■2008.01.28 noon 管理人 理工学部・機械科闘争委員会、二闘の行動隊長。
「悪魔(モルヒネ)がささやいているけど・・」 そう云って、最後まで生きようとし 二日前まで、投与を拒んだそうです。
 「生きてて良かった、皆に来てもらって幸せだった」
「葬儀はしないで欲しい」 「骨は屋久島の海にまいて欲しい・・・・」 親族から伝えられた遺言です。 昨日6時、宮澤くんが亡くなりました。
かつて、桃井で一緒に暮らした家族として、会長さん共々、 宮澤君に寄せられた多くの仲間の御厚情に、厚く厚く心よりお礼を申し上げます。
■2008.01.21 night
管理人 「Sくん、めげてないかしら?」 「大丈夫だよ、仕方ない事だから」 「オイラも連絡とってフォローしとくから」
「御免ね、折角来てくれたのに」 電話でお互いにフォローし合うやりとりが続いた。 はるばる九州から出向いたS君が、面会を謝絶されたらしいとの一報が先週末に入っていた。
本人か看護士の判断かは定かでないが、 Mくんは四十度前後の高熱が続いた直後、容態が悪かったらしい。 病室のドアの前で引き返さなければいけなかったS君。
見舞われる方も、見舞う方も、辛い気持ちの展開だったに違いない。 理闘委救対だったKさんから夕方電話が入った。 両者に気遣うKさん、
オイラ達は40年経っても救対の世話になっている訳だ。 ■2008.01.09 morning
管理人 年が替る頃から、Mくんの所在を尋ねる連絡がよく入ってくる。 昨年11月に見舞って以来、忙しさもありMくんとは連絡を取っていない。
「何か変わったことがあれば、何時でも良いから連絡を」 別れ際、看病する会長さんとゼロ闘委にはお願いしている。 その連絡が無いことは、病状がそれなりに安定していると受け止めている。
「お前さん、見舞いは如何した?」 昨日、もう直ぐ九州から上京する仲間がこう尋ねてきた。 「見舞っていったてな・・・・花や果物持って行っても仕方ないし」
「色々考えたが、オイラは”カンパ”にしたよ」 「アイツ、ハチャメチャな人生だろう、先の事なんか何にも考えてこなかった奴だから」 「カンパが一番と思った」
「それに、オイラは何もしてやれないから」 九州の仲間は、電話の向こうで私の話を黙って聞いていた。 そして一言だけ、 「分かった」と返事をしてくれた。
仲間にも、Mくんの不器用さは痛いほど分かっているのだろう。 ■2007.12.27 night
管理人 病に伏せた友が病床で言い放った、 「オイラの人生、ハチャメチャだったよ」 「ハッハッハッ・・・・・」 人生に未練がないと云えば嘘になるかも知れないが、
明るく笑い飛ばす声に救われる。 考えてみれば、 皆それぞれに夢が有った筈だ、 ちっぽけな私等なりに。 その夢を自分の手で潰して不器用に生きてきた、
誰のせいでもない、自分の手で潰したから、 笑い飛ばせるのかもしれない。 時代を上手に整理し、器用に生きてきた方々には、 オイラ達の気持ちは分かるまい。
今夜はジャニスを目一杯鳴らしてやる。 ■2007.11.22 morning
管理人 「あそこはな、ヤバイってもんじゃなかったんだぞ」 「エッッ・・・、そんな!」 Mくんが私の知らない桃井コンミューンの話をはじめた。
私の知らない組織の話、 私の知らない非公然活動の話、 吹っ切れたようにMくんは話続ける。 
朝集合し、渋滞の都内を抜けるのに難渋した。 ハンドルを握ると、人の性格の”素”が出ると言われるが、 とにかくナビの判断(指示)が、JUNさんのハンドル、アクセルより遅れる。
熟慮、沈着型だと疑わなかったのに、 JUNさん、間違いなく日大全共闘の模範的DNAだ。 途中からMくんに付き添う理闘委ゼロ年生('69年入学組)が出迎えくれ先導してくれた。
