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■2013.10.01  morning  管理人

東京まで護送するのにお銀をホテルまで迎えに行った。
ホテルに入るとロビーに立っている。
「荷物は?」と尋ねると、
「これだけよ」
小さな手提げ袋が一つ。
「宅急便で送ったの?」
「これだけ!」

 930同窓会二次会、”犯罪的”なマリアがTさんとヒソヒソ話

「お銀さんて誰なの?」
930の同窓会会場で何人かに尋ねられた。
私はお銀に関して一切”属性”を書いていない。
「誰なの?」って問いは多分、
「マルチュウなの、それとも黒ヘルなの?」
等々、その人物が分かり易い”属性”を尋ねているのだと思う。

「誰なのって云われてもなあ・・・・・」
「お銀はお銀だから、何処にも属していないし」
「誰って云われても・・・・」
返答に窮した。
多分、先日のこの日記に「最強の女史」と綴ったから属性に興味が湧いたのだろと思う。

属性でなくその行動履歴を書く。
私の電話連絡一本で、うら若い乙女が当地から東京の混沌極まる桃井コンミューンへ流れる。
男所帯の桃井に女身一人で居候。
毎晩毎晩の大酒盛りにも動ぜず、そこに居続ける。
後で聞いたが、その頃は既にマルチュウのアジトとして桃井コンミューンはお上にマークされている。
それも十分承知していたと云う。

それから、僅かな伝手を頼って札幌に流れる。
その当時の北大全共闘の主力は□○だったらしい、
お銀が頼りにしたのはそちらでなく弱小勢力の黒ヘルグループ。
それで、北海道に身をうずめると思いきや、またまた東京に舞い戻る。
北海道で何が有ったのか、お銀は語らない。
''70年代、中東に飛んだ女史にも決して引けを取らない”すっ飛び”。

冒頭の節に戻るが、
公立女子大国文科で当時でいえばお嬢様、その40数年振りの同窓会に手提げ袋一つで帰還。
他の同窓生はさぞかし着飾っていたと思うのだが。
「これだけなの?」って問いは、
「お前さん、このファッションンで同窓会に?」って問いのつもり。
相変わらずというか、
あの頃同様に今も飛んでいるのだ。




■2013.09.29  morning  管理人

朝シャンをする。
季節の変わり目だろう、トラップに白髪の抜け毛が沢山引っかかっている。
もう、後から勢い良く生えてくる歳ではないのが哀しい。
シャンプーで季節の変わり目を感じる歳になった。



「エッ、お前さん知らなかったの!」
「このHさんは、当地で一番最初に”反戦青年委員会を名乗った二人のうちの一人だよ」
「後から来た社会党系にね、是非、うちもやりたいので名乗らせてくれってお願いされたらしいよ」
「お前さん、知らなかったのか・・・」

Hさんとは2004年だったかイラク開戦の時、反戦平和の市民グループを立ち上げた時に知り合った。
10歳ほど年上、グループでは最年長組だった。
今は反原発市民運動で孤軍奮闘している。
同窓会は私の呼びかけでなく、二次呼びかけで参加してくれた。
「そうか、Hさんは”元祖”反戦青年委員会だったのですね」

同窓会は当初の予想通り、お銀をそっちのけで盛り上がったが、
これもお銀が帰還しなければ無かった訳だから、お銀に感謝。
そんなお銀に私はもう一つ重大な任務が残っている、
無事東京まで護送(送還)する役目。
ここだけの秘密なのだが、残留されると当地の平穏が大いに乱される訳で(笑。

今日はその役目を果たすのだ。





■2013.09.28  morning  管理人

お銀と”あの時代”の同窓会の前に喫茶店で1時間程話した。
多分、その喫茶店が初めてお銀と会った店だったと記憶している。
お銀を東京に送りだしたのは私と書いたが、正確にいうと東京の桃井コンミューンに送りだした。
宮澤君、会長さん、義一君のいる桃井コンミューン。
喫茶店で、東京に着いたその後を初めてお銀から詳しく聞いた。

「桃井はさあ、夜になるとさ、もう人でいっぱいになるのよ」
「一度数えた時は六畳間に16人入っていてさ・・・」
「それでさ、**くん(私)が居た部屋に入れてもらったの、義一さん、嫌がったけどね」
「宮澤さんに随分世話になったの」
「それでさ、赤坂の化粧品会社のアルバイトも一緒に行ったよ」

