私の場合、判断はそれほど深刻なものではなかった。
もともと闘争会議に参加したのは楽しかったからと、変革を志すとか、強いては革命を目指すとかではなく、おかしい事はおかしいという極めて常識的な考えの上だった。
そんな軽い動機だから、籠城徹底抗戦を決めたのも、このままバリケードを逃げ出すのは”格好悪い”という程度のもの。
更に自虐的に言えば、余りの急な事態の展開に逃げ出す機会を逸したのだとも言える。
バリケードを補強し屋上に退避、機動隊を待つ時間帯になると、「ああ、やってしまった・・・」という後悔心も確かに有ったはず。
その後悔心が夜空に浮かんだお袋の顔だったのだと思う。

結果的には機動隊の封鎖解除は無かったが、だから私は籠城徹底抗戦したのだと猛者気取りのホラ話をするつもりは毛頭ない。
何度も何度も同じ事を言うが、
日大闘争はこんな意気地なしのヒョロヒョロ野郎が、間違って確信的セクトの皆さん以上の事をやってしまったから、それまでの学園闘争と一線を画し、あれほどの闘争になったのだと思う。
その数日後、久松署の四角い鉄格子の窓から見たお月様に”あの子”の顔がダブったのも同じ事。



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「私が死んだら葬儀でこれを流してください」
亡くなった後輩は深刻な病持ちもあって、牧師様に古ぼけた一枚のレコードを託していた。
昨日、私の十数年使ってない納戸に埋まっていたレコードプレヤーを掘り起こし、アンプとスピーカーは長男の部屋に放置してあるものを持ち出し教会で組み上げた。
レコードはジョージ・ルイス、彼がかつてニーオリンズに旅した時手に入れたという洋番JAZZ。

ブツはカビが付いてホコリだらけ、針を落とすとブチブチと伴奏がはいる。
同じ所をリフレインの様に繰り返す。
牧師様と私、「まるで彼の人生の様ですね」
牧師様、「**さん、このLPの曲全部讃美歌ですよ・・・・」

もう直ぐ昼。
今日は19時から前夜式ミサ、これでも牧師様から頼りにされているようで、そろそろ教会に出向く。
死亡と葬儀の告知は地元紙だけでなく、全国紙地方版でも取り扱ってくれた、これも後輩の公徳の賜物だろう、
彼が映画と同じほど愛したJAZZを流し見送ってやろう。

アーメン




■2016.09.14  morning  管理人

奇なもので災いは続く。
以前、金曜日のサロンを催していた頃、イージス艦寄港抗議行動の遠征で一緒してから仲良くなった後輩がいる。
詳しくは2010年7月6日に日記に綴っている。
その彼が帰宅途中側溝に落ち9月11日に命を落とした、丁度先月亡くした友の月命日になる。

彼は今までその歩んできた波乱万丈の人生と、抱えている深刻な病の為に生活は困窮していた。
でも、支給される僅かな生活費から工面して、16ミリフィルムの上映会を毎月開催していた。
勿論収支は赤字。
私に言わせればなんと”バカ”な後輩だが、そんな性格もあって憎めず彼は多くの友人知人に恵まれていた。

彼はここ数年、牧師様の教会に足繁く通い熱心な信者になっている。
牧師様も隠さず「あんな度外れた奔放な人は他に知らないが、何故か憎めないです」と少し苦笑いしながら、それでも生活全般に渡り彼の面倒を見ていた。
8月30日の教会、その度外れで奔放極まりない彼が珍しく参加して定例の私等のお茶会があった。
牧師様が「これを見て下さい」と、私等に信者さんの人生を振り返る文集を示して下さった。
後輩のは、これまでの彼の人生を振りかえる長文の回顧録となっており、教会の聞き取りによる”文章力”もあるが、それ以上に彼の歩んできた人生が人並外れた波乱万丈もあり、読む者に突き刺さるインパクトがあった。

私はかねがね「この言葉が好きなんですよ」と周りに言っている。
「人に未来は見えない、見えるのは過ぎ去った過去だけ、だから過去を振りかえることで未来が見える」
牧師様に、「この回顧録、教会の中だけにしておくのは勿体ない、何とか世に出せないものでしょうか」
私は後輩を持ち上げたつもりは毛頭ないのだが、傍らの後輩、、「今日は先輩に会えて本当によかった」と涙を流すほど喜んでくれた。
そして、「私はこの教会に出会えて本当に良かった、幸せです」とも。
彼に聞いた最後の言葉になる。



残された者、落命した原因が事故か事件か司法解剖の結果を待っているが、
ご遺族と牧師様は15日にミサ、16日に葬儀を出す準備を進める事にし、昨日、その葬儀の打ち合わせにお茶会のメンバー皆が教会に集まっていた。
私、「出来れば文集の彼の回顧録、参列者に配ることは出来ませんか」、と。
牧師様、「私もそう思っています、それが彼へ一番の供養になると思います」
「もう製本しようかと申し出てくれてる方もいます」
私、「そうですか、それは良かった」

打合せの後、皆で教会内を葬儀用にしつらえ直した。
当日の友人代表送る言葉は茶会の長老、私は涙を伏せ駐車係に徹する。
人生を目茶目茶にした原発を憎み、映画をこよなく愛した彼、
合掌・・・・ではなく、今般は「アーメン」

書き終わると、涙がボロボロこぼれ落ちてきた。



■2016.09.09  morning  管理人

別ドメイン実名サイトを作り込んでいる昨日書いたが。
「検索エンジンには引っ掛りませんよ」と嘯いた。
まあ〜、掛かって欲しいのか、それとも欲しくないのか、よく分からない物言いだが。
今朝、サイト解析覗いたら・・・・、googleロボット巡回履歴が。

google検索してみた。
用語一つでは引っかからない、というかかなり下位ページにやっと出てくるだけ、これは現実的には掛からないも同じでほっとしたが、もしやと思い検索用語を二つに。
さにあらん、検索トップページのそれも五番目に、嬉しいやら困惑するやら。
試しにyahooも、こちらも同じ、検索エンジン恐ろしや!