丘陵地帯を走り、林を抜ける。 木立に覆われる理闘委の元・救対Sさんその家にやっと着いたのはお昼前。 ”派”は違うが、永く組織に属していたJさんとMくんの話に耳を傾けた。
ノンセクト・ドジカルを通した私との昔話ではまず聞けない”レア”で”ディープ”な話が続く。 「これ以上はまずいな?」 話が佳境に係ると、どちらからでもなくブレーキがかかる。
オーディエンスの私はそこでつんのめるが、我慢するしかない。 帰り道で、ハンドルを握るJUNさんに言った。 「オイラ、Mくんの事、ほんの少ししか知らなかったんだ」
■2007.11.14 night
管理人 「日記読んだよ」 「誤解を恐れず言うとな、俺はな、近代医学を断念したのではない!」 「反主流派を弾圧してきた、今の近代医学主流派を見限ったのだ」
「ロシア革命以後の1930年代から主流派を占めた・・・・」 途中まで話に付いていけたのだが、 アフリカのシャーマンに話題が触れたところで、かつての桃井コンミューンの様相を呈した。
1970年頃だったか、毎晩とは言わないが頻繁にMくんに階級理論の薫陶を受けた。 傍らで、我関せずにギターを弾く会長さん。 せっせと製図台に向かい定規を当てるGくん。
そうだ、あの頃のMくんだ。 受話器の向こうで、Mくんの話は益々熱を帯びて来る。 電話に時々咳き込むノイズが入る。 何時までも付き合ってあげたいのだが、体力が心配だ。
30分近く話したろうか、 「もうすぐ、沢山の全共闘仲間と見舞いに行くからね」 「頑張ってね・・・・」 「Mくんが最後にこう云ったよ」
『オイラ、(あれから)四十年近く生きてて良かったよ、皆にこんなにして貰えてさ』 「アイツ、泣かせる事言いやがるんだ」 受話器を切って、妻に泣きながら報告した。
■2007.11.11 night
管理人 Mくんが、近代医学の治療を断念し病院を出ることになった。 「一貫して気丈夫だったのに、少し気弱になっている・・・」
先日、見舞った会長さんからの報告が入った。 「でぇ・・・、Mくん如何するって言ってるの?」 今後の”方針”について、会長さんに問うた。
このホームページを開設した2003年の11月頃、理闘委の仲間に無差別にハガキを出した。 差し出して枚数は150枚程だった。 何件か返事が戻ってきた。
其のうちの一つを「便り投稿」→「全共闘仲間からの便り」→「K.Sさんからの便り」2003.12.13に紹介している。 「実はな、**科の仲間が、是非私のところへと誘いが有ったらしい」
「でぇ・・・、Mくんもいろいろ考えて、行くことに決めたらしい」 薄れる記憶のなかに、其の仲間の名を最近聞いたような気がした。 引出しの中をかき回し、K.Sさんの便りを見つけ出した。
「私の祈りの家です」 「近くに来ることがありましたら立ち寄ってみてください」 「玄米御飯でおもてなしをしたいと思います」
「寒さ厳しき折御自愛ください」 社交辞令ではなかった、、 全共闘の絆は、かくも・・・・・ また、泣き虫オヤジになってしまった。
■2007.10.31 morning
管理人 「Mさんとこに(見舞い)行こうと思うのだけれど、彼は未だ病院に居るのかな?」
「近くまで来たものだから・・・・」 「ありがとうございます、私の友人に気を遣って頂いて」 「東京の仲間にMくんの所在を確かめてから、直ぐに電話掛け直します」 休みを貰って、教会へ出かけるところへ携帯が入った。
930の会の仲間の一人が、Mくんの見舞に行ってくれるとの連絡だ。 仲間とMくんは、当時も今も一面識もない。 有るのは、あの時代を共有した思いだけ。 21時過ぎ、電話が入った。
「今、面会が終わったところ、2時間位話したかな」 「少し話せば、直ぐ打ち解けたよ」 「正直に、私の方の履歴も喋ったよ(笑」 Mくんの履歴もかなりのものだが、この仲間の履歴もそれ以上だ。