「それからOさん(理闘委機械科の三年)に仕事世話してもらって少し働いていたけど辞めて、それから札幌に流れたの」
「北大のA君を頼ってさ」
A君と云うのはこの日記に度々登場する北大全共闘の私の悪友。
「それでさ、北大の皆さんにも、それにMさんにも随分とお世話になってね」
Mさんというのは、大菩薩峠でパクられた北大医学生の事。

「それでさ、それから又東京に舞い戻ったの」
「この間は4〜5年かな」
「それでさ、真面目な仕事に就いてからも日大の皆さんには随分お世話になったよ」
「60歳で仕事辞め、年金で静かに暮らしているから」

ここで、私でないと言えない突っ込みを入れた。
「それでお銀、その間、お前さん”男”は居なかったのか?」
「そうよ、ずっと独りよ」
「私はずっと独り」
「それが・・・・・・何か?」
「それよりもさ・・・憶えている、あのゲバルトの時、楽しかったよね!」

お銀は、
お銀らしく、
変わらず、
あの時代を背負い続けている。





■2013.09.26  morning  管理人

週末、二つの同窓会が連チャンである。
連チャンなもので結構ハードスケジュール。
一つは日大930の会同窓会。
ある後輩はこれを「全国総決起集会」と言っているが、私の場合、それは少し腰が引ける。
勇ましい言葉はかつて嫌というほど使ったので、私は「同窓会」でいいと思っている。

かつてを想い起こし、
記録にとどめ、
そして今をつなぎ、今の立ち位置から無理せず出来る事をする。
私の場合、かつて無理をし過ぎたもので、
この歳になると無理のない範囲という事を心がけている。

もう一つは当地地元での同窓会。
お銀と呼ばれた最強の女史が40数年振りに女子大の”真面目”な同窓会で帰還してくる。
その呼称の通り、かつては東映のヤクザ映画の姉御さん顔負けの女史である。
真面目なアカデミックな同窓会は同窓会でやって頂き、それとは別にかつての仲間で同窓会をやろうと云う事になった。
その幹事を、何かのはずみで私が仰せつかっている。

取り敢えず、私が消息を掴んでいる範囲に連絡を入れた、そして連絡の取れた者が消息を掴んでいる者へ連絡を飛ばしてくれた。
それが幾つか繰り返されている内に、女子大(ノンポリ含)→国立大→短大→高校生(当時)→反戦と呼ばれた労働者、と結構な人数になってしまった。
前述の後輩の弁を真似れば、まさに「労学共闘集会」の様相(笑。
しかし、このサークルの中に何で日大が居るのか不思議な話だが、
そして、名前を見ると「これは本当にお銀の知り合いかな?」と首を傾げる方もいる。

結局は、お銀をダシにして当地の”あの時代”の同窓会の様相を呈してきた。
私はそれでいいと思っている。




■2013.05.15  night  管理人

昼間、携帯電話が鳴った。
先日、女子大同窓会を相談に来ていた女史。
「**さんお願い、お銀ちゃんが・・・・」
「高所恐怖症って云って、帰って来るの渋ってるの」
「お願いだから・・・・」

この女史、お銀には私が何時も上から目線なのを知っている。
同窓会に帰って来るように説得してくれという事。
早々に電話を入れた。
「おい、今頃、飛行機が怖いって?」
「冗談も休み休み言えよ」
「同窓会には帰ってきたいのだろう、だったら、早く生年月日云えよ、じゃないとチケット予約できないから」
そういうことで、本人の迷いは無視してチケットを予約した。

それで再度電話。
「それでさ、日が近づいたらチケット送るから、羽田まで来れば後は乗るだけ」
「二泊、ホテルは一番いいところを予約した」
「ほんでもって、帰りは連れて帰ってやるから」
「ちょうどオイラもその時、東京へ出掛ける予定だったから」
「テメエ、逃げるんじゃねんぞ!」

それで女史に報告。
「全部済んだ」
「最後に、逃げるんじゃないぞって脅し入れてあるから大丈夫」
「それから、成り行きで金の心配はしなくていいと云ってしまった」

かなりと云うか、メッチャ強引だったが一件落着。
しかし・・・・、
女史、費用の件は了承してくれたが、成り行きで私もカンパするハメに、
この際いいのだ、云った以上何なら全部ドーンと出してやるのだ。
それと帰りの日曜日、私は朝一番便で上京しようと段取りしていたのが成り行きで二番便に。
私の上京、年一度の会に間に合うかどうか。