それで何かの間違いでヒットされる恐れが生じた訳で。
事が実名サイトだけに此処の様に開き直る訳にも行かず、今朝一番、ページに「保険」掛けまくった。
保険ちゅうと、想定範囲の突っ込みを避し、かつ想定外はブロックする「但し書き」
要は色んなクレーム有った場合、「エッ・・、それトップページでお断りしているんですけど」って返しが出来るように。

オイラも随分と姑息になったものだ。



■2016.09.08  morning  管理人

契約しているレンタルサーバー容量は200GB、其のうち現在使用しているのは僅か5GB程。
当サイトの主旨からして使用するのはせいぜいこの程度が限度。
勿体ないもあったが、匿名ではなく実名で運営するサイトを作りたくてサブドメインでなく別ドメインを三年契約をしたのが昨年十月だった。
でも結局、使用することなく放置してほぼ一年が経過した。
それが、急に先月末から別ドメインの新サイトを実名で作り込んでいる。

契機は友の急逝。
彼とは2014年に丸一年、高校同期同窓会幹事を一緒に担った。
東北の秘湯ツアーに四年続けて連れて行ってもらっている。
秘湯ツアーの記録はこのサイトに作ってあるから、彼と一緒した同窓会記録サイトを作ろうと一念発起した訳だ。
余程の事が無いと腰を上げない私の性格、今般は余程の事だった。
それで今現在、サイトのアクセスカウントは「23」で訪問者は私を入れて「三人」、後の二人は多分検索ロボットだろう(大笑。
それでも、まだgoogleやyahooの検索ロボット巡回してきてないので、検索しても引っかかりませんから。


Vol7案内へ 七号、堂々発刊です

昨日、JUNさんから電話が。
「忘れざる日々七号、届いた?」
何でも昨日6日、主だった所には発送したそうだ。
「未だけど・・・・・」
「そうか、出来れば広報ページを急いで作ってほしいのだが」

発刊は今月末頃だろうとのんびり構えていたが、上述の別サイトを一旦さて置き広報ページの作り込みを急ぐことに。
記録誌の制作には何の寄与も出来てない身、また単ゲバ一兵卒の身にこの依頼、誠に名誉。
それで作り込みと言っても六号をベースに部分手直しするだけだからそう手間はかからないのだが、
問題は冒頭のキャッチコピー。
号ごとに、真面目に、おふざけに、しんみりに、色々と趣向を変えてコピーを考えたのだが、
それぞれが私のオリジナルコピーな訳で、パクリが常套の私としては結構汗かきものなのだ。

PS.
此処だけの話なのですがこの七号には私の投稿も「実名」で掲載されています。
千円かけて是非「広報ページ」から購入下さい。





■2016.09.03  morning  管理人

2013年1月に購入したコンデジ、開放F値が1.8で明るいレンズが黄昏写真派の私は気に入り何時も持ち歩いていた。
それが最近ズーム機能の接写と望遠がママならない。
重たいデジイチ持ち歩くのは億劫で、軽量コンパクトで「開放F値1.8」の物が無いかネットショップで探したが、なかなか見当たらず、有っても十万円近く手が出ない。
アマゾンでチェックするとNikon-P310は既に廃番だが定価\46080の新品が\26800円で出ていた。
「う〜ん二万円か!」と悩み、合わせてニコンHPで修理チェック、Pシリーズは定額修理で税込\13371とある。

新品のほぼ半額の修理代、悩みどころだがアマゾンを更にチェックすると中古品が税込\13450、これは修理代とほぼ同額。
中古品詳細、ボディが白で不人気だった奴だが状態は「非常に良い」との表示。
新品中古のいずれにしてもこの価格帯で私が拘っている「開放F値1.8」はまず手に入らない。
「まあ中古品でもいいか」、と先日アマゾンに注文、それが昨日届いた。

ところが・・・・・、
開封してみると、梱包もしかり、カメラもしかり、何処からどう見ても「新品」、無いのは保証書のみ。
しばし考えた。
多分と思うが、業界では俗に「バッタ品」と呼んでいるが、製品末期にメーカーや大手業者が在庫処分で金融専門業者(通称バッタ屋)に放出したものではと思う。

それでも不人気の白ボディー、在庫がなかなか掃けず保証書を抜き新古や中古品としてネット市場に出たものに偶々運良く当ったのだろう。
価格設定は私の様な者を誘い込むのに都合のよいメーカー修理代金とほぼ同額、微にして妙なのだ。
まあ・・・、昔の仕事の癖で業界的に色々思いをはせたが、ワタシテキには ニコ. (^_^)ニコニコ.。

  

「おい、何とかしてくれ」
「あれから魂が抜けてしまって・・・・・」
「あいつが向こうで呼んでいるようで」
急逝した友とかつて一緒に全共闘を旗揚げした相棒から電話が。

普通、不幸が有った場合、そのご遺族を一番思いやらなければいけないのだが、
その相棒は、ご遺族以上に落ち込んでいるよう。
十九、二十歳の時、
「俺はこいつが唯一の頼り、こいつは俺が唯一の頼り」
たった二人で全共闘を立ち上げ、それ以後の人生も一貫して二人は相棒。
彼はご遺族以上のケアが必要かもしれない。




 

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