もし、居酒屋で吹聴を始めたら、この二人の右に出るものは居ないだろう(笑。 濃い履歴のお二人の39年振りの邂逅。 私らは来年、1968年から数えて40年振りに再会したい人達が居る。
■2007.10.04 night 管理人 「先輩、ボクはてっきり赤ヘルかと思っていました」
「ニャロ〜、そんな訳ねえじゃないか!」 「オイラは赤ヘル趣味者だったの」 「・・・・・・・!!」 Mくんの病室に入ると、風体の悪いオッサンが椅子に鎮座している。
「オマエ、何時からここに居るんだ?」 「前の手術の時からズ〜ット!!」 「前の手術の時から??」 「ズ〜ット云ったって・・・・・??」
Mくんの見舞いをそっちのけに、病室に居た”ゼロ年生”の学科の後輩とやり取り。 ゼロ年生とは、’68年に日大に入学いていなかった2年後輩。
「僕ら、本当に辛かったですよ、先輩達に美味しいところ全部取られて」 そのせいでかどうか、35歳まで赤ヘル被り続けていたという。 「悪いな、でもオイラ達のせいじゃ無いしな」 後輩は、Mくんの一度目の手術の時以来、近くの道の駅で車で寝泊り。
離れず、付き切りで看病していたと云う。 話を聞くうち、堪え切れず後ろを向いた。 歳のせいで、瞬く間に目が充血、みっともない展開になってしまった。 見舞いの別れ際、
玄関まで見送ってくれた後輩の肩をしっかり掴み、手を握った。 「有難うよ、俺がしなきゃいけないのに・・・・」 後は言葉にならなかった。
■2007.09.20 morning 管理人 Mくんが初めて掲示板に書いた。
枕元にPHSで繋ぐPCが写真に映っている。 書き込み方法を”指導”する仲間の声がビデオ映像から聞こえてくる。 『オイラ<タンゲバ、ルンプロ>キーワードに当時を振り返ってみようっと』 思い出した、
そうだったんだよね、 当時の”主語”は、「私」でも、「俺」でもなく「オイラ」だった。 私達は「オイラタチ」。 「オイラはな、・・・・・・・」から始まるMくんの情勢分析、
オイラは全く異議なしで聞いていた。 【Mくんの用語解説】 タンゲバとは、 正確には単純ゲバルト至上主義、 どうのこうのと、手前の議論で結局終わってしまう流れを揶揄して、
マズはヤンベエ、とにかく行動、ゲバルトだっぺ。 これを称してタンゲバと云った。 ルンプロとは、 ルンペン・プロレタリアート、
プロレタリアートは「貧する層」とも同意語なのだが、 それよりも更に貧するルンペン(差別語だったら御免) 失うものが何もない、究極のプロレタリア。
まさに革命の「真の主体」という意味かな? ■2007.09.17 night
管理人 Mくん、 今日の午後の近況ビデオ映像が、ネットで一飛びして、もう僕の手元に届いたよ。 ベットにしっかり座り、
白い包帯を指差し、 人事のように病状を説明する。 学部の違う仲間が、休日を費やしてかつての全共闘仲間を見舞って下さった。 日大全共闘という同じベースだけど、
Mくんも見舞った仲間達も、それぞれ拠った党派は違っていた。 日大全共闘でなかったら・・・・・、 40年を経た今、この邂逅は有ったのだろうか、
ふと、そんな事を考えた。 桃井で、夜も更けて過ごすひと時、 Mくんは、折々の状況を淡々と話す。 聴き入る私。 部屋の隅で、ジンを飲みながらギターを爪弾くYくん。
製図台で、せっせとレポートに精出すGくん。
(18日朝、メールで届いた写真) Mくん、 枕元にパソコン、仲間に私の掲示板への投稿方法を習っている。
書き込みを待ってるよ、 それに・・・・、 40年経っても、喋り方はあの時のまんまだよ。 ■2007.09.11 night
管理人 桃井の同居人の会長さんとやっと連絡が付いた。
「会長が先日見舞いに来てくれてたんだ」 「今、電話番号教えるわ」 何のことはない、入院中のMくんから所在を聞いた訳だ。 「大丈夫だよ、アイツは未だ生きる根性が残っているからさ」