■2013.05.14  morning  管理人

昨日の少し差し障りのある話の反省

いくら約束していたとはいえ、勝手に女性の下宿に上がり込んで(勿論、大家さん了解を得てだが)
布団剥ぎ取り「テメエッッ・・・、パンツ丸見えじゃないか!」
これって今なら完全な(性)犯罪で、
よくもまあ、そんなことしたと云うか、それが許されたと云うか。
あの頃、時代が時代だったと云う事もあるし・・・。

しかし、あれはお銀だったから許された事で、
むくっと起き上がりずり下がったパジャマを上げながら一言、
「うるさいわね、分かったから起きるわ」
これで一件落着だった。
因みに、このお銀を介して今のカミさんと知り合う事になった。

実は、このお銀とは2007年に東京で再会している。
其の話を以下の日記に綴っている。
・2007年9月14日の日記
・2007年10月4日の日記
・2007年10月6日の日記

其の時も、落ち合う段取りの電話でこう言ってやった、
「懐かしいって、人前で抱きつくのだけは、頼むからよしてくれよナ!」
お銀とは一貫してカミさんも知るところの男と男の関係なのだ。






■2013.05.13  night  管理人

少し差し障りのある思い出話。

40年前、地元女子大の新聞部に呼ばれたと朝綴った。
部室で女子大生に囲まれ質問攻めにあった。
帰卿直後で失語症気味になっていて、殆どまともな返答が出来なかった。
私が云うのも何だが、それでも地方の女子大生にとっては日大全共闘は興味の的だった筈。
それがきっかけで、何度か新聞部の部室に出入りした。
事更に言い訳しておくが、誰かをハントするつもりではなかった、事が全て「男と女」の話題に成りがちなのはこの日記の特徴なのだが、この場合は違った。
自分に興味を持ってもらう事に悪い気がしなかった事と、あらためて他に行くところがなかった為。

その中で、部室以外で二人の女子大生から”個別”にアクションがあった。
一人の女子大生には喫茶店に呼び出され、もっと詳しく日大闘争について聞きたいと言われた。
詳しくと言われても、当時の私は日大闘争を相対として冷静に語るほどの気持ちの余裕はなかった。
喫茶店で黙りこくる状態が何度か続いた。

その頃、帰郷して少しすると親が軽四自動車を買ってくれた。
1972年、当時としては軽四自動車とは言えマイカーを持っている若者は珍しかったはず。
一度は「親でも子でもない出ていけ」と放り出した馬鹿息子なのに、黙って帰ってきてじっと家に引き籠っている私を心配したのだろう。
女子大生の方から誘われ、何度かドライブに出掛けた。
まあデートの様なものだが、私の方は魂が抜けた腑抜け状態、ハンドル握っている時もレストラン入っても何時もぼぉーっと無言。
何度目かのドライブから帰った際に云われた、
「もうこれで終わりにします」

終わりにしますと云われても、私は何も始まっていなかったし、
女子と付き合い、それを心身とも発展さす気力も無かったし、
そう云われ別段、心に波風が立ったわけでもなく、
「はい、そうですか」で終わった。
新聞部で元気バリバリで日大全共闘に興味満々の女子には、私の腑抜け振りが心外だったのだろう。
彼女が思っていた日大全共闘のイメージと私はかけ離れていたのだと思う。

もう一人の女子大生は、周りから”お銀”と呼ばれていた。
姉御肌で、なり格好には頓着なく、はっきり言えばファッション以前の恰好。
要は、どのように接しても女性を感じさせず、男と接しているようなキャラの持ち主だった。
きたない成り格好だが、自称文学少女で周りの女子大生からもかなりふっ飛んでいた。

当時のエピソード、
お茶を飲みに行こうと呼び出しされ、約束した時間に彼女の下宿を訪ねる。
呼んでも出てこないので勝手に部屋に上がり込むと、昼過ぎなのに未だ寝ている。
布団を剥ぎとり、一喝する、
「テメエ、何時まで寝てやんの、起きろよ」
「テメエ、パンツ丸見えじゃないか、サテンに行くからさっさと着換えろよ」