会長さんがそう云うなら、俺は信じる、絶対間違いない。 早速会長さんに電話を入れ、Mくんのレポートを求めた訳だ。 涙が出そうなレポート。 「俺か?・・・、オレも一年位入院していた」
「色々有ってな、でも大丈夫さ」 実は、Mくんから電話で聞いた会長さんの近況はかなりショックなものだった。 電話を掛けるのを憚ったのだが、勇気を出した。
「ハハハッ・・・・、仕事止めたから毎日が日曜日だワッ!」 そうだよな、オイラ達は桃井の同盟員だもな! 皆が繋がった。 ■2007.09.11 morning
管理人 雲が高い、 夜半、通り雨、 虫の声、 秋だ。
Mくんの病室に虫の声が届いているだろうか、 昨夜、他学部の仲間から電話が、 「近い内に(見舞いに)行ってみるよ」
仲間は、Mくんの分厚いメガネの印象が薄っすら残っているだけだという。 遥か40年近く前、バリケードでちらっと見かけた記憶だけ、 仲間にとっては、面識も交流も全く無い病床に伏せる我が友、
それでも、会いに行こうと云って下さる気持ち、 無言で受話器に深く頭を垂れた。 「組織を離れたのは私とほぼ同じ時期ですね」 全共闘の強い絆と合わせ、その後のMくんの人生が人事とは受け止められないのかもしれない。
■2007.09.07 night 管理人 桃井コンミューン、誰が最後で、如何なる撤収がされたか私は知らない。
Mくんは桃井コンミューンの果てに、私と違う”総括”をした。 彼はある組織で、更なる活動を続ける選択をした。 彼はそれ以後、30年近くその組織で生き抜いてきた。 10年ほど前だったろうか、残業している職場に電話が掛かってきた。
久し振りに聞くM君の声。 「俺、今な、**島に居るんだ」 「エッッ・・ **島?」 組織を辞め、首都圏での生活を全て清算したという。
それに至るまで、壮絶な経過が有ったのだろう。 とにかく全てを処分し、島に来たと話す。 廃屋を手に入れ、僅かな資金でクレーン付きのユニックを買ったという。
今から住めるように家を一人で直すところだと。 島には職業安定所が無いから、隣島の出張所に週一回、船で通っているとも話してくれた。 私はうすうす、彼のそれまでの複雑な人生を知っていたのでそれ以上深く経過は聞かなかった。
唯、一点だけは聞いた。 「オイ、それで生活の目処は立っているのか?」 彼は即座に、明確に私に言い放った。 「ヤカマシイ・・、俺はナ、今まで一度だって生活の目処なんか立った事ネエや!」 ベランメエに何にも言い返せなかった、
その時は、受話器を持ったまま、最敬礼するのみだったが。 でも今はな、話してもらいたい事が一杯ある、 未だ、生きていてもらわなければ、
Mくん、俺は許さねえからな。 ■2007.09.05 night 管理人
昨夜は二本目に至った。 缶ビール一本では酔えなかった。 私にとって二本目は年に何度も無い。 泣きそうな気持ちを押さえて二本目を飲んだ。
やっぱり酔えなかった。 夕方電話が、 「HP見たよ、俺知ってるぞ!」 「**市だろう」 1999年の同窓会の名簿の住所だった。
「折角だけど御免ナ、会長はその住所から引っ越してるんだ」 今日もやっぱり、二本目を飲みたくなったけど我慢した。 昨夜は、ビールのせいで洗濯物干すのを忘れていた。
も一度濯ぎ直して、今干したところだ。 ■2007.09.05 morning
管理人 10日程前かな、彼にあるDVDを送っていた。 それが今届いたという御礼の電話だった。 郵便は遥か南の離島から、関東まで回送されてきたと言う。
だから返事が遅くなったと友は詫びる。 仕事をしていて倒れたらしい。 病状は深刻なもので、離島で治療は無理だと言われた。 鹿児島に搬送すると言われたが、それなら親族のいる関東へと希望したらしい。
こちらの大病院に移って1ケ月に。 南の島で、漁師さんたちに交じって穏やかに暮らしているとばかり思っていた。 「俺、未だ生きたいよ」
「やりたい事、まだ有るし」 「携帯、24時間電源入れてるからさ、何時でも通じるからさ」 「何か有っても、この携帯は親族に頼むから通じるよ」 7月23日のBS-hiの番組の後、珍しくメールをくれた、
「観たよ、知らせてくれて有難う」 「俺も書き残したい事がある、これからぼちぼち書いてみる」 私は頼んだ、 「書けたら、俺のホームページに上げような」 絶対、約束は守ってもらうからな。
■2007.09.04 night 管理人 桃井コンミューンの大切な同居人、Mくんが重い病気を患っています。
Yくん、Iくん、Mくん、それに私。 四人一緒に暮らしました、一生の家族です。 Mくんの痛みは私の痛みです。 Iくんには連絡が取れました。
でも、どうしてもYくんの所在が掴めません。 Yくんは、私らの仲間では”会長さん”と呼ばれていました。 どうしても至急、会長さんと連絡をとりたいのです。 何方か、会長さんの居所をご存知の方は居ないでしょうか。
日大全共闘の仲間で、理闘委の仲間で、ご存知の方は居ないでしょうか、 どうか、助けてください。 お願いです、助けてください。 助けてください。
■2007.07.23 morning 管理人 並み居る仲間の殆どがBS-HVを持っていないようだ。
そういう私も長男の部屋を占拠しての鑑賞だったのだが。 取り敢えずハードディスクには録った!。 思っていたアナログ出力はどうやら出来ないようだし。
ワンス・コピーなのでこの後が課題・・・・、どうすんべえ? 色々やり方は有るのだろうけど、今後の事もあるので当分自粛。 >おいらも今日から書き始めました・・・・、貫徹出来るかわかりませんが。 南の離島のM君が珍しくメールをくれた。
番組がM君の何かを揺さぶった事は確かだ 都会の仲間の大半がBS-HVのインフラを整えていない中で、 反対に南の離島はBSの環境が先行しているのだろうか。 放送直後からHPへのアクセスが上がっている。
仲間の殆どが観ない(観れない)BS-HVだけれども、それなりに影響は出ている。 取り敢えずNHKさん有難う、今後もよろしくお願いします。 何をお願いするかは、そのうちまた。
■2007.02.21 night 管理人 wrote 「貴方、荷物が着ましたよ」 階段をドタドタと下りると、テーブルに置かれている。
送り状を撫で、送り主の名前を何度も何度も確認する。 目頭が熱くなり込み上げて来るものが。 帰宅するとテーブルに宅急便の不在連絡表が置かれている。
『お荷物は***様から』 ドライバーが書きなぐった字で、最初誰からだか判らなかった。 「もしかしてこの字は・・・・・・」 「エッ・・・貴方、本当にそうなの!」
南の離島に暮らすMくんからだ。
1月2日の日記
「貴方、そこでなに固まってんのよ」 「開けて食べないと御礼が云えないでしょう」
彼女、早速ナイフを手に握っている。 部屋一杯に嬉しい気持ちと南国の香りが拡がる。 「Mくん、お互いめげずに生き抜こうね」 「ありがとう」
■2007.01.04 night 管理人 wrote Jさんからよくメールを頂く。 今日は昨日綴ったMくんの事について短いメールを頂いた。
ブログを訪問するともう少し詳しく書いている。 そうだなあ・・Jさん、貴方とMくんは似ているかも。 強い人は強い人なりに、 弱い人は弱い人なりに、
いろんなものを背負い込み、言い訳せずに、正直に生きている人が好きだ、 二人は似ているかも。 Jさんに返信メール書いていて、 一昨日のMくんの電話を思い出し、
思わず目頭が熱くなっていた。 「いいよ何書いても、実名でも俺はいいよ」 電話口でそう云ったMくん、 でもね、俺はやっぱ書けないよ・・・・・。
■2007.01.03 noon 管理人 wrote 妻と話をしていて、何気なくふとその名が出た。