しかし、彼女の凄いところはどんな男に対しても、臆するところ無く一歩も引かないところ。
私のボロボロハートの癒しになった事は事実。
9月予定の**女子大(全共闘)同窓会、
前者の彼女が来るかどうかは確認できていないが(汗、
後者の”お銀”が帰って来る事は確認済み。

さあ、昔のお礼をどうやって返そうかと思案している。





■2013.05.13  morning  管理人

40年前、桃井を引き払い帰郷した。
数カ月は自宅から殆ど出なかった。
夏が近づいた頃、地元の大学の同窓生から声が掛った。
何でも公立女子大の新聞部が私に話を聞きたいとのことだった。
女子大のキャンパスに出向いた。

女子大の構内、新聞部室は5〜6人程だったと記憶している、皆は当然私より年下。
日大闘争に興味が有るようで色々と聞かれた。
殆どまともに応えられなかった。
考える気力を失っていて、応えようとしても頭の中で言葉がまとまらず、その時期は失語症のような状態だった。
それでも新聞部の女子大生達とはその後友達になった。

話は突然40年過ぎ、咳き込んでいた先週の事。
つい最近まで議員をしていた女史が突然事務所に現れた。
「**さん、同窓会をやるから協力して」
「思い立った今やらなきゃ、何時まで経っても出来ないから」
要するに今流行りの「今でしょう!」なのだ。

この女史、前述の40年前に出会った女子大生。
新聞部かどうかは定かではないが、当時の**女子大全共闘の闘士の一人。
同窓会とは**女子大全共闘の同窓会のようだ。
何故、地元女子大の同窓会に私が関与しなければいけないか、話せば長くなるから省く(笑。

「それで、同窓会は何時なの?」
「今のところ9月の28日の土曜日にしようかと」
「全国から集まるから土曜日が良いと思って」
「エッッ・・、9月の28日!」
「**さん、その日、都合が悪いの?」
多分、一日差で大丈夫とは思うが・・・・・。





■2007.10.06 morning  管理人

「昔の彼女をネタに使って、このヤロー・・・・・」
数人からですが、抗議が舞い込んでいます、そしりを受けるのは想定範囲でしたが。
再会の場はまさに青春映画・・・、違うな、メロドラマの場面設定でしたので、
この流れ、仲間内からも誤解を受けるのは当然。

再会してその後向かったのは、新宿の仲間の集う店。
「お銀さん、連れてきたよ」
一斉に皆から好奇の眼差しが刺さったのは当然。
「お銀言ってやれよ、俺たちゃ〜はそういう仲じゃ無いって」

「嫌だよ〜、アタイとコイツはそんなんじゃ無いってば」
お銀は笑い転げながら、明確に宣言してくれた。
言っておくが、事前の打ち合わせはしていない。
それでも、疑いの眼差しは若干残っていたが。

「桃井の後さ、○○さんを頼って札幌に、二年ばかり向こうに居たかな」
どうも彼女にも、桃井症候群の放浪癖が感染していたようだ。
「札幌ではね、**さんにもお世話に成ったよ」
「お銀、**さんって・・・、それって医学生の**さんだよね」

**くん事は今年の3月23日の日記にも少し書いてある。
「お銀、知ってるか?、**さん、向こうで開業してるよ」
「未だに”家庭訪問”があるらしいけどね」
「二人とも今じゃ”ブルジョア”だ」
「そうだ、今から携帯してみよう」

早速○○に電話した。
「テメエ、金には困ってないんだろう」
「お銀に、早急に札幌往復エアーチケット、豪華ホテルの宿泊チケットを送ってくる事を断固要求する」
「要求に応じない場合は、ゲバルドで対応する」

妥結するのか、赤ヘル同士の内ゲバになるのか・・・・、
こちとら日大全共闘だ、大菩薩峠でもビビらねえぞ。




■2007.10.04 morning  管理人

一昨日より昨日が、昨日より今日、
歳のせいだろう、日が経つにつれて疲れが増してくる。
一番便で飛び、丸三日間、日中は歩き回り、夜は日付が変わるまで飲み歓談した。
気持ちは100パーセント”ハイ”だった訳だ。
当然、今は揺り戻し状態。

渋谷駅へは赤坂見附で乗り換えで、不慣れな銀座線で着いた。
目的地までたどり着くのに難渋、今更田舎者を実感。
ハチ公は小雨に濡れ、周りに人影は疎ら。
約束より少し早かったので、喫煙所の前で傘をさして暫く立っていた。