地元で少し前まで付き合っていた4〜5才年下の友人の名。 彼は昨年の初頭、自分のブログで >35年前は大昔と全共闘の連中は懐古趣味で年金額を計算しながらのたまわっていますが・・・
と全共闘を一派一絡げで揶揄するような記事をアップした。 目ざとくその記事を見つけた私は頭に血が舞い上がった。 当然、厳しい抗議をして記事を削除させた。
妻には大人気ないと謗られたが。 その後、 私のホームページの写真を勝手にブログに張り、その注釈に次の内容を綴った。 >(写真のような極左集団も衰退いたしましたし。) 彼は私が全共闘で有った事も熟知しているし、それまで一緒に市民活動もしてきた。
ヘンに物知りで、私らの時代のセクトのことや学生運動のことも評論家のように知っている。 それなりの信頼はあったのだが、ネットでのその軽薄な物言いが我慢できなかった。
リアルな会話であれば許しもしたろうが、 公共のツールでもあるブログに軽い気持ちでそれを書くという行為は絶対に許せなかった。 それ以後、彼とは付き合いを止めた。 何故、今頃こんなことを蒸し返すのか・・・・、
Mくんの壮絶な人生、計り知れない背負っているもの、 私は友の歩んできた人生の百分の一も知らないが、 その百分の一に足らないものを知っているだけでも、絶対その様な揶揄は許せないのだ。
■2007.01.03 morning 管理人 wrote 私の就寝は早い。 夕餉をとった後は迷いなく床に付く。
で、目覚めるのは何時も未明、当然だが大晦日の”紅白”も久しく観ていない。 常人より生活リズムが2〜3時間早いだけなのだが。 目が醒め床の中でしばらくMくんの事を思っていた。
バリケードで始めて知り合った頃、 隣かその隣の学科の部屋に、主のように何時も居た事。 '68.11.7、腫れあがった拳と血走った目。
その後、四人で桃井のアパートで一緒に暮らした。 '91年だったか、最後に会った同窓会での別人のように変わっていた鋭い目つき。 色んなことが頭の中に浮かんでくる。 電話での話を色々と書きたいのだが、
思いが溢れてきて・・・、 でも南の離島で、 地元の漁師さんと交じり、 淡々と生き続けていることだけは報告しておこう。
■2007.01.02 afternoon 管理人 wrote 「俺の人生、アレで決まったのだからさ・・・」
受話器で友は何度も何度もその言葉を発した。 そう云えば、いつかの全共闘仲間の会で、某学部闘争委員長からも同じ言葉を聞いた。 「俺の人生、アレで決まっちゃたようなものだから・・・・・」 私のホームページに主役級で登場する友から初めて電話が入ってきた。
記述した内容に誤りが有るという”嬉しい”クレームだ。 受話器を取っての開口一番は「オッッ、生きてたか・・・・!!」 もう20年振り、声がうわずる。
ページの至る所に登場する理工学部2闘の行動隊長を頻繁に担った”M”くんだ。 何時でも何処でもデモの先頭に立ち、誰よりも先に突っ込んでいった最過激分子。
桃井コンミューンの四人組の一人。 「俺はな、パソコンとかインターネットとはとんと縁が無かったので、お前さんのページ見たのはつい最近」 「よく出来ていると思うけど、俺のことで間違っている個所がある」
「事実は事実でちゃんとしないとな」 受話器を持つ私の手が嬉しくて震える。
Mくん >6月の経済学部のデモの時、体育会の学生と衝突があった。
その時彼は放水で水浸しになった経済学部の教室で、背中を日本刀で切りつけられ気を失って水に浮くように倒れていたらしい。 (ページ本文”Mくん”の部分)
この個所が事実と違うという、 本人が云うのだから間違いない。 『’68年6月11日、経済学部に出かけていった。
見ているだけでは我慢できなくなり、二度目の校舎突入の時に破れた窓から校舎に突っ込んだ。 周りはワッ・・という怒号が響き、後ろに学友が引き続いていると疑わず校舎に立ち入ったのだが。