実は、喫煙所前に立つ前に、そこで一服している女性と視線が一瞬合っていた。
2〜3分ほど経ってだろうか、背後から私の名を呼ぶ声。
「**さんだろう?、アタシ、お銀よ」
振り向くが、女性には全く見覚えが無い。

私は頭頂ハゲだ、
前からそれは殆ど分からない、
対面だと、ロマンスグレーの味わいあるヘアーだ(と勝手に思っている)。
後ろに回れば、頭に寂しい”満月”が出ている。
そぼろ降る小雨、ハチ公前、35年振り・・・・・、状況設定は最高だったのに、
背後からの再会、これだけは避けたい最悪の結果だった(泣。

「テメー・・・、変わったな!」
「**さん、アナタ少しも変わんないよ!」
お世辞でも何でもいい、
変わっていないといいう言葉を、
断固、100パーセント良い方に解釈しようと思う。




■2007.09.15 morning  管理人

子羊さんは、通称”お銀”と呼ばれていた。
当時流行っていた東映の任侠映画なのか、それとも水戸黄門のお銀なのか、定かではないが。
会長さんから彼女の連絡先を聞き出した際、改めてこう聞いた。
「御免、会長さん、お銀の本名が思い出せないんだけど」
「35年振りに電話するのに、切り出しが『オイ、お銀』では幾らなんでも」

でも、やっぱり電話の切り出しは、
「オイ!、お銀、オイラだよ」
「ワッ・・・、**さんだ」
「先日、私も会長さんから電話番号聞いてたけど、ワタシャ〜、電話は受信専門だから」

昨晩、お銀さんとの電話を妻に報告した、彼女は妻の先輩にも当たる。
「35年振りに話したけど、”ボケ”と”飛び”ようは相変わらずだったよ」
「それで私の事、何か言ってた?」
「最強のオバサンになってるって、云っといたよ」

「今度、会う約束した」
「テメエ、抱きつくなよって、云っておいた」
「其の前に、貴方もお銀さんも、お互い分からなかったりしてね」
「貴方、35年のギャップは覚悟しといたほうが」
妻は笑い転げていた。

 




■2007.09.14 night  管理人

「二人でレンゲ畑見に行ったの憶えてる・・・・」
「アンタが、グズグズしていた私を東京へ放り出したのよ!」
レンゲを見にいった記憶は、全く残っていない。
放り出した記憶は、
放り出された方も、放り出した方も、しっかり一致していた。

35年の歳月を経て、二人目の子羊さんに電話した。
歳月を経ても、二人の飾らぬ口調は当時のまま。
新聞部の生意気な女子大と、呆けた私。
電話は小一時間も続いた。

「近々に上京するから、久し振りに会おうか」
「新宿の西口交番前は?」
「私は新宿は分からないの」
「分からないのって、テメエ何年東京に住んでんだ?」

「池袋なら分かるけど」
「御免ナ、オイラは池袋はからっきしダメなんだ」
「そうだな、こうなりゃ〜・・あそこしかネエナ」
「渋谷のハチ公前だ」

「しかし、35年飛んでるから、お互い分かるかな?」
「隣に居合わせて分からないかもナ」
「オイラは白髪のてっぺん禿げ」
「懐かしいって、人前で抱きつくのだけは、頼むからよしてくれよナ!」

日時は丸秘なのだ。

 


■2007.09.12 morning  管理人

「アッ・・・、そうだ、あの子から毎年年賀状が来るぞ」
会長さんの電話で意外な名前を聞いた。
桃井コンミューンの4名の同盟員が繋がったのだが、付随の関係者?の消息も明らかになった。
しかしだ・・・・、少しヤバイのだ。
私が桃井の狼の中に送り込んだ2人目の子羊さんなのだ。

公立女子大の新聞部の猛者。
クラブのボス的存在で、かなりアナーキー的傾向。
彼女の卒業間際に相談を受けた。
「私は東京に出たい!」
就職が決まっていた訳ではない、ただ漠然と東京だったようだ。
住所と地図を渡し、送り出した、・・・・否、放り出した訳だ。

私のその後の想定は、
夢破れ、
出身地(北陸)の実家に帰り、
すんなり収まっている、
そうとばかり、勝手に決めていた。

しかしだ、
未だ・・・・、
単身で、東京の空の下で暮らしているそうだ。



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