しかし、その怒号は待ち構えていた右翼・体育会系の学生のものが校舎に響き渡っていたのであって、 後ろを振り向くと一緒に入った経済の学生と二人だけだった。
前も後ろも・・・、つまり周り中を奴らに取り囲まれた 奴等がどれ位居たかは憶えていないが、とにかく周り中だった。 小競り合いしていたが後ろから一撃で意識がかすれた、その後は殆ど記憶が無い。
朦朧とした意識の中に、自分が水の中に浮かんでいる居るような記憶がかすかにある。 意識が戻ったのは病院、何箇所も骨折し、縫い合わされた傷口は7針まで数えたが後は数えるのを止めた。
一緒に袋叩きにあった経済の学生のその後は知らない。』 電話口で聞いた内容を要約したが、 事実と違うのは獲物が”日本刀”でないという事のようだ。
これは訂正するが、理工学部で伝え聞いていたMくんの武勇伝より本人の証言のほうが余程”凄まじい”ではないか。 それと彼が強調した点がもう一点ある。 『奴等(右翼・体育会)は根性がなかった。
相手は圧倒的に多数、こちらは私と経済の学生のたった二人だけなのに正面から殴りかかってきた奴は一人も居なかった。 結局後ろからの一撃でやられたが、正面切って襲ってくる奴は一人もいなかったて事だ。』
(彼は奴等の根性をその時見て取ったて事だ) 私は友のこの言葉に日大闘争、そして日大全共闘の全てが込められていると思った。
■2006.10.14 morning 管理人 wrote ここ2〜3日、反省の心で一杯です。 aaghさんとの”抗争”ではありません。
つい筆の勢いで、仲間の履歴を吹聴気味に書いてしまいました。 其の方の性分は、それを良しとしないこと、 私らの絆はそんなんではない事を十分承知の上でやってしまいました。
ここでお詫びを申し上げます。 先日の集いで、芸術学部の仲間が撮り保存していた写真を見せていただきました。 其の中の1枚に懐かしい顔を見つけ出したのです、
ページ本文に記載のMくんです。 この後、彼は校舎の中の水溜りで発見されたと聞いています、貴重な'68年6月11日の1枚です。
会の好意で提供いただきましたので紹介します。
copyright reserved 「N-Archives」
■2004.6.30 morning 管理人 wrote 何を読んだのか、思い出しても余り出てこない。 書棚に飾ってある書物は、ほぼ全部妻か次男の物。
その中で数少ない私の本の一冊が「狭い道・子供たちに与える詩」 山尾三省さんという、私より10才上の、いわゆる安保世代の方。 別に60年安保に興味があったわけではない。
日大全共闘史には、60年安保を闘った数少ない大先輩がいるとは聞いているが。 80年代、私は秘めたる思いを抱えながらも闘争終焉後の生き様を掴みかねていた。
そんな時期、山尾三省さんの本に出会った。 山尾三省さんは、国分寺の「エメラルド色のそよ風」という部族(コンミューン)にいた。 当時で言うドロップアウトした”正統派”ヒッピー、60年安保世代の一つの生き様だった。
日大闘争が勃発する直前の時代。 その後山尾三省さんはインドに向かい、やがて1977年家族と共に屋久島に移住した。 その生き様は、理屈ではなく胸に沁みこんで来た。
山尾三省「狭い道」子供たちに与える詩 1982 野草社 その10数年後、私のベストフレンドが同じく屋久島に移住した。
夫婦揃って仕事を辞め、家財を売り払い身包み持っての移住。 屋久島には職業安定所がない、定期船で近くの種子島に通っている、と電話してきた。 「それでお前、生活の目途は有るのか?」と聞き返すと。
友は、こう言い放った。 「やかましい、俺は日大全共闘以降今まで、一度として生活の目途なんぞ立った事が無い!」 全共闘を全身全霊で突っ走った友だ、返す言葉が無かった。
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